第五巻 (最終話~第156話~概要・目次~第155話~第40話)
「アジア、思い出の玉手箱」 ーある薬剤師の海外駐在回想記――(私本「芦屋の浜のつれづれ草」の表題め)
(目次→最終話第164話~ 第163話~第40話の順で掲載)
『目次』
Ⅰ.幼年時代編
(1)プロローグ (2)記憶は霧の合間に (3)小学校のタヌキと悪代官 (4)長兄哲夫の消息 (5)易者の占と八つ墓村 (6)林野商店街の盛衰 (7)家の履歴書 (8)スミ薬局と捨て子 (9)勘太郎月夜唄の風景 (10)城山のターザン
Ⅱ.少年時代編
(11)武蔵の里と出雲往来 (12)児島高徳と角倉了以 (13)梶並川を舞台に (14)泣いたハナヨ (15)展覧会の絵 (16)安養寺の会陽 (17)川上と大下と越路吹雪 (18)西宮のアメリカ博 (19)朝鮮戦争勃発 (20)やっちゅもねえ話 (21)双葉は臭くて芳しい
Ⅲ.中学高校時代編
(22)二つの怪我 (23)回復に向かう (24)愛ちゃんは太郎の嫁になる (25)旅立ち (26)御影中学と神功皇后 (27)高校受験 (28)地獄坂の風景 (29)鬼とハナヨと猿田彦神 (30)胡椒と霊魂のため (31)大学受験と浪人生活
Ⅳ.大学時代編
(32)田下駄と黒い砂浜 (33)小鹿生活と倭建命 (34)大山と蒜山と帝釈峡 (35)60年安保と太宰治 (36)教養課程とアルバイト (37)薬剤師の生い立ち (38)特別実習と就職準備 (39)腰痛事故 (40)時にはそばに本が(前編) (41)日本古典への誘い (42)音楽の泉(前編)
Ⅴ.武田薬品国内編
(43)新入社員の風景 (44)初めての職場 (45)アリナミンの輸出会議 (46)道修町の神農さん (47)吹田独身寮の風景 (48)リボタイドの世界戦略 (49)貿易マンを目指して (50)海外事業の歴史 (51)東京の目白寮 (52)嫁取り物語 (53)新婚生活の風景 (54)腹八分目と戦略の失敗
Ⅵ.海外出張編
(55)ビルマへの初出張 (56)ラングーンの風景 (57)マンダレーヒルの夕焼け (58)バンコックの休日 (59)マニラとシンガポール (60)マレーシアへの長期出張 (61)苦難のマレーシア巡業 (62)失敗は成功の素 (63)初めての台湾 (64)台湾巡業 (65)蒋介石と宋三姉妹
Ⅶ.台湾駐在編
(66)台湾駐在始まる (67)同文異種の世界 (68)中国語の学習 (69)結婚式と葬儀の風景 (70)カルチャーショックと日台断交 (71)中国料理の楽しみ (72)ゴルフ場の風景 (73)リラシリンの拡張 (74)医師から聞いた艶話(落語二題)、 (75)東雲閣と新北投温泉、(76)GMP工場とソウル・ジャカルタへの出張、(77)母と観光地めぐり、(78)薬のライフサイクル、(79)代理店問題とイントラファット、(80)鄭成功と台南の旅、(81)家族の帰国、(82)感謝台湾(ありがとう台湾)。
Ⅷ フィリピン駐在編
(83)マブーハイ(ようこそ)、 (84)マニラ生活始まる、 (85)フィリッピンの概況、 (86)異文化の職場風景、 (87)営業本部長の苦難、(88)骨太の構造改革 、 (89)ゴルフへの誘い、(90)メイドの話、 (91)貧困の風景、 (92)パンスポリンの治験、 (93)家族との憩い、 (94)強盗殺人詐欺事件、(95)レップ教育とロザレス先生、(96)地方への旅、(97)パーラム(さようなら)
Ⅸ.再びの台湾編
(98)里帰りの台湾、(99)アパート生活、(100)林森北路の風景、(101)八田與一技官と呉建堂医師、(102)消費税とGMPと医療保険、(103)好況日本とバブルの徴候
Ⅹ.日本・ロシア・インド編
(104)浦島太郎のリハビリ、(105)韓国とロシアへの旅、(106)モスクワからオデッサへ、(107)インドとパキスタンへの旅、(108)慶応ビジネス・スクール
Ⅺ. 香港・中国編
(109)香港赴任の風景、(110)慕情とスージー・ウォンの世界、(111)社内旅行と広州交易会、(112)ベンツの価格とメイドの風景、(113)さんまを焼く風景、(114)九龍半島と家族との桂林、(115)広州・珠海と鑑真和上、(116)カジノの街マカオの風景、(117)母・研太郎と仙頭・アモイ、(118)香港の盛衰と中国返還、(119)鄧小平と客家、(120)武田IMCの再生と苦悩、(121)ピロリ菌退治と桂林霊渠の風景、(122)ゴルフ会員権が湖底に沈んだ話、(123)ベストコールの新発売、 (124)初めての北京(紫禁城・円明園・頤和園)、 (125)万里の長城、 (126)李陵と史記と明の十三陵、 (127)天津出張と欧州駆け足旅行、 (128)バッタで死にかけた話、 (129)年末会議の風景、 (130)昆明と石林への旅、 (131)上海・夜霧のブルース、 (132)重慶と昆明の講演旅行、 (133)合肥・南京・大連の旅、 (134)ランカウイと貴陽・アモイ・福州の旅、 (135)中国市場に舵をきる(武漢)、 (136)温州・済南の旅、 (137)長安の都(史記、奇貨居くべし)、 (138)玄宗皇帝と楊貴妃、 (139)空海と玄奘と仲麻呂の風景、 (140)西安、西域の香り、 (141)円高とカタリンの販路整備、 (142)パンスポリンの拡張開始、 (143)姑蘇城外寒山寺(江南の旅) 、(144)呉越の死闘、臥薪嘗胆の風景、 (145)寧波と杭州の旅、閑話休題-第3部- (146)私の本棚(後編)、 (147)音楽の泉(中篇)、(148)音楽の泉(下篇)、 (149)お国気質と地域の特徴、 (150)東西南北いろいろ、 (151)中国の四大料理、(152)食べ物の録外録、(153)思い出の人と思い出いだす出来事、(154)長沙・長春・内モンゴルへ、 (155)老いた浦島太郎のトラブルシューター、 (156)客家の故郷への旅、 (157)青島・周口店・盧溝橋への旅、 (158)日本の宗教、 (159)退職前後の風景、 (161)日本人遥かな旅路(前編)、 (162)日本人遥かな旅路(中編)、 (163)日本人遥かな旅路(後編)、 (164)エピローグ(最終話、執筆中の裏話)
URL: http://homepage3.nifty.com/sumikozo/
「電話写真の頁」:Ⅰ.幼年時代編(1~10話)、 Ⅱ.少年時代編(11~20話) ―→「menu」末尾をクリックで、「桜写真」に移る。
「桜写真の頁」:Ⅲ.中学高校時代編(21~31話)、 Ⅳ.大学時代編(32~39話)―→「menu」末尾のクリックで、「Blog]の最新号に移る。
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Ⅺ.香港・中国編(最新号~109話)、 Ⅹ.日本・ロシア・インド編(108~104)、 Ⅸ.再びの台湾編(103~98話)、 Ⅷ.フィリピン駐在編(97~83話)、 Ⅶ.台湾駐在編(82~66話)、 Ⅵ.海外出張編(65~55話)、 Ⅴ.武田薬品・国内編(54~43話)、 Ⅳ.大学時代編の後半一部(39話) ―→URLをクリックで第1話に移る。
渾身の最終章、世界で一番長い物語「宇宙の誕生から日本民族滅亡?まで」、題して「日本人の遥かなる旅路」です。 前編は“地球と生命の誕生”、中編は“人類の誕生と拡散” そして今回は後編の“日本人の渡来と形成”です。
164)エピローグ
4年半続けたこの「思い出エッセイ」も最終話となった。65歳前後に友人からの依頼で3編のエッセイを投稿し好評を得た。同じ頃、太平洋戦争中の神戸を舞台にした妹尾河童の自伝小説『少年H』を読んで、自分にも書けるかも知れないと大それたことを思いついた。自称について“少年K”や“私”や“自分”が浮かんだが「興三さん」に落ち着いた。社会人になってからは「角君」で、香港の子会社を預かってからは「角さん」に変えた。いずれも実際の呼び名である。一部擬似名を使わせてもらったが、友人・先輩や会社名・商品名は原則実名とした。
プロローグで54歳の妻を“女性を喪失した”と形容し、上手い表現と悦に入っていたら同年齢の妹からこっぴどく叱られた。即刻、“女の峠を越えようとしている”に改めたが非難は収まらなかった。“悪口”は書くまいと決めてはいたが、思わぬところで出鼻をくじかれた。それでも多少は叱られそうな表現や際どい話も書いたが、自分としてはイエローカードに止めたと思っている。「創作はあるのか?」とのご質問を頂いた。公開を憚ることは控えたが、書いたことにフィクションは一言一句なく経験に関しては全て実話である。
数人から写真の挿入を勧められた。尤もな話であるが苦しい言い訳もある。パソコン(PC)の知識が乏しいので、やむなく写真や体裁は二の次にして原稿用紙を借用するだけのつもりで、サーバーN社の簡易ソフトのホームページ(HP)を利用することにした。少しは写真のスペースもあったのだが、ブログ時代の到来でこのHPのサービスが中止となった。辛うじて既掲載文の廃止は免れたが、写真の入れ替えが出来なくなった。スイッチしたブログは「既存文の上部に新規文を記述する」方式である。読みづらく不便をお掛けした。この場を借りてお詫びを申し上げる。“急がば回れ”と事前にHPの作成技術を習得してから始めれば良かったと後悔したが、執筆に追われる自転車操業では到底余分の課題をこなす時間がないまま今日に至った。
少年から社会人になるまでは思い出すままを書き、海外駐在を始めてからは小さな手帳と写真が資料となった。事前に予定した企画ではないのでメモなど残しておらず、資料と言えるものはそれだけである。その当時に見聞した異文化体験を生のままお伝えしたいとの思いから、時には辞典で年代などを確認することはあったが、新たな情報は求めなかった。もし、史実に反する内容があればご容赦願いたい。当時、大感激した異文化や新知識もグローバル化とインターネットの到来で、今では陳腐な情報となってしまった。それを得意げにご披露することに忸怩たる思いを禁じえなかった。
万里の長城に立って辺境に嫁がされた美女王昭君や宮刑を受けても『史記』を書上げた司馬遷に涙し、西安の兵馬俑群を眼前にして始皇帝生誕の秘話を思い起こし、華清池では楊貴妃と玄宗皇帝の『長恨歌』を口ずさみ、蘇州の虎丘塔を見上げて臥薪嘗胆で知られる呉越の死闘を偲んだ。旅行ブームの昨今であるが、初めて見る絶景、歴史的文物、美味しい食べものに出会えることこそ、旅行の醍醐味であろう。とりわけ歴史的遺跡を訪れて得られる感動の大きさはその人が持つ知識の深さに比例すると思う。
幼少年期、学生時代、国内勤務時代、海外駐在時代と夫々に読者ができた。特に中国編では司馬遼太郎の歴史観、陳舜臣の歴史物語、邱永漢の食文化を紹介する紀行文の再現を夢見た。到底及ばぬものになったが、もし、ご自身の経験と重ねた、或いは旅心を誘われた読者がいたなら望外の喜びである。最初から最後まで継続した読者は多くないかも知れないが、多くの先輩や友人たちから折に触れ激励や感想を頂戴した。この場を借りて衷心より感謝を申し上げたい。
かつては北向きの書斎と南向きのリビングを季節ごとに机を往復させていたが、デスクトップのPCを買ってからはリビングの片隅が定住地となった。執筆は殆ど夕食後である。テレビの音が耳障りで寝室のテレビへ妻を追いやることも一再ではなかったし、逆に読書や家計簿つけに余念のない妻に問いかけることも再三あった。「心頭に来るか?」と問えば、「いいえ、心頭に発す、です」と。「ロトするの漢字は?」と辞書に無いのを訝しがると「それは吐露するでしょ~お」との回答。先日も辞書に無いので聞いたら「田舎の方言なのでは?」とのご卓説であった。ソファにもたれて紅茶を片手に一緒にテレビを見る風景とは程遠い生活となった。この機会に妻にも感謝とお詫びを表したい。
司馬遼太郎の文体を意識し、深田祐介の“ですます調”を真似ようとしたが、文字数を気にして、直接的な事実描写が多くなった。いたずら時代を『少年H』に倣って事細かく活写し、その後も同じペースを続けたので、予想外の長文となってしまった。不思議なもので、皆さんと共有したかった思い出話も、書いてしまうと端から忘れてゆく。「おぼしきこと言はぬは腹ふくるるわざなれば」との『徒然草』の兼好法師の言葉を想い返している。そんな訳で今は頭の中は空っぽになった。別の趣味を求めて新たな一歩を踏み出す好機かも知れない。
退職した当時、――これからはテレビの番をして悠々自適の日々を過ごそう――と思い、
「テレビを相手に文句を言う分には誰をも傷つけないし、誰からも咎められない。第一お金も掛からないのが、年金生活者には何より好都合」
と言って憚らなかったが、こうも連日、不正、人災、殺人のニュースが相継ぎ、テレビに向って罵声を浴びせていると、声が嗄れ、胃が傷み、血圧が上がる。他人を傷つけないが、我が身がもたない。日本は何時から誰のせいでこうも堕落してしまったのか?この先どうなるのか?長年海外に住んで民族意識が高まった興三さんとしては、大和民族の行く末を案じないではいられない。
「他人の思い出話など面白くもない。まして自慢話などくそ食らえ。今更、会社時代のことなど思い出したくもない」とおっしゃる御仁もおられよう。こう言っては何だが、読んで貰うよりも「思い出」を一人楽しむために書いた側面もある。苦労話を書いてもつまらないので、極力面白可笑しく書くように努めた。仕事や実生活をとおして学んだ事は多いが、会社での処世術や人生訓の類を書くことは極力抑えた。ただ、永年外国生活をした者として、若者の日本語能力の低落については無関心を装えず、少し苦言を呈した。
「過去を振り返らず、前向きに生きよ!」と一億人総合唱の昨今である。世間に背を向けて思い出話に没頭した4年半であったが、お陰でリーマン・ショックへの対応が遅れて保有株と投信が半分以下になってしまった。流行に逆らった報いと言うべきか。それでもその間、非常勤薬剤師の仕事を続け、ジム・プールに通い、最近では山歩きの趣味も加わった。『思い出エッセイ』のお陰で友人の幅も広がった。
終戦の翌年に小学校に入学した戦後一期生である。小学校で「ミレー」の絵を知り、中学でベートーヴェンの「田園」を聴いた。大学の時、レコードでフィシャー・デスカウの「冬の旅」を聞いてドイツに憧れた。いずれも西洋文化である。しかし、仕事がアジア中心になってからは自らの関心と趣味を中華文化に封じ込めてきた。ところが一昨年、ドイツロマンティック街道を旅行して西洋文明へ関心が呼び覚まされた。今一度、西洋史を紐解いてみるのも悪くないような気がしている。
『思い出エッセイ』の出版を勧める言葉も頂戴したが、“他人の夫人と自分の文章は美しい”とは上手く言ったもので、我が文も決して棄てたものではないと悦に入ることもあったが、さりとてこんな話がお金になると思うほど自惚れてはいない。一方で人生の中で充実していた時代を思い起こす“回想法”は、脳を活性化し認知症に有効と聞く。再編し写真を加えて一冊のファイルか或いはCDに記録しておけば、役立つ時が来るかも知れない。何よりも後に残った妻が身勝手な“だんつく”を思い出す縁になれば、これこそ本望と云うものである。
小津安二郎の「秋日和」は好きな映画である。三人の初老紳士(佐分利信など)が学友の法事のあと割烹店で遺児アヤ子(司葉子)の結婚の相手を探そうということになった。かつて憧れたアヤ子の母親秋子(原節子)に近づけると、夫々が密かに心を躍らせる。こうして三人は老いの寂しさを感じながら良縁さがしに奔走するのだが、アヤ子は佐分利信の部下(佐田啓二)と知り合う。結局、三人は結婚式の後、もとの割烹店で本懐を遂げられなかったことを悔やみ互いにひやかし合うのだが、
「それにしても面白かったなあ~」
としみじみ語って幕となる。これから先、どんなドラマが我が身に起こるか判らないが、願わくば平穏無事に過ぎ、最後は「ああ、面白かった!」と言って我が人生を終えたいと思っている。
長い間、拙文にお付合い頂きご友誼とご声援を賜ったことを深く感謝している。衷心よりお礼を申し上げる次第である。皆さまお元気で、再見!
