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2007年3月18日 (日)

第五巻 (最終話~第156話~概要・目次~第155話~第40話)

「アジア、思い出の玉手箱」 ーある薬剤師の海外駐在回想記――(私本「芦屋の浜のつれづれ草」の表題め)

(目次→最終話第164話~ 第163話~第40話の順で掲載)

『目次』
Ⅰ.幼年時代編
(1)プロローグ  (2)記憶は霧の合間に  (3)小学校のタヌキと悪代官  (4)長兄哲夫の消息  (5)易者の占と八つ墓村  (6)林野商店街の盛衰  (7)家の履歴書  (8)スミ薬局と捨て子  (9)勘太郎月夜唄の風景  (10)城山のターザン  

Ⅱ.少年時代編
(11)武蔵の里と出雲往来  (12)児島高徳と角倉了以  (13)梶並川を舞台に  (14)泣いたハナヨ  (15)展覧会の絵  (16)安養寺の会陽  (17)川上と大下と越路吹雪  (18)西宮のアメリカ博  (19)朝鮮戦争勃発  (20)やっちゅもねえ話  (21)双葉は臭くて芳しい

Ⅲ.中学高校時代編
(22)二つの怪我  (23)回復に向かう  (24)愛ちゃんは太郎の嫁になる  (25)旅立ち  (26)御影中学と神功皇后  (27)高校受験  (28)地獄坂の風景  (29)鬼とハナヨと猿田彦神  (30)胡椒と霊魂のため  (31)大学受験と浪人生活

Ⅳ.大学時代編
(32)田下駄と黒い砂浜  (33)小鹿生活と倭建命  (34)大山と蒜山と帝釈峡  (35)60年安保と太宰治  (36)教養課程とアルバイト  (37)薬剤師の生い立ち  (38)特別実習と就職準備  (39)腰痛事故  (40)時にはそばに本が(前編)  (41)日本古典への誘い   (42)音楽の泉(前編)

Ⅴ.武田薬品国内編
(43)新入社員の風景  (44)初めての職場  (45)アリナミンの輸出会議  (46)道修町の神農さん  (47)吹田独身寮の風景   (48)リボタイドの世界戦略  (49)貿易マンを目指して  (50)海外事業の歴史  (51)東京の目白寮  (52)嫁取り物語  (53)新婚生活の風景  (54)腹八分目と戦略の失敗

Ⅵ.海外出張編
(55)ビルマへの初出張  (56)ラングーンの風景  (57)マンダレーヒルの夕焼け  (58)バンコックの休日  (59)マニラとシンガポール  (60)マレーシアへの長期出張  (61)苦難のマレーシア巡業  (62)失敗は成功の素  (63)初めての台湾  (64)台湾巡業  (65)蒋介石と宋三姉妹  

Ⅶ.台湾駐在編
(66)台湾駐在始まる  (67)同文異種の世界  (68)中国語の学習  (69)結婚式と葬儀の風景  (70)カルチャーショックと日台断交  (71)中国料理の楽しみ  (72)ゴルフ場の風景  (73)リラシリンの拡張  (74)医師から聞いた艶話(落語二題)、 (75)東雲閣と新北投温泉、(76)GMP工場とソウル・ジャカルタへの出張、(77)母と観光地めぐり、(78)薬のライフサイクル、(79)代理店問題とイントラファット、(80)鄭成功と台南の旅、(81)家族の帰国、(82)感謝台湾(ありがとう台湾)。 

Ⅷ フィリピン駐在編
(83)マブーハイ(ようこそ)、  (84)マニラ生活始まる、 (85)フィリッピンの概況、 (86)異文化の職場風景、 (87)営業本部長の苦難、(88)骨太の構造改革 、 (89)ゴルフへの誘い、(90)メイドの話、 (91)貧困の風景、 (92)パンスポリンの治験、 (93)家族との憩い、 (94)強盗殺人詐欺事件、(95)レップ教育とロザレス先生、(96)地方への旅、(97)パーラム(さようなら)

Ⅸ.再びの台湾編
(98)里帰りの台湾、(99)アパート生活、(100)林森北路の風景、(101)八田與一技官と呉建堂医師、(102)消費税とGMPと医療保険、(103)好況日本とバブルの徴候

Ⅹ.日本・ロシア・インド編
(104)浦島太郎のリハビリ、(105)韓国とロシアへの旅、(106)モスクワからオデッサへ、(107)インドとパキスタンへの旅、(108)慶応ビジネス・スクール

Ⅺ. 香港・中国編
(109)香港赴任の風景、(110)慕情とスージー・ウォンの世界、(111)社内旅行と広州交易会、(112)ベンツの価格とメイドの風景、(113)さんまを焼く風景、(114)九龍半島と家族との桂林、(115)広州・珠海と鑑真和上、(116)カジノの街マカオの風景、(117)母・研太郎と仙頭・アモイ、(118)香港の盛衰と中国返還、(119)鄧小平と客家、(120)武田IMCの再生と苦悩、(121)ピロリ菌退治と桂林霊渠の風景、(122)ゴルフ会員権が湖底に沈んだ話、(123)ベストコールの新発売、 (124)初めての北京(紫禁城・円明園・頤和園)、 (125)万里の長城、 (126)李陵と史記と明の十三陵、 (127)天津出張と欧州駆け足旅行、 (128)バッタで死にかけた話、 (129)年末会議の風景、 (130)昆明と石林への旅、 (131)上海・夜霧のブルース、 (132)重慶と昆明の講演旅行、 (133)合肥・南京・大連の旅、 (134)ランカウイと貴陽・アモイ・福州の旅、 (135)中国市場に舵をきる(武漢)、 (136)温州・済南の旅、 (137)長安の都(史記、奇貨居くべし)、 (138)玄宗皇帝と楊貴妃、 (139)空海と玄奘と仲麻呂の風景、 (140)西安、西域の香り、 (141)円高とカタリンの販路整備、 (142)パンスポリンの拡張開始、 (143)姑蘇城外寒山寺(江南の旅) 、(144)呉越の死闘、臥薪嘗胆の風景、 (145)寧波と杭州の旅、閑話休題-第3部-  (146)私の本棚(後編)、 (147)音楽の泉(中篇)、(148)音楽の泉(下篇)、 (149)お国気質と地域の特徴、 (150)東西南北いろいろ、 (151)中国の四大料理、(152)食べ物の録外録、(153)思い出の人と思い出いだす出来事、(154)長沙・長春・内モンゴルへ、  (155)老いた浦島太郎のトラブルシューター、  (156)客家の故郷への旅、 (157)青島・周口店・盧溝橋への旅、  (158)日本の宗教、 (159)退職前後の風景、 (161)日本人遥かな旅路(前編)、 (162)日本人遥かな旅路(中編)、 (163)日本人遥かな旅路(後編)、  (164)エピローグ(最終話、執筆中の裏話)

URL: http://homepage3.nifty.com/sumikozo/  
「電話写真の頁」:Ⅰ.幼年時代編(1~10話)、 Ⅱ.少年時代編(11~20話) ―→「menu」末尾をクリックで、「桜写真」に移る。
「桜写真の頁」:Ⅲ.中学高校時代編(21~31話)、 Ⅳ.大学時代編(32~39話)―→「menu」末尾のクリックで、「Blog]の最新号に移る。

Blog: http://jibunsieaasy.tea-nifty.com/sumikozo/ (スペルに注意:上から下に古くなる) 
Ⅺ.香港・中国編(最新号~109話)、 Ⅹ.日本・ロシア・インド編(108~104)、 Ⅸ.再びの台湾編(103~98話)、 Ⅷ.フィリピン駐在編(97~83話)、 Ⅶ.台湾駐在編(82~66話)、 Ⅵ.海外出張編(65~55話)、 Ⅴ.武田薬品・国内編(54~43話)、 Ⅳ.大学時代編の後半一部(39話) ―→URLをクリックで第1話に移る。

渾身の最終章、世界で一番長い物語「宇宙の誕生から日本民族滅亡?まで」、題して「日本人の遥かなる旅路」です。 前編は“地球と生命の誕生”、中編は“人類の誕生と拡散” そして今回は後編の“日本人の渡来と形成”です。 

164)エピローグ
 4年半続けたこの「思い出エッセイ」も最終話となった。65歳前後に友人からの依頼で3編のエッセイを投稿し好評を得た。同じ頃、太平洋戦争中の神戸を舞台にした妹尾河童の自伝小説『少年H』を読んで、自分にも書けるかも知れないと大それたことを思いついた。自称について“少年K”や“私”や“自分”が浮かんだが「興三さん」に落ち着いた。社会人になってからは「角君」で、香港の子会社を預かってからは「角さん」に変えた。いずれも実際の呼び名である。一部擬似名を使わせてもらったが、友人・先輩や会社名・商品名は原則実名とした。

 プロローグで54歳の妻を“女性を喪失した”と形容し、上手い表現と悦に入っていたら同年齢の妹からこっぴどく叱られた。即刻、“女の峠を越えようとしている”に改めたが非難は収まらなかった。“悪口”は書くまいと決めてはいたが、思わぬところで出鼻をくじかれた。それでも多少は叱られそうな表現や際どい話も書いたが、自分としてはイエローカードに止めたと思っている。「創作はあるのか?」とのご質問を頂いた。公開を憚ることは控えたが、書いたことにフィクションは一言一句なく経験に関しては全て実話である。

 数人から写真の挿入を勧められた。尤もな話であるが苦しい言い訳もある。パソコン(PC)の知識が乏しいので、やむなく写真や体裁は二の次にして原稿用紙を借用するだけのつもりで、サーバーN社の簡易ソフトのホームページ(HP)を利用することにした。少しは写真のスペースもあったのだが、ブログ時代の到来でこのHPのサービスが中止となった。辛うじて既掲載文の廃止は免れたが、写真の入れ替えが出来なくなった。スイッチしたブログは「既存文の上部に新規文を記述する」方式である。読みづらく不便をお掛けした。この場を借りてお詫びを申し上げる。“急がば回れ”と事前にHPの作成技術を習得してから始めれば良かったと後悔したが、執筆に追われる自転車操業では到底余分の課題をこなす時間がないまま今日に至った。

 少年から社会人になるまでは思い出すままを書き、海外駐在を始めてからは小さな手帳と写真が資料となった。事前に予定した企画ではないのでメモなど残しておらず、資料と言えるものはそれだけである。その当時に見聞した異文化体験を生のままお伝えしたいとの思いから、時には辞典で年代などを確認することはあったが、新たな情報は求めなかった。もし、史実に反する内容があればご容赦願いたい。当時、大感激した異文化や新知識もグローバル化とインターネットの到来で、今では陳腐な情報となってしまった。それを得意げにご披露することに忸怩たる思いを禁じえなかった。

 万里の長城に立って辺境に嫁がされた美女王昭君や宮刑を受けても『史記』を書上げた司馬遷に涙し、西安の兵馬俑群を眼前にして始皇帝生誕の秘話を思い起こし、華清池では楊貴妃と玄宗皇帝の『長恨歌』を口ずさみ、蘇州の虎丘塔を見上げて臥薪嘗胆で知られる呉越の死闘を偲んだ。旅行ブームの昨今であるが、初めて見る絶景、歴史的文物、美味しい食べものに出会えることこそ、旅行の醍醐味であろう。とりわけ歴史的遺跡を訪れて得られる感動の大きさはその人が持つ知識の深さに比例すると思う。

 幼少年期、学生時代、国内勤務時代、海外駐在時代と夫々に読者ができた。特に中国編では司馬遼太郎の歴史観、陳舜臣の歴史物語、邱永漢の食文化を紹介する紀行文の再現を夢見た。到底及ばぬものになったが、もし、ご自身の経験と重ねた、或いは旅心を誘われた読者がいたなら望外の喜びである。最初から最後まで継続した読者は多くないかも知れないが、多くの先輩や友人たちから折に触れ激励や感想を頂戴した。この場を借りて衷心より感謝を申し上げたい。

 かつては北向きの書斎と南向きのリビングを季節ごとに机を往復させていたが、デスクトップのPCを買ってからはリビングの片隅が定住地となった。執筆は殆ど夕食後である。テレビの音が耳障りで寝室のテレビへ妻を追いやることも一再ではなかったし、逆に読書や家計簿つけに余念のない妻に問いかけることも再三あった。「心頭に来るか?」と問えば、「いいえ、心頭に発す、です」と。「ロトするの漢字は?」と辞書に無いのを訝しがると「それは吐露するでしょ~お」との回答。先日も辞書に無いので聞いたら「田舎の方言なのでは?」とのご卓説であった。ソファにもたれて紅茶を片手に一緒にテレビを見る風景とは程遠い生活となった。この機会に妻にも感謝とお詫びを表したい。

 司馬遼太郎の文体を意識し、深田祐介の“ですます調”を真似ようとしたが、文字数を気にして、直接的な事実描写が多くなった。いたずら時代を『少年H』に倣って事細かく活写し、その後も同じペースを続けたので、予想外の長文となってしまった。不思議なもので、皆さんと共有したかった思い出話も、書いてしまうと端から忘れてゆく。「おぼしきこと言はぬは腹ふくるるわざなれば」との『徒然草』の兼好法師の言葉を想い返している。そんな訳で今は頭の中は空っぽになった。別の趣味を求めて新たな一歩を踏み出す好機かも知れない。

 退職した当時、――これからはテレビの番をして悠々自適の日々を過ごそう――と思い、
 「テレビを相手に文句を言う分には誰をも傷つけないし、誰からも咎められない。第一お金も掛からないのが、年金生活者には何より好都合」
と言って憚らなかったが、こうも連日、不正、人災、殺人のニュースが相継ぎ、テレビに向って罵声を浴びせていると、声が嗄れ、胃が傷み、血圧が上がる。他人を傷つけないが、我が身がもたない。日本は何時から誰のせいでこうも堕落してしまったのか?この先どうなるのか?長年海外に住んで民族意識が高まった興三さんとしては、大和民族の行く末を案じないではいられない。

 「他人の思い出話など面白くもない。まして自慢話などくそ食らえ。今更、会社時代のことなど思い出したくもない」とおっしゃる御仁もおられよう。こう言っては何だが、読んで貰うよりも「思い出」を一人楽しむために書いた側面もある。苦労話を書いてもつまらないので、極力面白可笑しく書くように努めた。仕事や実生活をとおして学んだ事は多いが、会社での処世術や人生訓の類を書くことは極力抑えた。ただ、永年外国生活をした者として、若者の日本語能力の低落については無関心を装えず、少し苦言を呈した。

 「過去を振り返らず、前向きに生きよ!」と一億人総合唱の昨今である。世間に背を向けて思い出話に没頭した4年半であったが、お陰でリーマン・ショックへの対応が遅れて保有株と投信が半分以下になってしまった。流行に逆らった報いと言うべきか。それでもその間、非常勤薬剤師の仕事を続け、ジム・プールに通い、最近では山歩きの趣味も加わった。『思い出エッセイ』のお陰で友人の幅も広がった。

 終戦の翌年に小学校に入学した戦後一期生である。小学校で「ミレー」の絵を知り、中学でベートーヴェンの「田園」を聴いた。大学の時、レコードでフィシャー・デスカウの「冬の旅」を聞いてドイツに憧れた。いずれも西洋文化である。しかし、仕事がアジア中心になってからは自らの関心と趣味を中華文化に封じ込めてきた。ところが一昨年、ドイツロマンティック街道を旅行して西洋文明へ関心が呼び覚まされた。今一度、西洋史を紐解いてみるのも悪くないような気がしている。

 『思い出エッセイ』の出版を勧める言葉も頂戴したが、“他人の夫人と自分の文章は美しい”とは上手く言ったもので、我が文も決して棄てたものではないと悦に入ることもあったが、さりとてこんな話がお金になると思うほど自惚れてはいない。一方で人生の中で充実していた時代を思い起こす“回想法”は、脳を活性化し認知症に有効と聞く。再編し写真を加えて一冊のファイルか或いはCDに記録しておけば、役立つ時が来るかも知れない。何よりも後に残った妻が身勝手な“だんつく”を思い出す縁になれば、これこそ本望と云うものである。

 小津安二郎の「秋日和」は好きな映画である。三人の初老紳士(佐分利信など)が学友の法事のあと割烹店で遺児アヤ子(司葉子)の結婚の相手を探そうということになった。かつて憧れたアヤ子の母親秋子(原節子)に近づけると、夫々が密かに心を躍らせる。こうして三人は老いの寂しさを感じながら良縁さがしに奔走するのだが、アヤ子は佐分利信の部下(佐田啓二)と知り合う。結局、三人は結婚式の後、もとの割烹店で本懐を遂げられなかったことを悔やみ互いにひやかし合うのだが、
 「それにしても面白かったなあ~」
としみじみ語って幕となる。これから先、どんなドラマが我が身に起こるか判らないが、願わくば平穏無事に過ぎ、最後は「ああ、面白かった!」と言って我が人生を終えたいと思っている。

 長い間、拙文にお付合い頂きご友誼とご声援を賜ったことを深く感謝している。衷心よりお礼を申し上げる次第である。皆さまお元気で、再見!  