「思い出エッセイ」 完 (古希を迎えたばかりの2009年7月15日)
163)日本人の遥かなる旅路(後編・日本人の渡来と形成)
A) 日本人起源論の源流
①アイヌとコロボックル説
ドイツ人シーボルトによる「アイヌ日本人起原説」は日本人のルーツ探しの嚆矢となった。大森貝塚の発見者、米国人モースは貝塚出土の四肢骨はアイヌのものでなく、先住民であると「プレ・アイヌ説」を提唱した。また化粧水のベルツ水で名を残すドイツ人ベルツは、日本人がアイヌ・北方蒙古・南方蒙古からなると「三系統説」を提唱した。彼が述べた日本人の体型や容貌などの特徴描写は今も高い評価を得ている。坪井正五郎(東大)はアイヌ伝承の“低身で蕗の下に住み忽然といなくなった”コロボックルは先住民であったが石器時代にアイヌに駆逐されたとした。フィリピン駐在時代に我が家の庭師が低身・褐色・特異な面相のネグリットと知った角君としては、コロボックルの存在を信じたい。
②海上の道
明治31年、青年柳田國男は伊良湖岬で黒潮に乗って遠い南の島から流れついた椰子の実を見つけた。その話を聞いた新体詩仲間の島崎藤村は「その話、もらったよ」と言って『椰子の実』を作詩した。戦後、北方騎馬民族説が話題となると、それに疑問をもつ民俗学者柳田はその著書『海上の道』で「貨幣としての宝貝を求めて中国から来た人々が宮古島に住み着き、稲を伝えて日本人の祖先となった」と仮説を発表した。しかし、論議するまもなく翌年の昭和37年に世を去った。この「海上の道」説は、稲は韓国経由と信じる考古学者たちの反対で学会では承認されなかった。
③北方騎馬民族征服王朝説
東洋史学の江上波夫は昭和23年に“日本民族の源流”を探るシンポジウムで「統一国家の出現と大和朝廷は、東北アジアの夫余系騎馬民族により4世紀末ないし5世紀前半に創始された」と述べた。前期古墳の副葬品が農耕民族的なのに対し、後期古墳の副葬品は武器・馬具・服飾品が大陸の騎馬民族の特徴をもつことからの発想であるが、学会の賛同は得られなかった。特に佐原真は「日本文化の中に去勢、宦官、食肉、飲血、生贄などの習慣がなく、日本人は一貫して農耕民族であった」と主張して真っ向から異を唱えた。
④日本語タミル語起源説
日本語学者の大野晋は還暦の年に南インドのタミル語に出会い、インド南方やスリランカで話されるタミル語と日本語との基礎語彙が似ていることから、タミル語が日本語の起源であると発表した。しかし、南インドの文明が日本へ伝わり、弥生文化を生む原動力となったとの文化論にも言及したせいか、弥生文化の源流は“韓国と稲作”とする学会の賛意を得られなかった。
⑤徐福伝説
「史記」の『漢書』によれば紀元前3世紀の初め斉の方士徐福は「東海にある蓬莱島の三神山に不老不死の仙薬を取りに行く」と言って始皇帝から巨額の資金を得て童男童女3000人を連れて山東省を出港し彼の地で王になった(暴政から逃れたとの一説もある)。そこが日本であったとの記述はないが、日本全国20カ所に徐福伝説が残り、和歌山県新宮市はその宗主格。船団がばらけて各地に漂着したのであろう、と角君は考えている。
これらの諸説は限りないロマンをかきたてるが、決して荒唐無稽な作り話ではないと信じたい。日本人の起原論は明治初期に来日した外国人によって始まった。爾来、考古学・人類学・民族学・言語学・植物学・遺伝子学など広範な分野で研究されてきた。以下、それらを紹介する。
B)日本の石器時代と縄文・弥生時代の区分
酸性土壌の日本列島では人骨は残りにくいが、洪積世から出土した後期旧石器から4万年前には人が住んでいたと考えられている。1931年直良信夫が明石の海岸で腰骨の化石を発見した。この化石は東京空襲で焼失したが石膏模型が残り、戦後「明石人」と名づけられた。その後、葛生人(栃木県,1950)、牛川人(愛知県,1957)、三ケ日人・浜北人(静岡県,1959)が発見された。一方、1949年に考古学愛好家の相沢忠洋は、火山活動が激しかった洪積世末期の関東ローム層から黒曜石の石器を発見した。約2万年前には北海道と九州は大陸と陸続きで、この陸道を通ってヒトが渡来し旧倭人となったと想像できる。約1万2000年前までを「石器時代」と呼び、クサビ形細石刃は東日本型で、半円錐形細石刃は西日本型といわれる。
「縄文時代」は約1万2000年前から始まりBC500頃までの約1万年間続く。その間の文化は一様でなく草創期・早期・前期・中期・後期・晩期に区分される。「移行期」を経て、BC300年頃から「弥生時代」が始まり前期・中期・後期を経て、AD250からAD700年が「古墳時代」である。周知のとおり縄文時代や弥生時代は土器の特徴から名付けられた時代区分であり、縄文人や弥生人が生活していた時期や彼らの容貌とは必ずしも合致しない。
C)南方アジア人と北方アジア人
シベリア大地でウルム大寒冷期のマイナス50℃を凌いだ人々は「寒冷適応」の身体を獲得した。体表面が少い胴長で短い四股と小さな耳たぶ。眼球の凍結を防ぐ一重瞼と蒙古襞(ひだ)。凍傷を防ぐ薄い髭と眉毛。冷気が直接・大量に肺へ流入するのを防ぐ狭い鼻腔と広く複雑な副鼻腔、それ故に凹凸が少ない平坦な顔。硬い食物を食べるだけでなく、咬んでなめし皮を作ったゆえに顎が張り歯が大きい。これらの小進化で「北方アジア人」即ち「弥生人」の特徴が生まれた。
それに対して「南方アジア人」、換言すれば「縄文人」の特徴は、低い背丈に長い四股、高い腰、四角な立体的で彫りの深い顔、太い鼻骨、二重瞼で瞳がパッチリ、厚い唇、大きい耳たぶ、濃い髭と眉毛。腋臭(わきが)と湿った耳垢(じこう)。柔らかな食物ゆえに歯は小さい。
倭人には蒙古斑が見られるがアイヌには無い。しかし、その有無はそれ程の指標にならないと近年は反省されている。世界的に見れば日本人は酒に弱い。二日酔いの原因となるアルデヒドを分解する酵素が東アジア人には少ないからである。腋臭と湿式耳垢は相関関係にあり世界的な体質であるが、アジア東北部では腋臭が無いか軽度で耳垢は乾式である。序でながら、アポクリン腺から出たフェロモンを長時間保存しておくために腋毛と陰毛は縮れている、と考えられている。
日本人ではA・O・B・ABの血液型が概略4:3:2:1の割合であるが、これは他のアジア人にも見られない特性である(古畑種基など)。Gm(免疫グロブリン)遺伝子の解析ではバイカル湖畔を源流にして四方に広がるモンゴロイドは南方型・北方型・中間型の3群に分けられる。南方型には華南・台湾・東南アジアの集団が、中間型にはモンゴル集団と華北・華中の漢民族が含まれ、日本列島の全集団は北方型で、アメリカ大陸・東北アジア・朝鮮半島の集団に属している(大阪医大・松本秀雄)。なお、バイカル湖畔が源流となった理由については、雪と氷だけの大寒冷期のシベリアでは食物は得がたく、人々はバイカル湖の魚貝水草を求めて集まって来たためであろうと、角君は推測している。
GmやFm-DNA分析など遺伝子学の研究は、現代日本人は基本的には北方系の要素を持っていると結論づけているが、日本人の形質や文化には朝鮮半島や中国東北部の人たちと比べ南の要素が強く、単純に日本人が北方集団に属すると言いきれない側面を残している。このように遺伝学と形質人類学との結論は必ずしも完全には一致していない。
“白血球の血液型”との異名をもつ、ヒト白血球抗原(HLA)の分析からは、渡来には
①中国北部-朝鮮半島ルート、②朝鮮半島-日本沿海ルート、③中国南部-(朝鮮半島)-北九州ルート、④中国南部-台湾・沖縄ルートが考えられる(徳永勝士・十字猛夫ら)。
D)イネと植物学
日本列島の東はヒエ文化で、西はイネ文化といわれる。このような東西文化の相異は何に由来するのであろうか?
・縄文時代、東日本の落葉広葉樹林帯(ナラ樹林帯)ではブナ・ナラ・クリ・クルミなどの堅果類、サケ・マスなど魚貝、シカ・イノシシなどに恵まれていた。一方、西日本の照葉樹林からの食糧供給はそれほど豊富でなく、縄文後晩期には既に焼畑農耕でイネ科植物を栽培していた。長江下流域から温帯ジャポニカが北九州地方に入った時に、西日本ではいち早くそれを採り入れたが、食料が豊富な東日本へは伝播が遅れたようだ。
・中国雲南高地を中心に西はアッサムから東は中国湖南省にいたる“東亜半月弧地域”の照葉樹林地帯はイネ・ダイズ・アズキ・ヒエ・ソバの起源地で、茶・納豆・コンニャク・ナレズシ・ミソ・麹・餅・漆・竹・絹・養蚕・鵜飼、高床式住居・鼠返しの階段・歌垣や妻問婚などの中心地といわれるが、日本にはこれら風俗習慣の全てがあり、アジア南部の影響は否定しえない(佐々木高明)。
・弥生文化を特色づけるのは稲作であるが、炭素14やイネのプラントオパール(*)からイネの種類と年代測定が可能となった。“DNA考古学”の言葉を最初に使った植物遺伝学の佐藤洋一郎は、10カ所以上の弥生遺跡から出土した米のDNAから水田耕作に適した「温帯ジャポニカ」だけでなく3分の1ほどが「陸稲の熱帯ジャポニカ」であることを発見し、縄文時代に既に陸稲が栽培されており、日本での稲作開始は500年ほど溯る可能性があると提唱。イネは朝鮮半島経由と考える考古学者が否定する「海上の道」の可能性を示唆している。
(注記)
*炭素の質量は12だが、宇宙線などで作られる「異性体炭素14」は一定速度で経年崩壊する。過去に動植物に取り込まれ現代まで残った遺跡中の微量の2種類の炭素の比率から動植物に取り込まれた炭素の年代が推定できる。但し、誤差が大きいので補正が必要で絶対的数値でない弱点がある。
*イネ科植物は土中より珪酸を吸収蓄積し、葉の組織が腐った後もプラントオパールとして土壌や土器に残る。種類によりプラントオパールの形状が異なるので、イネの種類や生育時期を推定できる。
E)縄文人と弥生人
北九州人や山口県人にみられる長身長頭の特徴を現在から過去へと遡及すると、弥生時代までは連続的な継続が見られるが、2800年前を境にして弥生人と縄文人の間には不自然な急変が起きている。この著しい形質変化をどう説明するかが日本人の起源論をめぐる長年の争点であった。鈴木尚はそれを生活文化の変化に起因する小進化と捉えたが、金関は朝鮮半島からの渡来人の影響と想定した。縄文晩期に北九州や山口県(土井ケ浜遺跡)に朝鮮半島から新しい文化を持つ人々が渡来し土着の人と混血した。しかし、その渡来は一時的で少数であったために、在来の縄文人の身長に大きな影響を及ぼすほどではなかったが、瀬戸内海沿岸から近畿地方には、その後も引続き大陸からの渡来が持続したと想像できる。日本全体で見ると近畿圏の体型はむしろ例外的である。「金関渡来説」は多方面の研究で裏付けられ、現在、日本人起源論の根幹をなしている。
様々な渡来モデルが提唱されているが「もともと日本列島には旧石器時代人につながる東南アジア系の縄文人が居住していたが、東北アジアに由来するツングース系の人々が朝鮮半島経由で流入し混血し現在に至った。その結果、彼らの影響が及ばなかった日本南端の琉球と北端の北海道アイヌに縄文的な特徴が残った」と形質人類学者の埴原和郎は「二重構造モデル」を唱えた。埴原はまた、弥生から古墳時代にかけて起こった急激な人口の増加は、一般の農耕社会の人口増加率(年率0.1-0.2%)では説明できず、1000年間に100万人規模の流入があったと大量渡来説を提唱した。先の大戦後に200万人が大陸から台湾に移住した事実を考えると基礎人口の相異はあっても決して有りえない話でないと角君は考える。これに対し稲作農耕の定着による食料供給の増加が人口急増を招いた、と考える方が自然である(田中良之)などの、反論も寄せられている。尚、現日本人は弥生系が7割で縄文系が3割といわれる。
F)琉球人とアイヌ人
沖縄はアルカリ性の石灰岩地帯なので、1万8000年前の港川人骨が日本最古の化石として残った。それから進化したのが縄文人と考えられるが、残念ながらそれ以後、沖縄には6000年前の貝塚人まで出土例がない。貝塚人は極端に背が低く顔つきも本土の縄文人と異なっている。コロボックルとネグリットの関係を信じる角君としては我が意を得た思いである。非常に古い時代に南方から沖縄人、本土縄文人、アイヌ人に移入したことをうかがわせるFm-DNAが報告されているが、12世紀グスク時代の人骨は形態学的に本土人との類縁性が見られ、貝塚時代以降の人の流れは南方からではなく、南九州からと考えられる(土肥直美)。アイヌ人も沖縄人と同様に弥生時代に日本に稲作をもたらした渡来人の影響をあまり受けてはいないが、単純に縄文人の延長というわけではなく、オーツク文化の影響も受けている。つまるところ、沖縄・縄文・アイヌの人々は形質的に似た部分は多いがFm-DNA的には互いに頻度勾配があり、沖縄は南の影響を、アイヌは北方オーツク文化の影響をより強く受け、本土人は混血が最も進んでいるといえる。
最後にY染色体DNAについて簡単に説明する。Fm-DNAが女性の遺伝情報を伝えるのに対して、Y染色体は男性から男性へ伝えられる遺伝情報である。Fm-DNAに比較して突然変異を起こす確率が10分の1と少ない上に、分子が長大なので研究に使い難い欠点がある。今日まで残った僅かな資料を分析した結果では、人類の出アフリカの時期や世界拡散の歴史は、大まかにFm-DNAと同じである。日本にはC1とC3系統のDNAがあるが、C1は南からC3は北から日本に入ったと推定されている。
G)日本への渡来ルート
ここ十数年、著しい進歩を見せたFm-DNA分析は形質人類学などによる様々の学説を裏付ける反面、相反するデータも提供した。しかし、「縄文人とアイヌ人は何処から何時来たか?」、「沖縄人とアイヌ人の関係は?」などについて決定的な答を示すには至っていない。恐らくは上述した全ての要因を含み、夫々の時代に様々な人たちが断続的に日本列島にやって来た。そして混血が進んだために最早DNAを使っても完全には解明できない、というのが真相であろう。独断と偏見を交えながら、これまでに得た知識を集約して角君が描く日本人の長い旅路を復元しよう。
①旧石器時代:
・長野県の野尻湖で約4万年前のナウマン象の化石が発見された。南方系のこの象を追って最初の一団が陸路で日本にやってきた。また3.5~3万年前「スンダランド」の縮小で南方アジア人が北部へ移動した時に一部が日本列島に到着した。
・更に大陸と陸続きであった2万年前頃に寒冷化を避け食物を求め南下した北アジア人が徒歩でやって来た。北方人が使用したクサビ形細石刃文化がそれを示す。厳しい寒冷期を無経験ゆえに蒙古襞(ひだ)はなく朝鮮民族と容貌を異にする。
②縄文時代:
・約6000年前に温暖化がピークに達しスンダランドが海没すると南アジア人が海上へ拡散。その一部が外洋カヌーで小笠原諸島を島伝いに北上して渡来した。
・「寒冷適応」を獲得した人たちが、5~4000年前、寒冷化を避けて北朝鮮から直接日本海を渡り、或いは朝鮮半島の東岸を南下し対馬海峡を渡った。この時アイヌの祖先はオーツク文化の影響を受けた。この頃は南北から来た人々が別々に集団を作り言語的にも民族的にも混交は無かった。
・3500~3000年前、渤海湾や山東省など東北中国から朝鮮半島を経由して九州北部や山陰地方へ渡来。
③縄文晩期~弥生初期:
2800年前、稲作・照葉樹林文化を携えた人々が中国江南地方から北九州(含む山口県)や韓国南部に到来。温暖化による長江の氾濫は一つの契機であったろう。韓国南部→北九州とか、北九州→韓国南部のような一方向への渡来ではなく、江南から北九州と韓国南部の両岸に直接同時並行的に漂着したと考える方が自然であろう。
④弥生~古墳時代:
・大陸は歴史時代に入り、日本の存在が知られるようになり、天候異変・百済の滅亡・中国の戦乱のたびに五月雨式に到来した。
・神武東征の伝承は九州勢力が大和に移動して3世紀頃に大和朝廷を立てた史実を反映していると考えられる。単なる神話と軽視すべきでない。
・中国の史書は次のように大陸との往来を伝える。
「楽浪海中に倭人あり、分れて百余国となす」(漢書・地理志)
「西暦57年、後漢の光武帝は倭の奴国(なのくに)の使者に金印を与えた」(後漢書・東夷伝)
「邪馬台国への道程・国々の戸数、倭人の風俗・卑弥呼・銅鏡百枚・倭国の大乱など2000字に及ぶ詳述」(魏志倭人伝;正確には『三国志』魏書東夷伝倭人の条)
「倭の讃・珍・済・興・武が建康(南京)に朝貢の使節を送った」(宋書)
序なので邪馬台国にちょっと寄り道してそのサワリをご披露する。『魏志倭人伝』が伝える邪馬台国の所在については九州説と畿内説がある。卑弥呼の墓を箸墓古墳(奈良県・桜井市)に比定するなど状況証拠は近年畿内説に傾いているが決着はついていない。帯方郡(ソウル付近)から不弥国(博多付近)までの道程には異論が少ないが、「不弥国から南に水行二十日で投馬国(五万戸)、更に南に水行十日陸行一月で邪馬台国(七万戸)」を文字どおり読解できないためである。多くの研究者が挑戦し“誤写や誇張”などの説明付きで諸説を展開している。
――<当時、中国では日本を朝鮮半島の南方に垂れ下るような島国であると考え、直角的に東方に延びる島とは考えていなかった。その先入観から「東」を「南」と記述した。20日間の水行で投馬国(天孫降臨地の日向国)に到着し、そこから黒潮に乗って10日後に熊野に上陸し1ケ月で邪馬台国に着く(第1案)。投馬国を吉備に比定し、そこから水路では10日、陸路を行くと1ケ月(第2案)。或いは日本海を行き投馬国を出雲に比定する(第3案)。対馬海流に乗って若狭湾へ、そこから琵琶湖を行くと10日、陸路を行くと1ケ月(第4案)>――と角君は解読し4種類の畿内説を考えついた。しかし、第1案は魏への復路の海流、第3案は出雲までの距離が短すぎ、第4案では若狭湾に大型の遺跡が見つかっていない欠点がある。第2案の瀬戸内海経路を考える。
『魏志倭人伝』には「倭の地は温暖で冬夏生菜を食す。・・・寿命は百年、八・九十年」との記述がある。古代の天皇の寿命が百歳前後と超長寿であるところから『記・紀』は単なる神話だと戦後は無視されてきたが、古代は寒暖二毛作から今の1年を2年と計算していたと解釈すれば決して矛盾はない。新たな視点で記・紀を再考する必要があろう。また、「倭人は入水して魚貝を捕るが鮫の被害を避けるために刺青をしている」とその風俗を伝えている。その起源を南方の海中と想像していたが、これは長江流域の湖沼ではなったかと、昆明湖畔に立って考えついた。
胡座、胡瓜、胡麻、胡桃など胡のつく単語は日本語に多い。「胡」とは西域とかペルシャ辺りをさす。これらの単語は現在中国では使用されていない。もし「胡座(あぐら)」が過去にも中国で使われなかったとすれば、日本人がペルシャ人の坐り方を見て名付けた呼び名となる。「鬼と天狗はルーツが違う。渡来した弥生人は先住の縄文人を見て鬼を創作したが、天狗は天孫降臨でニニギノミコトを先導した猿田彦神が原型で胡人に由来する」と第29話で角説を披露した。日本には芥川龍之介が描く腸詰のように大きく垂れぎみの鼻をもち髭が濃く彫が深いペルシャ人を連想させる顔の人がいる。また、拝火教や飛鳥の猿石・亀石・水落遺跡などはペルシャ人の渡来を感じさせる。
日本語の起源から日本人のルーツ探しもなされているが、確証は得られていない。朝鮮や中国と地理的に近いにも拘らず日本語は孤立している。東北アジア系の祖語にオーストロネシア語やチベット・ビルマ語(照葉樹林文化圏)が重なり徐々に混合語ができ、最後に弥生時代にアルタイ系の言語が入ってきて日本語の文法が形成されたと考えるのが自然であろう。京大名誉教授で高分子化学が専門の友人は趣味の研究で日本語の起源をサンスクリット語と特定し、それを持って来たのはヒマラヤ南麗・ガンジス川流域に住んでいたチベット・ビルマ人が侵入してきたアーリア人の言語をとりいれたものと推定している。
現在、隣国の中国や韓国では土葬だが日本は火葬する。釈迦は臨終にさいしてインド古来の風習に倣って火葬、即ち荼毘を指示したそうだから、火葬のルーツはインドであろう。最初に火葬された天皇は持統天皇であるが、日本で始まったのはそれ以前と考えられている。中国を旅行中に少数民族のイ族とチャン族は火葬で、日本人はイ族の末裔と聞かされた。イ族は長身細身で手足が長い。正に角君の体型そのもので、台湾や中国南部でも時折見かけた体型である。長江を下って来たイ族が2800年前頃にイネを携えて北九州や山口県に渡来したのかも知れないと、我が身のルーツを考えた。蘇我・大伴・巨勢・藤原・安倍・安曇のような中国や韓国とは全く異なる苗字は何処から来たのであろう。中国文化の大きな影響を受けながら飛鳥時代に早くも現れる日本独特の苗字の起源は何であろうか?