「思い出エッセイ」 完 (古希を迎えたばかりの2009年7月15日)

163)日本人の遥かなる旅路(後編・日本人の渡来と形成)
A) 日本人起源論の源流
①アイヌとコロボックル説
 ドイツ人シーボルトによる「アイヌ日本人起原説」は日本人のルーツ探しの嚆矢となった。大森貝塚の発見者、米国人モースは貝塚出土の四肢骨はアイヌのものでなく、先住民であると「プレ・アイヌ説」を提唱した。また化粧水のベルツ水で名を残すドイツ人ベルツは、日本人がアイヌ・北方蒙古・南方蒙古からなると「三系統説」を提唱した。彼が述べた日本人の体型や容貌などの特徴描写は今も高い評価を得ている。坪井正五郎(東大)はアイヌ伝承の“低身で蕗の下に住み忽然といなくなった”コロボックルは先住民であったが石器時代にアイヌに駆逐されたとした。フィリピン駐在時代に我が家の庭師が低身・褐色・特異な面相のネグリットと知った角君としては、コロボックルの存在を信じたい。

②海上の道
 明治31年、青年柳田國男は伊良湖岬で黒潮に乗って遠い南の島から流れついた椰子の実を見つけた。その話を聞いた新体詩仲間の島崎藤村は「その話、もらったよ」と言って『椰子の実』を作詩した。戦後、北方騎馬民族説が話題となると、それに疑問をもつ民俗学者柳田はその著書『海上の道』で「貨幣としての宝貝を求めて中国から来た人々が宮古島に住み着き、稲を伝えて日本人の祖先となった」と仮説を発表した。しかし、論議するまもなく翌年の昭和37年に世を去った。この「海上の道」説は、稲は韓国経由と信じる考古学者たちの反対で学会では承認されなかった。

③北方騎馬民族征服王朝説
 東洋史学の江上波夫は昭和23年に“日本民族の源流”を探るシンポジウムで「統一国家の出現と大和朝廷は、東北アジアの夫余系騎馬民族により4世紀末ないし5世紀前半に創始された」と述べた。前期古墳の副葬品が農耕民族的なのに対し、後期古墳の副葬品は武器・馬具・服飾品が大陸の騎馬民族の特徴をもつことからの発想であるが、学会の賛同は得られなかった。特に佐原真は「日本文化の中に去勢、宦官、食肉、飲血、生贄などの習慣がなく、日本人は一貫して農耕民族であった」と主張して真っ向から異を唱えた。

④日本語タミル語起源説
 日本語学者の大野晋は還暦の年に南インドのタミル語に出会い、インド南方やスリランカで話されるタミル語と日本語との基礎語彙が似ていることから、タミル語が日本語の起源であると発表した。しかし、南インドの文明が日本へ伝わり、弥生文化を生む原動力となったとの文化論にも言及したせいか、弥生文化の源流は“韓国と稲作”とする学会の賛意を得られなかった。

⑤徐福伝説
 「史記」の『漢書』によれば紀元前3世紀の初め斉の方士徐福は「東海にある蓬莱島の三神山に不老不死の仙薬を取りに行く」と言って始皇帝から巨額の資金を得て童男童女3000人を連れて山東省を出港し彼の地で王になった(暴政から逃れたとの一説もある)。そこが日本であったとの記述はないが、日本全国20カ所に徐福伝説が残り、和歌山県新宮市はその宗主格。船団がばらけて各地に漂着したのであろう、と角君は考えている。

 これらの諸説は限りないロマンをかきたてるが、決して荒唐無稽な作り話ではないと信じたい。日本人の起原論は明治初期に来日した外国人によって始まった。爾来、考古学・人類学・民族学・言語学・植物学・遺伝子学など広範な分野で研究されてきた。以下、それらを紹介する。

B)日本の石器時代と縄文・弥生時代の区分
 酸性土壌の日本列島では人骨は残りにくいが、洪積世から出土した後期旧石器から4万年前には人が住んでいたと考えられている。1931年直良信夫が明石の海岸で腰骨の化石を発見した。この化石は東京空襲で焼失したが石膏模型が残り、戦後「明石人」と名づけられた。その後、葛生人(栃木県,1950)、牛川人(愛知県,1957)、三ケ日人・浜北人(静岡県,1959)が発見された。一方、1949年に考古学愛好家の相沢忠洋は、火山活動が激しかった洪積世末期の関東ローム層から黒曜石の石器を発見した。約2万年前には北海道と九州は大陸と陸続きで、この陸道を通ってヒトが渡来し旧倭人となったと想像できる。約1万2000年前までを「石器時代」と呼び、クサビ形細石刃は東日本型で、半円錐形細石刃は西日本型といわれる。

 「縄文時代」は約1万2000年前から始まりBC500頃までの約1万年間続く。その間の文化は一様でなく草創期・早期・前期・中期・後期・晩期に区分される。「移行期」を経て、BC300年頃から「弥生時代」が始まり前期・中期・後期を経て、AD250からAD700年が「古墳時代」である。周知のとおり縄文時代や弥生時代は土器の特徴から名付けられた時代区分であり、縄文人や弥生人が生活していた時期や彼らの容貌とは必ずしも合致しない。

C)南方アジア人と北方アジア人
 シベリア大地でウルム大寒冷期のマイナス50℃を凌いだ人々は「寒冷適応」の身体を獲得した。体表面が少い胴長で短い四股と小さな耳たぶ。眼球の凍結を防ぐ一重瞼と蒙古襞(ひだ)。凍傷を防ぐ薄い髭と眉毛。冷気が直接・大量に肺へ流入するのを防ぐ狭い鼻腔と広く複雑な副鼻腔、それ故に凹凸が少ない平坦な顔。硬い食物を食べるだけでなく、咬んでなめし皮を作ったゆえに顎が張り歯が大きい。これらの小進化で「北方アジア人」即ち「弥生人」の特徴が生まれた。 

 それに対して「南方アジア人」、換言すれば「縄文人」の特徴は、低い背丈に長い四股、高い腰、四角な立体的で彫りの深い顔、太い鼻骨、二重瞼で瞳がパッチリ、厚い唇、大きい耳たぶ、濃い髭と眉毛。腋臭(わきが)と湿った耳垢(じこう)。柔らかな食物ゆえに歯は小さい。

 倭人には蒙古斑が見られるがアイヌには無い。しかし、その有無はそれ程の指標にならないと近年は反省されている。世界的に見れば日本人は酒に弱い。二日酔いの原因となるアルデヒドを分解する酵素が東アジア人には少ないからである。腋臭と湿式耳垢は相関関係にあり世界的な体質であるが、アジア東北部では腋臭が無いか軽度で耳垢は乾式である。序でながら、アポクリン腺から出たフェロモンを長時間保存しておくために腋毛と陰毛は縮れている、と考えられている。

 日本人ではA・O・B・ABの血液型が概略4:3:2:1の割合であるが、これは他のアジア人にも見られない特性である(古畑種基など)。Gm(免疫グロブリン)遺伝子の解析ではバイカル湖畔を源流にして四方に広がるモンゴロイドは南方型・北方型・中間型の3群に分けられる。南方型には華南・台湾・東南アジアの集団が、中間型にはモンゴル集団と華北・華中の漢民族が含まれ、日本列島の全集団は北方型で、アメリカ大陸・東北アジア・朝鮮半島の集団に属している(大阪医大・松本秀雄)。なお、バイカル湖畔が源流となった理由については、雪と氷だけの大寒冷期のシベリアでは食物は得がたく、人々はバイカル湖の魚貝水草を求めて集まって来たためであろうと、角君は推測している。

 GmやFm-DNA分析など遺伝子学の研究は、現代日本人は基本的には北方系の要素を持っていると結論づけているが、日本人の形質や文化には朝鮮半島や中国東北部の人たちと比べ南の要素が強く、単純に日本人が北方集団に属すると言いきれない側面を残している。このように遺伝学と形質人類学との結論は必ずしも完全には一致していない。

 “白血球の血液型”との異名をもつ、ヒト白血球抗原(HLA)の分析からは、渡来には
①中国北部-朝鮮半島ルート、②朝鮮半島-日本沿海ルート、③中国南部-(朝鮮半島)-北九州ルート、④中国南部-台湾・沖縄ルートが考えられる(徳永勝士・十字猛夫ら)。

D)イネと植物学
 日本列島の東はヒエ文化で、西はイネ文化といわれる。このような東西文化の相異は何に由来するのであろうか? 
・縄文時代、東日本の落葉広葉樹林帯(ナラ樹林帯)ではブナ・ナラ・クリ・クルミなどの堅果類、サケ・マスなど魚貝、シカ・イノシシなどに恵まれていた。一方、西日本の照葉樹林からの食糧供給はそれほど豊富でなく、縄文後晩期には既に焼畑農耕でイネ科植物を栽培していた。長江下流域から温帯ジャポニカが北九州地方に入った時に、西日本ではいち早くそれを採り入れたが、食料が豊富な東日本へは伝播が遅れたようだ。
・中国雲南高地を中心に西はアッサムから東は中国湖南省にいたる“東亜半月弧地域”の照葉樹林地帯はイネ・ダイズ・アズキ・ヒエ・ソバの起源地で、茶・納豆・コンニャク・ナレズシ・ミソ・麹・餅・漆・竹・絹・養蚕・鵜飼、高床式住居・鼠返しの階段・歌垣や妻問婚などの中心地といわれるが、日本にはこれら風俗習慣の全てがあり、アジア南部の影響は否定しえない(佐々木高明)。
・弥生文化を特色づけるのは稲作であるが、炭素14やイネのプラントオパール(*)からイネの種類と年代測定が可能となった。“DNA考古学”の言葉を最初に使った植物遺伝学の佐藤洋一郎は、10カ所以上の弥生遺跡から出土した米のDNAから水田耕作に適した「温帯ジャポニカ」だけでなく3分の1ほどが「陸稲の熱帯ジャポニカ」であることを発見し、縄文時代に既に陸稲が栽培されており、日本での稲作開始は500年ほど溯る可能性があると提唱。イネは朝鮮半島経由と考える考古学者が否定する「海上の道」の可能性を示唆している。
 (注記)
  *炭素の質量は12だが、宇宙線などで作られる「異性体炭素14」は一定速度で経年崩壊する。過去に動植物に取り込まれ現代まで残った遺跡中の微量の2種類の炭素の比率から動植物に取り込まれた炭素の年代が推定できる。但し、誤差が大きいので補正が必要で絶対的数値でない弱点がある。
  *イネ科植物は土中より珪酸を吸収蓄積し、葉の組織が腐った後もプラントオパールとして土壌や土器に残る。種類によりプラントオパールの形状が異なるので、イネの種類や生育時期を推定できる。

E)縄文人と弥生人
 北九州人や山口県人にみられる長身長頭の特徴を現在から過去へと遡及すると、弥生時代までは連続的な継続が見られるが、2800年前を境にして弥生人と縄文人の間には不自然な急変が起きている。この著しい形質変化をどう説明するかが日本人の起源論をめぐる長年の争点であった。鈴木尚はそれを生活文化の変化に起因する小進化と捉えたが、金関は朝鮮半島からの渡来人の影響と想定した。縄文晩期に北九州や山口県(土井ケ浜遺跡)に朝鮮半島から新しい文化を持つ人々が渡来し土着の人と混血した。しかし、その渡来は一時的で少数であったために、在来の縄文人の身長に大きな影響を及ぼすほどではなかったが、瀬戸内海沿岸から近畿地方には、その後も引続き大陸からの渡来が持続したと想像できる。日本全体で見ると近畿圏の体型はむしろ例外的である。「金関渡来説」は多方面の研究で裏付けられ、現在、日本人起源論の根幹をなしている。

 様々な渡来モデルが提唱されているが「もともと日本列島には旧石器時代人につながる東南アジア系の縄文人が居住していたが、東北アジアに由来するツングース系の人々が朝鮮半島経由で流入し混血し現在に至った。その結果、彼らの影響が及ばなかった日本南端の琉球と北端の北海道アイヌに縄文的な特徴が残った」と形質人類学者の埴原和郎は「二重構造モデル」を唱えた。埴原はまた、弥生から古墳時代にかけて起こった急激な人口の増加は、一般の農耕社会の人口増加率(年率0.1-0.2%)では説明できず、1000年間に100万人規模の流入があったと大量渡来説を提唱した。先の大戦後に200万人が大陸から台湾に移住した事実を考えると基礎人口の相異はあっても決して有りえない話でないと角君は考える。これに対し稲作農耕の定着による食料供給の増加が人口急増を招いた、と考える方が自然である(田中良之)などの、反論も寄せられている。尚、現日本人は弥生系が7割で縄文系が3割といわれる。

F)琉球人とアイヌ人
 沖縄はアルカリ性の石灰岩地帯なので、1万8000年前の港川人骨が日本最古の化石として残った。それから進化したのが縄文人と考えられるが、残念ながらそれ以後、沖縄には6000年前の貝塚人まで出土例がない。貝塚人は極端に背が低く顔つきも本土の縄文人と異なっている。コロボックルとネグリットの関係を信じる角君としては我が意を得た思いである。非常に古い時代に南方から沖縄人、本土縄文人、アイヌ人に移入したことをうかがわせるFm-DNAが報告されているが、12世紀グスク時代の人骨は形態学的に本土人との類縁性が見られ、貝塚時代以降の人の流れは南方からではなく、南九州からと考えられる(土肥直美)。アイヌ人も沖縄人と同様に弥生時代に日本に稲作をもたらした渡来人の影響をあまり受けてはいないが、単純に縄文人の延長というわけではなく、オーツク文化の影響も受けている。つまるところ、沖縄・縄文・アイヌの人々は形質的に似た部分は多いがFm-DNA的には互いに頻度勾配があり、沖縄は南の影響を、アイヌは北方オーツク文化の影響をより強く受け、本土人は混血が最も進んでいるといえる。

 最後にY染色体DNAについて簡単に説明する。Fm-DNAが女性の遺伝情報を伝えるのに対して、Y染色体は男性から男性へ伝えられる遺伝情報である。Fm-DNAに比較して突然変異を起こす確率が10分の1と少ない上に、分子が長大なので研究に使い難い欠点がある。今日まで残った僅かな資料を分析した結果では、人類の出アフリカの時期や世界拡散の歴史は、大まかにFm-DNAと同じである。日本にはC1とC3系統のDNAがあるが、C1は南からC3は北から日本に入ったと推定されている。

G)日本への渡来ルート
 ここ十数年、著しい進歩を見せたFm-DNA分析は形質人類学などによる様々の学説を裏付ける反面、相反するデータも提供した。しかし、「縄文人とアイヌ人は何処から何時来たか?」、「沖縄人とアイヌ人の関係は?」などについて決定的な答を示すには至っていない。恐らくは上述した全ての要因を含み、夫々の時代に様々な人たちが断続的に日本列島にやって来た。そして混血が進んだために最早DNAを使っても完全には解明できない、というのが真相であろう。独断と偏見を交えながら、これまでに得た知識を集約して角君が描く日本人の長い旅路を復元しよう。

①旧石器時代:
 ・長野県の野尻湖で約4万年前のナウマン象の化石が発見された。南方系のこの象を追って最初の一団が陸路で日本にやってきた。また3.5~3万年前「スンダランド」の縮小で南方アジア人が北部へ移動した時に一部が日本列島に到着した。 
 ・更に大陸と陸続きであった2万年前頃に寒冷化を避け食物を求め南下した北アジア人が徒歩でやって来た。北方人が使用したクサビ形細石刃文化がそれを示す。厳しい寒冷期を無経験ゆえに蒙古襞(ひだ)はなく朝鮮民族と容貌を異にする。
②縄文時代: 
 ・約6000年前に温暖化がピークに達しスンダランドが海没すると南アジア人が海上へ拡散。その一部が外洋カヌーで小笠原諸島を島伝いに北上して渡来した。
 ・「寒冷適応」を獲得した人たちが、5~4000年前、寒冷化を避けて北朝鮮から直接日本海を渡り、或いは朝鮮半島の東岸を南下し対馬海峡を渡った。この時アイヌの祖先はオーツク文化の影響を受けた。この頃は南北から来た人々が別々に集団を作り言語的にも民族的にも混交は無かった。
 ・3500~3000年前、渤海湾や山東省など東北中国から朝鮮半島を経由して九州北部や山陰地方へ渡来。
③縄文晩期~弥生初期:
 2800年前、稲作・照葉樹林文化を携えた人々が中国江南地方から北九州(含む山口県)や韓国南部に到来。温暖化による長江の氾濫は一つの契機であったろう。韓国南部→北九州とか、北九州→韓国南部のような一方向への渡来ではなく、江南から北九州と韓国南部の両岸に直接同時並行的に漂着したと考える方が自然であろう。

④弥生~古墳時代:
 ・大陸は歴史時代に入り、日本の存在が知られるようになり、天候異変・百済の滅亡・中国の戦乱のたびに五月雨式に到来した。
 ・神武東征の伝承は九州勢力が大和に移動して3世紀頃に大和朝廷を立てた史実を反映していると考えられる。単なる神話と軽視すべきでない。
 ・中国の史書は次のように大陸との往来を伝える。
  「楽浪海中に倭人あり、分れて百余国となす」(漢書・地理志)
  「西暦57年、後漢の光武帝は倭の奴国(なのくに)の使者に金印を与えた」(後漢書・東夷伝)
  「邪馬台国への道程・国々の戸数、倭人の風俗・卑弥呼・銅鏡百枚・倭国の大乱など2000字に及ぶ詳述」(魏志倭人伝;正確には『三国志』魏書東夷伝倭人の条) 
  「倭の讃・珍・済・興・武が建康(南京)に朝貢の使節を送った」(宋書)

 序なので邪馬台国にちょっと寄り道してそのサワリをご披露する。『魏志倭人伝』が伝える邪馬台国の所在については九州説と畿内説がある。卑弥呼の墓を箸墓古墳(奈良県・桜井市)に比定するなど状況証拠は近年畿内説に傾いているが決着はついていない。帯方郡(ソウル付近)から不弥国(博多付近)までの道程には異論が少ないが、「不弥国から南に水行二十日で投馬国(五万戸)、更に南に水行十日陸行一月で邪馬台国(七万戸)」を文字どおり読解できないためである。多くの研究者が挑戦し“誤写や誇張”などの説明付きで諸説を展開している。
――<当時、中国では日本を朝鮮半島の南方に垂れ下るような島国であると考え、直角的に東方に延びる島とは考えていなかった。その先入観から「東」を「南」と記述した。20日間の水行で投馬国(天孫降臨地の日向国)に到着し、そこから黒潮に乗って10日後に熊野に上陸し1ケ月で邪馬台国に着く(第1案)。投馬国を吉備に比定し、そこから水路では10日、陸路を行くと1ケ月(第2案)。或いは日本海を行き投馬国を出雲に比定する(第3案)。対馬海流に乗って若狭湾へ、そこから琵琶湖を行くと10日、陸路を行くと1ケ月(第4案)>――と角君は解読し4種類の畿内説を考えついた。しかし、第1案は魏への復路の海流、第3案は出雲までの距離が短すぎ、第4案では若狭湾に大型の遺跡が見つかっていない欠点がある。第2案の瀬戸内海経路を考える。

 『魏志倭人伝』には「倭の地は温暖で冬夏生菜を食す。・・・寿命は百年、八・九十年」との記述がある。古代の天皇の寿命が百歳前後と超長寿であるところから『記・紀』は単なる神話だと戦後は無視されてきたが、古代は寒暖二毛作から今の1年を2年と計算していたと解釈すれば決して矛盾はない。新たな視点で記・紀を再考する必要があろう。また、「倭人は入水して魚貝を捕るが鮫の被害を避けるために刺青をしている」とその風俗を伝えている。その起源を南方の海中と想像していたが、これは長江流域の湖沼ではなったかと、昆明湖畔に立って考えついた。

 胡座、胡瓜、胡麻、胡桃など胡のつく単語は日本語に多い。「胡」とは西域とかペルシャ辺りをさす。これらの単語は現在中国では使用されていない。もし「胡座(あぐら)」が過去にも中国で使われなかったとすれば、日本人がペルシャ人の坐り方を見て名付けた呼び名となる。「鬼と天狗はルーツが違う。渡来した弥生人は先住の縄文人を見て鬼を創作したが、天狗は天孫降臨でニニギノミコトを先導した猿田彦神が原型で胡人に由来する」と第29話で角説を披露した。日本には芥川龍之介が描く腸詰のように大きく垂れぎみの鼻をもち髭が濃く彫が深いペルシャ人を連想させる顔の人がいる。また、拝火教や飛鳥の猿石・亀石・水落遺跡などはペルシャ人の渡来を感じさせる。

 日本語の起源から日本人のルーツ探しもなされているが、確証は得られていない。朝鮮や中国と地理的に近いにも拘らず日本語は孤立している。東北アジア系の祖語にオーストロネシア語やチベット・ビルマ語(照葉樹林文化圏)が重なり徐々に混合語ができ、最後に弥生時代にアルタイ系の言語が入ってきて日本語の文法が形成されたと考えるのが自然であろう。京大名誉教授で高分子化学が専門の友人は趣味の研究で日本語の起源をサンスクリット語と特定し、それを持って来たのはヒマラヤ南麗・ガンジス川流域に住んでいたチベット・ビルマ人が侵入してきたアーリア人の言語をとりいれたものと推定している。

 現在、隣国の中国や韓国では土葬だが日本は火葬する。釈迦は臨終にさいしてインド古来の風習に倣って火葬、即ち荼毘を指示したそうだから、火葬のルーツはインドであろう。最初に火葬された天皇は持統天皇であるが、日本で始まったのはそれ以前と考えられている。中国を旅行中に少数民族のイ族とチャン族は火葬で、日本人はイ族の末裔と聞かされた。イ族は長身細身で手足が長い。正に角君の体型そのもので、台湾や中国南部でも時折見かけた体型である。長江を下って来たイ族が2800年前頃にイネを携えて北九州や山口県に渡来したのかも知れないと、我が身のルーツを考えた。蘇我・大伴・巨勢・藤原・安倍・安曇のような中国や韓国とは全く異なる苗字は何処から来たのであろう。中国文化の大きな影響を受けながら飛鳥時代に早くも現れる日本独特の苗字の起源は何であろうか?

 遥か10~6万年前にアフリカを出た「新人」は“月の沙漠”と“海上の道”を通りユーラシア大陸の北と南から最東端の日本列島にたどり着いた。そこは四季折々の菜根、魚介、鳥獣が豊富な新天地であった。やがて縄文の人々は稲作を始め実り豊かな瑞穂の国を築いた。アジアの終着駅として流れ込む人口を支えるには過酷な時期もあったが、日本列島は決して資源が乏しく閉鎖的な島国ではなかった。むしろ水と緑と食物に恵まれた稀有な楽園で列島外へ出かける必要はなく、自然と共生する縄文の心情と文化を残してきた。先の大戦から目覚しい復興を遂げたが、過度の経済発展は山河を壊すだけでなく人心の荒廃までも招いてしまった。この先、日本はどのような道を歩むのであろうか? 民族の底力を信じたいが一抹の不安を禁じえない今日この頃である。 

 参考資料(書籍は発行日が新しい順に記す):
      知るを楽しむ(2-3月・09)「この人この世界・顔」 馬場悠男  NHK
      日本人のルーツがわかる本(1999の改定版)編集部 宝島文庫(2008初版)
      日本人になった祖先たち  篠田謙一  NHKブックス(2007初版)
      日本人のきた道  池田次郎  朝日選書(1998初版)
      日本誕生記  安本美典  PHP(1993初版)
      アイヌは原日本人か  梅原猛・埴原和郎  小学館ライブラリー(1993初版) 
      騎馬民族は来なかった  佐原真  NHKブックス(1993初版)
      騎馬民族は来た?来ない? 激論/江上波夫・佐原真 小学館(1990 初版)
      日本人は何処から来たか  松本秀  NHKブックス(1992初版)
      照葉樹林文化の道  佐々木高明  NHKブックス(1982初版)
       清張 歴史游記  松本清張  日本放送出版教会(1982初版)
      邪馬台国99の謎 松本清張編 サンポウ・ブックス(1975)
      日本人はどこから来たか  斉藤忠  講談社学術文庫(1979初版)
      日本人はどこから来たか 樋口隆康  講談社現代新書(1971初版) 
      ウエブサイト 倭人の形成 http://www.museum.kyuushu-u.ac.jp
        “    地球と生命の誕生と進化 http://nihon.matsu.net/seimei/
        “    地球史年表-Wikipedia  http://ja.wikipedia.org.wili/
      第17回浜田青陵賞シンポジウム「海上の道」は見えてきたか 岸和田市教育委員会編
   (7月上旬号 完) 次回、7月15日はいよいよ最終回のエピローグです。

162)日本人の遥かなる旅路(中編・人類の誕生と拡散)
A)人類の誕生と移動
 太古の昔、サルは豊富な食料に恵まれ樹上生活を享受していた。しかし、アフリカ大陸東部にできた大地溝帯(グレート・リフトバレー)による亀裂は東西を分断した。西側には昔ながらの豊かな森林が残ったが、東側は降雨量が減少し草原地帯となった。樹上を離れ草原での地上生活を余儀なくされたヒトの祖先は外敵から身を守り、直立二足歩行を始め、道具を使い火さえ会得した。700万年前にオランウータン類のラマピテクスから分れて「猿人」が誕生したと考えられている。大地溝帯の東側こそ“人類誕生の地”である。

 優れた知恵と食料に恵まれた「原人」は数と種類を増やした。しかしそれ故に食物を求めてアフリカを後にすることになる。180万年前にアフリカを出た「原人」はユーラシア大陸の沿岸を伝い東南アジアの「スンダランド」に到着した。その一団がジャワ原人となり、そこから北上したヒトは50万年前の北京原人になった(馬場悠男)。約50万年前にアフリカで原人から進化したのが「旧人」で、その一種族がネアンデルタール人であるが、結局、これら猿人・原人・旧人は絶滅した。20~15万年前に新たにアフリカに誕生したホモ・サピエンス「新人」の一種類だけが現在の人間につながる祖先である。この「新人アフリカ単一起源説」はDNA解析から有力視されているが、頭骨や歯の化石による形態人類学からは北京原人と現代モンゴロイドの間には連続性がみられ、かつてアフリカを出た原人たちがその後、地域色を強めて新人へと変化したとする「多地域並行進化説」もあり、両論の決着はついていない。

 近年、遺伝子を使った研究で新発見が相次いでいる。特に母系ミトコンドリアに含まれるDNAに記録された変異(以下、Fm-DNAと略称)をマーカーとして人類の足跡を追う方法である。但し、このFm-DNAは女性の移動を反映し男性のDNAではない。その為、男性だけが渡来して子孫を残した場合、その男性の遺伝子はFm-DNAに反映されないので、渡来の実績として残らない点は解読するさいに注意しなければならない。

 世界の人種はこれまで白色人種(コーカソイド)、黒色人種(ニグロイド)、黄色人種(モンゴロイド)と3種類(厳密にはオーストラロイドを含め4種類)に分類されてきたが、差別概念を含むので最近は使われない傾向にある。ここではヨーロッパ人、アフリカ人、アジア人と呼ぶことにする。しかし、Fm-DNAの解析では4大群に分かれる。そのうち3群はアフリカ人のみで構成され、残りの一群はアフリカ人(変異マーカー・クラスターL3)、東ユーラシア人(アジア・ポリネシア人:M)、西ユーラシア人(アジア人・欧州人:N)の3種からなる「混合集団」である。アフリカに残った「3大群と混合集団の一部」は変異を繰り返し多岐に分化したので多様な資質を保有していると推察される。一方、MとNの“小さな集団”は10万年くらい前から波状的にアフリカを後にし、ユーラシア、オーストラリア、シベリアへと拡散していった。

 出アフリカは2ルートに大別できる。その一群は氷河期で狭くなった紅海南端のバベルマンデブ海峡をアフリカから直接アラビア半島に渡り、海岸沿いにインドに到着した(アジアへの南ルート)。他の一群はナイル川を下りシナイ半島を横断して地中海東部沿岸を進んだ。その一部は中央アジアを通ってヒマラヤ北側の草原地帯に到達した(アジアへの北ルート)。残る一部が進路を西に変えて4万年前に欧州に到達したというのが通説であったが、Fm-DNAの解析ではインド人との共通性が強い。彼らがクロマニヨン人となり先住民のネアンデルタール人に遭遇し争いが生じたのであろうか、ネアンデルタール人は2万8000年前に絶滅した。

B)アジア人の拡散
 アジアに到達した「新人」は気候変動(寒冷化・温暖化・水位の変動)、天変地異(火山爆発・大洪水)、それに伴う食料不足や伝染病で、さらに後年になるとは戦火により移動を強いられ、三つの大きな選択をした。第一の人たちはインド南部から更に東に進み約5万年前にマレー半島から「スンダランド」をへて、島伝いに4万7000年前にオーストラリアに到達した。先住民族アボリジニの先祖である。尚、Fm-DNA分析によれば、4万年前に中国南部に祖先を持つ一団(クラスターB)が海岸沿いに北上してアメリカ大陸に入ったが、途中一部が日本列島に留まった可能性もある。

 卓越したマンモスハンターであった第二の人たちは3万5000~1万5000年前の氷河期に海面が低くなったベーリング陸橋(現在の海峡)をアラスカへ渡った。さらに1万2000年前ごろ北米を覆う巨大な氷床が解けると南下を始め、約1000年後には早くも南米大陸の南端まで広がった。人類は動植物や気候条件が似ている東西へは拡散しやすいが、南北へは難しいとの通説を考えると、米大陸南端への到達は驚異的に速い。近年は遺跡や形態人類学やFm-DNA分析などから、中南米へのルートは内陸部だけでなく、海岸沿いの南下、大西洋の横断、南太平洋ルートなど諸説が出されている。

 アジアに留まったのが第三のグループである。約3万5000~3万年前、温暖化で水位が上昇しスンダランドが縮小すると南方アジア人は北に押しやられ、さらに大陸中央部の人々はシベリアへと、玉突き状に大規模な移動を誘発したことを形態人類学は示唆している。しかし、2~1万8000年前にウルム期最寒冷期が訪れると、大半の人々は厳しいシベリアを逃れ南下したが、一部の人たちはバイカル湖周辺で厳寒を耐え凌ぎ小進化により「寒冷期仕様」の身体を獲得した。その北方アジア人が6~5000年前に南下した。この時期スンダランドが海没し「南方アジア人」は外洋カヌーで南太平洋へ漕ぎ出し、ポリネシア・ハワイ諸島・ミクロネシアへと散っていった。これらの移動期に一部の人々が日本列島にも到着したことは想像に難くない。   (6月下旬号  完)

161)日本人の遥かなる旅路(前編・地球と生命の誕生)
 台湾で駐在生活を始めて“人の顔”に興味を持った。日本人に似た顔もあるが隔たりが大きい顔もある。とりわけ日本時代に生蕃とか高砂族と呼ばれた台湾先住民は特徴的だ。台湾政府は彼らを山胞(山地同胞)と名付け同化政策を進めている。代理店のセールスボスの陳さんや嘉義のL眼科の院長は典型的な熟蕃(地縁血縁で漢化が進んだ先住民)の顔立ちである。公認の13部族の他に同数の非公認小部族もいる。彫りが深い四角い顔は南方アジアの典型で縄文人の特徴とも一致する。褐色肌の種族があればキメが細かく並の日本人より色白と思われる種族もある。

 その後、アジア各地や中国大陸を訪れる度に彼らの風俗習慣への興味が深まった。彼らはどの様にしてこの地にたどり着いたのか? 縄文・弥生・アイヌ・沖縄の人たちとの関係は? 日本人は一体何処からやって来たか? などと自問自答し新聞や書籍を手にするようになった。『思い出エッセイ』はその当時の見聞や読書から得た知識だけを頼りに、これまで書いてきたが、目覚しい科学の進歩で新発見が相次ぐ今回のテーマに限り、新知識を補充しながら「日本人のルーツ」を追跡する。
                        * * * * * * * * * *
 遥かな、遥かな、気の遠くなるような更に遥かな太古の昔、暗黒と静寂、何もない世界があった――そして、粒子と反粒子、換言すれば「存在」と「あいまい」の間を瞬時に往来する超高温で超微細の宇宙が誕生した。それはある時、突然大爆発を起こした。今から137億年前にビックバンで超微小な宇宙が超高温、超高速で膨張(インフレーション)を始めた瞬間である。説明困難なこの奇跡をある科学者は“神の一撃”と呼んだ。超高エネルギーの素粒子たちが互いに激しい衝突を繰り返しながら次第に成長し100億年前に銀河系が生まれ、超高温の“ガス釜”の中で無機物が次々と創られ46億年前に太陽系と原始地球が誕生した。そして地殻ができ海水ができた。38億年前に深海の火口で窒素や硫黄を材料に生命が誕生した(隕石が海に衝突したさいの蒸気雲の中で有機物ができた、との新説が08.12.8の朝日新聞に掲載)。再び無から有の奇跡が起きた。27億年前にシアノバクテリアが大量に発生し地球上の酸素が急増していった。10億年前に多細胞生物に進化して9億年前に有性生殖を始めた。6億年前にカンブリア爆発と呼ばれる生物の多様多量化が起こった。

 古生代(5.7~2.5億年前)に入り4億年前に海より植物が上陸し、それを追って動物も上陸する。しかし、2.5億年前に生物種類の90-95%が死滅する(ペルム紀)。中生代(2.5億年~6500万年前)の2億年前にパンゲア大陸が再分裂して、現在の大陸の姿へ変化を始めた。その頃、哺乳類が生まれ、1.5億年前には始祖鳥が出現した。1億年前に恐竜が全盛したが、6500万年前に隕石衝突による環境の激変で絶滅した。恐竜が消滅すると哺乳類が大型化を始めた。7000万年前にインド亜大陸とユーラシア大陸が衝突し、2500万年前にヒマラヤ山脈の形成が始まった。新生代 (6500万年前~現代)に入り霊長類が登場する。5500万年前のアダピス類が初期の霊長類といわれる。2500万年前には最古の類人猿が誕生し、1300万年前にはユーラシア各地に広がった。

 地質学的には1000~500万年前にプレート移動によるマントルの突き上げでアフリカ大陸の東側を南北に走る大亀裂が生じた。今も成長を続ける“大地溝帯”である。180万年前に地球は洪積世(第四期氷河期)に入り、4回の氷期と比較的温暖な3回の間氷期があった。その間に原人、旧人、新人が現れる。文化史では旧石器時代とよぶ。7万3000年前にスマトラ島のドバ火山が大噴火し、その後数年間地球の気温が3~3.5度低下した。これにより人口が1万人以下に大激減し現在の人類に繋がる種族のみが残り、遺伝子の多様性が減少した。これを“ボトルネック効果”という。2万5000年前の姶良(あいら)カルデラ大噴出は西日本の環境を激変させた。また、7300年前に鹿児島・鬼界島が大噴火し火山灰は天空を覆い東北地方南部にまで達した。

 2万年前に最終氷期(ウルム氷期)のピークとなり気温は7~8度も下がり、氷河が発達し海面は現在よりも100~130m低かった。その後は温暖化に向い1万年前に沖積世(現世)に入った。氷河が溶け大洪水は土砂を運び沖積平野を形成し、海面は数10cm高くなった。一方、氷河期にインドシナ半島からマレーシア・インドネシアにかけて陸地であった“スンダランド”が水没を始め6000年前には大部分が海底に没した。また陸続きであったベーリング陸橋も水没し海峡となった。日本の本州は北は北海道・樺太と南は台湾・フィリピン・ジャワと陸続きで、日本海はちょうど湖のようになっていたが、徐々に島化が進み8000年前に現在の日本列島を形成した。このような寒冷と温暖による水位の変動や火山の爆発は植物生態を変え、ヒトの移動を促した。やがて人類は農耕を開始し、日本は旧石器時代から縄文時代へと移った。
   (*)「約・頃・概ね・ほど・とされる・ようだ・考えられている」などの曖昧・推測を表す単語は省略して記載した。以下も概ね同様である。

160)薬局と科学振興財団
 失業保険を受取りにハローワークに月に一回一年間通ったが、その度に就職活動の状況を係官から訊かれる。形式的な問答ではあるが少しは職探しの様子を報告しなければならない。再就職に興味が湧くが長年妻を一人にしてきたので、もう一度中国へ行くとはとても言い出だせない。新聞や折込み広告を見ると薬剤師の仕事なら結構ある。
 「父や兄が生業とした仕事を経験してみるのも悪くない」
と思い切って新規開店のスーパーマーケット内の薬店で管理薬剤師として働き始めた。大学を卒業して37年、初めて薬剤師免許をタンスの奥から探し出した。

 これまで会社での就業時間とは「朝9時から夕刻6時まで。月曜日から金曜日まで」と単純に考えていたが、世の中、そんな仕事ばかりではない。シフト制で土・日・祝日、昼夜の別無く働く仕事が何と多いことか。それにパートの人たちは上司の叱責を歯を食いしばって耐え忍んで頑張っているが、手にする給与は月に10万円にも満たない。稼ぐことがどんなに大変へんかと知った。薬剤師の時給は彼女たちの3倍に近い高額であるが、放棄したボーナス一回分を補充するには、これから1年間働かなければならない。現役時代に仕事を手抜きしたことは一度も無かったが、安寧な日々を過ごし得たことに改めて感謝した。

 お客は千差万別、誰もが紳士淑女ではない。むしろそんな人の方が少ない。時には客自身が何を勘違いしてか、衆人看視の中で
 「お客様は神様である」と言って声を荒げる人もいる。有名歌手が広めた言葉であるが、それは物やサービスを提供する側がお客様に敬意と感謝を込めて“心で思う”言葉であって、客自身が口にする言葉では決してない、と香港の小売店で学んだ。香港の商人は商売上手であるが、売り手も買い手も売買は対等と考えているようだ。金持ちのお客ほど丁寧な言葉を使い上品に振舞い、買ってやるといったそぶりなど微塵もみせない。

 幼少時に薬局の店先で遊びながら育ったせいか、客扱いには直ぐに馴れた。知識も経験も乏しいが、笑顔と平易な説明でフアンが次第に増えてゆく。他部門の苦戦を尻目に薬品部門だけが営業利益に貢献した。

 1年半ほど働いて今度は「調剤薬局」とはどういうものか知りたくなった。一般薬を売るのが「薬店」で、医師の処方箋に基づき医療用医薬品を調剤するのが「調剤薬局」である。幸いにも一般薬と医療用医薬品の両方を扱う「薬局」を見つけて勤務先を変えた。「調剤薬局」とは患者様(とお呼びする)から処方箋をお受けして薬をお渡しする仕事である。一枚の処方箋を基に薬剤師が調剤する一方で、事務官が代金計算などをパソコンで処理する。処方箋には「薬品名、成分の含量(mg数)、1日の服用回数、一日の錠数、服用日数など」が列挙されている。ベテラン薬剤師ともなるとそれを一瞥しただけで記憶して薬棚から採取するが、近視に老眼が加わり脳の老化も激しい角さんは処方箋は読み難く、一行さえも覚えられず、一字一句を拾い読みしながら薬を探し錠数を数える。はなはだ心もとない薬剤師である。仕事の手順は細分化され約束事が多いが、シフト制なので象徴的に言えば、文房具の置き場所さえ個人好みがあって論議の対象となる。まさに理系頭脳の個性豊かな薬剤師集団である。加えて薬剤師だけは就職には困らない結構なご時勢なので、気に入らなければプイット辞めて別の薬局をさがす。一人が辞職すると、広告を出して補充者を募る。広告を見た一人が今の職場を辞めて新しい薬局に移動する。こうして市場全体で欠員の連鎖が生まれる、といったユニークな業界である。