遥か10~6万年前にアフリカを出た「新人」は“月の沙漠”と“海上の道”を通りユーラシア大陸の北と南から最東端の日本列島にたどり着いた。そこは四季折々の菜根、魚介、鳥獣が豊富な新天地であった。やがて縄文の人々は稲作を始め実り豊かな瑞穂の国を築いた。アジアの終着駅として流れ込む人口を支えるには過酷な時期もあったが、日本列島は決して資源が乏しく閉鎖的な島国ではなかった。むしろ水と緑と食物に恵まれた稀有な楽園で列島外へ出かける必要はなく、自然と共生する縄文の心情と文化を残してきた。先の大戦から目覚しい復興を遂げたが、過度の経済発展は山河を壊すだけでなく人心の荒廃までも招いてしまった。この先、日本はどのような道を歩むのであろうか? 民族の底力を信じたいが一抹の不安を禁じえない今日この頃である。
参考資料(書籍は発行日が新しい順に記す):
知るを楽しむ(2-3月・09)「この人この世界・顔」 馬場悠男 NHK
日本人のルーツがわかる本(1999の改定版)編集部 宝島文庫(2008初版)
日本人になった祖先たち 篠田謙一 NHKブックス(2007初版)
日本人のきた道 池田次郎 朝日選書(1998初版)
日本誕生記 安本美典 PHP(1993初版)
アイヌは原日本人か 梅原猛・埴原和郎 小学館ライブラリー(1993初版)
騎馬民族は来なかった 佐原真 NHKブックス(1993初版)
騎馬民族は来た?来ない? 激論/江上波夫・佐原真 小学館(1990 初版)
日本人は何処から来たか 松本秀 NHKブックス(1992初版)
照葉樹林文化の道 佐々木高明 NHKブックス(1982初版)
清張 歴史游記 松本清張 日本放送出版教会(1982初版)
邪馬台国99の謎 松本清張編 サンポウ・ブックス(1975)
日本人はどこから来たか 斉藤忠 講談社学術文庫(1979初版)
日本人はどこから来たか 樋口隆康 講談社現代新書(1971初版)
ウエブサイト 倭人の形成 http://www.museum.kyuushu-u.ac.jp
“ 地球と生命の誕生と進化 http://nihon.matsu.net/seimei/
“ 地球史年表-Wikipedia http://ja.wikipedia.org.wili/
第17回浜田青陵賞シンポジウム「海上の道」は見えてきたか 岸和田市教育委員会編
(7月上旬号 完) 次回、7月15日はいよいよ最終回のエピローグです。
162)日本人の遥かなる旅路(中編・人類の誕生と拡散)
A)人類の誕生と移動
太古の昔、サルは豊富な食料に恵まれ樹上生活を享受していた。しかし、アフリカ大陸東部にできた大地溝帯(グレート・リフトバレー)による亀裂は東西を分断した。西側には昔ながらの豊かな森林が残ったが、東側は降雨量が減少し草原地帯となった。樹上を離れ草原での地上生活を余儀なくされたヒトの祖先は外敵から身を守り、直立二足歩行を始め、道具を使い火さえ会得した。700万年前にオランウータン類のラマピテクスから分れて「猿人」が誕生したと考えられている。大地溝帯の東側こそ“人類誕生の地”である。
優れた知恵と食料に恵まれた「原人」は数と種類を増やした。しかしそれ故に食物を求めてアフリカを後にすることになる。180万年前にアフリカを出た「原人」はユーラシア大陸の沿岸を伝い東南アジアの「スンダランド」に到着した。その一団がジャワ原人となり、そこから北上したヒトは50万年前の北京原人になった(馬場悠男)。約50万年前にアフリカで原人から進化したのが「旧人」で、その一種族がネアンデルタール人であるが、結局、これら猿人・原人・旧人は絶滅した。20~15万年前に新たにアフリカに誕生したホモ・サピエンス「新人」の一種類だけが現在の人間につながる祖先である。この「新人アフリカ単一起源説」はDNA解析から有力視されているが、頭骨や歯の化石による形態人類学からは北京原人と現代モンゴロイドの間には連続性がみられ、かつてアフリカを出た原人たちがその後、地域色を強めて新人へと変化したとする「多地域並行進化説」もあり、両論の決着はついていない。
近年、遺伝子を使った研究で新発見が相次いでいる。特に母系ミトコンドリアに含まれるDNAに記録された変異(以下、Fm-DNAと略称)をマーカーとして人類の足跡を追う方法である。但し、このFm-DNAは女性の移動を反映し男性のDNAではない。その為、男性だけが渡来して子孫を残した場合、その男性の遺伝子はFm-DNAに反映されないので、渡来の実績として残らない点は解読するさいに注意しなければならない。
世界の人種はこれまで白色人種(コーカソイド)、黒色人種(ニグロイド)、黄色人種(モンゴロイド)と3種類(厳密にはオーストラロイドを含め4種類)に分類されてきたが、差別概念を含むので最近は使われない傾向にある。ここではヨーロッパ人、アフリカ人、アジア人と呼ぶことにする。しかし、Fm-DNAの解析では4大群に分かれる。そのうち3群はアフリカ人のみで構成され、残りの一群はアフリカ人(変異マーカー・クラスターL3)、東ユーラシア人(アジア・ポリネシア人:M)、西ユーラシア人(アジア人・欧州人:N)の3種からなる「混合集団」である。アフリカに残った「3大群と混合集団の一部」は変異を繰り返し多岐に分化したので多様な資質を保有していると推察される。一方、MとNの“小さな集団”は10万年くらい前から波状的にアフリカを後にし、ユーラシア、オーストラリア、シベリアへと拡散していった。
出アフリカは2ルートに大別できる。その一群は氷河期で狭くなった紅海南端のバベルマンデブ海峡をアフリカから直接アラビア半島に渡り、海岸沿いにインドに到着した(アジアへの南ルート)。他の一群はナイル川を下りシナイ半島を横断して地中海東部沿岸を進んだ。その一部は中央アジアを通ってヒマラヤ北側の草原地帯に到達した(アジアへの北ルート)。残る一部が進路を西に変えて4万年前に欧州に到達したというのが通説であったが、Fm-DNAの解析ではインド人との共通性が強い。彼らがクロマニヨン人となり先住民のネアンデルタール人に遭遇し争いが生じたのであろうか、ネアンデルタール人は2万8000年前に絶滅した。
B)アジア人の拡散
アジアに到達した「新人」は気候変動(寒冷化・温暖化・水位の変動)、天変地異(火山爆発・大洪水)、それに伴う食料不足や伝染病で、さらに後年になるとは戦火により移動を強いられ、三つの大きな選択をした。第一の人たちはインド南部から更に東に進み約5万年前にマレー半島から「スンダランド」をへて、島伝いに4万7000年前にオーストラリアに到達した。先住民族アボリジニの先祖である。尚、Fm-DNA分析によれば、4万年前に中国南部に祖先を持つ一団(クラスターB)が海岸沿いに北上してアメリカ大陸に入ったが、途中一部が日本列島に留まった可能性もある。
卓越したマンモスハンターであった第二の人たちは3万5000~1万5000年前の氷河期に海面が低くなったベーリング陸橋(現在の海峡)をアラスカへ渡った。さらに1万2000年前ごろ北米を覆う巨大な氷床が解けると南下を始め、約1000年後には早くも南米大陸の南端まで広がった。人類は動植物や気候条件が似ている東西へは拡散しやすいが、南北へは難しいとの通説を考えると、米大陸南端への到達は驚異的に速い。近年は遺跡や形態人類学やFm-DNA分析などから、中南米へのルートは内陸部だけでなく、海岸沿いの南下、大西洋の横断、南太平洋ルートなど諸説が出されている。
アジアに留まったのが第三のグループである。約3万5000~3万年前、温暖化で水位が上昇しスンダランドが縮小すると南方アジア人は北に押しやられ、さらに大陸中央部の人々はシベリアへと、玉突き状に大規模な移動を誘発したことを形態人類学は示唆している。しかし、2~1万8000年前にウルム期最寒冷期が訪れると、大半の人々は厳しいシベリアを逃れ南下したが、一部の人たちはバイカル湖周辺で厳寒を耐え凌ぎ小進化により「寒冷期仕様」の身体を獲得した。その北方アジア人が6~5000年前に南下した。この時期スンダランドが海没し「南方アジア人」は外洋カヌーで南太平洋へ漕ぎ出し、ポリネシア・ハワイ諸島・ミクロネシアへと散っていった。これらの移動期に一部の人々が日本列島にも到着したことは想像に難くない。 (6月下旬号 完)
161)日本人の遥かなる旅路(前編・地球と生命の誕生)
台湾で駐在生活を始めて“人の顔”に興味を持った。日本人に似た顔もあるが隔たりが大きい顔もある。とりわけ日本時代に生蕃とか高砂族と呼ばれた台湾先住民は特徴的だ。台湾政府は彼らを山胞(山地同胞)と名付け同化政策を進めている。代理店のセールスボスの陳さんや嘉義のL眼科の院長は典型的な熟蕃(地縁血縁で漢化が進んだ先住民)の顔立ちである。公認の13部族の他に同数の非公認小部族もいる。彫りが深い四角い顔は南方アジアの典型で縄文人の特徴とも一致する。褐色肌の種族があればキメが細かく並の日本人より色白と思われる種族もある。
その後、アジア各地や中国大陸を訪れる度に彼らの風俗習慣への興味が深まった。彼らはどの様にしてこの地にたどり着いたのか? 縄文・弥生・アイヌ・沖縄の人たちとの関係は? 日本人は一体何処からやって来たか? などと自問自答し新聞や書籍を手にするようになった。『思い出エッセイ』はその当時の見聞や読書から得た知識だけを頼りに、これまで書いてきたが、目覚しい科学の進歩で新発見が相次ぐ今回のテーマに限り、新知識を補充しながら「日本人のルーツ」を追跡する。
* * * * * * * * * *
遥かな、遥かな、気の遠くなるような更に遥かな太古の昔、暗黒と静寂、何もない世界があった――そして、粒子と反粒子、換言すれば「存在」と「あいまい」の間を瞬時に往来する超高温で超微細の宇宙が誕生した。それはある時、突然大爆発を起こした。今から137億年前にビックバンで超微小な宇宙が超高温、超高速で膨張(インフレーション)を始めた瞬間である。説明困難なこの奇跡をある科学者は“神の一撃”と呼んだ。超高エネルギーの素粒子たちが互いに激しい衝突を繰り返しながら次第に成長し100億年前に銀河系が生まれ、超高温の“ガス釜”の中で無機物が次々と創られ46億年前に太陽系と原始地球が誕生した。そして地殻ができ海水ができた。38億年前に深海の火口で窒素や硫黄を材料に生命が誕生した(隕石が海に衝突したさいの蒸気雲の中で有機物ができた、との新説が08.12.8の朝日新聞に掲載)。再び無から有の奇跡が起きた。27億年前にシアノバクテリアが大量に発生し地球上の酸素が急増していった。10億年前に多細胞生物に進化して9億年前に有性生殖を始めた。6億年前にカンブリア爆発と呼ばれる生物の多様多量化が起こった。
古生代(5.7~2.5億年前)に入り4億年前に海より植物が上陸し、それを追って動物も上陸する。しかし、2.5億年前に生物種類の90-95%が死滅する(ペルム紀)。中生代(2.5億年~6500万年前)の2億年前にパンゲア大陸が再分裂して、現在の大陸の姿へ変化を始めた。その頃、哺乳類が生まれ、1.5億年前には始祖鳥が出現した。1億年前に恐竜が全盛したが、6500万年前に隕石衝突による環境の激変で絶滅した。恐竜が消滅すると哺乳類が大型化を始めた。7000万年前にインド亜大陸とユーラシア大陸が衝突し、2500万年前にヒマラヤ山脈の形成が始まった。新生代 (6500万年前~現代)に入り霊長類が登場する。5500万年前のアダピス類が初期の霊長類といわれる。2500万年前には最古の類人猿が誕生し、1300万年前にはユーラシア各地に広がった。
地質学的には1000~500万年前にプレート移動によるマントルの突き上げでアフリカ大陸の東側を南北に走る大亀裂が生じた。今も成長を続ける“大地溝帯”である。180万年前に地球は洪積世(第四期氷河期)に入り、4回の氷期と比較的温暖な3回の間氷期があった。その間に原人、旧人、新人が現れる。文化史では旧石器時代とよぶ。7万3000年前にスマトラ島のドバ火山が大噴火し、その後数年間地球の気温が3~3.5度低下した。これにより人口が1万人以下に大激減し現在の人類に繋がる種族のみが残り、遺伝子の多様性が減少した。これを“ボトルネック効果”という。2万5000年前の姶良(あいら)カルデラ大噴出は西日本の環境を激変させた。また、7300年前に鹿児島・鬼界島が大噴火し火山灰は天空を覆い東北地方南部にまで達した。
2万年前に最終氷期(ウルム氷期)のピークとなり気温は7~8度も下がり、氷河が発達し海面は現在よりも100~130m低かった。その後は温暖化に向い1万年前に沖積世(現世)に入った。氷河が溶け大洪水は土砂を運び沖積平野を形成し、海面は数10cm高くなった。一方、氷河期にインドシナ半島からマレーシア・インドネシアにかけて陸地であった“スンダランド”が水没を始め6000年前には大部分が海底に没した。また陸続きであったベーリング陸橋も水没し海峡となった。日本の本州は北は北海道・樺太と南は台湾・フィリピン・ジャワと陸続きで、日本海はちょうど湖のようになっていたが、徐々に島化が進み8000年前に現在の日本列島を形成した。このような寒冷と温暖による水位の変動や火山の爆発は植物生態を変え、ヒトの移動を促した。やがて人類は農耕を開始し、日本は旧石器時代から縄文時代へと移った。
(*)「約・頃・概ね・ほど・とされる・ようだ・考えられている」などの曖昧・推測を表す単語は省略して記載した。以下も概ね同様である。
160)薬局と科学振興財団
失業保険を受取りにハローワークに月に一回一年間通ったが、その度に就職活動の状況を係官から訊かれる。形式的な問答ではあるが少しは職探しの様子を報告しなければならない。再就職に興味が湧くが長年妻を一人にしてきたので、もう一度中国へ行くとはとても言い出だせない。新聞や折込み広告を見ると薬剤師の仕事なら結構ある。
「父や兄が生業とした仕事を経験してみるのも悪くない」
と思い切って新規開店のスーパーマーケット内の薬店で管理薬剤師として働き始めた。大学を卒業して37年、初めて薬剤師免許をタンスの奥から探し出した。
これまで会社での就業時間とは「朝9時から夕刻6時まで。月曜日から金曜日まで」と単純に考えていたが、世の中、そんな仕事ばかりではない。シフト制で土・日・祝日、昼夜の別無く働く仕事が何と多いことか。それにパートの人たちは上司の叱責を歯を食いしばって耐え忍んで頑張っているが、手にする給与は月に10万円にも満たない。稼ぐことがどんなに大変へんかと知った。薬剤師の時給は彼女たちの3倍に近い高額であるが、放棄したボーナス一回分を補充するには、これから1年間働かなければならない。現役時代に仕事を手抜きしたことは一度も無かったが、安寧な日々を過ごし得たことに改めて感謝した。
お客は千差万別、誰もが紳士淑女ではない。むしろそんな人の方が少ない。時には客自身が何を勘違いしてか、衆人看視の中で
「お客様は神様である」と言って声を荒げる人もいる。有名歌手が広めた言葉であるが、それは物やサービスを提供する側がお客様に敬意と感謝を込めて“心で思う”言葉であって、客自身が口にする言葉では決してない、と香港の小売店で学んだ。香港の商人は商売上手であるが、売り手も買い手も売買は対等と考えているようだ。金持ちのお客ほど丁寧な言葉を使い上品に振舞い、買ってやるといったそぶりなど微塵もみせない。
幼少時に薬局の店先で遊びながら育ったせいか、客扱いには直ぐに馴れた。知識も経験も乏しいが、笑顔と平易な説明でフアンが次第に増えてゆく。他部門の苦戦を尻目に薬品部門だけが営業利益に貢献した。
1年半ほど働いて今度は「調剤薬局」とはどういうものか知りたくなった。一般薬を売るのが「薬店」で、医師の処方箋に基づき医療用医薬品を調剤するのが「調剤薬局」である。幸いにも一般薬と医療用医薬品の両方を扱う「薬局」を見つけて勤務先を変えた。「調剤薬局」とは患者様(とお呼びする)から処方箋をお受けして薬をお渡しする仕事である。一枚の処方箋を基に薬剤師が調剤する一方で、事務官が代金計算などをパソコンで処理する。処方箋には「薬品名、成分の含量(mg数)、1日の服用回数、一日の錠数、服用日数など」が列挙されている。ベテラン薬剤師ともなるとそれを一瞥しただけで記憶して薬棚から採取するが、近視に老眼が加わり脳の老化も激しい角さんは処方箋は読み難く、一行さえも覚えられず、一字一句を拾い読みしながら薬を探し錠数を数える。はなはだ心もとない薬剤師である。仕事の手順は細分化され約束事が多いが、シフト制なので象徴的に言えば、文房具の置き場所さえ個人好みがあって論議の対象となる。まさに理系頭脳の個性豊かな薬剤師集団である。加えて薬剤師だけは就職には困らない結構なご時勢なので、気に入らなければプイット辞めて別の薬局をさがす。一人が辞職すると、広告を出して補充者を募る。広告を見た一人が今の職場を辞めて新しい薬局に移動する。こうして市場全体で欠員の連鎖が生まれる、といったユニークな業界である。
患者様は医院で長時間待たされた挙句、やっと最終段階の薬局にたどり着いた、一分一秒でも早く薬を貰って帰宅したいと心がはやっている。ここにも我が儘な“患者様”がいた。いつもどおりの簡単なシップ薬の処方箋を持ってきて、
「早くして、バスが来るから」はまだ解かるが、ドアを入るなり
「早くして、信号が変るから」には唖然とした。朝から酒の匂いをプンプンさせて生保(生活保護受給者で医療代不要)の処方を持って来る年配の患者もいた。
「なんと母子家庭が多いことか」と同情心で嘆息すると、