 患者様は医院で長時間待たされた挙句、やっと最終段階の薬局にたどり着いた、一分一秒でも早く薬を貰って帰宅したいと心がはやっている。ここにも我が儘な“患者様”がいた。いつもどおりの簡単なシップ薬の処方箋を持ってきて、
 「早くして、バスが来るから」はまだ解かるが、ドアを入るなり
 「早くして、信号が変るから」には唖然とした。朝から酒の匂いをプンプンさせて生保(生活保護受給者で医療代不要)の処方を持って来る年配の患者もいた。
 「なんと母子家庭が多いことか」と同情心で嘆息すると、
 「偽装離婚で生保を受けている人もいるようですよ」と同僚から教えられて、これまた言葉を失った。かつて日本人の行動規範の一つに“恥”があったが、お金の為には偽装離婚も辞さないとは、大和心は地に落ちたと言わねばならない。

 ここで2年近く働いて調剤業務にも慣れたある日、
 「一般薬の販売を角さんに任せたいので、そちらに専念して欲しい」
と女性オーナーに言われた。調剤薬局の仕事を続けたかったので、時給は低いが自宅近くの薬局に移った。不景気にもかかわらず63歳の高齢者にも仕事がある。薬剤師がこんなに重宝される世の中が来るとは40年余り前には予想もしなかった。

 そんなある日、現役時代の上司から電話を受けた。
 「武田科学振興財団で働く気はないか」
とのありがたいお誘いである。すでに厚生年金を受けているので、正規雇用となれば年金の殆どを放棄することになる。収入的には今の非常勤薬剤師の仕事を続ける方が有利であるが、もともと「何でも見たい、経験したい」との思いから始めた退職後の仕事である。
 「多少の収入の相違などまあいいや。かつての上司のお誘いこそ、もって瞑すべし!」
とお受けした。

 この財団は、武田家から寄付された医薬系古文書の保存公開、国内で権威ある医学賞の授与、医学研究者への助成などの非営利財団法人である。その一つに海外からの留学研究者へ研究助成金を支給する事業がある。仕事の内容は現地での選考段階から始まり、来日前後のお手伝い、帰国までの助成金の支給などである。英語と中国語の会話と海外駐在の経験が買われたのであろう。こうして永年お世話になった台湾、フィリピン、中国を含む世界各国から来日する医学研究者達にご奉仕できた。

 この仕事を通じて公的機関の年間予算の使用方法を垣間見た。「科学振興財団」は文科省の管轄下にあり、規定に基づき運営するわけであるが、年度ごとの収入と支出に過不足が無いことが原則である。世に言う「予算の使い切り」で、余剰金の次年度繰越は原則できない。余れば仕事をサボッタことになる。仮に右肩上がりのバブル期の国家予算を想定してみよう。前年の景気が予想外に良ければ今年の税収が予算超過し、お役人はその増税分を無理にでも年度内に使い切らねばならない。時にはムダ使いをしなければ使い切れるものではない。この上昇循環がフル回転すると、アクセルを踏み込むことになりバブルは更に膨らむ。しかし、「薬のライフサイクル」(78話)で述べたように、成長が一本調子で永遠に続くわけがない。いつかは市場在庫と需要が飽和に達し、バブルが弾け景気は下降する。爆発が大きくピークが高いほど傷も深い。そして不景気になると税収は前年割れの悪循環となる。つまり政府機関の仕事は好況を後押しするが、不景気も後押しして“景気循環を増幅”する仕組みとなっている、と悟った。何故、余剰金を次年度に繰り越せないのか“金融・財政・国家予算”の仕組みは浅学の身には今もって解けない謎である。経営の神様、松下幸之助氏がこの謎解きに挑戦したが官僚の壁は厚かったと何かで読んだ記憶がある。誤解であればお許し願いたい。

 2年間の契約が過ぎて、また調剤薬局で働き始めて更に5年近くが過ぎた。武田薬品を退職してから、いつの間にか10年になろうとしている。
 「これからは司馬遼太郎の『街道を行く』を読み、そこをゆっくりと在来線で一人旅をしたい」
と友人に語って退職をしたが、今もって実現していない。
 ――70歳を機に完全退職をして漂泊の旅に出るのも悪くないかなあ~――と、考えている。         (5月下旬号  完)

159)退職直前の風景
 香港総督府に99年間はためいてきたユニオンジャックが1997年6月30日に下ろされた。それを持ってパッテン総督は「ブリタニア号」に乗り込む。これまで幾度となく繰り返された総督帰国の船旅であるが、今回はこれが最後となる。撤退の儀式がテレビ中継されている頃、人民解放軍は深圳を出発し7月1日午前0時に香港域内の新界に入った。ここから夜間行軍を続け湾仔(ワンチャイ)のコンベンション・センターに到着し中国による式典に臨んだ。

 その97年の春からタイ国通貨のタイ・バーツ(TB)が徐々に下降を始めた。これまでタイ国は為替レートを米国通貨に固定するドルペッグ制を採用して金利を高めに誘導し、利ざやを求める外国資本の流入と輸出の増進で経済成長を促す政策を採ってきた。米国の「強いドル政策」に連動する形で95年からタイ国の通貨は上昇し、実勢との乖離が拡大してきた。そして97年5月14日にヘッジファンドがバーツに大量の売りを浴びせた。タイ中央銀行は準備ドルを取り崩して自国通貨を買い支えたが保有ドルは底をつき、7月2日についに変動相場制に切り替えると、25TB/$が下降を始め半年後には56TBにまで下落した。

 アジアの多くの国は自国通貨をドルペッグ制にしており、ヘッジファンドはタイに続いてインドネシア、韓国を餌食の標的とした。インドネシアの華僑は集められるかぎりの外貨を携えて米国などに一時避難を始める。さらにマレーシア、フィリッピン、香港へと伝播し“アジア金融・経済恐慌”へと拡大する。日本から原料を輸入して医薬品を製造販売する武田の現地子会社も巻き込まれる。輸入価額が実質2倍以上に高騰する反面、購買力は減退し会社の存続さえ危ぶまれる。大阪本社内では毎日のように対策会議が開かれるが堂々巡りで、これまでの25年間の努力は何だったのかと、情けない思いにかられた。

 韓国では「祖国の危機」と個人資産の外貨や貴金属を自ら進んで国に寄付する人が続々と現れる。正に日本の戦時中に行われた金属製品の供出運動を彷彿とさせた。翻って日本を見ると昨今、国と地方自治体の財政難が報告され、民間では経済の二極化が進み高額所得者は少なくないようだが私財を寄付したとのニュースはあまり聞かれない。ボーダレスの時代で国家意識が乏しくなったせいであろうか。公的機関が必要とする建造物などに寄贈者の名を冠すなど、智恵を絞って民間からの寄付を募れば、国や自治体の予算削減に繋がるのではなかろうかと思ったりもする。そんな事を考えていたら、一昨年春から始まったサブプライム危機はリーマン・ブラザーズ証券の経営破綻で100年に一度といわれる世界金融経済恐慌へと一気に広がった。

 1997年の夏に話を戻そう。為替による輸入原材料の高騰に加え、近年の経済成長でアジア各国の人件費は既に安くない水準に達しており、旧来の製法によるタイ武田や台湾武田のDsnの原価は、全自動(フルオートメーション)で製造する日本製品の原価より高くなった。更に貿易自由化の流れの中で各国の輸入税率が引き下げられ、現地で生産するよりも日本から完成品を輸入する方が割安になった。或いは何処か一国で集中生産してアジア域内で輸出入すれば税率は更に低い。最早、国毎に製剤するメリットはないと、現地工場閉鎖の検討が始まる。加えて日本市場のパイ拡大が望み薄となれば会社の基本方針は国際化の更なる深化である。それと並行するように、日本のデフレ進行の中で社内改革が始まった。年功序列の賃金体系を廃止し、年初に一人ひとりが業績目標を設定し会社に自己申告する。その成果に基づき賞与と次年度の昇給が決まる信賞必罰の給与体系の導入である。

 こんな中でH部長との業績評価について個別面談が始まった。
 「目標達成度で業績を評価する意味は理解するが、先般のCtn事件の解決をどう評価してくれるのか? 厳密に制度に従えば今後は自己申告しなかった仕事や難題には誰も手を出さず、同僚を助ける人もいなくなりますよねえ~」
と、角さん皮肉交じりに質問すれば、
 「それは例外的な問題。今は制度導入が先決で徐々に改良を重ねることになろう」
との予想した説明が帰ってきた。それ以上は言及せず、後は会社の進む方向での雑談的な問答となった。
  「国際化の意味は判るが、突き詰めると日本人の職場を削り外国人を雇用することに繋がる。そうなると日本人はどうしてメシを食って行くのですか?」
と問えば、
 「国際化の中では日本人もアメリカ人もない。会社にとって何が一番有利かだけが、意思決定のキーワード」
との回答。なるほどとは思ったが、同時に――これは新資本主義だ!――と、角さんは心で叫んだ。かつて、資本家は労働者を酷使し利益を得たが、野麦峠や蟹工船で象徴されるように、それは労働搾取と非難された。しかし、今は他国で外国人を雇用して会社経営にあたる。一部の有能な者だけが本部の正社員として高給を享受し、その他大勢は職を失う。こうして得た利益は株主で分配する。会社のサバイバルと株主の利益だけが目的の会社経営ではないか! 就業は国民にとって必要最低限のボトムライン。不就業者が増えれば社会不安は一気に拡大する。角さんは永年海外で過ごして来たせいか、日本と日本民族の来し方行く末に関心が強い。

 天津の製剤工場は中国最初のGMP工場(76話を参照)の栄誉をうけて稼動を始めた。しかし、中国国内の販売は意に反して伸び悩んでいる。ある日、T部長に呼ばれて
 「天津武田の製品教育と拡張活動を支援して欲しい」
と新しい仕事を仰せつかった。これまで中国市場で得た販売のノウハウを子会社に生かせと言うわけである。
  「定年まで残り1年となり、用意してくれた格好の花道かも知れない」
と考える。対象品目は香港時代に扱ったタケプロンで、製品知識は持っている。
  「しかし、中国語の専門用語の勉強が必要だ。おまけに中国でもパワーポイント機でのプレゼンテーションが始まっている。そんな時代に手作りのOHPシートでの製品教育は見劣りするなぁ~」
と、うっとうしい気持ちが頭をもたげる。同じ頃、国際本部長が交代し、若返りと部内改革が加速する。日を経ずしてT部長は他の事業部に移り東京に転勤となった。定年を間近かに控えての故郷(ふるさと)人事である。

  中国語での教育資料の作成を急いでいるある日、天津武田からの日本人出張者と本社の担当課長との会話が耳に入った。角さんの中国出張の旅費を本社側が負担するかそれとも中国側が引き受けるかとの相談である。互いに負担の回避を目論む様子を小耳に挟んでムッときた。儀礼的だけでも“三顧の礼”で支援を求めれば良いものを、僅かばかりの経費負担で押し問答をしている後輩二人の思慮の無さを腹立たしく感じた。
  「こんな輩に使われたくない。今なら最後の早期退職優遇制度の申請に間に合う」
  「ボーナス1回分を失うのは惜しいが、定年までの月給は補償されるので、一年間失業保険を受けて、その後は厚生年金を貰えば帳尻は大差なかろう」
などと考え始める。そうなると後輩たちの日々の言行が苦々しく、小事にこだわり結論が出ないアジア金融恐慌への対応会議が無意味に思えてくる。『東南アジア各国の医薬品登録制度』を調査する特命業務をちょうど終えたところである。製本し海外子会社や関係部門に配布を終えたのを機に退職願いを提出した。事前にワイフに相談したら
  「ああそう。好きにしたら」
と簡単な一言が返ってきた。定年を9カ月後に控えた98年10月1日付けで、“定年扱いの早期退職優遇制度”の最終便に飛び乗った。突然で前日まで仕事をしていたので有給休暇を丸々残しての辞表提出であった。    (5月下旬号  完)

158)日本の宗教
 58歳の誕生日が過ぎて定年退職後のことを考え始めた。
――今まで真面目に働いてきたのだから、贅沢をしなければ夫婦二人くらいは食っていけるだろう。しかし、日々どう過ごすか? テレビの相手だけではつまらないし・・・。中国へ行って日本語の先生でもするか――
近年、日本での生活が途絶えている身にはそれくらいのことしか思いつかない。そんなある日、通信教育の受講料の半分を会社が負担してくれると知って“日本語教師養成講座”を申し込んだ。四苦八苦しながら6カ月がやっと過ぎた頃、卒業論文が必要と知らされた。幾つかの課題の中から「日本語と英語の語彙」と「日本の宗教」の2題を選んだ。外国人と食事をする時などに「日本の宗教」は当たり障りのない格好の話題であった。

 「多くの日本人は誕生後まもなく父母に抱かれて神社に参詣し、キリスト教会で夫婦の契りを結び、死後は子供たちの手でお寺に送られる。慶事には神社に参拝し、お墓は先祖を祀るためであって吉祥の場ではない。寺院に行くのは観光の時くらい。節操を欠き曖昧な宗教心である」
などと日本人の宗教心を揶揄してきた。しかし一方、駐在地の海外から日本を見ていると日本文化にそこはかとない魅力と愛着を感じる。特に根拠があるわけではないが、日本人の深層には縄文時代の宗教観が流れているのではないかと感じる。そうして書いた卒論の「序文と結び」をご披露する。今読めば訂正したい箇所もあるが、そのままを転書する。
             * * * * * * * * * *
 (はじめに)
 日本人にとって正月の初詣とお盆のお墓参りは欠かせない行事である。この二つの祭事を中心に生活と季節感が循環している。初詣には神社に参拝し、お盆には先祖のお墓に参り“神仏”に祈願する。キリスト教でみられる神への懺悔と感謝とは異なり、自身や家族の念願成就や健康と幸福を祈願するのが一般的である。

 古来、日本人は自然崇拝の多神教であった。飛鳥時代に仏教が伝来しその受け入れをめぐって政治的対立があったが崇仏派が勝利し、平安時代には最澄と空海が中国より仏教思想と経典を持ち帰り日本仏教の基礎を確立した。特に“真言密教”は長安で恵果が空海だけに直接伝授したので日本にのみ残った。鎌倉時代に至り新派仏教の誕生と禅宗の伝来により日本仏教が開花した。その間、極楽浄土願望や末法思想が広まった。戦国時代にはキリスト教が伝来したが、江戸時代には禁止令が出た。一方、古代神道は儒教や道教の影響を受けて日本神道へと形を変えた。特に、死者の霊魂を恐れる怨霊思想や神仏習合思想は日本の宗教を特徴的なものとした。中世の神道優位論は幕末の討幕運動の精神的支柱となった。応仁の乱は京都を灰塵にしたが、明治維新の廃仏毀釈による廃寺令は日本全国の寺院を破壊した。さらに、太平洋戦争中は神風思想が広まった。戦後“信仰の自由”が憲法で保障されたことが、かえって宗教心の衰退を招いたようである。これらの点を中心に日本語教師に求められる基礎知識として日本の宗教を概説する。
 (本論)   省 略
 (結び)
 1990年文化庁発行の宗教年鑑によれば日本人は43%が仏教を、51%が神道を、1%がキリスト教を、5%が其の他の宗教を信じている。延べ合計2億1,100万人であり、ほぼ1人が2種類の宗教を信じている計算になる。

 古来、日本人は山川岩石草木、鳥獣虫魚、地震雷火山と、あらゆる自然や現象に宇宙の不思議な生命力が宿っていると信じ、それを霊力、霊魂、神として畏敬してきた。この自然崇拝、怨霊忌避、輪廻思想、先祖崇拝は日本人の信仰の源泉である。日本人の精神生活を見るとき、儒教や仏教は表層部分を形成し、深層部分に原始神道があった。神と仏、神道と仏教をうまく分業させ、また共存を計ってきた。これは精神の二重構造と言うより、むしろ深い宗教心と英知から生れた神仏の融合であろう。四季を通じて行われる神事や仏事はこの中から形成された祭事であり、日常の営みであり、農業生産への知恵と祈願であったと考えられる。

 宗教が為政者の利用、迎合、弾圧の対象とされつつも、貴族から武士へそして大衆へと浸透し拡散していった。島国ゆえに数少ない外部からの伝来の機会を真摯に受け止め、独自の高い文化と深い宗教心を醸成した。仏典はサンスクリット語が漢訳されたもので、難解なゆえにその真理や教義がなおざりとなり、意味不明のまま“念仏を唱える”ように簡略化・形骸化された。キリスト教のバイブルと違い仏教の経典を読んで理解できる人は殆どいない点は残念と言わねばならない。

 しかしながら、日本人は決してご都合主義でも宗教心に乏しい民族でもない。不幸にして戦後の占領者により、古来伝えられてきた神事や仏事あるいは文化までもが迷信と一蹴され、敗戦の失意と自信喪失から、外来者の短絡的見解を鵜呑みにした結果、現在の無宗教的混迷を招いたと考えられる。精神のバックボーンを失い、倫理や規律が乱れ、歪んだ欧米指向や科学意識に陥っている現在の日本の社会を見る時、今一度、先人の英知を思い起こすことが求められる。                  
             * * * * * * * * * *
 最近始めた山歩きの途中、至る所で廃寺跡に出くわす。そこには必ずと言っていいほどに「明治維新の廃寺令で破壊された」との説明札が立っている。世界遺産を最も破壊したのは中南米でのスペインであり、日本遺産を破壊した最大の元凶は廃仏毀釈かも知れないと立て札を前にして心を痛めている。           (5月中旬号  完)

157)青島・周口店・盧溝橋への旅
 帰国して休むまもなく上海四薬工廠が主催するパンスポリンのシンポジウム旅行の講師に招かれた。同社の薬剤師と営業部長と日本語通訳を含めた一行4人である。「上海四薬」は元々市営の製薬会社で販売には長けていないので、シンポジウムの仕方やパンスポリンの説明方法を習得する目的もある。「青島(チンダオ)・北京(ベイジン)・長春(ツァンツン)・上海」の4都市で実施する予定だが、北京郊外の盧溝橋と周口店を見学する余禄がついた。

 山東省の「青島」は膠州(こうしゅう)湾に面したヨーロッパの香り漂うノスタルジックな坂道の町である。1897年にドイツ人宣教師が殺されたのを理由にドイツ艦隊が上海から出動し膠州湾99年間の租借権を奪取する。しかし、1914年の第一次世界大戦を機に日本が15年~22年と38年~45年の敗戦まで2度にわたり領有する。ドイツの占領はわずか17年間に過ぎないが、この間に多くの西欧式古典建築とドイツ風味の“青島(チンダオ)ビール”を残した。滞在は1泊2日で観光は短時間海岸とホテルの周りを散策したに過ぎない。ヒマラヤ杉の奥にひっそりたたずむ赤い屋根の洋館を見ていると中国にいることを忘れる。中山路の坂道を下ると海上に突き出た前海桟橋に繋がり、500mほど先に回蘭閣という八角亭がある。前方に青島湾の大海原を望み、振り向くと赤瓦の洋館が美しい。白い砂浜は中国を代表するリゾート地である。“赤い瓦、緑の木、群青の海、紺碧の空、琥珀のビール”という青島市観光協会が欲しがるようなキャッチコピーを思いついた。

 タクシーをチャーターして4人で北京の西郊「盧溝橋」を訪れた。永定河(えいていが)にかかる全長235mの大理石でできた眼鏡橋(めがねばし)スタイル。橋の欄干柱には485の石像獅子が付いている。父と叔父に連れられ大都(北京)を訪れ、元朝皇帝フビライ・ハンに16年間仕えたマルコ・ポーロが帰国後に『東方見聞録』の中で、この橋を世界一美しいと称賛した。西洋では「マルコポーロ・ブリッジ」とよぶそうである。橋のたもとには“盧溝暁月”の碑がある。しかし、その美しさとは裏腹に盧溝橋は悲劇の舞台となった。1937年7月7日夜、演習中に銃撃を受けたとして翌朝、日本軍が中国軍を攻撃した。日中戦争から太平洋戦争へと続く8年戦争の勃発である。

 盧溝橋からさらに西南30キロの「周口店」を訪れた。龍骨山の洞窟から発見された50万年前の“北京原人”の故郷である。タクシーを下りて丘陵の石段を登る。そこから粗末な階段を下りると窪地があり、地表が剥き出しの断崖の脇に目盛り棒が立てられ各地層の年代を示している。窪地の左手を少し登った洞窟はひんやりと心地よく、一気に太古の世界に引き込まれる。

 かつて村民は生業の石灰採掘中に動物の化石を沢山発見した。この化石は漢方薬の龍骨として重宝されるところから、一帯を“龍骨山”と呼んだ。噂を聞いたスエーデンの地質学者が発掘した多数の動物化石の中にヒトの臼歯化石を発見した。周口店が世界に知られるきっかけとなった1926年のことである。翌年にはカナダの人類学者が再びヒトの臼歯を発見してシナントロプス・ペキネンシス(和名は北京原人、中名は北京猿人)と名付けた。そして29年、若き中国の考古学者、裴文中がほぼ完全な形の頭蓋骨を発見した。

 これまでに発見されたほぼ完全な頭蓋骨6個、頭蓋骨の破片12個、下顎、歯、大腿骨などは約40体分の老若男女と推定されている。約50万年前の直立猿人に属し、現代人に似ているが脳頭蓋が低く脳容積は現代人の80%で「サルからヒトにいたる過程」に位置するがより現代人に近いことが明らかになった。彼らは石器と火を利用し火種を保存したと推定される。採集を主に狩猟を従にした生活であったようである。

 発掘された6個の頭蓋骨はアメリカ管轄下の協和医学院に保存されていたが、日米関係の悪化を憂慮してアメリカに輸送することにした。しかし、41年12月8日開戦の混乱で5個が行方不明となった。日米中のいずれの手によるのか、故意か偶発か、今もって謎のままである。

  “猿人洞”を登った山頂近くの“山頂洞窟”から、更にその後に新たに頭蓋骨が発見され“山頂洞人”と名付けられた。山頂洞人が生息したのは、今から2万7000年前で、現代人と同じ頭蓋容積をもち原始モンゴロイドの特徴をそなえ後期旧石器時代人である。日本の縄文人に繋がる人々の可能性があると考えられている。小山を登り“山頂洞窟”を見学した。視界は広がり直ぐ近くの川が美しく弧を描いている。西安の半坡(はんぽ)遺跡でも、寧波の河母渡(かぼと)遺跡でも付近には川が流れ小沼があった。生活の場には森と水辺が欠かせないのであろうと思った。長春と上海でシンポジウムを開催して10日間のキャラバンを無事終えたのは香港の中国返還を一週間後に控えた1997年の6月下旬であった。
           * * * * * * *
 そして2006年、グループ・ツアーで妻と一緒に再訪したときには「北京猿人展覧館」が新設され、先史時代の遺品や模型が展示されていた。そこで入手した中文の雑誌『北京人04 2005』から一部の情報を参考にして記述した。   (5月上旬号  完)
      参考資料:『北京人、04、2005』(中文)

156)客家の故郷梅州への旅
 上海の李さんから、是非もう2回だけシンポジウム旅行を支援して欲しいとの依頼が大阪へ届いた。一箇所は広東省で、もう一箇所は天山山脈の北麓シルクロードのオアシス都市ウルムチである。出張すれば確実に実績が現れるのだが、実情に疎い本社の人たちが
 「そんな砂漠の果てに高貴薬の市場などあるはずはない」
と白眼視するのは目に見えている。後ろ髪を引かれる思いでウルムチは断った。今から思えば両方とも引き受ければ良かったと悔やまれる。

 広東省の「仏山(フォーサン)・肇慶(チーチン)・東莞(トンカン)・仙尾(サンウェイ)・梅州(メイズォウ)」は客家(ハッカ)の多い地域である。香港からマカオ・珠海を経由して仏山に入る。仏山と肇慶(ちょうけい)はマカオの北にあり珠江西岸の都市。肇慶は “端渓すずり”で知られた歴史ある町で、イタリアの宣教師マテオ・リッチが16世紀半ばに滞在し布教活動を行った。また鑑真を日本へ招くべく尽力した栄叡が志半ばで没した土地でもある。東莞は珠江東岸の深圳に隣接して中国の電子工業を支える工業都市である(第111話)。中国大陸東南端の田舎町に過ぎなかった深圳と東莞が、今は新生中国の経済発展を牽引しGDPで国内トップクラスに躍進している。

 海岸線に沿って車を走らせ仙尾に到着する。痩せた半農半漁の客家の村であったが、最近は発展著しい広州市の影響を享受している。小規模の説明会を終えた翌朝、医師の勧めで媽祖廟を参拝した。鄙にはまれな立派な廟に眼を見張った。「媽祖」は人々を苦しみから救い海難から守る中国東南沿岸の海神である。十世紀頃に海で悪天候に遭った父と兄たちを助けるために自らの命を犠牲にした福建省の娘の伝説が神格化したもので「天后」ともよばれる。客家の厚い信仰心と媽祖信仰が連綿と伝わっている。

 最後の目的地梅州に向う。“華僑客家の故郷”として知られる山中の旧い町であるが、近年は故郷への華僑送金が流れ込み目覚しい発展ぶりときく。大家族が共同生活をする集合住宅“客家土楼”は客家文化の特徴で、方形に囲む“囲屋(ウェイウー)”は古い時代の廟堂の形式を残していると言われる。福建省には円形の“円楼(ユェンロウ)”もある。小さなセダンに李さん、MRと角さん、それに運転手の4人が乗り、午後3時過ぎに仙尾を出発した。何時しか片側一車線の地肌道となる。時折、トラックとすれ違うだけで乗用車には出合わない。運転手にとっても初めて走る道で、大丈夫かと不安が脳裏を横切る。山間の登坂は蛇行しながら少しずつ勾配を強める。薄暮は何時しか暗闇の世界に変わりヘッドライトだけが頼り。高校時代に見た映画『恐怖の報酬』を思い出す。先日来の雨で道はぬかるみ、表土が削り取られ岩が剥き出し、加えて崖から落下したのか岩石も転がるデコボコ道。最早走れる状態ではなく上下に揺れ左右に走路を探しながら、一歩また一歩の超低速走行となる。生涯で初めて経験する悪路でとてもセダンが走れる道ではない。――それで乗用車と出会わなかったのか――と気づいた時はすでに遅い。

 上下の揺れで車底部を強打したのか突然車がエンコして止まった。4人が車外に飛び出してボンネットを開け懐中電灯で覗き込む。冷却タンクの蓋を外すと水蒸気が立ち昇った。エンジンが完全にオーバーヒートしている。峠道の頂上付近なのか比較的平らな直線道路である。はるか下方に一軒家の燈火が見える。運転手が懐中電灯を頼りに水を貰いに小道を下りていった。じたばたしても仕方ないと天を仰ぐと、久しぶりに見る星空である。ホタルなのか数個の光がゆっくりと浮遊しているが、点滅はしない。静寂のなかで妙に落ち着いた気持ちになる。時折、対向車線をトラックが驀進して通り過ぎてゆく。下界へ荷物を運ぶ深夜便なのであろう。後方からの車はさらに少ない。

 しばらくして汲んできたバケツの水を入れるがエンジンは動かない。万事窮したと悟る。時計は既に午前0時をまわっている。明日は昼食シンポジウムが控えている。鳩首協議の結果、車と運転手を残して3人がトラックに乗せてもらうことにした。しかし、後方からは車がなかなか来ない。一台目と二台目はこちらの合図を無視して通り過ぎていった。彼らから見れば我々は強盗追剥ぎの類であろう。必死の合図が通じたのか、三台目のトラックが事情を聴いてくれた。トラックの荷台で旅行カバンを枕にして仰向になると星空が美しい。

 事情を知った運転手が親切にも近道を採ってくれたが、これが仇となった。村落を通過する途中の泥濘(ぬかるみ)で車輪がスリップし動かなくなってしまった。これまた『恐怖の報酬』の名場面と同じである。エンジンを吹かす音を聞きつけて村人が三々五々に集まってくる。運転手と村長の間で相談が始まる。手助け代の交渉であろう。親切心はあるが無料とはいかない。一方、依頼する側も情けにすがるだけではない、中国式交渉である。話がまとまったのか綱を縛りつけ引っ張り、押したりと村人総出で力を貸してくれた。その間、角さんは荷台で息を潜めている。日本人が乗っていると判れば礼金は2倍では済まない。ようやく泥濘んだ窪地を脱出して、車は市内へ向けて再び走り始める。そしていつしか眠りに落ちる。何時でも何処でも即座に眠れるのが角さんの健康の源である。

  「到了、到了!(ダオラ、着いたぞぉ!)」の呼び声で目覚めると高地の朝は涼しい。小さなホテルでチェックインを終えてシャワーを浴びる。心配りの暖かい汁ソバでやっと人心地がつく。ベッドで手足を伸ばししばし休息してからシンポジウムへ向った。市内には建築途中で放置されたビルが目立つ。聞けば資材の高騰や資金繰りの悪化などで、アジア華僑からの送金が途絶えた結果とのこと。仕事を終えてその日の夕刻、飛行機で広州に向った。事故に遭ったせいで長年楽しみにしていた客家の故郷梅州の市内観光はできず、“客家土楼の囲屋(ウェイウー)”も見ることも出来なかったが、崖からの落石に遭わなかっただけでも命拾いしたと今は振返っている。      (4月下旬号 完)

155)老いた浦島太郎のトラブルシューター
 帰国の辞令は1996年7月1日付けであった。後任の浜崎君が台湾から転任して来た。彼とはフィリッピンで業務を引継いだ間柄である。2週間の引継ぎ業務を終えて8月19日に啓徳(カイタック)空港から関西空港に向った。天安門事件の9カ月後、経済がどん底の時に就任し、中国返還を10カ月後に控えて英領香港が最後の輝きを放つ時の帰国となった。思えば、着任直後に景気浮揚策としてランタオ島の沖合に新国際空港の建設が立案され、92年に英国保守党の実力者クリス・パッテンが最後の総督として就任した。帰国後に英国首相への就任がほぼ約束されていたが、本国での政権交代により保守党が野党に転落し、その夢はついえた。中国の改革開放政策や実力者鄧小平の南巡講話などを挟み、新国際空港建設は香港返還交渉と同時並行的に進行し、返還の翌年98年7月に完成した。返還前の完成にするか返還後とするかは最終交渉の焦点となった。中国としては建設国の名誉を英国に譲りたくないし、膨大な建設費も自分達で使いたいのが本音であろう。正に政治交渉である、と新聞を読みながら思った。

 かつて、駐在員夫人としてお洒落な出で立ちで台北の松山空港に降り立った妻も今はどっしりと貫禄がつき、台北双連幼稚園の年少組に入園した娘は知らぬ間に適齢期を迎えている。そして、研太郎の机の上には大学四年時の写真と止まった時計だけが残っている。振り返って見ると、今回の香港駐在は6年半、先の台湾とフィリッピンの12年間を加えると18年半の海外駐在生活で、その内単身赴任が12年間。その前の長期出張の正味1年半を加えると都合20年の駐在で会社勤務の半分以上を海外で過ごしたことになる。頂戴した大阪での職責は医薬国際本部国際営業部調査役、
――3つの海外赤字子会社を立て直し、台湾と香港時代に高利益を本社にもたらした割には評価が低いが、57才の役職満期ならば仕方ないか。五体満足で帰国できただけで良しとするか――と、自分を納得させた。

 「あっしにゃ~かかわりのねぇこって」
とテレビで木枯紋次郎がキザなセリフを吐いていた。
  ――厭な言葉が流行るなあ~――と、思いながら日本を後にした。21年経って見る日本はバブルの後遺症にあえぎ、大人は自信を失い若者は節度を無くし、助け合う余裕などさらになく、互いに無関心を装うか、口先だけの愛想会話が蔓延している。職場の顔ぶれも環境もすっかり変わり、国際本部長を除き自分は最長老格。文字通り老いた浦島太郎である。真っ先に出口さんの席に帰国の挨拶と長年面倒をみて頂いたお礼にゆく。駐在を始めた頃には、月刊雑誌『幼稚園』と正月には“おもち”を送って下さった。留守中の預貯金の管理から家族の面倒まで公私ともに大変お世話になった。いくら感謝してもし過ぎることはない。美人の誉れ高い彼女も既に目じりに小じわが目立つお歳になった。

 帰国して食べたラーメンが塩辛いのには閉口し「ラーメンのスープを飲み干す人に銭を貸すな」と云う台湾の俗諺を思い出した。高血圧を患い脳卒中で倒れて回収不能となるからとの意味である。中国のスープは香辛料のコクはあるが、決して日本のスープほど塩味はない。長年の海外生活で味覚が中国人仕様に変質したのかと思う。その意味で自分が旨いと思う中華料理を皆さんにお勧めするのに躊躇する。

 出社したその日に若い女性職員が
 「これで仕事をして下さい。社内連絡などはこれを見て下さい」
と言って机の上にパソコンをドーンと置いていった。10年前に上司が予想したようにパソコンで仕事をする時代が到来していた。若い女性の親切にすがりながらパソコン操作を習い始める。御堂筋に面した新築ビルのオフィスは今風に整理されファイル類はロッカーの中に仕舞われ所在さえ分らない。
  ――仕事の仕方や考え方が大雑把になったなぁ――と、我ながらあきれる。
 「角君のはカンピューターだ」
駐在中のある時上司に揶揄されたが、高齢化のせいばかりではなく、長年の海外生活が良くも悪くも大人(たいじん)に変えたのかも知れない。

 初仕事はソウル出張であった。旧来と新規の提携2社の拡張業務の管理を仰せつかった。両社の活動状況や将来性の比較検討も暗に求められている。こうしてソウルへの出張を繰り返すことになった。そんなある日、とんでもないニュースが天津武田の北京本社から飛び込んだ。製品Ctlの更新登録証に偽物の嫌疑がかかっているとのこと。長年通例としてきた輸入陸揚げ地を広東省の珠海港から海南島の海口港へ変更したところ、初めてのことで税関員が更新登録証のコピーを丹念に読んでいて記載内容の不備を発見した、という報告であったかと記憶する。メーカーのS社が肝を冷やしたのは言うまでも無い。輸出元を代表して角さんが日本側の問題解決担当者(トラブルシューター)に指名され、窓際どころでなくなった。

 各国における製品の販売許可証は社運に関わる重要案件である。メーカーは規定に従い数年毎に許可証の更新を当該国の薬務局に申請するのであるが、発展途上国では学術的には勿論のこと経済的あるいは政治的見地からも追加資料が求められ、更新の是非が検討される。類似品の有無とその価格、特に国内生産の代替品があれば、その育成を理由に輸入品の登録更新に難癖がつく。第二、第三報と毎日のように続報が入り状況が次第に判明してゆく。トラブルの詳しい原因は忘れたが、登録更新の申請を受付けた当局の事務官が勝手に役所の印鑑を捺印して更新許可証を発行したらしいと推測された。申請書を抽斗(ひきだし)に仕舞いこんだまま忘れて期限が到来した為か、更新可否の検討が面倒と考えた為か、或いは手数料の着服が目的か、他社製品でも同様な事故が起っているのかどうか、などについての説明は一切無い。会社側も役所側も肝心の担当者が既に退職しているので、どちらが主犯かも判らない、といった話であったかと記憶する。

 「手元の更新許可証は偽物で、正式な登録証の有効期限は切れていることが明らかな以上、輸入製品の販売を許すことはできない」
衛生署薬務局の厳しい見解である。しかし、偽更新許可証の疑いがあっても役所の印鑑が捺印されているのだから、画一的に冷たい判断はできない、といった情報が日々の電話やファックスで伝えられる。その間、珠海にある総輸入元の会社に助けを求めると
 「こればかりは如何ともし難い」
との回答となる。倉庫保管料はタクシーメーターの如く毎日加算され、それに反比例して市場の製品が減少してゆく。最悪の場合には許可証が無効となろう。珠海と北京に出張して情報収集と対策協議を重ねる。3ヶ月ほどが過ぎ、やっと薬務局幹部とのアポイントが得られ角さんが再び北京に飛んだ。

  「Ctlは後発品である」と会談中に係官がふと漏らした.。――これを機会に登録を削除したい――との意味である。しかし、これを聞いて
  ――解決の糸口が見つかった――と、角さんは内心小躍りした。
  「白内障の研究者が開発した二つの類似物質の一つの販売権をS製薬が買取りCtlを創薬し発売した。残った一方を後年別の会社が買い取った。だからCtlこそが兄貴分であり、先発品である」
40数年前の入社時に高下課長から聞いた話を思い出したからである。 大阪から一緒に出張して来たS製薬の高下さんは薫陶を頂いた課長のご子息である。
  ――うまく行くとご恩返しができるかも知れない。これも何かの縁であろう――と思いながら、このCtlの開発経緯を角さんが必死に中国語で訴える。
   「初めて聴いた誕生秘話である。もしそれが事実ならば許可証復活の可能性がある。ついてはCtlのシンポジウムを開催し、多くの眼科専門医に製品特性を伝えるように」
興奮した面持ちで係官が問題解決の方法を提示してくれた。更新許可証の真偽や原因を詮議する正面衝突を避けて、互いの面子を立てたのである。中国ビジネスで大切な阿吽(あうん)の呼吸である。こうして北京でシンポジウムを開催し1年近い苦難の仕事が落着した。

 前後して今度は上海でもPnsの登録更新問題が発生した。
 「中国製のセファロスポリン系注射剤が多数市場に出回り、最早高価な輸入品に頼る必要がないので更新を認めない」
と、露骨な国内製品保護の方針が示された。Pnsの優位性を示す技術書類を携えて上海四薬工廠を訪問し、当局への技術的訴求点を説明した。3ヶ月後に許可証の更新に成功したとの連絡があった。恐らくは彼ら流の政治折衝をしたのであろう。CtlとPnsの登録更新の問題は、中国経済の大発展の影で忘れていたが、
  ――この国はやはり共産主義の発展途上国である――
と再認識するきっかけとなった。会社にとっては不運なトラブルであったが、窓際に座るはずの角さんが生き生きと仕事に励み、最後の輝きを放つ日々となった。   (4月中旬号 完)