「偽装離婚で生保を受けている人もいるようですよ」と同僚から教えられて、これまた言葉を失った。かつて日本人の行動規範の一つに“恥”があったが、お金の為には偽装離婚も辞さないとは、大和心は地に落ちたと言わねばならない。
ここで2年近く働いて調剤業務にも慣れたある日、
「一般薬の販売を角さんに任せたいので、そちらに専念して欲しい」
と女性オーナーに言われた。調剤薬局の仕事を続けたかったので、時給は低いが自宅近くの薬局に移った。不景気にもかかわらず63歳の高齢者にも仕事がある。薬剤師がこんなに重宝される世の中が来るとは40年余り前には予想もしなかった。
そんなある日、現役時代の上司から電話を受けた。
「武田科学振興財団で働く気はないか」
とのありがたいお誘いである。すでに厚生年金を受けているので、正規雇用となれば年金の殆どを放棄することになる。収入的には今の非常勤薬剤師の仕事を続ける方が有利であるが、もともと「何でも見たい、経験したい」との思いから始めた退職後の仕事である。
「多少の収入の相違などまあいいや。かつての上司のお誘いこそ、もって瞑すべし!」
とお受けした。
この財団は、武田家から寄付された医薬系古文書の保存公開、国内で権威ある医学賞の授与、医学研究者への助成などの非営利財団法人である。その一つに海外からの留学研究者へ研究助成金を支給する事業がある。仕事の内容は現地での選考段階から始まり、来日前後のお手伝い、帰国までの助成金の支給などである。英語と中国語の会話と海外駐在の経験が買われたのであろう。こうして永年お世話になった台湾、フィリピン、中国を含む世界各国から来日する医学研究者達にご奉仕できた。
この仕事を通じて公的機関の年間予算の使用方法を垣間見た。「科学振興財団」は文科省の管轄下にあり、規定に基づき運営するわけであるが、年度ごとの収入と支出に過不足が無いことが原則である。世に言う「予算の使い切り」で、余剰金の次年度繰越は原則できない。余れば仕事をサボッタことになる。仮に右肩上がりのバブル期の国家予算を想定してみよう。前年の景気が予想外に良ければ今年の税収が予算超過し、お役人はその増税分を無理にでも年度内に使い切らねばならない。時にはムダ使いをしなければ使い切れるものではない。この上昇循環がフル回転すると、アクセルを踏み込むことになりバブルは更に膨らむ。しかし、「薬のライフサイクル」(78話)で述べたように、成長が一本調子で永遠に続くわけがない。いつかは市場在庫と需要が飽和に達し、バブルが弾け景気は下降する。爆発が大きくピークが高いほど傷も深い。そして不景気になると税収は前年割れの悪循環となる。つまり政府機関の仕事は好況を後押しするが、不景気も後押しして“景気循環を増幅”する仕組みとなっている、と悟った。何故、余剰金を次年度に繰り越せないのか“金融・財政・国家予算”の仕組みは浅学の身には今もって解けない謎である。経営の神様、松下幸之助氏がこの謎解きに挑戦したが官僚の壁は厚かったと何かで読んだ記憶がある。誤解であればお許し願いたい。
2年間の契約が過ぎて、また調剤薬局で働き始めて更に5年近くが過ぎた。武田薬品を退職してから、いつの間にか10年になろうとしている。
「これからは司馬遼太郎の『街道を行く』を読み、そこをゆっくりと在来線で一人旅をしたい」
と友人に語って退職をしたが、今もって実現していない。
――70歳を機に完全退職をして漂泊の旅に出るのも悪くないかなあ~――と、考えている。 (5月下旬号 完)
159)退職直前の風景
香港総督府に99年間はためいてきたユニオンジャックが1997年6月30日に下ろされた。それを持ってパッテン総督は「ブリタニア号」に乗り込む。これまで幾度となく繰り返された総督帰国の船旅であるが、今回はこれが最後となる。撤退の儀式がテレビ中継されている頃、人民解放軍は深圳を出発し7月1日午前0時に香港域内の新界に入った。ここから夜間行軍を続け湾仔(ワンチャイ)のコンベンション・センターに到着し中国による式典に臨んだ。
その97年の春からタイ国通貨のタイ・バーツ(TB)が徐々に下降を始めた。これまでタイ国は為替レートを米国通貨に固定するドルペッグ制を採用して金利を高めに誘導し、利ざやを求める外国資本の流入と輸出の増進で経済成長を促す政策を採ってきた。米国の「強いドル政策」に連動する形で95年からタイ国の通貨は上昇し、実勢との乖離が拡大してきた。そして97年5月14日にヘッジファンドがバーツに大量の売りを浴びせた。タイ中央銀行は準備ドルを取り崩して自国通貨を買い支えたが保有ドルは底をつき、7月2日についに変動相場制に切り替えると、25TB/$が下降を始め半年後には56TBにまで下落した。
アジアの多くの国は自国通貨をドルペッグ制にしており、ヘッジファンドはタイに続いてインドネシア、韓国を餌食の標的とした。インドネシアの華僑は集められるかぎりの外貨を携えて米国などに一時避難を始める。さらにマレーシア、フィリッピン、香港へと伝播し“アジア金融・経済恐慌”へと拡大する。日本から原料を輸入して医薬品を製造販売する武田の現地子会社も巻き込まれる。輸入価額が実質2倍以上に高騰する反面、購買力は減退し会社の存続さえ危ぶまれる。大阪本社内では毎日のように対策会議が開かれるが堂々巡りで、これまでの25年間の努力は何だったのかと、情けない思いにかられた。
韓国では「祖国の危機」と個人資産の外貨や貴金属を自ら進んで国に寄付する人が続々と現れる。正に日本の戦時中に行われた金属製品の供出運動を彷彿とさせた。翻って日本を見ると昨今、国と地方自治体の財政難が報告され、民間では経済の二極化が進み高額所得者は少なくないようだが私財を寄付したとのニュースはあまり聞かれない。ボーダレスの時代で国家意識が乏しくなったせいであろうか。公的機関が必要とする建造物などに寄贈者の名を冠すなど、智恵を絞って民間からの寄付を募れば、国や自治体の予算削減に繋がるのではなかろうかと思ったりもする。そんな事を考えていたら、一昨年春から始まったサブプライム危機はリーマン・ブラザーズ証券の経営破綻で100年に一度といわれる世界金融経済恐慌へと一気に広がった。
1997年の夏に話を戻そう。為替による輸入原材料の高騰に加え、近年の経済成長でアジア各国の人件費は既に安くない水準に達しており、旧来の製法によるタイ武田や台湾武田のDsnの原価は、全自動(フルオートメーション)で製造する日本製品の原価より高くなった。更に貿易自由化の流れの中で各国の輸入税率が引き下げられ、現地で生産するよりも日本から完成品を輸入する方が割安になった。或いは何処か一国で集中生産してアジア域内で輸出入すれば税率は更に低い。最早、国毎に製剤するメリットはないと、現地工場閉鎖の検討が始まる。加えて日本市場のパイ拡大が望み薄となれば会社の基本方針は国際化の更なる深化である。それと並行するように、日本のデフレ進行の中で社内改革が始まった。年功序列の賃金体系を廃止し、年初に一人ひとりが業績目標を設定し会社に自己申告する。その成果に基づき賞与と次年度の昇給が決まる信賞必罰の給与体系の導入である。
こんな中でH部長との業績評価について個別面談が始まった。
「目標達成度で業績を評価する意味は理解するが、先般のCtn事件の解決をどう評価してくれるのか? 厳密に制度に従えば今後は自己申告しなかった仕事や難題には誰も手を出さず、同僚を助ける人もいなくなりますよねえ~」
と、角さん皮肉交じりに質問すれば、
「それは例外的な問題。今は制度導入が先決で徐々に改良を重ねることになろう」
との予想した説明が帰ってきた。それ以上は言及せず、後は会社の進む方向での雑談的な問答となった。
「国際化の意味は判るが、突き詰めると日本人の職場を削り外国人を雇用することに繋がる。そうなると日本人はどうしてメシを食って行くのですか?」
と問えば、
「国際化の中では日本人もアメリカ人もない。会社にとって何が一番有利かだけが、意思決定のキーワード」
との回答。なるほどとは思ったが、同時に――これは新資本主義だ!――と、角さんは心で叫んだ。かつて、資本家は労働者を酷使し利益を得たが、野麦峠や蟹工船で象徴されるように、それは労働搾取と非難された。しかし、今は他国で外国人を雇用して会社経営にあたる。一部の有能な者だけが本部の正社員として高給を享受し、その他大勢は職を失う。こうして得た利益は株主で分配する。会社のサバイバルと株主の利益だけが目的の会社経営ではないか! 就業は国民にとって必要最低限のボトムライン。不就業者が増えれば社会不安は一気に拡大する。角さんは永年海外で過ごして来たせいか、日本と日本民族の来し方行く末に関心が強い。
天津の製剤工場は中国最初のGMP工場(76話を参照)の栄誉をうけて稼動を始めた。しかし、中国国内の販売は意に反して伸び悩んでいる。ある日、T部長に呼ばれて
「天津武田の製品教育と拡張活動を支援して欲しい」
と新しい仕事を仰せつかった。これまで中国市場で得た販売のノウハウを子会社に生かせと言うわけである。
「定年まで残り1年となり、用意してくれた格好の花道かも知れない」
と考える。対象品目は香港時代に扱ったタケプロンで、製品知識は持っている。
「しかし、中国語の専門用語の勉強が必要だ。おまけに中国でもパワーポイント機でのプレゼンテーションが始まっている。そんな時代に手作りのOHPシートでの製品教育は見劣りするなぁ~」
と、うっとうしい気持ちが頭をもたげる。同じ頃、国際本部長が交代し、若返りと部内改革が加速する。日を経ずしてT部長は他の事業部に移り東京に転勤となった。定年を間近かに控えての故郷(ふるさと)人事である。
中国語での教育資料の作成を急いでいるある日、天津武田からの日本人出張者と本社の担当課長との会話が耳に入った。角さんの中国出張の旅費を本社側が負担するかそれとも中国側が引き受けるかとの相談である。互いに負担の回避を目論む様子を小耳に挟んでムッときた。儀礼的だけでも“三顧の礼”で支援を求めれば良いものを、僅かばかりの経費負担で押し問答をしている後輩二人の思慮の無さを腹立たしく感じた。
「こんな輩に使われたくない。今なら最後の早期退職優遇制度の申請に間に合う」
「ボーナス1回分を失うのは惜しいが、定年までの月給は補償されるので、一年間失業保険を受けて、その後は厚生年金を貰えば帳尻は大差なかろう」
などと考え始める。そうなると後輩たちの日々の言行が苦々しく、小事にこだわり結論が出ないアジア金融恐慌への対応会議が無意味に思えてくる。『東南アジア各国の医薬品登録制度』を調査する特命業務をちょうど終えたところである。製本し海外子会社や関係部門に配布を終えたのを機に退職願いを提出した。事前にワイフに相談したら
「ああそう。好きにしたら」
と簡単な一言が返ってきた。定年を9カ月後に控えた98年10月1日付けで、“定年扱いの早期退職優遇制度”の最終便に飛び乗った。突然で前日まで仕事をしていたので有給休暇を丸々残しての辞表提出であった。 (5月下旬号 完)
158)日本の宗教
58歳の誕生日が過ぎて定年退職後のことを考え始めた。
――今まで真面目に働いてきたのだから、贅沢をしなければ夫婦二人くらいは食っていけるだろう。しかし、日々どう過ごすか? テレビの相手だけではつまらないし・・・。中国へ行って日本語の先生でもするか――
近年、日本での生活が途絶えている身にはそれくらいのことしか思いつかない。そんなある日、通信教育の受講料の半分を会社が負担してくれると知って“日本語教師養成講座”を申し込んだ。四苦八苦しながら6カ月がやっと過ぎた頃、卒業論文が必要と知らされた。幾つかの課題の中から「日本語と英語の語彙」と「日本の宗教」の2題を選んだ。外国人と食事をする時などに「日本の宗教」は当たり障りのない格好の話題であった。
「多くの日本人は誕生後まもなく父母に抱かれて神社に参詣し、キリスト教会で夫婦の契りを結び、死後は子供たちの手でお寺に送られる。慶事には神社に参拝し、お墓は先祖を祀るためであって吉祥の場ではない。寺院に行くのは観光の時くらい。節操を欠き曖昧な宗教心である」
などと日本人の宗教心を揶揄してきた。しかし一方、駐在地の海外から日本を見ていると日本文化にそこはかとない魅力と愛着を感じる。特に根拠があるわけではないが、日本人の深層には縄文時代の宗教観が流れているのではないかと感じる。そうして書いた卒論の「序文と結び」をご披露する。今読めば訂正したい箇所もあるが、そのままを転書する。
* * * * * * * * * *
(はじめに)
日本人にとって正月の初詣とお盆のお墓参りは欠かせない行事である。この二つの祭事を中心に生活と季節感が循環している。初詣には神社に参拝し、お盆には先祖のお墓に参り“神仏”に祈願する。キリスト教でみられる神への懺悔と感謝とは異なり、自身や家族の念願成就や健康と幸福を祈願するのが一般的である。
古来、日本人は自然崇拝の多神教であった。飛鳥時代に仏教が伝来しその受け入れをめぐって政治的対立があったが崇仏派が勝利し、平安時代には最澄と空海が中国より仏教思想と経典を持ち帰り日本仏教の基礎を確立した。特に“真言密教”は長安で恵果が空海だけに直接伝授したので日本にのみ残った。鎌倉時代に至り新派仏教の誕生と禅宗の伝来により日本仏教が開花した。その間、極楽浄土願望や末法思想が広まった。戦国時代にはキリスト教が伝来したが、江戸時代には禁止令が出た。一方、古代神道は儒教や道教の影響を受けて日本神道へと形を変えた。特に、死者の霊魂を恐れる怨霊思想や神仏習合思想は日本の宗教を特徴的なものとした。中世の神道優位論は幕末の討幕運動の精神的支柱となった。応仁の乱は京都を灰塵にしたが、明治維新の廃仏毀釈による廃寺令は日本全国の寺院を破壊した。さらに、太平洋戦争中は神風思想が広まった。戦後“信仰の自由”が憲法で保障されたことが、かえって宗教心の衰退を招いたようである。これらの点を中心に日本語教師に求められる基礎知識として日本の宗教を概説する。
(本論) 省 略
(結び)
1990年文化庁発行の宗教年鑑によれば日本人は43%が仏教を、51%が神道を、1%がキリスト教を、5%が其の他の宗教を信じている。延べ合計2億1,100万人であり、ほぼ1人が2種類の宗教を信じている計算になる。
古来、日本人は山川岩石草木、鳥獣虫魚、地震雷火山と、あらゆる自然や現象に宇宙の不思議な生命力が宿っていると信じ、それを霊力、霊魂、神として畏敬してきた。この自然崇拝、怨霊忌避、輪廻思想、先祖崇拝は日本人の信仰の源泉である。日本人の精神生活を見るとき、儒教や仏教は表層部分を形成し、深層部分に原始神道があった。神と仏、神道と仏教をうまく分業させ、また共存を計ってきた。これは精神の二重構造と言うより、むしろ深い宗教心と英知から生れた神仏の融合であろう。四季を通じて行われる神事や仏事はこの中から形成された祭事であり、日常の営みであり、農業生産への知恵と祈願であったと考えられる。
宗教が為政者の利用、迎合、弾圧の対象とされつつも、貴族から武士へそして大衆へと浸透し拡散していった。島国ゆえに数少ない外部からの伝来の機会を真摯に受け止め、独自の高い文化と深い宗教心を醸成した。仏典はサンスクリット語が漢訳されたもので、難解なゆえにその真理や教義がなおざりとなり、意味不明のまま“念仏を唱える”ように簡略化・形骸化された。キリスト教のバイブルと違い仏教の経典を読んで理解できる人は殆どいない点は残念と言わねばならない。
しかしながら、日本人は決してご都合主義でも宗教心に乏しい民族でもない。不幸にして戦後の占領者により、古来伝えられてきた神事や仏事あるいは文化までもが迷信と一蹴され、敗戦の失意と自信喪失から、外来者の短絡的見解を鵜呑みにした結果、現在の無宗教的混迷を招いたと考えられる。精神のバックボーンを失い、倫理や規律が乱れ、歪んだ欧米指向や科学意識に陥っている現在の日本の社会を見る時、今一度、先人の英知を思い起こすことが求められる。
* * * * * * * * * *
最近始めた山歩きの途中、至る所で廃寺跡に出くわす。そこには必ずと言っていいほどに「明治維新の廃寺令で破壊された」との説明札が立っている。世界遺産を最も破壊したのは中南米でのスペインであり、日本遺産を破壊した最大の元凶は廃仏毀釈かも知れないと立て札を前にして心を痛めている。 (5月中旬号 完)
157)青島・周口店・盧溝橋への旅
帰国して休むまもなく上海四薬工廠が主催するパンスポリンのシンポジウム旅行の講師に招かれた。同社の薬剤師と営業部長と日本語通訳を含めた一行4人である。「上海四薬」は元々市営の製薬会社で販売には長けていないので、シンポジウムの仕方やパンスポリンの説明方法を習得する目的もある。「青島(チンダオ)・北京(ベイジン)・長春(ツァンツン)・上海」の4都市で実施する予定だが、北京郊外の盧溝橋と周口店を見学する余禄がついた。
山東省の「青島」は膠州(こうしゅう)湾に面したヨーロッパの香り漂うノスタルジックな坂道の町である。1897年にドイツ人宣教師が殺されたのを理由にドイツ艦隊が上海から出動し膠州湾99年間の租借権を奪取する。しかし、1914年の第一次世界大戦を機に日本が15年~22年と38年~45年の敗戦まで2度にわたり領有する。ドイツの占領はわずか17年間に過ぎないが、この間に多くの西欧式古典建築とドイツ風味の“青島(チンダオ)ビール”を残した。滞在は1泊2日で観光は短時間海岸とホテルの周りを散策したに過ぎない。ヒマラヤ杉の奥にひっそりたたずむ赤い屋根の洋館を見ていると中国にいることを忘れる。中山路の坂道を下ると海上に突き出た前海桟橋に繋がり、500mほど先に回蘭閣という八角亭がある。前方に青島湾の大海原を望み、振り向くと赤瓦の洋館が美しい。白い砂浜は中国を代表するリゾート地である。“赤い瓦、緑の木、群青の海、紺碧の空、琥珀のビール”という青島市観光協会が欲しがるようなキャッチコピーを思いついた。