154)長沙・長春・内モンゴルへ
 杭州から香港に帰った翌朝、本社からの電話で任期満了を知らされた。1996年7月1日付けで発令とのこと。
 「既に次のシンポジウム旅行が決まっているので、帰国は8月中旬にさせて欲しい」
と申し入れて、「斉南~北京~長春~内モンゴル」9日間の旅に出発することにした。

 幸いにも仕事は7月8日の月曜日から。土・日曜日を利用して「長沙」に立ち寄ることにした。私用なので追加の航空費とホテル代は勿論自腹である。娘奈生子が誕生した72年に発掘された馬王堆漢墓遺跡の貴婦人に会うためで、20年来の願いである。「屍体の保存状態は信じられないほど良好で、皮膚は活けるが如く押さえると弾力で復元する」と新聞に報道されていた。長沙(チャンシャー)は湖南省の省都で洞庭湖に近く、その位置から“中国のヘソ”といわれる。因みに春秋時代には楚とよばれ華南文明の中心地としてその歴史は古い。

 空港でタクシーを拾い湖南省博物館を訪れた。大きな部屋の真ん中にあるガラスケースから地下を見下ろすと、2200年前の女性がこちらを向いて仰臥している。胴体と手足の大部分は着衣であるが、手足の先と肩から上は露出し頭髪は黒々としている。薄暗く多少距離があって見づらいので、カメラのズームレンズを使って注意深く観察する。背は低く小太り福そうな耳で鼻は低い。片目と口が開き上の歯と舌がのぞいている。
  ――死後に顎の筋肉が緩んで口が開き、舌が出たのであろう。
  ――生前に嘘をつくと死後閻魔大王に舌を抜かれるというが、古人は死体の観察からそのような教訓話を創り出したに相違ない。
と思いつき大発見をした気分になった。

 「被葬者は紀元前194年の前漢時代、長沙の宰相・利蒼の妻で遺体の身長は1.5m、体重は34kg、皮膚は弾力を保ち、外形と内臓はともに完全で血管や骨などの組織もはっきりと残っている。年齢は50歳前後、血液型はA型、脂肪太りで胆石症、出産経験があり、寄生虫に侵され、胃や腸に食後のマクワ瓜の種を発見した」
説明文の記述である。よくもここまで徹底的に検証したと感服するが、安眠中に起こされて開腹手術までされた本人には迷惑千万な話である。

 展示された多くの副葬品の中で「彩絵帛図」が目を惹いた。帛(はく)とは絹織物の総称である。その図柄は、上部の天上世界には太陽・月・鳥・ヒキガエル・女媧(じょか、古代中国の三皇伝説の一人、46話参照)が、中央部の現世には被葬者や下女が、下部の地底世界には亀などが描かれている。素人目にも絢爛(けんらん)さだけでなく、当時の神秘思想や世界観を知る上で学問的価値が高かろうと思った。序でながら、最近読んだ『日本人になった祖先たち』によれば、利蒼夫人のミイラにはDNAが残っていて、古代の人体資料からDNAが採取できることを世界で初めて報告したのは中国だそうである。

 斉南で二回目のシンポジウムを開催し北京経由で長春へ飛んだ。地方都市同士の直行便は少なく一旦ハブ空港に立ち寄るので、余計に時間がかかる。「長春」は吉林省の省都で、かつては“満州国”の国都“新京”であった。今日、満州は“東北”または遼寧、吉林、黒竜江の三省があるので “東三省”と呼ばれる。 女真族が文殊菩薩の信仰者であったところからは彼らをモンジュとかマンジュと呼ぶようになったが、“満州”は本来民族名であって地名ではない。冬は零下30度にもなる厳寒の地であるが、春から夏にかけて一斉に花が咲き乱れる“塞外の春城”の名に相応しい落ち着いた街である。

 早朝、スピーカーから流れる音楽で眼を覚まし窓外を見下ろすと広場で大勢の男女が輪を作りフォークダンスに興じている。黙々と太極拳を楽しむ人たちもいる。これまで同じような光景を見てきたが、輪の動きが整然としている。文教都市の称号を思い出し、かつての日本精神が多少とも息づいているのかと身びいきを感じた。仕事を終えて吉林省重点文物保護単位(博物館)を訪れた。“偽満州国国務院旧跡”と併記されている。清朝最後の皇帝、愛新覚羅溥儀が満州国皇帝として執務した所で、北京の紫禁城とは比較にならないほど小規模で唖然とした。これでは富豪の邸宅よりも小さい。60余年前の生活の場で、当時の写真が飾られている。正に大日本帝国“一炊の夢”の跡である。

 武田薬品に入社してしばらく経ったある日、父から
  「興三なあーお前、外国部に入ったんなら、いつか中国へ行けるかもしれんなあー。哲ちゃんが戦死した場所へ行ってやってくれんかなあー」
と言って“索倫駅”と書いた小さなメモ紙を渡された。 30余年待ってやっと内モンゴルの索倫(スーロン)に行く機会がやって来た。

 「昭和20年8月8日ソ連は日本との中立条約を一方的に破棄し開戦を布告した。駐屯地から少し離れた国境警備にあたるため、長兄哲夫ら数人の兵卒は無蓋貨車に飛び乗った。しかし、索倫駅の近くでソ連機が急降下して機銃掃射を浴びせた。その一発が哲夫の頭部を貫通した。終戦をわずか3日後に控えた8月12日の出来事であった」
2年ほど前のこの話をパートナーの李社長が覚えていて、シンポジウムの機会に特別にアレンジしてくれたようだ。長春駅から列車で少し南下し四平駅で夜行列車に乗り換えて北北西に向う。中国では “軟座”はソフトな座席の一等車で、“硬座”は板張り座席の二等車である。寝台列車は軟座であるが蒸し暑く寝苦しいことこの上ない。それでも満州の大平原を広軌で走るリズミカルなレール音に引き込まれいつしか眠りに落ちた。

 明け方、白城駅で乗り換えたローカル線は座席指定のない硬座。汗や埃、人いきれ、荷物臭が充満し、会話と列車音が騒がしい。外国人には未開放の地域で見つかれば強制下車させられるので「あまり話をしないように」と口止めされている。大興安嶺山脈の山裾が列車に迫ったり、馬や牛が放牧される草原の彼方に離れて行ったりしながら、広軌道の列車は快走する。ウランホト駅を過ぎて索倫駅に降り立つ。
――よくもこんな僻地にまで日本軍は来たなあー
片田舎のフォームに降り立ったときの印象である。材木を積んだ貨車が沢山停車し、人夫たちが働いている。駅舎の向こうに小さな民家が見える。戦後まもなく戦友がスミ薬店を訪ね「索倫駅の近くに埋葬した」と教えてくれた。改札口を出て近くを散策したかったが、列車は20分停車後に折り返すとのこと。やむなく香港から持って来た線香と日本酒を線路脇に手向け父母や親族の気持ちを込めて祈った。遺髪の代わりにとの思いを込めて傍らの小石3個を拾ってポケットに納めた。

 帰路ウランホト駅で下車するとワゴン車が出迎えてくれた。李社長の友人であろう。広い石畳、白い壁、青くて丸い屋根をもつイスラム寺院を訪れた。靴を脱ぎ屋内に入るが、偶像崇拝を禁じるイスラム教では像や絵画は無く殺風景である。参観を終えて暫らく走行すると見渡す限り内モンゴルの大草原が広がる。紺碧の空と緑の草原が創る地平線はどこまでも遠く、点在する数個の白いパオ(移動式大テント)の近くで羊と牛馬が草を食んでいる。村の入口には簡素な鳥居型の門があり、その手前で強い酒を一杯出された。半分飲んで残りを天と地に撒いたかと記憶する。歓迎式かと思ったが、厳密には悪霊を域内に入れないための儀式とのことであった。

 パオの中は絨毯が敷かれ思ったより広く天窓が開いていて結構明るい。家具もありジンギスカンの大きな肖像画を祀り、日本的には神棚か仏壇の印象である。部屋の真ん中に丸テーブルがあり数皿のご馳走が並んでいる。大きな碗になみなみと注いだ馬乳茶をご馳走になった。濃厚な味で美味しかったが茶葉の悲劇を思い出した。モンゴル人の食事は羊肉と馬乳が基本で野菜をほとんど摂らないために壊血病を起こす。これを防ぐのに茶葉からビタミンCを摂る。レンガ状に圧縮し固形化した磚茶(せんちゃ)をカツオ節のように削った粉状葉を乳に混ぜて飲むのだが、20世紀初頭に漢人がモンゴルにやって来て遊牧生活に必須の磚茶を高価で売りつけた。このため遊牧民たちは生活の糧である羊を止むを得ず次々と手放し次第に貧窮していったそうである。

 パオ村を辞しワゴン車はしばらく走って停まった。そこはコンクリートの割れ目から雑草が繁る朽ち果てた広場跡であった。
 「戦時中に、日本軍が建設した飛行場の跡です」
案内人の説明に 、長兄哲夫はそこに駐屯していたのかも知れないと思った。太陽はすでに西に傾き満州帝國夢の跡は真っ赤な夕日に染まっていた。

      参考資料:『中国歴史の旅(上)』 北京から西域へ 陳瞬人著 集英社文庫
               『日本人になった祖先たち』 篠田謙一著 NHKブックス

153)思い出の人、思いだす出来事
 香港に赴任して間もない頃、海外駐在経験と薬剤師を買われて、香港日本人商工会議所の化学品部会で「駐在員の健康管理」について講演するように頼まれた。内容は大した話ではない。
  ――<「暑さで発汗が激しいので水分とビタミンB1・Cの補給を心がける。Vit.B1はアリナミン、Vit.Cはハイシーが良い(と自社品の宣伝も抜かりない)。幾ら疲れても就寝前に足を洗うと熟睡できる。ヒトの“三大本能” は節約しないのが望ましい。食欲と睡眠欲、それに(小声で)できれば性欲も」と言ったところで拍手がおこる。
「“一人駐在は寂しい、二人駐在は部下に歩が無い、三人駐在はややこしい”と言われるのが海外駐在。大手商社のように駐在員が数人となれば上下関係が厳しく、私生活や奥方や子供の序列もそれに従い、奥様の服装まで干渉される」と言ったところで今度は爆笑 >――
それを機に部会長関氏の私的グループ“うわばみ会”に誘われた。
  ―― 下戸の自分が“うわばみ会”とは片腹痛い! ――
と思いつつも仲間となった。実家は新橋の料亭とかで、粋を絵に描いたような男である。寂しがり屋なのか、上等の酒が入ったとか面白いビデオを入手したなどの、たわいもない理由で呼びだされて一緒に飲んだ。丁度その頃、湾岸戦争が勃発し原油価格が高騰した。翌月の例会までの最高価格の予想を競った。1バレル20-25ドルの投票価格であったかと記憶する。ところが、昨年7月には147ドルを記録した、正に昔日の感ひとしおである。

 94年頃であったろうか、この“うわばみ会”に一人の見慣れぬ男が商社勤務のメンバーに伴われ現れた。どこかで馴染みの顔と感じたが、果たせるかなベトナム戦争の南部の英雄グエン・カオキである。亡命中の米国から密かに香港に入り、ベトナムへの帰国を準備しているとのことであった。それから暫らくして、米国とベトナムの国交回復が報道された。

 ゴルフ仲間も沢山出来た。ヤオハンの駐在員の一人T氏とも親しくなった。子供の頃に母の口から度々聞いた「生長の家」の大幹部の子息であった。母の信心や思い出話などをプレーしながら語りあった。その縁もあってヤオハンの和田和夫会長の講演会に招かれた。香港に居を移し香港とマカオに大ショッピングモールを建設した氏の絶頂期である。
 「活動の拠点を日本から香港に移したとき、歓迎の意を込めてxxx氏が由緒ある豪邸を格安で譲ってくれた。香港人は損得よりも人間関係を重視する。上海や北京にも大きな百貨店を建設中である。大陸は物流が未発達なので是非整備したい」
と将来の夢を熱く語られた。そして
 「先日、中国共産党の某幹部と会談したさい“そんなに次々と中国に投資して回収できなくなったらどうするのか?”と尋ねられたので、“その時にはお世話になった中国に返礼の寄付をしたと思えばそれで良い”と応えた」
と得意満面に語った。それを聴いて、
  ―― それはまずい! 本心ではなかろうが、“そうなったら裁判で争ってでも取り返す”と毅然としたところを示しておかないと、中国人は身勝手に有利な解釈をするから危険である。第一、宗教心と企業活動を一緒にしている ――
と危惧を感じた。当時、香港のヤオハン百貨店はそれなりに繁盛していたが、珠海出張の帰りに立ち寄るマカオ店は何時も閑古鳥が鳴いていた。果たせるかな、それから年を経ずして心配が現実のものになった。和田氏の先見性と方向性は正しかったが、将来性を期待する余り先を急ぎ過ぎたようである。夢が実現するには時間がかかる。先行投資に利益回収が追いつかなかったのであろう。善良な方だけにお気の毒なことであった。
 
 尊敬する陳舜臣氏の講演会を聴く機会もあった。氏が脳梗塞から回復し活動を再開した頃である。再起を心から祝福した。翌日であったか角さんが来客を空港に見送りに行ったところ、氏はお付きが搭乗手続きをする横で待っていた。チェックイン・カウンターはファーストクラスとビジネスクラスが一緒である。搭乗手続の合間にサインを貰うチャンスがあったのに、どういう訳か逡巡してしまった。千載一遇のチャンスを逃したと今でも悔やまれる。「他人に迷惑をかけない範囲で何でもしよう」とミーハーを任じる昨今ならば、きっとサインをおねだりしたであろう。それにしても逃がした魚はいつも大きい。

 高校と会社で同期のK君がご夫婦で観光に来て、夕食にお誘いした時、昼間にスリに遭ったと告げられた。
 「ペニンシュラ・ホテル近くの交差点で待っていて信号が青に変わったので一歩を踏み出した時にオートバイが急に左折して来て、前の人と後ろの人のサンドイッチになった。その瞬間にズボンの後ろポケットをやられたらしい」
との説明である。数年前に台湾で初めて聞き、香港でも再三耳にしたのと同じ手口である。幸いにパスポートと小銭は残ったが、予定の買物は全て諦めることにしたそうでお気の毒なことであった。

 自動車窃盗の噂もしばしば耳にした。当初はトヨタのクラウン・デラックスが被害に遭い、次がロイアル・サルーン、その後はベンツへと対象が次第にエスカレートしていった。これも台湾で聞いた話と同様で、高価で売れ筋の車種が狙らわれるようである。海上警備艇より高速のフェリーに積み込んで広州へと珠江を遡上して逃亡するので香港警察もお手上げのようである。ベンツを盗まれた一週間後に広州に出張したら盗まれたベンツがホテルに停車していたと、化学品部会の友人が憤っていた。スリといい自動車泥棒といい、台湾で始まり香港に移動する。手口は同じで経済発展のタイムラグに従って移動し、車種が高級化するころが興味深い。犯人は台湾では香港からの窃盗団であり、香港では中国人との噂であった。本当のところは判らないが、“火の有るところに煙が立つ”話であろう。

 日本からの旅行者をブランド品店は勿論だが、セントラルにある偽物横丁へも案内した。また、日本への郵送依頼も少なくなかった。一番人気は真珠の粉末入り化粧品であった。漢方のリュウマチ薬の依頼には「ステロイドのような洋薬が混入されている可能性がある」と説明して中止を勧めた。痩せる石鹸が流行った時にはマニラからまでも大量購入の依頼が舞い込んだ。お洒落な腕時計“Swatch”が夫々デザインが違うふれこみで爆発的な人気を呼んだ時には、日本からの購入依頼で、三越百貨店があるビルのワンブロックを一回りする長い列に炎天下を並んだ。

 1995年の7月頃であったろうか、予告も無く突然オフィスに電話がかかってきた。
 「大学同期生のNです。観光に来たので、夕食後にちょっとお会いできませんか」
自治会長を務めたときに助けて貰った仲である。九龍にあるホテルで次女を連れた旧姓Oさんにお会いした。聞けば夏休みに団体旅行で来たとのこと。
 「明日、マカオ旅行から帰ったら再度電話を下さい。夕食をご馳走しましょう」
と約束をして別れた。ところが翌日は過去6年間で経験したこともない大型台風が襲来し交通機関は全面停止で、マカオ旅行はおろか九龍サイドさえ行けないことになった。自宅の窓から恨めしい大暴風雨を眺めながらお断りの電話をした。不運でこれまた、お気の毒なことであった。   (3月下旬号  完)

152)食べ物の録外録
 旅にまつわる食べ物の思い出を書いてきたが、最後に「録外録」として、少し追加する。シンポジウムの前か後に地域のオピニオン・リーダーを食事に招く機会が多かった。そんな時、台湾では主賓が上座に坐り、接待側は入口近くの下座に坐るのだが、ここ大陸では逆に招待者が上座を占め、その左右に幹部が坐る。前者は日本植民地時代の名残で、後者は共産主義の名残で代金を払う人が最高位なのかと思ったが、その相違の由来と本来の中華文化の姿を残念ながら聞き漏らした。

 アジアの或る国から同僚駐在員一人が香港に出張した機会に、中国情報を求めて角さんの香港事務所に立ち寄った。協議を終えて夕食に誘うと、
  「本場の魚翅と鮑魚を是非食べたい」
と言う。どちらも一人駐在の身で日頃は部下を誘って飲食の機会はない。
  「滅多に無い貴重な機会なので、今日は社内交際と情報交換の日にしよう」
と言うことになり、接客側と返礼側の役割分担が決まり、高価なので割り勘払いと相成った。あまり公開できる話ではないが、責めを負う程の話ではいし、第一もう時効である。こうして有名な新同楽でフカヒレの姿煮とアワビのオイスター煮を楽しんだ。香港6年半の駐在中に経験した最高の贅沢である。

 珠海医薬公司に帰国の挨拶に行って昼食に招かれた。中国のレストランは端から端が見えないほど広い。その大広間を満席にして大勢の人たちが賑やかに海鮮料理を楽しんでいる。香港返還を一年後に控えた1996年半ばのことである。その頃になると珠江デルタ地帯には裕福層が増えていた。彼ら彼女たちが申し合わせたように龍蝦(ロンシャー、伊勢エビ)の生き造りを頬張っている。上司が部下を、家長が親族を招き或いは友人同士が集まって食べることを人生の第一義とするこの国の人たちが、このさき豊かになり輸入鮮魚を鱈腹(たらふく)食べるようになったら、世界の魚はたちまちにして食べ尽くされてしまうだろう、と心底末恐ろしくなった。果たせるかな、最近になってマグロの枯渇や食糧不足、鉄鉱石や原油の買い漁りがメディアを賑わしている。

 会社の近くに老正興という中級のレストランがある。「老正興」と言えば1862年上海の共同租界に創業の江蘇省の揚州料理が得意であった老舗を思い出す。価格は手ごろで結構旨いので時折利用した。特にそこの炸田鶏(カエルの揚げ物)は出色であった。ある日、そこで邱永漢氏を見かけた。台湾で講演を聞き、『食は広州にあり』など多数の著書の愛読者としては喜色を隠せない。手帳にサインを頼みたいと思いながらもお連れと立ち話をしておられるので、つい遠慮してしまった。いまも残念な気持ちを引きずっている。