タクシーをチャーターして4人で北京の西郊「盧溝橋」を訪れた。永定河(えいていが)にかかる全長235mの大理石でできた眼鏡橋(めがねばし)スタイル。橋の欄干柱には485の石像獅子が付いている。父と叔父に連れられ大都(北京)を訪れ、元朝皇帝フビライ・ハンに16年間仕えたマルコ・ポーロが帰国後に『東方見聞録』の中で、この橋を世界一美しいと称賛した。西洋では「マルコポーロ・ブリッジ」とよぶそうである。橋のたもとには“盧溝暁月”の碑がある。しかし、その美しさとは裏腹に盧溝橋は悲劇の舞台となった。1937年7月7日夜、演習中に銃撃を受けたとして翌朝、日本軍が中国軍を攻撃した。日中戦争から太平洋戦争へと続く8年戦争の勃発である。
盧溝橋からさらに西南30キロの「周口店」を訪れた。龍骨山の洞窟から発見された50万年前の“北京原人”の故郷である。タクシーを下りて丘陵の石段を登る。そこから粗末な階段を下りると窪地があり、地表が剥き出しの断崖の脇に目盛り棒が立てられ各地層の年代を示している。窪地の左手を少し登った洞窟はひんやりと心地よく、一気に太古の世界に引き込まれる。
かつて村民は生業の石灰採掘中に動物の化石を沢山発見した。この化石は漢方薬の龍骨として重宝されるところから、一帯を“龍骨山”と呼んだ。噂を聞いたスエーデンの地質学者が発掘した多数の動物化石の中にヒトの臼歯化石を発見した。周口店が世界に知られるきっかけとなった1926年のことである。翌年にはカナダの人類学者が再びヒトの臼歯を発見してシナントロプス・ペキネンシス(和名は北京原人、中名は北京猿人)と名付けた。そして29年、若き中国の考古学者、裴文中がほぼ完全な形の頭蓋骨を発見した。
これまでに発見されたほぼ完全な頭蓋骨6個、頭蓋骨の破片12個、下顎、歯、大腿骨などは約40体分の老若男女と推定されている。約50万年前の直立猿人に属し、現代人に似ているが脳頭蓋が低く脳容積は現代人の80%で「サルからヒトにいたる過程」に位置するがより現代人に近いことが明らかになった。彼らは石器と火を利用し火種を保存したと推定される。採集を主に狩猟を従にした生活であったようである。
発掘された6個の頭蓋骨はアメリカ管轄下の協和医学院に保存されていたが、日米関係の悪化を憂慮してアメリカに輸送することにした。しかし、41年12月8日開戦の混乱で5個が行方不明となった。日米中のいずれの手によるのか、故意か偶発か、今もって謎のままである。
“猿人洞”を登った山頂近くの“山頂洞窟”から、更にその後に新たに頭蓋骨が発見され“山頂洞人”と名付けられた。山頂洞人が生息したのは、今から2万7000年前で、現代人と同じ頭蓋容積をもち原始モンゴロイドの特徴をそなえ後期旧石器時代人である。日本の縄文人に繋がる人々の可能性があると考えられている。小山を登り“山頂洞窟”を見学した。視界は広がり直ぐ近くの川が美しく弧を描いている。西安の半坡(はんぽ)遺跡でも、寧波の河母渡(かぼと)遺跡でも付近には川が流れ小沼があった。生活の場には森と水辺が欠かせないのであろうと思った。長春と上海でシンポジウムを開催して10日間のキャラバンを無事終えたのは香港の中国返還を一週間後に控えた1997年の6月下旬であった。
* * * * * * *
そして2006年、グループ・ツアーで妻と一緒に再訪したときには「北京猿人展覧館」が新設され、先史時代の遺品や模型が展示されていた。そこで入手した中文の雑誌『北京人04 2005』から一部の情報を参考にして記述した。 (5月上旬号 完)
参考資料:『北京人、04、2005』(中文)
156)客家の故郷梅州への旅
上海の李さんから、是非もう2回だけシンポジウム旅行を支援して欲しいとの依頼が大阪へ届いた。一箇所は広東省で、もう一箇所は天山山脈の北麓シルクロードのオアシス都市ウルムチである。出張すれば確実に実績が現れるのだが、実情に疎い本社の人たちが
「そんな砂漠の果てに高貴薬の市場などあるはずはない」
と白眼視するのは目に見えている。後ろ髪を引かれる思いでウルムチは断った。今から思えば両方とも引き受ければ良かったと悔やまれる。
広東省の「仏山(フォーサン)・肇慶(チーチン)・東莞(トンカン)・仙尾(サンウェイ)・梅州(メイズォウ)」は客家(ハッカ)の多い地域である。香港からマカオ・珠海を経由して仏山に入る。仏山と肇慶(ちょうけい)はマカオの北にあり珠江西岸の都市。肇慶は “端渓すずり”で知られた歴史ある町で、イタリアの宣教師マテオ・リッチが16世紀半ばに滞在し布教活動を行った。また鑑真を日本へ招くべく尽力した栄叡が志半ばで没した土地でもある。東莞は珠江東岸の深圳に隣接して中国の電子工業を支える工業都市である(第111話)。中国大陸東南端の田舎町に過ぎなかった深圳と東莞が、今は新生中国の経済発展を牽引しGDPで国内トップクラスに躍進している。
海岸線に沿って車を走らせ仙尾に到着する。痩せた半農半漁の客家の村であったが、最近は発展著しい広州市の影響を享受している。小規模の説明会を終えた翌朝、医師の勧めで媽祖廟を参拝した。鄙にはまれな立派な廟に眼を見張った。「媽祖」は人々を苦しみから救い海難から守る中国東南沿岸の海神である。十世紀頃に海で悪天候に遭った父と兄たちを助けるために自らの命を犠牲にした福建省の娘の伝説が神格化したもので「天后」ともよばれる。客家の厚い信仰心と媽祖信仰が連綿と伝わっている。
最後の目的地梅州に向う。“華僑客家の故郷”として知られる山中の旧い町であるが、近年は故郷への華僑送金が流れ込み目覚しい発展ぶりときく。大家族が共同生活をする集合住宅“客家土楼”は客家文化の特徴で、方形に囲む“囲屋(ウェイウー)”は古い時代の廟堂の形式を残していると言われる。福建省には円形の“円楼(ユェンロウ)”もある。小さなセダンに李さん、MRと角さん、それに運転手の4人が乗り、午後3時過ぎに仙尾を出発した。何時しか片側一車線の地肌道となる。時折、トラックとすれ違うだけで乗用車には出合わない。運転手にとっても初めて走る道で、大丈夫かと不安が脳裏を横切る。山間の登坂は蛇行しながら少しずつ勾配を強める。薄暮は何時しか暗闇の世界に変わりヘッドライトだけが頼り。高校時代に見た映画『恐怖の報酬』を思い出す。先日来の雨で道はぬかるみ、表土が削り取られ岩が剥き出し、加えて崖から落下したのか岩石も転がるデコボコ道。最早走れる状態ではなく上下に揺れ左右に走路を探しながら、一歩また一歩の超低速走行となる。生涯で初めて経験する悪路でとてもセダンが走れる道ではない。――それで乗用車と出会わなかったのか――と気づいた時はすでに遅い。
上下の揺れで車底部を強打したのか突然車がエンコして止まった。4人が車外に飛び出してボンネットを開け懐中電灯で覗き込む。冷却タンクの蓋を外すと水蒸気が立ち昇った。エンジンが完全にオーバーヒートしている。峠道の頂上付近なのか比較的平らな直線道路である。はるか下方に一軒家の燈火が見える。運転手が懐中電灯を頼りに水を貰いに小道を下りていった。じたばたしても仕方ないと天を仰ぐと、久しぶりに見る星空である。ホタルなのか数個の光がゆっくりと浮遊しているが、点滅はしない。静寂のなかで妙に落ち着いた気持ちになる。時折、対向車線をトラックが驀進して通り過ぎてゆく。下界へ荷物を運ぶ深夜便なのであろう。後方からの車はさらに少ない。
しばらくして汲んできたバケツの水を入れるがエンジンは動かない。万事窮したと悟る。時計は既に午前0時をまわっている。明日は昼食シンポジウムが控えている。鳩首協議の結果、車と運転手を残して3人がトラックに乗せてもらうことにした。しかし、後方からは車がなかなか来ない。一台目と二台目はこちらの合図を無視して通り過ぎていった。彼らから見れば我々は強盗追剥ぎの類であろう。必死の合図が通じたのか、三台目のトラックが事情を聴いてくれた。トラックの荷台で旅行カバンを枕にして仰向になると星空が美しい。
事情を知った運転手が親切にも近道を採ってくれたが、これが仇となった。村落を通過する途中の泥濘(ぬかるみ)で車輪がスリップし動かなくなってしまった。これまた『恐怖の報酬』の名場面と同じである。エンジンを吹かす音を聞きつけて村人が三々五々に集まってくる。運転手と村長の間で相談が始まる。手助け代の交渉であろう。親切心はあるが無料とはいかない。一方、依頼する側も情けにすがるだけではない、中国式交渉である。話がまとまったのか綱を縛りつけ引っ張り、押したりと村人総出で力を貸してくれた。その間、角さんは荷台で息を潜めている。日本人が乗っていると判れば礼金は2倍では済まない。ようやく泥濘んだ窪地を脱出して、車は市内へ向けて再び走り始める。そしていつしか眠りに落ちる。何時でも何処でも即座に眠れるのが角さんの健康の源である。
「到了、到了!(ダオラ、着いたぞぉ!)」の呼び声で目覚めると高地の朝は涼しい。小さなホテルでチェックインを終えてシャワーを浴びる。心配りの暖かい汁ソバでやっと人心地がつく。ベッドで手足を伸ばししばし休息してからシンポジウムへ向った。市内には建築途中で放置されたビルが目立つ。聞けば資材の高騰や資金繰りの悪化などで、アジア華僑からの送金が途絶えた結果とのこと。仕事を終えてその日の夕刻、飛行機で広州に向った。事故に遭ったせいで長年楽しみにしていた客家の故郷梅州の市内観光はできず、“客家土楼の囲屋(ウェイウー)”も見ることも出来なかったが、崖からの落石に遭わなかっただけでも命拾いしたと今は振返っている。 (4月下旬号 完)
155)老いた浦島太郎のトラブルシューター
帰国の辞令は1996年7月1日付けであった。後任の浜崎君が台湾から転任して来た。彼とはフィリッピンで業務を引継いだ間柄である。2週間の引継ぎ業務を終えて8月19日に啓徳(カイタック)空港から関西空港に向った。天安門事件の9カ月後、経済がどん底の時に就任し、中国返還を10カ月後に控えて英領香港が最後の輝きを放つ時の帰国となった。思えば、着任直後に景気浮揚策としてランタオ島の沖合に新国際空港の建設が立案され、92年に英国保守党の実力者クリス・パッテンが最後の総督として就任した。帰国後に英国首相への就任がほぼ約束されていたが、本国での政権交代により保守党が野党に転落し、その夢はついえた。中国の改革開放政策や実力者鄧小平の南巡講話などを挟み、新国際空港建設は香港返還交渉と同時並行的に進行し、返還の翌年98年7月に完成した。返還前の完成にするか返還後とするかは最終交渉の焦点となった。中国としては建設国の名誉を英国に譲りたくないし、膨大な建設費も自分達で使いたいのが本音であろう。正に政治交渉である、と新聞を読みながら思った。
かつて、駐在員夫人としてお洒落な出で立ちで台北の松山空港に降り立った妻も今はどっしりと貫禄がつき、台北双連幼稚園の年少組に入園した娘は知らぬ間に適齢期を迎えている。そして、研太郎の机の上には大学四年時の写真と止まった時計だけが残っている。振り返って見ると、今回の香港駐在は6年半、先の台湾とフィリッピンの12年間を加えると18年半の海外駐在生活で、その内単身赴任が12年間。その前の長期出張の正味1年半を加えると都合20年の駐在で会社勤務の半分以上を海外で過ごしたことになる。頂戴した大阪での職責は医薬国際本部国際営業部調査役、
――3つの海外赤字子会社を立て直し、台湾と香港時代に高利益を本社にもたらした割には評価が低いが、57才の役職満期ならば仕方ないか。五体満足で帰国できただけで良しとするか――と、自分を納得させた。
「あっしにゃ~かかわりのねぇこって」
とテレビで木枯紋次郎がキザなセリフを吐いていた。
――厭な言葉が流行るなあ~――と、思いながら日本を後にした。21年経って見る日本はバブルの後遺症にあえぎ、大人は自信を失い若者は節度を無くし、助け合う余裕などさらになく、互いに無関心を装うか、口先だけの愛想会話が蔓延している。職場の顔ぶれも環境もすっかり変わり、国際本部長を除き自分は最長老格。文字通り老いた浦島太郎である。真っ先に出口さんの席に帰国の挨拶と長年面倒をみて頂いたお礼にゆく。駐在を始めた頃には、月刊雑誌『幼稚園』と正月には“おもち”を送って下さった。留守中の預貯金の管理から家族の面倒まで公私ともに大変お世話になった。いくら感謝してもし過ぎることはない。美人の誉れ高い彼女も既に目じりに小じわが目立つお歳になった。
帰国して食べたラーメンが塩辛いのには閉口し「ラーメンのスープを飲み干す人に銭を貸すな」と云う台湾の俗諺を思い出した。高血圧を患い脳卒中で倒れて回収不能となるからとの意味である。中国のスープは香辛料のコクはあるが、決して日本のスープほど塩味はない。長年の海外生活で味覚が中国人仕様に変質したのかと思う。その意味で自分が旨いと思う中華料理を皆さんにお勧めするのに躊躇する。
出社したその日に若い女性職員が
「これで仕事をして下さい。社内連絡などはこれを見て下さい」
と言って机の上にパソコンをドーンと置いていった。10年前に上司が予想したようにパソコンで仕事をする時代が到来していた。若い女性の親切にすがりながらパソコン操作を習い始める。御堂筋に面した新築ビルのオフィスは今風に整理されファイル類はロッカーの中に仕舞われ所在さえ分らない。
――仕事の仕方や考え方が大雑把になったなぁ――と、我ながらあきれる。
「角君のはカンピューターだ」
駐在中のある時上司に揶揄されたが、高齢化のせいばかりではなく、長年の海外生活が良くも悪くも大人(たいじん)に変えたのかも知れない。
初仕事はソウル出張であった。旧来と新規の提携2社の拡張業務の管理を仰せつかった。両社の活動状況や将来性の比較検討も暗に求められている。こうしてソウルへの出張を繰り返すことになった。そんなある日、とんでもないニュースが天津武田の北京本社から飛び込んだ。製品Ctlの更新登録証に偽物の嫌疑がかかっているとのこと。長年通例としてきた輸入陸揚げ地を広東省の珠海港から海南島の海口港へ変更したところ、初めてのことで税関員が更新登録証のコピーを丹念に読んでいて記載内容の不備を発見した、という報告であったかと記憶する。メーカーのS社が肝を冷やしたのは言うまでも無い。輸出元を代表して角さんが日本側の問題解決担当者(トラブルシューター)に指名され、窓際どころでなくなった。
各国における製品の販売許可証は社運に関わる重要案件である。メーカーは規定に従い数年毎に許可証の更新を当該国の薬務局に申請するのであるが、発展途上国では学術的には勿論のこと経済的あるいは政治的見地からも追加資料が求められ、更新の是非が検討される。類似品の有無とその価格、特に国内生産の代替品があれば、その育成を理由に輸入品の登録更新に難癖がつく。第二、第三報と毎日のように続報が入り状況が次第に判明してゆく。トラブルの詳しい原因は忘れたが、登録更新の申請を受付けた当局の事務官が勝手に役所の印鑑を捺印して更新許可証を発行したらしいと推測された。申請書を抽斗(ひきだし)に仕舞いこんだまま忘れて期限が到来した為か、更新可否の検討が面倒と考えた為か、或いは手数料の着服が目的か、他社製品でも同様な事故が起っているのかどうか、などについての説明は一切無い。会社側も役所側も肝心の担当者が既に退職しているので、どちらが主犯かも判らない、といった話であったかと記憶する。
「手元の更新許可証は偽物で、正式な登録証の有効期限は切れていることが明らかな以上、輸入製品の販売を許すことはできない」
衛生署薬務局の厳しい見解である。しかし、偽更新許可証の疑いがあっても役所の印鑑が捺印されているのだから、画一的に冷たい判断はできない、といった情報が日々の電話やファックスで伝えられる。その間、珠海にある総輸入元の会社に助けを求めると
「こればかりは如何ともし難い」
との回答となる。倉庫保管料はタクシーメーターの如く毎日加算され、それに反比例して市場の製品が減少してゆく。最悪の場合には許可証が無効となろう。珠海と北京に出張して情報収集と対策協議を重ねる。3ヶ月ほどが過ぎ、やっと薬務局幹部とのアポイントが得られ角さんが再び北京に飛んだ。
「Ctlは後発品である」と会談中に係官がふと漏らした.。――これを機会に登録を削除したい――との意味である。しかし、これを聞いて
――解決の糸口が見つかった――と、角さんは内心小躍りした。
「白内障の研究者が開発した二つの類似物質の一つの販売権をS製薬が買取りCtlを創薬し発売した。残った一方を後年別の会社が買い取った。だからCtlこそが兄貴分であり、先発品である」
40数年前の入社時に高下課長から聞いた話を思い出したからである。 大阪から一緒に出張して来たS製薬の高下さんは薫陶を頂いた課長のご子息である。
――うまく行くとご恩返しができるかも知れない。これも何かの縁であろう――と思いながら、このCtlの開発経緯を角さんが必死に中国語で訴える。
「初めて聴いた誕生秘話である。もしそれが事実ならば許可証復活の可能性がある。ついてはCtlのシンポジウムを開催し、多くの眼科専門医に製品特性を伝えるように」
興奮した面持ちで係官が問題解決の方法を提示してくれた。更新許可証の真偽や原因を詮議する正面衝突を避けて、互いの面子を立てたのである。中国ビジネスで大切な阿吽(あうん)の呼吸である。こうして北京でシンポジウムを開催し1年近い苦難の仕事が落着した。
前後して今度は上海でもPnsの登録更新問題が発生した。
「中国製のセファロスポリン系注射剤が多数市場に出回り、最早高価な輸入品に頼る必要がないので更新を認めない」
と、露骨な国内製品保護の方針が示された。Pnsの優位性を示す技術書類を携えて上海四薬工廠を訪問し、当局への技術的訴求点を説明した。3ヶ月後に許可証の更新に成功したとの連絡があった。恐らくは彼ら流の政治折衝をしたのであろう。CtlとPnsの登録更新の問題は、中国経済の大発展の影で忘れていたが、
――この国はやはり共産主義の発展途上国である――
と再認識するきっかけとなった。会社にとっては不運なトラブルであったが、窓際に座るはずの角さんが生き生きと仕事に励み、最後の輝きを放つ日々となった。 (4月中旬号 完)
154)長沙・長春・内モンゴルへ
杭州から香港に帰った翌朝、本社からの電話で任期満了を知らされた。1996年7月1日付けで発令とのこと。
「既に次のシンポジウム旅行が決まっているので、帰国は8月中旬にさせて欲しい」
と申し入れて、「斉南~北京~長春~内モンゴル」9日間の旅に出発することにした。
幸いにも仕事は7月8日の月曜日から。土・日曜日を利用して「長沙」に立ち寄ることにした。私用なので追加の航空費とホテル代は勿論自腹である。娘奈生子が誕生した72年に発掘された馬王堆漢墓遺跡の貴婦人に会うためで、20年来の願いである。「屍体の保存状態は信じられないほど良好で、皮膚は活けるが如く押さえると弾力で復元する」と新聞に報道されていた。長沙(チャンシャー)は湖南省の省都で洞庭湖に近く、その位置から“中国のヘソ”といわれる。因みに春秋時代には楚とよばれ華南文明の中心地としてその歴史は古い。
空港でタクシーを拾い湖南省博物館を訪れた。大きな部屋の真ん中にあるガラスケースから地下を見下ろすと、2200年前の女性がこちらを向いて仰臥している。胴体と手足の大部分は着衣であるが、手足の先と肩から上は露出し頭髪は黒々としている。薄暗く多少距離があって見づらいので、カメラのズームレンズを使って注意深く観察する。背は低く小太り福そうな耳で鼻は低い。片目と口が開き上の歯と舌がのぞいている。
――死後に顎の筋肉が緩んで口が開き、舌が出たのであろう。
――生前に嘘をつくと死後閻魔大王に舌を抜かれるというが、古人は死体の観察からそのような教訓話を創り出したに相違ない。
と思いつき大発見をした気分になった。
「被葬者は紀元前194年の前漢時代、長沙の宰相・利蒼の妻で遺体の身長は1.5m、体重は34kg、皮膚は弾力を保ち、外形と内臓はともに完全で血管や骨などの組織もはっきりと残っている。年齢は50歳前後、血液型はA型、脂肪太りで胆石症、出産経験があり、寄生虫に侵され、胃や腸に食後のマクワ瓜の種を発見した」
説明文の記述である。よくもここまで徹底的に検証したと感服するが、安眠中に起こされて開腹手術までされた本人には迷惑千万な話である。
展示された多くの副葬品の中で「彩絵帛図」が目を惹いた。帛(はく)とは絹織物の総称である。その図柄は、上部の天上世界には太陽・月・鳥・ヒキガエル・女媧(じょか、古代中国の三皇伝説の一人、46話参照)が、中央部の現世には被葬者や下女が、下部の地底世界には亀などが描かれている。素人目にも絢爛(けんらん)さだけでなく、当時の神秘思想や世界観を知る上で学問的価値が高かろうと思った。序でながら、最近読んだ『日本人になった祖先たち』によれば、利蒼夫人のミイラにはDNAが残っていて、古代の人体資料からDNAが採取できることを世界で初めて報告したのは中国だそうである。
斉南で二回目のシンポジウムを開催し北京経由で長春へ飛んだ。地方都市同士の直行便は少なく一旦ハブ空港に立ち寄るので、余計に時間がかかる。「長春」は吉林省の省都で、かつては“満州国”の国都“新京”であった。今日、満州は“東北”または遼寧、吉林、黒竜江の三省があるので “東三省”と呼ばれる。 女真族が文殊菩薩の信仰者であったところからは彼らをモンジュとかマンジュと呼ぶようになったが、“満州”は本来民族名であって地名ではない。冬は零下30度にもなる厳寒の地であるが、春から夏にかけて一斉に花が咲き乱れる“塞外の春城”の名に相応しい落ち着いた街である。
早朝、スピーカーから流れる音楽で眼を覚まし窓外を見下ろすと広場で大勢の男女が輪を作りフォークダンスに興じている。黙々と太極拳を楽しむ人たちもいる。これまで同じような光景を見てきたが、輪の動きが整然としている。文教都市の称号を思い出し、かつての日本精神が多少とも息づいているのかと身びいきを感じた。仕事を終えて吉林省重点文物保護単位(博物館)を訪れた。“偽満州国国務院旧跡”と併記されている。清朝最後の皇帝、愛新覚羅溥儀が満州国皇帝として執務した所で、北京の紫禁城とは比較にならないほど小規模で唖然とした。これでは富豪の邸宅よりも小さい。60余年前の生活の場で、当時の写真が飾られている。正に大日本帝国“一炊の夢”の跡である。
武田薬品に入社してしばらく経ったある日、父から
「興三なあーお前、外国部に入ったんなら、いつか中国へ行けるかもしれんなあー。哲ちゃんが戦死した場所へ行ってやってくれんかなあー」
と言って“索倫駅”と書いた小さなメモ紙を渡された。 30余年待ってやっと内モンゴルの索倫(スーロン)に行く機会がやって来た。
「昭和20年8月8日ソ連は日本との中立条約を一方的に破棄し開戦を布告した。駐屯地から少し離れた国境警備にあたるため、長兄哲夫ら数人の兵卒は無蓋貨車に飛び乗った。しかし、索倫駅の近くでソ連機が急降下して機銃掃射を浴びせた。その一発が哲夫の頭部を貫通した。終戦をわずか3日後に控えた8月12日の出来事であった」
2年ほど前のこの話をパートナーの李社長が覚えていて、シンポジウムの機会に特別にアレンジしてくれたようだ。長春駅から列車で少し南下し四平駅で夜行列車に乗り換えて北北西に向う。中国では “軟座”はソフトな座席の一等車で、“硬座”は板張り座席の二等車である。寝台列車は軟座であるが蒸し暑く寝苦しいことこの上ない。それでも満州の大平原を広軌で走るリズミカルなレール音に引き込まれいつしか眠りに落ちた。
明け方、白城駅で乗り換えたローカル線は座席指定のない硬座。汗や埃、人いきれ、荷物臭が充満し、会話と列車音が騒がしい。外国人には未開放の地域で見つかれば強制下車させられるので「あまり話をしないように」と口止めされている。大興安嶺山脈の山裾が列車に迫ったり、馬や牛が放牧される草原の彼方に離れて行ったりしながら、広軌道の列車は快走する。ウランホト駅を過ぎて索倫駅に降り立つ。
――よくもこんな僻地にまで日本軍は来たなあー
片田舎のフォームに降り立ったときの印象である。材木を積んだ貨車が沢山停車し、人夫たちが働いている。駅舎の向こうに小さな民家が見える。戦後まもなく戦友がスミ薬店を訪ね「索倫駅の近くに埋葬した」と教えてくれた。改札口を出て近くを散策したかったが、列車は20分停車後に折り返すとのこと。やむなく香港から持って来た線香と日本酒を線路脇に手向け父母や親族の気持ちを込めて祈った。遺髪の代わりにとの思いを込めて傍らの小石3個を拾ってポケットに納めた。
帰路ウランホト駅で下車するとワゴン車が出迎えてくれた。李社長の友人であろう。広い石畳、白い壁、青くて丸い屋根をもつイスラム寺院を訪れた。靴を脱ぎ屋内に入るが、偶像崇拝を禁じるイスラム教では像や絵画は無く殺風景である。参観を終えて暫らく走行すると見渡す限り内モンゴルの大草原が広がる。紺碧の空と緑の草原が創る地平線はどこまでも遠く、点在する数個の白いパオ(移動式大テント)の近くで羊と牛馬が草を食んでいる。村の入口には簡素な鳥居型の門があり、その手前で強い酒を一杯出された。半分飲んで残りを天と地に撒いたかと記憶する。歓迎式かと思ったが、厳密には悪霊を域内に入れないための儀式とのことであった。
パオの中は絨毯が敷かれ思ったより広く天窓が開いていて結構明るい。家具もありジンギスカンの大きな肖像画を祀り、日本的には神棚か仏壇の印象である。部屋の真ん中に丸テーブルがあり数皿のご馳走が並んでいる。大きな碗になみなみと注いだ馬乳茶をご馳走になった。濃厚な味で美味しかったが茶葉の悲劇を思い出した。モンゴル人の食事は羊肉と馬乳が基本で野菜をほとんど摂らないために壊血病を起こす。これを防ぐのに茶葉からビタミンCを摂る。レンガ状に圧縮し固形化した磚茶(せんちゃ)をカツオ節のように削った粉状葉を乳に混ぜて飲むのだが、20世紀初頭に漢人がモンゴルにやって来て遊牧生活に必須の磚茶を高価で売りつけた。このため遊牧民たちは生活の糧である羊を止むを得ず次々と手放し次第に貧窮していったそうである。
パオ村を辞しワゴン車はしばらく走って停まった。そこはコンクリートの割れ目から雑草が繁る朽ち果てた広場跡であった。
「戦時中に、日本軍が建設した飛行場の跡です」
案内人の説明に 、長兄哲夫はそこに駐屯していたのかも知れないと思った。太陽はすでに西に傾き満州帝國夢の跡は真っ赤な夕日に染まっていた。
参考資料:『中国歴史の旅(上)』 北京から西域へ 陳瞬人著 集英社文庫
『日本人になった祖先たち』 篠田謙一著 NHKブックス
153)思い出の人、思いだす出来事
香港に赴任して間もない頃、海外駐在経験と薬剤師を買われて、香港日本人商工会議所の化学品部会で「駐在員の健康管理」について講演するように頼まれた。内容は大した話ではない。
――<「暑さで発汗が激しいので水分とビタミンB1・Cの補給を心がける。Vit.B1はアリナミン、Vit.Cはハイシーが良い(と自社品の宣伝も抜かりない)。幾ら疲れても就寝前に足を洗うと熟睡できる。ヒトの“三大本能” は節約しないのが望ましい。食欲と睡眠欲、それに(小声で)できれば性欲も」と言ったところで拍手がおこる。
「“一人駐在は寂しい、二人駐在は部下に歩が無い、三人駐在はややこしい”と言われるのが海外駐在。大手商社のように駐在員が数人となれば上下関係が厳しく、私生活や奥方や子供の序列もそれに従い、奥様の服装まで干渉される」と言ったところで今度は爆笑 >――
それを機に部会長関氏の私的グループ“うわばみ会”に誘われた。
―― 下戸の自分が“うわばみ会”とは片腹痛い! ――
と思いつつも仲間となった。実家は新橋の料亭とかで、粋を絵に描いたような男である。寂しがり屋なのか、上等の酒が入ったとか面白いビデオを入手したなどの、たわいもない理由で呼びだされて一緒に飲んだ。丁度その頃、湾岸戦争が勃発し原油価格が高騰した。翌月の例会までの最高価格の予想を競った。1バレル20-25ドルの投票価格であったかと記憶する。ところが、昨年7月には147ドルを記録した、正に昔日の感ひとしおである。
94年頃であったろうか、この“うわばみ会”に一人の見慣れぬ男が商社勤務のメンバーに伴われ現れた。どこかで馴染みの顔と感じたが、果たせるかなベトナム戦争の南部の英雄グエン・カオキである。亡命中の米国から密かに香港に入り、ベトナムへの帰国を準備しているとのことであった。それから暫らくして、米国とベトナムの国交回復が報道された。
ゴルフ仲間も沢山出来た。ヤオハンの駐在員の一人T氏とも親しくなった。子供の頃に母の口から度々聞いた「生長の家」の大幹部の子息であった。母の信心や思い出話などをプレーしながら語りあった。その縁もあってヤオハンの和田和夫会長の講演会に招かれた。香港に居を移し香港とマカオに大ショッピングモールを建設した氏の絶頂期である。
「活動の拠点を日本から香港に移したとき、歓迎の意を込めてxxx氏が由緒ある豪邸を格安で譲ってくれた。香港人は損得よりも人間関係を重視する。上海や北京にも大きな百貨店を建設中である。大陸は物流が未発達なので是非整備したい」
と将来の夢を熱く語られた。そして
「先日、中国共産党の某幹部と会談したさい“そんなに次々と中国に投資して回収できなくなったらどうするのか?”と尋ねられたので、“その時にはお世話になった中国に返礼の寄付をしたと思えばそれで良い”と応えた」
と得意満面に語った。それを聴いて、
―― それはまずい! 本心ではなかろうが、“そうなったら裁判で争ってでも取り返す”と毅然としたところを示しておかないと、中国人は身勝手に有利な解釈をするから危険である。第一、宗教心と企業活動を一緒にしている ――
と危惧を感じた。当時、香港のヤオハン百貨店はそれなりに繁盛していたが、珠海出張の帰りに立ち寄るマカオ店は何時も閑古鳥が鳴いていた。果たせるかな、それから年を経ずして心配が現実のものになった。和田氏の先見性と方向性は正しかったが、将来性を期待する余り先を急ぎ過ぎたようである。夢が実現するには時間がかかる。先行投資に利益回収が追いつかなかったのであろう。善良な方だけにお気の毒なことであった。
尊敬する陳舜臣氏の講演会を聴く機会もあった。氏が脳梗塞から回復し活動を再開した頃である。再起を心から祝福した。翌日であったか角さんが来客を空港に見送りに行ったところ、氏はお付きが搭乗手続きをする横で待っていた。チェックイン・カウンターはファーストクラスとビジネスクラスが一緒である。搭乗手続の合間にサインを貰うチャンスがあったのに、どういう訳か逡巡してしまった。千載一遇のチャンスを逃したと今でも悔やまれる。「他人に迷惑をかけない範囲で何でもしよう」とミーハーを任じる昨今ならば、きっとサインをおねだりしたであろう。それにしても逃がした魚はいつも大きい。
高校と会社で同期のK君がご夫婦で観光に来て、夕食にお誘いした時、昼間にスリに遭ったと告げられた。
「ペニンシュラ・ホテル近くの交差点で待っていて信号が青に変わったので一歩を踏み出した時にオートバイが急に左折して来て、前の人と後ろの人のサンドイッチになった。その瞬間にズボンの後ろポケットをやられたらしい」
との説明である。数年前に台湾で初めて聞き、香港でも再三耳にしたのと同じ手口である。幸いにパスポートと小銭は残ったが、予定の買物は全て諦めることにしたそうでお気の毒なことであった。
自動車窃盗の噂もしばしば耳にした。当初はトヨタのクラウン・デラックスが被害に遭い、次がロイアル・サルーン、その後はベンツへと対象が次第にエスカレートしていった。これも台湾で聞いた話と同様で、高価で売れ筋の車種が狙らわれるようである。海上警備艇より高速のフェリーに積み込んで広州へと珠江を遡上して逃亡するので香港警察もお手上げのようである。ベンツを盗まれた一週間後に広州に出張したら盗まれたベンツがホテルに停車していたと、化学品部会の友人が憤っていた。スリといい自動車泥棒といい、台湾で始まり香港に移動する。手口は同じで経済発展のタイムラグに従って移動し、車種が高級化するころが興味深い。犯人は台湾では香港からの窃盗団であり、香港では中国人との噂であった。本当のところは判らないが、“火の有るところに煙が立つ”話であろう。
日本からの旅行者をブランド品店は勿論だが、セントラルにある偽物横丁へも案内した。また、日本への郵送依頼も少なくなかった。一番人気は真珠の粉末入り化粧品であった。漢方のリュウマチ薬の依頼には「ステロイドのような洋薬が混入されている可能性がある」と説明して中止を勧めた。痩せる石鹸が流行った時にはマニラからまでも大量購入の依頼が舞い込んだ。お洒落な腕時計“Swatch”が夫々デザインが違うふれこみで爆発的な人気を呼んだ時には、日本からの購入依頼で、三越百貨店があるビルのワンブロックを一回りする長い列に炎天下を並んだ。
1995年の7月頃であったろうか、予告も無く突然オフィスに電話がかかってきた。
「大学同期生のNです。観光に来たので、夕食後にちょっとお会いできませんか」
自治会長を務めたときに助けて貰った仲である。九龍にあるホテルで次女を連れた旧姓Oさんにお会いした。聞けば夏休みに団体旅行で来たとのこと。
「明日、マカオ旅行から帰ったら再度電話を下さい。夕食をご馳走しましょう」
と約束をして別れた。ところが翌日は過去6年間で経験したこともない大型台風が襲来し交通機関は全面停止で、マカオ旅行はおろか九龍サイドさえ行けないことになった。自宅の窓から恨めしい大暴風雨を眺めながらお断りの電話をした。不運でこれまた、お気の毒なことであった。 (3月下旬号 完)
152)食べ物の録外録
旅にまつわる食べ物の思い出を書いてきたが、最後に「録外録」として、少し追加する。シンポジウムの前か後に地域のオピニオン・リーダーを食事に招く機会が多かった。そんな時、台湾では主賓が上座に坐り、接待側は入口近くの下座に坐るのだが、ここ大陸では逆に招待者が上座を占め、その左右に幹部が坐る。前者は日本植民地時代の名残で、後者は共産主義の名残で代金を払う人が最高位なのかと思ったが、その相違の由来と本来の中華文化の姿を残念ながら聞き漏らした。
アジアの或る国から同僚駐在員一人が香港に出張した機会に、中国情報を求めて角さんの香港事務所に立ち寄った。協議を終えて夕食に誘うと、
「本場の魚翅と鮑魚を是非食べたい」
と言う。どちらも一人駐在の身で日頃は部下を誘って飲食の機会はない。
「滅多に無い貴重な機会なので、今日は社内交際と情報交換の日にしよう」
と言うことになり、接客側と返礼側の役割分担が決まり、高価なので割り勘払いと相成った。あまり公開できる話ではないが、責めを負う程の話ではいし、第一もう時効である。こうして有名な新同楽でフカヒレの姿煮とアワビのオイスター煮を楽しんだ。香港6年半の駐在中に経験した最高の贅沢である。