 広州に出張したときの朝食はいつも雑炊であった。日本のお粥は米粒がさらさらしているが、中国のお粥は糊のようにべっとりとして米粒の形状がなくなっている。清粥(しろがゆ)の場合には榨菜(ザーサイ)、豚肉のそぼろ、皮蛋(ピーダン)、腐乳(フゥルゥ)、炒めピーナッツなど数種類のオカズが小皿に盛られてくる。腐乳は豆腐を発酵させたもの。納豆以上の臭さであるが慣れると気にならず結構旨い。日本の雑炊に似た具入り味付きのお粥もある。日本ではチャプスイ、英語でChopsueyと呼ばれるそうであるが、これらが同じものかどうか経験がないので判らない。この語源には清朝末期の政治家李鴻章が清の使節として米国大統領に謁見したことと関係があると『食は広州に在り』に書かれていたかと記憶する。

 料理には美酒がつきもの。中国の酒は大別すると「黄酒(フォアンジュウ)」とよばれる醸造酒と、「白酒(バイジュウ)」といわれる蒸留酒がある。先年テレビを見ていたら現在のトルコ東部辺りからフランスに移入された葡萄酒が14世紀頃にブランデーとなり、さらに西に行って15世紀半ばにスコッチ・ウイスキーになったと報じていた。中国では6世紀半ばに書かれた「北斎書」に汾酒についての記述があるが、その普及はずっと後年のようである。この中国の白酒が韓国や日本に伝わって焼酎になったとすると蒸留酒の歴史は僅か500年ほどに過ぎないことになる。これに反し、醸造酒は有史以来の古い酒で、黄酒は餅米と麦麹を原料として醸造し、甕(かめ)に入れて長年寝かした古いものが良いとされる。「老酒(ラオジュウ)」といわれる所以である。充分熟成させたものを“陳年(チェンネン)”と総称するようで、3年未満では安物の酒で料理などにも使われる。古来、女児が生まれると新酒を甕にいれて土中で眠らせて、嫁入り時に開封して祝い酒とする。日本で桐の苗木を植えて嫁入りタンスにしたのと似た発想である。

 江南の紹興市は醸造酒で有名な酒どころ。紹興酒は黄酒や老酒の代名詞として普及したが、厳密には“灘の酒”というほどの意味である。大陸が文化大革命などで鎖国状態の間に、戦後台湾に逃げて来た外省人が紹興酒を我が国でも有名にしたが、一時期台湾海峡を挟んだ両岸で“紹興酒”の本家争いを演じていた。最も古い伝統的製法によるものを“元紅酒”とよび、それにもち米を1割多く使用したものを加飯酒と言う。その年代ものを“花彫”と呼ぶそうである。上物紹興酒は年を経るとほど良い甘さが醸造されるが、安価な黄酒ではそうはいかない。補うために日本では氷砂糖を入れて飲む悪癖が普及したという(邱永漢)。

 一方、「白酒」は高粱、トウモロコシ、小麦などを発酵させてから蒸留して作る。貴州製が横綱格で日中国交回復の祝席で田中角栄と周恩来の両首相が茅台酒の杯を交わしたことから一気に知られるようになった。余談だがその時、合わせた互いの杯の位置に上下があって話題になった。アルコール分55度の強い酒であるが、何ともいえぬ微妙な甘さと味に加えて独特の香がある。最近は35度のまろやかなものも開発されて飲みやすくなった。30年ほど前に初めて台湾で、白い米から黄色い酒が造られ、黄色なトウモロコシから白い酒が作られる、と知ったとき珍しい発見をしたようで嬉しかった。異文化体験の感動である。

 本社の指示や依頼で来客のアテンドをするのは駐在員の勤めの一つ。台湾ではゴルフと故宮博物院案内が、香港では買物と食事への案内が主な接待であった。ある時、大家のお嬢さんと友人3人を夕食に案内する機会があった。スープは、肉物は、魚貝類は、野菜は何にするかとメニューのページを前後にめくりながら“料理のストーリー”を考えていると、件のお嬢さんは角さんが中華メニューを判読できないで、苦労していると誤解したのか、「私が決めましょう」とやにわに申し出てきた。中国料理の正餐ではスープ、肉、魚貝、野菜のメニューの組み合わせに加えて、それを供する順序が適切でなければ味わいが半減する。時間に追われる今日では料理の順番や配膳のタイミングにまで気を配ってくれるレストランは少ないだろうが、接待に際しては心したいものである。

      参考資料:中国人と日本人 邱永漢著(中央公論社)
               中国の旅、食もまた楽しい 邱永漢著(新潮文庫)
               中国・江南のみち  街道をゆく(19) 司馬遼太郎著 朝日文芸文庫

151)中国の四大料理
 麺が大好きで「一鎮一麺」をルールにして、初めて訪れた町では一度は麺を食べるよう心がけた。お陰であちらの鎮やこちらの城市に思い出の麺がある。台北では昼の常食は排骨麺であり、台南へ出張するたびに渡小月で椀子ソバ風担仔麺(タンツーメン)を楽しんだ。昆明で食べた坦々麺はピーナツ味とゴマ油の香が食欲を誘ったし、重慶の坦々麺は辛さが効いて濃厚であった。担仔麺と坦々麺は字が異なる。「担」は担ぐで、担仔は天秤棒のこと。一方「坦」は平坦と言うように水平を意味する。坦々麺の名前の由来は定かではないが、天秤の前に麺と野菜などの食材を、後ろに食器と水を担ぎ水平を保つのが一般的。つまるところ、担仔麺も坦々麺も天秤棒で担いで売り歩いていたところからついた呼び名であろうと由来を考えた。

 香港で日常食べる麺は薄茶色で独特の風味がある乾麺。北京・王府井の屋台で食べた蘭州羊肉麺、上海の路地裏で偶然見つけた南京牛肉麺、ふんだんにトッピングが乗った米粉を材料にした桂林米線。麺と具とスープを別々の碗に入れて橋を渡って届けことから名がついた昆明名物の過橋米線。これらは既に紹介したが、いずれも思い出せば垂涎となる。台北で時折昼食にした刀削麺(タオシャオメン)を西安で見かけたときには旧友に出会ったように懐かしかった。充分練ったラクビーボールのようなドウを左肩に乗せてそれを右手の指に挟んだ小さな刃物で削りながら沸騰した大なべに直接放り込んで茹でる。まるで神業で見ていて飽きない。そう言えば、中国古来の功夫茶(日本的には茶道)にも神業的なものがある。一人ひとりの湯飲み茶碗に茶葉を入れておき、丸テーブルに坐るお客の後方からその茶碗に給仕が熱湯を注いで回る。大きなやかんの鶴口から茶碗まで1メートル余り一条の弧ができる。見事な技で最後の一滴たりとも漏らさない。このパーフォーマンスは成都あたりが発祥らしいが、近年は都市の大きなレストランでも見られるようになった。

 台湾では中国本土から200万人近くが一度に流れ込んだお陰で、大陸各地の料理や特色ある麺類を楽しめた。カミサンの北京語教師の父君は長年使い込んだ“煮汁が入った甕”を担いで大陸から逃げて来た。唯一無二の財産で、この煮汁を元手に小さな麺屋を始めたと聞いた。さしずめ日本的には家伝100年の糠床かおでんの煮汁といったところだろう。

 中国料理は北京料理(京菜)、上海料理、四川料理(川菜)、広東料理(粤菜)に大別される。山東料理、湖南料理、潮州料理、福建料理、客家料理なども良く知られた地方料理である。経験を基にそれらの特徴を述べる。「北京料理」は宮廷料理に華北各地の味が合わさった北方料理で肉料理が多く、味は唐辛子の辛さに塩味が加わる。麺類が豊富で、炒めたり焼いた料理が比較的多い。羊肉のジンギスカンやしゃぶしゃぶもあるが何と言っても代表は北京ダッグ。しかし、台湾の北京ダックは飴色に焼いた皮が主体であるが、北京のそれは肉が多くついている。正直言って前者の方が旨い。台湾方式は江南の揚州式ダッグに依ったもので本来はこちらが先輩格ではないかと思った。

 「上海料理」と一口で言うが、江蘇菜と浙江菜を含めた総称で、狭義の上海料理は半農半漁の田舎の家庭料理である。呉越の昔より連綿と続く蘇州と杭州の豊かな水郷で発達した宮廷料理に西洋租界の国際性が加わって今日の上海料理が出来上がったと思う。煮込みものや蒸した料理が多い。魚やカニ・エビを使うが長江周辺の淡水産が本来の食材であろう。ウナギ、田ウナギ、スッポンも重要な食材。鱗が甘くて美味しい黄魚(淡水イシモチ?)を、揚げ物・蒸物・スープ(雪菜黄魚湯)の何れか2種類に料理する黄魚二吃(ファンユーアーツー)。乞食が鶏を盗んだがバレそうになって慌てて土で固めて焚き火の中に投げ込んだのが由来と云われる叫化鶏(チャオファジー)、俗に乞食鶏(こじきどり)と呼ばれる。上海カニも代表的なものだが、当時は上物は高値で売れる香港に輸出されてしまうと云われていた。上海料理は全体に味はこくがあり甘口で色は濃い。酸辣(スァンラー)湯(タン)は酢と胡椒で味付けしとろみをつけたスープ。角君が台湾時代から長年親しんだ上海風家庭料理の一品である。

 「四川料理」は豚、牛、鶏、野菜など天賦の食材に恵まれて豊富である。“麻辣”が味の基本で、“麻”とは舌が痺れる黒い山椒に、唐辛子の辛さ“辣”が加わったもの。麻婆豆腐、おこげご飯、坦々麺、麻辣火鍋(辛い鍋料理)、重慶火鍋(鍋を二つに仕切って辛いスープと辛くないスープの2種類を味わう)、棒々鶏(茹でた鶏肉を棒で叩いて千切りにしたもの)などが広く知られる。

 「広東料理」は魚翅(ユーチ、フカヒレ)、鮑魚(バオユー、アワビ)、燕窩(イエンウオ、ツバメの巣)、蟹や海老など高価な食材を使った贅沢な料理である。蘇菜が淡水の魚貝を材料とすれば、粤菜は海鮮料理である。紅焼魚翅(ホンサオユーチ、フカヒレの姿煮)や蠔油鮑甫(ハオヨウバオブー、アワビのオイスター煮)は垂涎の的。蛇や野獣などのゲテモノ料理が強調されるがこれは単なる一面に過ぎない。中国人は本来生ものを口にしないが、広東省沿岸部の一部の人々は膾(なます、カルパッチョ)を食べる。その膾のタレを三浸(サシム、醤油・酢・生姜汁)というそうで、日本語の刺身(さしみ)の語源ではないかと考えついた。近年日本でも知られるようになった飲茶(ヤムチャ)も広東料理の範疇で陸羽茶室はその代表格。茶に関する『茶経』の著者で茶聖陸羽に因んだ由緒ある香港の中環(セントラル)にある飲茶店である。日本からのお客さんのたっての要請で案内したが、男性給仕の多くが老齢化し気位だけが高くて興ざめであった。

 「潮州料理」は広東料理の一派で香港には大小多くの店がある。薄味で海鮮本来の味を引き出し日本人の舌に馴染み易い。仏跳塀(フォチァオチァン)は地理的には「福建料理」に属するが、実際はアモイを中心とした海岸線で発達した海鮮料理である。おいしそうな匂いに誘われて修行中の坊さんまでが塀を跳び越えてやってくるという。アワビ、貝柱など極上の海鮮素材をふんだんに使って蒸煮にしたスープである。「山東料理」ではテーブル一杯処狭ましと並んだ多くの小皿に前菜が盛られている。斉国宮廷料理の名残とのこと。西に伝わり北京料理の前菜になり、東に行って韓国の宮廷料理、さらに流れて京都の会席料理になったのではないかと食文化の歴史に思いをはせた。

 中国料理のメニューは解り難いが、コツを覚えてゆっくり読むと意外と判読が可能である。料理名には材料、下ごしらえ法、調理法、調味料、時に形容詞が組み込まれている。少しだけコツを紹介しよう。先ずは材料。中国で単に「肉」といえば豚肉のことで、他の肉は牛肉、羊肉、鶏肉という。火腿はハム、鴨はアヒル、蝦仁は小エビ、明蝦が車えび、龍蝦は伊勢エビ、魚編に善と書けばウナギ、海参はナマコ、魚翅は大好きなフカひれ、鮑は高価なアワビ、蛋はタマゴ、青椒はピーマン、荷はハスのこと。それに龍はヘビ、鳳は鶏の形容表現。次に下ごしらえ方法。絲はセン切り、片はウス切り、条は拍子切り、丁はサイノ目切り、塊はぶつ切り、泥はおろし、丸はダンゴ、包は包み、捲は巻くこと。調理法は多種で夫々漢字が異なる。例えば焼は炒めてから煮たもの。烤はあぶり焼き、炒は油いため、爆は高温の油いため、溜はあんかけ、炸は揚げる、煎はいり焼。調味料では醤はみそ、醋は酢である。湯はスープ。まだまだ紹介したい料理法は沢山あるが、我が家のパソコンでは漢字が書けないのでこの辺で止めにする。こんなことを書いていると当時の色々な場面が懐かしく思い出されて食べたくなってくる。  (3月上旬号)

150)東西南北いろいろ
 “陰陽”と言えば、中国文化の基底をなす陰陽五行説を思い出す。文化大革命の時代を香港で辛くも生きながらえ、躍進中国の建築ブームでにわかに復権した方位・家相の「風水(フォンスイ)」では、山の南は陽で北が陰。日本でも山陽と山陰と言う。川の場合にはその逆で川の南が陰で北が陽である。漢化政策を進め仏教を奨励した北魏の孝文帝は494年に都を平城から「洛陽」に移した。北側に山があり南側に洛河がある二重陽の地として繁栄した。隋と唐の時代には長安に次ぐ副都として高い地位をあたえられた。

  磁石を発明した本家の中国では、不思議なことに(?!)磁石は北でなく南を指す。いわゆる“指南”である。キトラ古墳の石室に描かれた極彩色の青竜・白虎・朱雀・玄武の位置がなかなか覚えにくくて困っていたが、この文を書いていて覚え方を思いついた。青竜は青春で東壁、白虎は白秋で西壁、朱雀は南端の朱雀門、残るは北壁の玄武となる。

 中国の省名とその位置はなかなか覚えにくいが簡単な目安がある。中国で山といえば「泰山」。皇帝が天に善政を報告し豊穣を祈願する封禅の儀式を行う神聖な山である。その泰山の東にあるのが山東省(省都は済南)で、西側には山西省(太原)。河とは中華五千年の文化を育んできた「黄河」のこと。その河口平野が山東省、黄河の北に河北省(石家荘)があり、中心には中央政府の直轄都市の北京と天津がある。南にあるのが河南省(鄭州)。江といえば「長江」、揚子江はその和名。この長江下流の北側が江蘇省(南京)で、南側が浙江省(杭州)。二つの省に挟まれるようにして黄山でしられる安徽省(合肥)がある。湖といえば「洞庭湖」。“中国のヘソ”ともいわれ長江中流にある長江文明の中心地。義憤と憂国から髪を振り乱して屈原が身を投げた汨羅(べきら)の淵は洞庭湖。その南が湖南省(長沙)で、北に湖北省(武漢)がある。湖南省の東側が江西省(南昌)。これらの位置関係を覚えれば中華文明の中心部は大抵網羅している。そして北京の東北に、遼寧省(りょうねいしょう、瀋陽)、吉林省(長春)、黒龍江省(ハルピン)の東北三省と内モンゴル自治区(フフホト)。山西省の西方に陜西省(せんせいしょう、西安)、寧夏(ねいか)回族自治区(銀川)、青海省(西寧)、新疆(しんきょう)ウイグル自治区(ウルムチ)。大陸東南端の福建省(福州)から西に広東省(広州)、桂林がある広西チワン族自治区(南寧)、マオタイ酒の産地貴州省(貴陽)、少数民族が多い雲南省(昆明)。陜西省(せんせいしょう)の西南に甘粛省(かんしゅくしょう、蘭州)と四川省(成都)があり、その遥か南西にチベット自治区(ラサ)がある。香港の西南に中国のハワイとして売り出し中の海南省(海南島)がある。一度地図を広げてみては如何でしょう!

 上海地方はかつては華南の地で、広東省や福建省は南嶺の地である。「南船北馬」とは、南は水上交通で北は馬を使った往来をさす。隋の煬帝は運河を整備して「京杭運河」の基礎を築き、揚州をへて杭州まで豪華絢爛な舟旅を楽しんだ。長安の都では南嶺の地から早馬で送られてくる春の果物茘枝(れいし)の到着を待ちわびる楊貴妃に臣下は「馬上来(マーサンライ、すぐ来ます)」と応えた。明朝は「北虜南倭」の煩いで傾いたといわれる。北からモンゴル族が侵入し、南の沿岸部では倭寇が暴れて国政を悩ました。倭寇というが真倭は少なく偽倭が多かったという。良民を威嚇する目的で倭寇の名をかたられた倭人にすれば、とんだ濡れ衣である。

 「南蛮・東夷・西戎(せいじゅう)・北狄(ほくてき)」とは中華思想の最たる表現で、いつの時代にも中央政府からみれば勢力圏外はすべて蛮族となる。実際に中国人と接してみて、その根強さを実感した。彼らは自分達が中華思想に染まっているとは微塵にも気づいていないので、尚のこと始末が悪い。因みに、西暦450年頃に書かれた後漢の正史『後漢書』には堂々と「東夷列傳」の項目があり、そこには“倭の奴国が朝貢に来たので金印を与えた”と記されている。

 陰陽五行では東の青龍、南の朱雀、西の白虎、北の玄武といいその中央に黄(土)があるが、この動物と東西南北の関係がなかなか覚え難い。先日良い方法を思いついたので、ご披露しよう。青春と白秋を押さえ、北面の武士から玄武を連想すれば残りが南の朱雀となる。如何でしょうか?