珠海医薬公司に帰国の挨拶に行って昼食に招かれた。中国のレストランは端から端が見えないほど広い。その大広間を満席にして大勢の人たちが賑やかに海鮮料理を楽しんでいる。香港返還を一年後に控えた1996年半ばのことである。その頃になると珠江デルタ地帯には裕福層が増えていた。彼ら彼女たちが申し合わせたように龍蝦(ロンシャー、伊勢エビ)の生き造りを頬張っている。上司が部下を、家長が親族を招き或いは友人同士が集まって食べることを人生の第一義とするこの国の人たちが、このさき豊かになり輸入鮮魚を鱈腹(たらふく)食べるようになったら、世界の魚はたちまちにして食べ尽くされてしまうだろう、と心底末恐ろしくなった。果たせるかな、最近になってマグロの枯渇や食糧不足、鉄鉱石や原油の買い漁りがメディアを賑わしている。
会社の近くに老正興という中級のレストランがある。「老正興」と言えば1862年上海の共同租界に創業の江蘇省の揚州料理が得意であった老舗を思い出す。価格は手ごろで結構旨いので時折利用した。特にそこの炸田鶏(カエルの揚げ物)は出色であった。ある日、そこで邱永漢氏を見かけた。台湾で講演を聞き、『食は広州にあり』など多数の著書の愛読者としては喜色を隠せない。手帳にサインを頼みたいと思いながらもお連れと立ち話をしておられるので、つい遠慮してしまった。いまも残念な気持ちを引きずっている。
広州に出張したときの朝食はいつも雑炊であった。日本のお粥は米粒がさらさらしているが、中国のお粥は糊のようにべっとりとして米粒の形状がなくなっている。清粥(しろがゆ)の場合には榨菜(ザーサイ)、豚肉のそぼろ、皮蛋(ピーダン)、腐乳(フゥルゥ)、炒めピーナッツなど数種類のオカズが小皿に盛られてくる。腐乳は豆腐を発酵させたもの。納豆以上の臭さであるが慣れると気にならず結構旨い。日本の雑炊に似た具入り味付きのお粥もある。日本ではチャプスイ、英語でChopsueyと呼ばれるそうであるが、これらが同じものかどうか経験がないので判らない。この語源には清朝末期の政治家李鴻章が清の使節として米国大統領に謁見したことと関係があると『食は広州に在り』に書かれていたかと記憶する。
料理には美酒がつきもの。中国の酒は大別すると「黄酒(フォアンジュウ)」とよばれる醸造酒と、「白酒(バイジュウ)」といわれる蒸留酒がある。先年テレビを見ていたら現在のトルコ東部辺りからフランスに移入された葡萄酒が14世紀頃にブランデーとなり、さらに西に行って15世紀半ばにスコッチ・ウイスキーになったと報じていた。中国では6世紀半ばに書かれた「北斎書」に汾酒についての記述があるが、その普及はずっと後年のようである。この中国の白酒が韓国や日本に伝わって焼酎になったとすると蒸留酒の歴史は僅か500年ほどに過ぎないことになる。これに反し、醸造酒は有史以来の古い酒で、黄酒は餅米と麦麹を原料として醸造し、甕(かめ)に入れて長年寝かした古いものが良いとされる。「老酒(ラオジュウ)」といわれる所以である。充分熟成させたものを“陳年(チェンネン)”と総称するようで、3年未満では安物の酒で料理などにも使われる。古来、女児が生まれると新酒を甕にいれて土中で眠らせて、嫁入り時に開封して祝い酒とする。日本で桐の苗木を植えて嫁入りタンスにしたのと似た発想である。
江南の紹興市は醸造酒で有名な酒どころ。紹興酒は黄酒や老酒の代名詞として普及したが、厳密には“灘の酒”というほどの意味である。大陸が文化大革命などで鎖国状態の間に、戦後台湾に逃げて来た外省人が紹興酒を我が国でも有名にしたが、一時期台湾海峡を挟んだ両岸で“紹興酒”の本家争いを演じていた。最も古い伝統的製法によるものを“元紅酒”とよび、それにもち米を1割多く使用したものを加飯酒と言う。その年代ものを“花彫”と呼ぶそうである。上物紹興酒は年を経るとほど良い甘さが醸造されるが、安価な黄酒ではそうはいかない。補うために日本では氷砂糖を入れて飲む悪癖が普及したという(邱永漢)。
一方、「白酒」は高粱、トウモロコシ、小麦などを発酵させてから蒸留して作る。貴州製が横綱格で日中国交回復の祝席で田中角栄と周恩来の両首相が茅台酒の杯を交わしたことから一気に知られるようになった。余談だがその時、合わせた互いの杯の位置に上下があって話題になった。アルコール分55度の強い酒であるが、何ともいえぬ微妙な甘さと味に加えて独特の香がある。最近は35度のまろやかなものも開発されて飲みやすくなった。30年ほど前に初めて台湾で、白い米から黄色い酒が造られ、黄色なトウモロコシから白い酒が作られる、と知ったとき珍しい発見をしたようで嬉しかった。異文化体験の感動である。
本社の指示や依頼で来客のアテンドをするのは駐在員の勤めの一つ。台湾ではゴルフと故宮博物院案内が、香港では買物と食事への案内が主な接待であった。ある時、大家のお嬢さんと友人3人を夕食に案内する機会があった。スープは、肉物は、魚貝類は、野菜は何にするかとメニューのページを前後にめくりながら“料理のストーリー”を考えていると、件のお嬢さんは角さんが中華メニューを判読できないで、苦労していると誤解したのか、「私が決めましょう」とやにわに申し出てきた。中国料理の正餐ではスープ、肉、魚貝、野菜のメニューの組み合わせに加えて、それを供する順序が適切でなければ味わいが半減する。時間に追われる今日では料理の順番や配膳のタイミングにまで気を配ってくれるレストランは少ないだろうが、接待に際しては心したいものである。
参考資料:中国人と日本人 邱永漢著(中央公論社)
中国の旅、食もまた楽しい 邱永漢著(新潮文庫)
中国・江南のみち 街道をゆく(19) 司馬遼太郎著 朝日文芸文庫
151)中国の四大料理
麺が大好きで「一鎮一麺」をルールにして、初めて訪れた町では一度は麺を食べるよう心がけた。お陰であちらの鎮やこちらの城市に思い出の麺がある。台北では昼の常食は排骨麺であり、台南へ出張するたびに渡小月で椀子ソバ風担仔麺(タンツーメン)を楽しんだ。昆明で食べた坦々麺はピーナツ味とゴマ油の香が食欲を誘ったし、重慶の坦々麺は辛さが効いて濃厚であった。担仔麺と坦々麺は字が異なる。「担」は担ぐで、担仔は天秤棒のこと。一方「坦」は平坦と言うように水平を意味する。坦々麺の名前の由来は定かではないが、天秤の前に麺と野菜などの食材を、後ろに食器と水を担ぎ水平を保つのが一般的。つまるところ、担仔麺も坦々麺も天秤棒で担いで売り歩いていたところからついた呼び名であろうと由来を考えた。
香港で日常食べる麺は薄茶色で独特の風味がある乾麺。北京・王府井の屋台で食べた蘭州羊肉麺、上海の路地裏で偶然見つけた南京牛肉麺、ふんだんにトッピングが乗った米粉を材料にした桂林米線。麺と具とスープを別々の碗に入れて橋を渡って届けことから名がついた昆明名物の過橋米線。これらは既に紹介したが、いずれも思い出せば垂涎となる。台北で時折昼食にした刀削麺(タオシャオメン)を西安で見かけたときには旧友に出会ったように懐かしかった。充分練ったラクビーボールのようなドウを左肩に乗せてそれを右手の指に挟んだ小さな刃物で削りながら沸騰した大なべに直接放り込んで茹でる。まるで神業で見ていて飽きない。そう言えば、中国古来の功夫茶(日本的には茶道)にも神業的なものがある。一人ひとりの湯飲み茶碗に茶葉を入れておき、丸テーブルに坐るお客の後方からその茶碗に給仕が熱湯を注いで回る。大きなやかんの鶴口から茶碗まで1メートル余り一条の弧ができる。見事な技で最後の一滴たりとも漏らさない。このパーフォーマンスは成都あたりが発祥らしいが、近年は都市の大きなレストランでも見られるようになった。
台湾では中国本土から200万人近くが一度に流れ込んだお陰で、大陸各地の料理や特色ある麺類を楽しめた。カミサンの北京語教師の父君は長年使い込んだ“煮汁が入った甕”を担いで大陸から逃げて来た。唯一無二の財産で、この煮汁を元手に小さな麺屋を始めたと聞いた。さしずめ日本的には家伝100年の糠床かおでんの煮汁といったところだろう。
中国料理は北京料理(京菜)、上海料理、四川料理(川菜)、広東料理(粤菜)に大別される。山東料理、湖南料理、潮州料理、福建料理、客家料理なども良く知られた地方料理である。経験を基にそれらの特徴を述べる。「北京料理」は宮廷料理に華北各地の味が合わさった北方料理で肉料理が多く、味は唐辛子の辛さに塩味が加わる。麺類が豊富で、炒めたり焼いた料理が比較的多い。羊肉のジンギスカンやしゃぶしゃぶもあるが何と言っても代表は北京ダッグ。しかし、台湾の北京ダックは飴色に焼いた皮が主体であるが、北京のそれは肉が多くついている。正直言って前者の方が旨い。台湾方式は江南の揚州式ダッグに依ったもので本来はこちらが先輩格ではないかと思った。
「上海料理」と一口で言うが、江蘇菜と浙江菜を含めた総称で、狭義の上海料理は半農半漁の田舎の家庭料理である。呉越の昔より連綿と続く蘇州と杭州の豊かな水郷で発達した宮廷料理に西洋租界の国際性が加わって今日の上海料理が出来上がったと思う。煮込みものや蒸した料理が多い。魚やカニ・エビを使うが長江周辺の淡水産が本来の食材であろう。ウナギ、田ウナギ、スッポンも重要な食材。鱗が甘くて美味しい黄魚(淡水イシモチ?)を、揚げ物・蒸物・スープ(雪菜黄魚湯)の何れか2種類に料理する黄魚二吃(ファンユーアーツー)。乞食が鶏を盗んだがバレそうになって慌てて土で固めて焚き火の中に投げ込んだのが由来と云われる叫化鶏(チャオファジー)、俗に乞食鶏(こじきどり)と呼ばれる。上海カニも代表的なものだが、当時は上物は高値で売れる香港に輸出されてしまうと云われていた。上海料理は全体に味はこくがあり甘口で色は濃い。酸辣(スァンラー)湯(タン)は酢と胡椒で味付けしとろみをつけたスープ。角君が台湾時代から長年親しんだ上海風家庭料理の一品である。
「四川料理」は豚、牛、鶏、野菜など天賦の食材に恵まれて豊富である。“麻辣”が味の基本で、“麻”とは舌が痺れる黒い山椒に、唐辛子の辛さ“辣”が加わったもの。麻婆豆腐、おこげご飯、坦々麺、麻辣火鍋(辛い鍋料理)、重慶火鍋(鍋を二つに仕切って辛いスープと辛くないスープの2種類を味わう)、棒々鶏(茹でた鶏肉を棒で叩いて千切りにしたもの)などが広く知られる。
「広東料理」は魚翅(ユーチ、フカヒレ)、鮑魚(バオユー、アワビ)、燕窩(イエンウオ、ツバメの巣)、蟹や海老など高価な食材を使った贅沢な料理である。蘇菜が淡水の魚貝を材料とすれば、粤菜は海鮮料理である。紅焼魚翅(ホンサオユーチ、フカヒレの姿煮)や蠔油鮑甫(ハオヨウバオブー、アワビのオイスター煮)は垂涎の的。蛇や野獣などのゲテモノ料理が強調されるがこれは単なる一面に過ぎない。中国人は本来生ものを口にしないが、広東省沿岸部の一部の人々は膾(なます、カルパッチョ)を食べる。その膾のタレを三浸(サシム、醤油・酢・生姜汁)というそうで、日本語の刺身(さしみ)の語源ではないかと考えついた。近年日本でも知られるようになった飲茶(ヤムチャ)も広東料理の範疇で陸羽茶室はその代表格。茶に関する『茶経』の著者で茶聖陸羽に因んだ由緒ある香港の中環(セントラル)にある飲茶店である。日本からのお客さんのたっての要請で案内したが、男性給仕の多くが老齢化し気位だけが高くて興ざめであった。
「潮州料理」は広東料理の一派で香港には大小多くの店がある。薄味で海鮮本来の味を引き出し日本人の舌に馴染み易い。仏跳塀(フォチァオチァン)は地理的には「福建料理」に属するが、実際はアモイを中心とした海岸線で発達した海鮮料理である。おいしそうな匂いに誘われて修行中の坊さんまでが塀を跳び越えてやってくるという。アワビ、貝柱など極上の海鮮素材をふんだんに使って蒸煮にしたスープである。「山東料理」ではテーブル一杯処狭ましと並んだ多くの小皿に前菜が盛られている。斉国宮廷料理の名残とのこと。西に伝わり北京料理の前菜になり、東に行って韓国の宮廷料理、さらに流れて京都の会席料理になったのではないかと食文化の歴史に思いをはせた。
中国料理のメニューは解り難いが、コツを覚えてゆっくり読むと意外と判読が可能である。料理名には材料、下ごしらえ法、調理法、調味料、時に形容詞が組み込まれている。少しだけコツを紹介しよう。先ずは材料。中国で単に「肉」といえば豚肉のことで、他の肉は牛肉、羊肉、鶏肉という。火腿はハム、鴨はアヒル、蝦仁は小エビ、明蝦が車えび、龍蝦は伊勢エビ、魚編に善と書けばウナギ、海参はナマコ、魚翅は大好きなフカひれ、鮑は高価なアワビ、蛋はタマゴ、青椒はピーマン、荷はハスのこと。それに龍はヘビ、鳳は鶏の形容表現。次に下ごしらえ方法。絲はセン切り、片はウス切り、条は拍子切り、丁はサイノ目切り、塊はぶつ切り、泥はおろし、丸はダンゴ、包は包み、捲は巻くこと。調理法は多種で夫々漢字が異なる。例えば焼は炒めてから煮たもの。烤はあぶり焼き、炒は油いため、爆は高温の油いため、溜はあんかけ、炸は揚げる、煎はいり焼。調味料では醤はみそ、醋は酢である。湯はスープ。まだまだ紹介したい料理法は沢山あるが、我が家のパソコンでは漢字が書けないのでこの辺で止めにする。こんなことを書いていると当時の色々な場面が懐かしく思い出されて食べたくなってくる。 (3月上旬号)
150)東西南北いろいろ
“陰陽”と言えば、中国文化の基底をなす陰陽五行説を思い出す。文化大革命の時代を香港で辛くも生きながらえ、躍進中国の建築ブームでにわかに復権した方位・家相の「風水(フォンスイ)」では、山の南は陽で北が陰。日本でも山陽と山陰と言う。川の場合にはその逆で川の南が陰で北が陽である。漢化政策を進め仏教を奨励した北魏の孝文帝は494年に都を平城から「洛陽」に移した。北側に山があり南側に洛河がある二重陽の地として繁栄した。隋と唐の時代には長安に次ぐ副都として高い地位をあたえられた。
磁石を発明した本家の中国では、不思議なことに(?!)磁石は北でなく南を指す。いわゆる“指南”である。キトラ古墳の石室に描かれた極彩色の青竜・白虎・朱雀・玄武の位置がなかなか覚えにくくて困っていたが、この文を書いていて覚え方を思いついた。青竜は青春で東壁、白虎は白秋で西壁、朱雀は南端の朱雀門、残るは北壁の玄武となる。
中国の省名とその位置はなかなか覚えにくいが簡単な目安がある。中国で山といえば「泰山」。皇帝が天に善政を報告し豊穣を祈願する封禅の儀式を行う神聖な山である。その泰山の東にあるのが山東省(省都は済南)で、西側には山西省(太原)。河とは中華五千年の文化を育んできた「黄河」のこと。その河口平野が山東省、黄河の北に河北省(石家荘)があり、中心には中央政府の直轄都市の北京と天津がある。南にあるのが河南省(鄭州)。江といえば「長江」、揚子江はその和名。この長江下流の北側が江蘇省(南京)で、南側が浙江省(杭州)。二つの省に挟まれるようにして黄山でしられる安徽省(合肥)がある。湖といえば「洞庭湖」。“中国のヘソ”ともいわれ長江中流にある長江文明の中心地。義憤と憂国から髪を振り乱して屈原が身を投げた汨羅(べきら)の淵は洞庭湖。その南が湖南省(長沙)で、北に湖北省(武漢)がある。湖南省の東側が江西省(南昌)。これらの位置関係を覚えれば中華文明の中心部は大抵網羅している。そして北京の東北に、遼寧省(りょうねいしょう、瀋陽)、吉林省(長春)、黒龍江省(ハルピン)の東北三省と内モンゴル自治区(フフホト)。山西省の西方に陜西省(せんせいしょう、西安)、寧夏(ねいか)回族自治区(銀川)、青海省(西寧)、新疆(しんきょう)ウイグル自治区(ウルムチ)。大陸東南端の福建省(福州)から西に広東省(広州)、桂林がある広西チワン族自治区(南寧)、マオタイ酒の産地貴州省(貴陽)、少数民族が多い雲南省(昆明)。陜西省(せんせいしょう)の西南に甘粛省(かんしゅくしょう、蘭州)と四川省(成都)があり、その遥か南西にチベット自治区(ラサ)がある。香港の西南に中国のハワイとして売り出し中の海南省(海南島)がある。一度地図を広げてみては如何でしょう!
上海地方はかつては華南の地で、広東省や福建省は南嶺の地である。「南船北馬」とは、南は水上交通で北は馬を使った往来をさす。隋の煬帝は運河を整備して「京杭運河」の基礎を築き、揚州をへて杭州まで豪華絢爛な舟旅を楽しんだ。長安の都では南嶺の地から早馬で送られてくる春の果物茘枝(れいし)の到着を待ちわびる楊貴妃に臣下は「馬上来(マーサンライ、すぐ来ます)」と応えた。明朝は「北虜南倭」の煩いで傾いたといわれる。北からモンゴル族が侵入し、南の沿岸部では倭寇が暴れて国政を悩ました。倭寇というが真倭は少なく偽倭が多かったという。良民を威嚇する目的で倭寇の名をかたられた倭人にすれば、とんだ濡れ衣である。
「南蛮・東夷・西戎(せいじゅう)・北狄(ほくてき)」とは中華思想の最たる表現で、いつの時代にも中央政府からみれば勢力圏外はすべて蛮族となる。実際に中国人と接してみて、その根強さを実感した。彼らは自分達が中華思想に染まっているとは微塵にも気づいていないので、尚のこと始末が悪い。因みに、西暦450年頃に書かれた後漢の正史『後漢書』には堂々と「東夷列傳」の項目があり、そこには“倭の奴国が朝貢に来たので金印を与えた”と記されている。
陰陽五行では東の青龍、南の朱雀、西の白虎、北の玄武といいその中央に黄(土)があるが、この動物と東西南北の関係がなかなか覚え難い。先日良い方法を思いついたので、ご披露しよう。青春と白秋を押さえ、北面の武士から玄武を連想すれば残りが南の朱雀となる。如何でしょうか?
中国では“北麺南米”である。北方では麺製品を主食とし、南部では米を食べるとの意味。この場合、麺とは小麦粉製品を意味し紐状のものとは限らない。良く知られた豚まん(蒸包子)・水餃子・小籠包の他に、蒸餃子・鍋貼(クオテイ、焼餃子)・焼餅(シャオピン)、・生煎包(焼肉まん)なども麺類に含まれる。南部では小麦粉ではなく米の粉からつくったビーフンとなる。
“南甜北鹹西辣”といわれ、地方により料理の味付けには特徴がある。この場合も南とは上海地方をさす。江南地方の味付けは甘く、北京付近や山東省や東北三省は鹹く、西の内陸では辛いとの意味。鹹いは塩からいことで、辛いは唐辛子のヒリヒリしたからさのこと。気候風土と食材の地産地消が影響しているらしい。一般に寒いほど人体は塩分を求めるようだし、南部ではサトウキビや蜂蜜の入手が容易な為であろう。自分の経験でも概ねこの法則は当っていた。重慶の麻辛(痺れる辛さ)には口の中が爆発したし、西安では西域の影響であろうか幾書種もの香辛料が絡み合ったコクのある複雑な味であった。
南北談義からは逸れるが、漢字の話にふれる。我々の先人は中国より漢字を輸入して独自の言語文化を作ったが、その時に多少の混乱が生じた。前にも述べたが漢語(中国語)の桂は日本語ではモクセイで、柏はヒノキをさす。鮎はナマズを指し、鯰は和製文字のようだ。このような和製漢字は結構多い。日本字には田・畠・畑があるが中国では田の一字のみ。日本では水が無ければ畠を、焼畑には畑を使ったのかもしれない。北の中国では小麦や粟を育て、南部では水田にコメをまいた。一つの地方でコメとムギの両方を育てる農法が無かったので、「田」一字で用が足りたのであろう。従って畠中さんが中国へ行くと漢語の呼び名が無いので白中(バイヅォン)と呼ばれる。辻の字もないので辻さんは十(スー)さんとなる。明治以降に科学や近代社会を表す英語やドイツ語を翻訳し、腺・癌・哩などの和製漢字を作り出し、科学・哲学・経済・自由・観念・福祉・革命・運動・失恋・共産主義などの単語を作った。これらの多くはその後、中国に逆輸入され今は完全に漢語になった。 (2月下旬号 完)
149)お国気質と地域の特徴
豪華客船が事故に遭い沈み始めた。女性を優先して救命ボートに乗せたい船長は、男性客に言った。
アメリカ人には「飛び込めばあなたは英雄です」
イギリス人には「レディーファーストのあなたはきっと飛び込みますよね」
ドイツ人には「飛び込むのがこの船の規則です」
イタリア人には「飛び込むと女性にもてますよ」
フランス人には「飛び込まないで下さい」
日本人には「みんな飛び込んでいますよ」
お国気質を見事に表現している。特に日本人とフランス人に対しては皮肉が効いている。国や地域には夫々の特徴があるようだ。
これまで角さんが駐在したフィリピン、台湾、香港はいずれも“島”で、外国に領有された歴史がある。しかし、人々の気質は一様でない。フィリピンはスペインの影響なのか、楽天的でパーフォーマンス好き、見栄っ張りでフレンドリー。損得計算は少なく淡白であるが、時に怒り易い(ホットテンパー)。お金を払えば渋滞路をパトーカーが先導してくれる。こんな“特別サービス”も受益者負担と思えば賄賂臭は吹き飛んでアッケラカンとなる。子供にだけには教育をつけさせたいとの思いは強いが、足掻(あが)いても無駄と知り尽くしているせいか諦めも早い。「道を尋ねる時には三人以上に聞くべし」との諺がある。フィリピン人は優しさゆえに「知らない」と冷たい返事ができないので、知っている範囲で答えようとする。そのために三者三様の答えになる。これを「フィリピンの嘘」という、と英語教師のガルシア先生から教わった。
台湾で仕事をしていて、さすが『三国志』の世界と思った。非常に戦略的な発想をし、戦術的に行動する。“海のシルクロード”でアラビア半島まで航海した泉州商人の血を引くせいか商売上手で、対峙を避けて相手を自分の土俵に上手に引き込む。こちらの気持ちを和ませ気分よくしてくれるが、けっして媚を売るゴマスリではない。唐突な話だが“ゴマスリ”の語源をご存知だろうか? 嫁姑の仲は古来より微妙なもの。夕食の支度で姑がすり鉢を持ち出して胡麻をすり始める。すかさず嫁が動かないようにとすり鉢を両手で押える。一緒に仕事をしながら嫁と姑の会話が始まる。「お母様は何時までもお美しいですね」などと、時には歯の浮くような言葉が嫁の口から出る。子供の頃に伯母から聞いた話である。話を元に戻そう。台湾の人たちは大人の風格で些細なことには動じない。日本には「重箱の隅をつつく」との俗諺があるが、台湾では「(桶底の隅は気にせず)味噌は大きな杓子で多くをすくえ」と云う。そして大陸には「胡麻より西瓜を選べ(大きい方を狙え)」との諺がある。繊細で遠慮深い日本人とは異なる中華文化に共通する思想である。
香港に赴任して台湾人との気質の違いを知った。香港は戦略的な『三国志』の世界ではなく、怨念と懐疑が強い『史記』の世界と思った。貧しい周辺地域から食べるに窮して、或いは上海あたりから共産党に追われるように逃れて来た人たちの吹き溜まり。客家が比較的多く性格はキツイ。対人関係はドライで総じて対峙的な手強い交渉相手(ハードネゴシエーター)である。店頭での売買交渉では客の心理を読むのに長け、日本人観光客など赤子の手を捻るようなもので、高値で売りつける。英国が残した良い面の一つが法令尊守(コンプライアンス)の精神。ある機会に読んだ本には「香港では賄賂は殆ど無い」と書かれていた。科挙試験に合格し地方長官になれば“清官三代”(清く勤めても三代は食える)。慣例上、賄賂とみなされない役得のみでこの程度。その気になれば如何ほどであったか、と云われた中華文化では例外的である。
自身の売買交渉の経験から言えば広東人はハードネゴシエーター。しかし、一旦契約すると約束は守る。上海人は英国租界の華やかさの影響か、見栄っ張りで契約数量で背伸びして未達に終わる。北京は明朝以来、政治の中心地。プライドが高く建前と本音の差が大きく、コンプライアンス精神は強いのだが、実際には商売センスよりも政治的手法に頼るようなところを感じた。
湖北省武漢出身の李社長を見ていると、戦略的で肝がすわり粘っこい。彼に言わせると
「湖北の武漢人は楚の末裔で頭が良くて商売上手。しかし湖南人は“湖南驢子(ろば)”と謂われるように融通の利かない頑固者」とのこと。どこの世界も隣人同士は競争心をむき出し肌が合わないようである。
大陸・台湾いずれにせよ中国人に共通する生活哲学がある。その一つは反骨精神と粘り強さで、それを示すのが「上有政策、下有対策」の諺。「お上が規則を作れば、民は対策を考え出す」と言うわけ。この場合、対策とは抜け道に他ならない。日本の「長いものには巻かれよ」の対極にある。「対策がある」との生活身上があるので少々の事ではへこたれない。「年々有余」と「一歩一歩」もよく耳にする言葉。「年々有余」は毎年少しずつでも余りがある。年末の家計収支で次年度への繰越金があり、「一歩一歩」と階段を登って行くことになる。“余”と“魚”の発音はどちらも同じ“ユ”。中国人が魚を珍重する所以であり、日本人が魚で新年を祝う古来の風俗に通じているようだ。
中国人は“有没有?”、“是不是?”、“対不対?”、“大不大?” などの言葉を繁用する。夫々「有るか無いか」、「Yes か No か?」、「正しいか否か?」、「大きいか小さいか?」を意味する。ゼロを中心にしてプラスとマイナスに分ける陰陽の思考である。単純明快に判断するので見込み違いは少ない。幼時からこのような思考方法で鍛えられるせいか、日本人と違い積上げ式の分析をしないので、細部で多少の誤差はあっても大きくは間違わず、却って直線的に“本質に迫る”。優れた資質といえよう。これに習って角さんは「大きいか小さいか」で物を見て、「敵か味方か」で人と付き合った。「敵か味方か」といえば大袈裟だが、部下や取引関係者が持ってきた案件や提案を性善説と性悪説のいずれの視点で受け止めるかである。右も左も判らない外国で仕事をする者にとり重要な判断基準である。前にも書いたが「(上司の)おだてには乗って見よう。(部下の)話にも乗って見よう」との角さんの身上はこの性善説に由来する。「褒め殺し」のような不信感を助長する言葉を一国の総理が軽々しく口にすべきではではい。 (2月中旬号 完)
148)音楽の泉(後編、クラシック)
クラシックが趣味と言っても造詣が深いわけではない。曲目や演奏について多くを語れないので“好み”と“聴取頻度”を基準に上位20曲を選んでみよう。
1.ベートーヴェン(1770-1827) 交響曲5番(運命;1808年)
2. ” ” 9番(合唱つき;1824)
3. ” ” 3番(英雄;1804)、 7番(1812)
4. ” ” 6番(田園;1808)、 8番(1812)
5.ブルックナー(1824-96) ” 4番(ロマンティック;1874)
6.シュスタコービッチ(1906-75) ” 7番(レニングラード;1941)
7. ” ” 5番 (革命;1937)
8.マーラー(1860-1911) ” 1番(巨人;1888)
9.マーラー ” ” 4番 (1900)
10.ブラームス(1833-97) ” 4番(1885)
11.チャイコフスキー(1840-93) ” 6番(悲愴;1893)
12.ドボルザーク(1841-1904) ” 9番(新世界から;1893)
13.メンデルスゾーン ” 3番(スコットランド;1842)
14.シベリウス(1865-1957) ” 2番(1902)
15.チャイコフスキー バイオリン協奏曲(1878)
16.メンデルスゾーン(1809-47) ” (1844)
17. ベートーヴェン ” (1806)
18. ” ピアノ協奏曲 5番(皇帝;1809)
19.ラフマニノフ(1873-1943) ” 2番(1901)
20.チャイコフスキー ” 1番(1875)
番外.モーツアルト(1756-1791) 交響曲 14番(ジュピター;1788)
紙面の制約で20曲を選ぶこととしたが、それさえも無理と判り、交響曲と協奏曲だけに限定し、更にベートーヴェンの「3番・7番」と「6番・8番」を1つと数えてやっと絞り込めた。検めて見ると“標題付き”の曲が多い。「運命」や「革命」など日本だけで通用する表題曲もあるが、名曲ゆえに表題がつけられ、表題があるゆえに目にとまり印象を深めたようである。
これらを中心に独善と偏見を記述する。宗教の束縛から解放されたルネッサンス時代に続くのが、絢爛豪華なバロック音楽で、その代表がヴィヴァルディ(1674-1741)とバッハ(1685-1750)である。前者は「四季」で名を残し、後者は「音楽の父」と呼ばれる(2人の妻と20名の子供に恵まれ、幾人かの子供が名を残す音楽家になったので“音楽家の父”とも揶揄される)。ハイドンが確立した交響曲の様式をモーツアルトが発展させるが、ベートーヴェンの3番(英雄)で劇的な変化を遂げる。それまでの王侯貴族を相手とする宮廷音楽は明るくて軽快だが、心を揺さぶる感動に乏しい。“神童”モーツアルトに敬意を払って番外に最後の交響曲「ジュピター」を選んだ。西洋音楽の本場はドイツ(含むウイーン)とイタリアといわれるが、ドイツとロシアに角君の好きな曲が多い。
“樂聖”ベートーヴェンは感情や思想表現としての交響曲を創生した。それは革命的でさえあった。旧来の弦楽器主体のサロン風音楽から脱却し、コンサートホールでの市民音楽を目指した。金管楽器や打楽器を多用して躍動感溢れる独創的な作品群を生み出した。因みに、交響曲1番では木管楽器のクラリネットであったが、それ以降の3番ではホルンが使われ、5番ではトロンボーンが初めて交響曲に導入され、6番では鳥のさえずりや牧歌的表現に幾種もの金管楽器が活躍し、8番ではポストホルンが郵便馬車を連想させる。全9曲の交響曲の中で3・5・7・9の奇数番が壮大でドラマチックである。第5番はあまりに有名すぎて「一番好きな曲」として挙げるのは面映いが、やはり高い精神性を有する至高の名曲であり、聴くたびに生命力と高揚感を与えてくれる。その「苦悩から勝利へ」の構成は、一人で耐えねばならなかった永い海外生活で明日への力を与えてくれた。最近の流行り言葉でいえば、萎えた心を支えてくれたのは「田園」の癒しではなく、「運命」から溢れ出る力強いエネルギーであった。
代表的な曲を年代順に並べてみると、41番「ジュピター」(1788)→9番「合唱」(1824)→3番「スコットランド」(1842)→ブルックナー4番(1874)→ブラームス4番(1885)→1番「巨人」(1888)→6番「悲愴」(1893)→9番「新世界」(1893)→シベリウス2番(1902)→5番「革命」(1937)と彼らが影響しあって発展した北ヨーロッパ音楽の軌跡が見えてくる。
ベートーヴェンにより創生されたドイツ・ロマン派音楽はウエーバー、シューベルト、メンデルスゾーンにより発展し、シューマン、ブラームス、ブルックナー、ワグナーによって最盛期を迎える。チェコで生まれウイーンで活躍したマーラーは後期ロマン派の最後の作曲家と言われる。彼の1番「巨人」はギリシャ神話の太陽神“タイタン”から採った。マーラーはベートーヴェンを強く意識し、4番の第4楽章ではソプラノが天国の生活を歌う。ドイツ・ロマン派音楽はチャイコフスキーに受け継がれロシアの大地でラフマニノフやショスタコーヴィッチによって蘇ったと角君は考える。奇しくも同じ5番の「革命」は“苦悩・闘争・絶望・勝利”の曲として、ベートーヴェンの「運命」を連想させる。7番「レーニングラード」は第二次世界大戦中に書かれたのであるが、ドイツ軍に包囲されたレーニングラードの壮絶な戦いを描きソビエット人民の勝利を確信して終わる。決して暗くも悲愴的でもなく抒情詩的でさえある。
「第九」とは普通ベートーヴェンの「合唱つき」をさす。ブラームスはこの「第九」を強く意識するあまり、着想から20年余りたってやっと1番を完成した。その時、人々は交響曲「第10番」がやっと生まれたと喝采した。現に第4楽章の旋律は「第九」の歓喜の歌を想起させる。彼の曲はロマン派でありながら古典主義の秩序と均斉美を残すゆえにやや華やかさに欠ける。角君は1番でなく敢えて4番を選んだが、その陰鬱さからか万人向けでないようだ。ベートーヴェンの「第九」ゆえに9番目が“最後の交響曲”といわれる。ブルックナーは9番を第3楽章まで作曲して逝った。マーラーは「最後の交響曲」を意識するあまり9番目の交響曲に「大地の歌」と名付け、10番目の曲を第9としたが、結局、未完に終りジンクスは破れなかった。大作7番を終えたショスタコーヴィッチはスターリンの絶大な期待にも関わらず9番を20分足らずの小品にした。それ故にスターリンの逆鱗に触れ冷遇され、10番を発表するのはスターリンの死後であった。
ベートーヴェンのピアノ協奏曲は最後が5番である。表題の「皇帝」はナポレオンを書いたものではなく、ピアノ協奏曲の最高傑作を意味する。1804年から5年間に「英雄」、バイオリン協奏曲、「運命」、「田園」、「皇帝」と名曲を生み出した。ロマン・ロランはこの時期を“傑作の森”と名付けた。これまでの協奏曲には“カデンツァ”という楽譜になくピアニストが自由に演奏する時間帯があったが、ベートーヴェンはそれを廃止して全曲を作曲者の統制下においた。ピアノとオーケストラが競演する40分の大作である。その後、やっと皇帝を陵駕したのがチャイコフスキーの1番(1875)である。その影響を受けたラフマニノフが29歳のときに完成したのが第2番である。彼はチャイコフスキーの死後、その庇護を失い冷遇され、ロシア革命後はアメリカに亡命してピアニストとして活動する。遠くで響く鐘のようなピアノに始まりそこに雄大なオーケストラがかぶさる。第二楽章の涙をさそう切ないメロディーは映画「逢びき」のテーマ音楽として有名になった。ロシアの大地を想わす雄大な曲をピアノとオーケストラが競演しながら最後は合流する。予備知識の無いまま初めて聞いて感動して買ったレコードはA.ルービンシュタインであった。角君愛蔵の一枚である。
ベートーヴェン、チャイコフスキー、メンデルスゾーンはバイオリン協奏曲を1曲しか書かなかった。選にはもれたがブラームスも同様でこれらを四大バイオリン協奏曲という。二回目に買ったレコードがアイザック・スターン演奏、ユージン・オーマンディー指揮のメンデルスゾーンとチャイコフスキーのバイオリン協奏曲であった。幾度となく聞いている間に、どちらの曲か区別がつかなくなってしまう。両者の違いをうまく表現できないのがもどかしいが、メランコリニーだが甘美な前者と北国ロシアの哀愁をおびた旋律が後者といえようか。
「名曲20選」としたが、ロッシーニーの歌劇、ワグナーの楽劇、ベートーヴェンの序曲、ベートーヴェンやショパンのソナタ、ワルツ王J.ストラウスの数々の名曲、シューベルトの冬の旅、フィンランディア、モルダウ、シエラザードなど民族色が豊かな室内管弦楽など、多くの名曲を除外せざるを得なかったのが残念である。また、バッハやモーツアルトが趣味に合わないと言ったが、この先年老をへて静かな生活を求めるようになると、重厚さよりも、心地よいバロック音楽やイタリア歌劇のアリアに耳を傾ける日々が来るような気がしている。 (2月上旬号 完)
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