 中国では“北麺南米”である。北方では麺製品を主食とし、南部では米を食べるとの意味。この場合、麺とは小麦粉製品を意味し紐状のものとは限らない。良く知られた豚まん(蒸包子)・水餃子・小籠包の他に、蒸餃子・鍋貼(クオテイ、焼餃子)・焼餅(シャオピン)、・生煎包(焼肉まん)なども麺類に含まれる。南部では小麦粉ではなく米の粉からつくったビーフンとなる。

 “南甜北鹹西辣”といわれ、地方により料理の味付けには特徴がある。この場合も南とは上海地方をさす。江南地方の味付けは甘く、北京付近や山東省や東北三省は鹹く、西の内陸では辛いとの意味。鹹いは塩からいことで、辛いは唐辛子のヒリヒリしたからさのこと。気候風土と食材の地産地消が影響しているらしい。一般に寒いほど人体は塩分を求めるようだし、南部ではサトウキビや蜂蜜の入手が容易な為であろう。自分の経験でも概ねこの法則は当っていた。重慶の麻辛(痺れる辛さ)には口の中が爆発したし、西安では西域の影響であろうか幾書種もの香辛料が絡み合ったコクのある複雑な味であった。

 南北談義からは逸れるが、漢字の話にふれる。我々の先人は中国より漢字を輸入して独自の言語文化を作ったが、その時に多少の混乱が生じた。前にも述べたが漢語(中国語)の桂は日本語ではモクセイで、柏はヒノキをさす。鮎はナマズを指し、鯰は和製文字のようだ。このような和製漢字は結構多い。日本字には田・畠・畑があるが中国では田の一字のみ。日本では水が無ければ畠を、焼畑には畑を使ったのかもしれない。北の中国では小麦や粟を育て、南部では水田にコメをまいた。一つの地方でコメとムギの両方を育てる農法が無かったので、「田」一字で用が足りたのであろう。従って畠中さんが中国へ行くと漢語の呼び名が無いので白中(バイヅォン)と呼ばれる。辻の字もないので辻さんは十(スー)さんとなる。明治以降に科学や近代社会を表す英語やドイツ語を翻訳し、腺・癌・哩などの和製漢字を作り出し、科学・哲学・経済・自由・観念・福祉・革命・運動・失恋・共産主義などの単語を作った。これらの多くはその後、中国に逆輸入され今は完全に漢語になった。  (2月下旬号 完)

149)お国気質と地域の特徴
 豪華客船が事故に遭い沈み始めた。女性を優先して救命ボートに乗せたい船長は、男性客に言った。
    アメリカ人には「飛び込めばあなたは英雄です」
    イギリス人には「レディーファーストのあなたはきっと飛び込みますよね」
    ドイツ人には「飛び込むのがこの船の規則です」
    イタリア人には「飛び込むと女性にもてますよ」
    フランス人には「飛び込まないで下さい」
   日本人には「みんな飛び込んでいますよ」
お国気質を見事に表現している。特に日本人とフランス人に対しては皮肉が効いている。国や地域には夫々の特徴があるようだ。

 これまで角さんが駐在したフィリピン、台湾、香港はいずれも“島”で、外国に領有された歴史がある。しかし、人々の気質は一様でない。フィリピンはスペインの影響なのか、楽天的でパーフォーマンス好き、見栄っ張りでフレンドリー。損得計算は少なく淡白であるが、時に怒り易い(ホットテンパー)。お金を払えば渋滞路をパトーカーが先導してくれる。こんな“特別サービス”も受益者負担と思えば賄賂臭は吹き飛んでアッケラカンとなる。子供にだけには教育をつけさせたいとの思いは強いが、足掻(あが)いても無駄と知り尽くしているせいか諦めも早い。「道を尋ねる時には三人以上に聞くべし」との諺がある。フィリピン人は優しさゆえに「知らない」と冷たい返事ができないので、知っている範囲で答えようとする。そのために三者三様の答えになる。これを「フィリピンの嘘」という、と英語教師のガルシア先生から教わった。

 台湾で仕事をしていて、さすが『三国志』の世界と思った。非常に戦略的な発想をし、戦術的に行動する。“海のシルクロード”でアラビア半島まで航海した泉州商人の血を引くせいか商売上手で、対峙を避けて相手を自分の土俵に上手に引き込む。こちらの気持ちを和ませ気分よくしてくれるが、けっして媚を売るゴマスリではない。唐突な話だが“ゴマスリ”の語源をご存知だろうか? 嫁姑の仲は古来より微妙なもの。夕食の支度で姑がすり鉢を持ち出して胡麻をすり始める。すかさず嫁が動かないようにとすり鉢を両手で押える。一緒に仕事をしながら嫁と姑の会話が始まる。「お母様は何時までもお美しいですね」などと、時には歯の浮くような言葉が嫁の口から出る。子供の頃に伯母から聞いた話である。話を元に戻そう。台湾の人たちは大人の風格で些細なことには動じない。日本には「重箱の隅をつつく」との俗諺があるが、台湾では「(桶底の隅は気にせず)味噌は大きな杓子で多くをすくえ」と云う。そして大陸には「胡麻より西瓜を選べ(大きい方を狙え)」との諺がある。繊細で遠慮深い日本人とは異なる中華文化に共通する思想である。

 香港に赴任して台湾人との気質の違いを知った。香港は戦略的な『三国志』の世界ではなく、怨念と懐疑が強い『史記』の世界と思った。貧しい周辺地域から食べるに窮して、或いは上海あたりから共産党に追われるように逃れて来た人たちの吹き溜まり。客家が比較的多く性格はキツイ。対人関係はドライで総じて対峙的な手強い交渉相手(ハードネゴシエーター)である。店頭での売買交渉では客の心理を読むのに長け、日本人観光客など赤子の手を捻るようなもので、高値で売りつける。英国が残した良い面の一つが法令尊守(コンプライアンス)の精神。ある機会に読んだ本には「香港では賄賂は殆ど無い」と書かれていた。科挙試験に合格し地方長官になれば“清官三代”(清く勤めても三代は食える)。慣例上、賄賂とみなされない役得のみでこの程度。その気になれば如何ほどであったか、と云われた中華文化では例外的である。

 自身の売買交渉の経験から言えば広東人はハードネゴシエーター。しかし、一旦契約すると約束は守る。上海人は英国租界の華やかさの影響か、見栄っ張りで契約数量で背伸びして未達に終わる。北京は明朝以来、政治の中心地。プライドが高く建前と本音の差が大きく、コンプライアンス精神は強いのだが、実際には商売センスよりも政治的手法に頼るようなところを感じた。

 湖北省武漢出身の李社長を見ていると、戦略的で肝がすわり粘っこい。彼に言わせると
 「湖北の武漢人は楚の末裔で頭が良くて商売上手。しかし湖南人は“湖南驢子(ろば)”と謂われるように融通の利かない頑固者」とのこと。どこの世界も隣人同士は競争心をむき出し肌が合わないようである。

 大陸・台湾いずれにせよ中国人に共通する生活哲学がある。その一つは反骨精神と粘り強さで、それを示すのが「上有政策、下有対策」の諺。「お上が規則を作れば、民は対策を考え出す」と言うわけ。この場合、対策とは抜け道に他ならない。日本の「長いものには巻かれよ」の対極にある。「対策がある」との生活身上があるので少々の事ではへこたれない。「年々有余」と「一歩一歩」もよく耳にする言葉。「年々有余」は毎年少しずつでも余りがある。年末の家計収支で次年度への繰越金があり、「一歩一歩」と階段を登って行くことになる。“余”と“魚”の発音はどちらも同じ“ユ”。中国人が魚を珍重する所以であり、日本人が魚で新年を祝う古来の風俗に通じているようだ。

 中国人は“有没有?”、“是不是?”、“対不対?”、“大不大?” などの言葉を繁用する。夫々「有るか無いか」、「Yes か No か?」、「正しいか否か?」、「大きいか小さいか?」を意味する。ゼロを中心にしてプラスとマイナスに分ける陰陽の思考である。単純明快に判断するので見込み違いは少ない。幼時からこのような思考方法で鍛えられるせいか、日本人と違い積上げ式の分析をしないので、細部で多少の誤差はあっても大きくは間違わず、却って直線的に“本質に迫る”。優れた資質といえよう。これに習って角さんは「大きいか小さいか」で物を見て、「敵か味方か」で人と付き合った。「敵か味方か」といえば大袈裟だが、部下や取引関係者が持ってきた案件や提案を性善説と性悪説のいずれの視点で受け止めるかである。右も左も判らない外国で仕事をする者にとり重要な判断基準である。前にも書いたが「(上司の)おだてには乗って見よう。(部下の)話にも乗って見よう」との角さんの身上はこの性善説に由来する。「褒め殺し」のような不信感を助長する言葉を一国の総理が軽々しく口にすべきではではい。   (2月中旬号 完)

148)音楽の泉(後編、クラシック)
 クラシックが趣味と言っても造詣が深いわけではない。曲目や演奏について多くを語れないので“好み”と“聴取頻度”を基準に上位20曲を選んでみよう。

    1.ベートーヴェン(1770-1827)  交響曲5番(運命;1808年)
    2.   ”                        ” 9番(合唱つき;1824) 
    3.   ”                        ” 3番(英雄;1804)、 7番(1812)
    4.   ”                          ” 6番(田園;1808)、 8番(1812) 
    5.ブルックナー(1824-96)              ” 4番(ロマンティック;1874)
    6.シュスタコービッチ(1906-75)       ” 7番(レニングラード;1941)
    7.   ”                        ” 5番 (革命;1937)
    8.マーラー(1860-1911)             ”  1番(巨人;1888)
    9.マーラー  ”                            ”  4番 (1900)
   10.ブラームス(1833-97)              ” 4番(1885)
   11.チャイコフスキー(1840-93)        ” 6番(悲愴;1893)
   12.ドボルザーク(1841-1904)        ” 9番(新世界から;1893)
   13.メンデルスゾーン               ” 3番(スコットランド;1842)
   14.シベリウス(1865-1957)           ”  2番(1902)
   15.チャイコフスキー      バイオリン協奏曲(1878) 
   16.メンデルスゾーン(1809-47)      ”    (1844)
   17. ベートーヴェン                  ”       (1806)
   18.   ”             ピアノ協奏曲 5番(皇帝;1809)
   19.ラフマニノフ(1873-1943)      ”   2番(1901)  

      20.チャイコフスキー             ”    1番(1875)
   番外.モーツアルト(1756-1791)  交響曲  14番(ジュピター;1788)
 
 紙面の制約で20曲を選ぶこととしたが、それさえも無理と判り、交響曲と協奏曲だけに限定し、更にベートーヴェンの「3番・7番」と「6番・8番」を1つと数えてやっと絞り込めた。検めて見ると“標題付き”の曲が多い。「運命」や「革命」など日本だけで通用する表題曲もあるが、名曲ゆえに表題がつけられ、表題があるゆえに目にとまり印象を深めたようである。

 これらを中心に独善と偏見を記述する。宗教の束縛から解放されたルネッサンス時代に続くのが、絢爛豪華なバロック音楽で、その代表がヴィヴァルディ(1674-1741)とバッハ(1685-1750)である。前者は「四季」で名を残し、後者は「音楽の父」と呼ばれる(2人の妻と20名の子供に恵まれ、幾人かの子供が名を残す音楽家になったので“音楽家の父”とも揶揄される)。ハイドンが確立した交響曲の様式をモーツアルトが発展させるが、ベートーヴェンの3番(英雄)で劇的な変化を遂げる。それまでの王侯貴族を相手とする宮廷音楽は明るくて軽快だが、心を揺さぶる感動に乏しい。“神童”モーツアルトに敬意を払って番外に最後の交響曲「ジュピター」を選んだ。西洋音楽の本場はドイツ(含むウイーン)とイタリアといわれるが、ドイツとロシアに角君の好きな曲が多い。

 “樂聖”ベートーヴェンは感情や思想表現としての交響曲を創生した。それは革命的でさえあった。旧来の弦楽器主体のサロン風音楽から脱却し、コンサートホールでの市民音楽を目指した。金管楽器や打楽器を多用して躍動感溢れる独創的な作品群を生み出した。因みに、交響曲1番では木管楽器のクラリネットであったが、それ以降の3番ではホルンが使われ、5番ではトロンボーンが初めて交響曲に導入され、6番では鳥のさえずりや牧歌的表現に幾種もの金管楽器が活躍し、8番ではポストホルンが郵便馬車を連想させる。全9曲の交響曲の中で3・5・7・9の奇数番が壮大でドラマチックである。第5番はあまりに有名すぎて「一番好きな曲」として挙げるのは面映いが、やはり高い精神性を有する至高の名曲であり、聴くたびに生命力と高揚感を与えてくれる。その「苦悩から勝利へ」の構成は、一人で耐えねばならなかった永い海外生活で明日への力を与えてくれた。最近の流行り言葉でいえば、萎えた心を支えてくれたのは「田園」の癒しではなく、「運命」から溢れ出る力強いエネルギーであった。

 代表的な曲を年代順に並べてみると、41番「ジュピター」(1788)→9番「合唱」(1824)→3番「スコットランド」(1842)→ブルックナー4番(1874)→ブラームス4番(1885)→1番「巨人」(1888)→6番「悲愴」(1893)→9番「新世界」(1893)→シベリウス2番(1902)→5番「革命」(1937)と彼らが影響しあって発展した北ヨーロッパ音楽の軌跡が見えてくる。

 ベートーヴェンにより創生されたドイツ・ロマン派音楽はウエーバー、シューベルト、メンデルスゾーンにより発展し、シューマン、ブラームス、ブルックナー、ワグナーによって最盛期を迎える。チェコで生まれウイーンで活躍したマーラーは後期ロマン派の最後の作曲家と言われる。彼の1番「巨人」はギリシャ神話の太陽神“タイタン”から採った。マーラーはベートーヴェンを強く意識し、4番の第4楽章ではソプラノが天国の生活を歌う。ドイツ・ロマン派音楽はチャイコフスキーに受け継がれロシアの大地でラフマニノフやショスタコーヴィッチによって蘇ったと角君は考える。奇しくも同じ5番の「革命」は“苦悩・闘争・絶望・勝利”の曲として、ベートーヴェンの「運命」を連想させる。7番「レーニングラード」は第二次世界大戦中に書かれたのであるが、ドイツ軍に包囲されたレーニングラードの壮絶な戦いを描きソビエット人民の勝利を確信して終わる。決して暗くも悲愴的でもなく抒情詩的でさえある。

 「第九」とは普通ベートーヴェンの「合唱つき」をさす。ブラームスはこの「第九」を強く意識するあまり、着想から20年余りたってやっと1番を完成した。その時、人々は交響曲「第10番」がやっと生まれたと喝采した。現に第4楽章の旋律は「第九」の歓喜の歌を想起させる。彼の曲はロマン派でありながら古典主義の秩序と均斉美を残すゆえにやや華やかさに欠ける。角君は1番でなく敢えて4番を選んだが、その陰鬱さからか万人向けでないようだ。ベートーヴェンの「第九」ゆえに9番目が“最後の交響曲”といわれる。ブルックナーは9番を第3楽章まで作曲して逝った。マーラーは「最後の交響曲」を意識するあまり9番目の交響曲に「大地の歌」と名付け、10番目の曲を第9としたが、結局、未完に終りジンクスは破れなかった。大作7番を終えたショスタコーヴィッチはスターリンの絶大な期待にも関わらず9番を20分足らずの小品にした。それ故にスターリンの逆鱗に触れ冷遇され、10番を発表するのはスターリンの死後であった。

 ベートーヴェンのピアノ協奏曲は最後が5番である。表題の「皇帝」はナポレオンを書いたものではなく、ピアノ協奏曲の最高傑作を意味する。1804年から5年間に「英雄」、バイオリン協奏曲、「運命」、「田園」、「皇帝」と名曲を生み出した。ロマン・ロランはこの時期を“傑作の森”と名付けた。これまでの協奏曲には“カデンツァ”という楽譜になくピアニストが自由に演奏する時間帯があったが、ベートーヴェンはそれを廃止して全曲を作曲者の統制下においた。ピアノとオーケストラが競演する40分の大作である。その後、やっと皇帝を陵駕したのがチャイコフスキーの1番(1875)である。その影響を受けたラフマニノフが29歳のときに完成したのが第2番である。彼はチャイコフスキーの死後、その庇護を失い冷遇され、ロシア革命後はアメリカに亡命してピアニストとして活動する。遠くで響く鐘のようなピアノに始まりそこに雄大なオーケストラがかぶさる。第二楽章の涙をさそう切ないメロディーは映画「逢びき」のテーマ音楽として有名になった。ロシアの大地を想わす雄大な曲をピアノとオーケストラが競演しながら最後は合流する。予備知識の無いまま初めて聞いて感動して買ったレコードはA.ルービンシュタインであった。角君愛蔵の一枚である。

 ベートーヴェン、チャイコフスキー、メンデルスゾーンはバイオリン協奏曲を1曲しか書かなかった。選にはもれたがブラームスも同様でこれらを四大バイオリン協奏曲という。二回目に買ったレコードがアイザック・スターン演奏、ユージン・オーマンディー指揮のメンデルスゾーンとチャイコフスキーのバイオリン協奏曲であった。幾度となく聞いている間に、どちらの曲か区別がつかなくなってしまう。両者の違いをうまく表現できないのがもどかしいが、メランコリニーだが甘美な前者と北国ロシアの哀愁をおびた旋律が後者といえようか。

 「名曲20選」としたが、ロッシーニーの歌劇、ワグナーの楽劇、ベートーヴェンの序曲、ベートーヴェンやショパンのソナタ、ワルツ王J.ストラウスの数々の名曲、シューベルトの冬の旅、フィンランディア、モルダウ、シエラザードなど民族色が豊かな室内管弦楽など、多くの名曲を除外せざるを得なかったのが残念である。また、バッハやモーツアルトが趣味に合わないと言ったが、この先年老をへて静かな生活を求めるようになると、重厚さよりも、心地よいバロック音楽やイタリア歌劇のアリアに耳を傾ける日々が来るような気がしている。  (2月上旬号  完)

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第四巻 (第117話~140話)

147)音楽の泉(中編: 流行歌から軽音楽へ)
 小学三年で「みかんの花咲く丘」を教わる前から、並木路子の「リンゴの歌」、田端義夫の「帰り船」、渡辺はま子の「蘇州夜曲」などの流行歌を歌い、不良になるのではないかと母を心配させた。中学一年の音楽の時間にベートーヴェンの「田園」をレコードで聴き、森本先生の解説でクラシックへ関心を持った。高校時代には三橋美智也や春日八郎らの流行歌を聞きながら数学を解いていた。ラジオ歌謡、ロシア民謡、歌声喫茶、ソノシートなどの言葉は懐かしい響きで青春を思い出させてくれる。大学三年の時、小さな電蓄とレコードを買った。B.ワルター指揮の「運命」と「未完成交響曲」であった。社会人になってからは少しずつながらクラシックのレコードを収集したことまでは前編で紹介した。

 東京に転勤した頃、銀座のクラブではミユージック・ボックスが鳴っていた。その後エイト・トラックが流行り、それもいつしかカセット・テープのカラオケに代っていった。台湾に駐在した当初は、ピアノやギターに合わせて歌っていたが、数年遅れで台湾にもカラオケが導入され歌詞の本を見ながらマイクに向った。都はるみの「北の宿から」は外地で覚えた最初の流行歌で、それ以後の歌が興三さんにとっては新曲である。しかし、それとても既に30数年前の昔話となった。

‘70年代の日本はフォークソングの黄金時代であったらしいが、それを知ったのはずっと後のことである。神田川(かぐや姫:1973)、青春時代(アリス:’74)、精霊流し(グレープ:’74)、襟裳岬(吉田たくろう:’74)、無縁坂(グレープ:’75)、私鉄沿線(野口五郎:’75)、シクラメンのかほり(小椋佳:’75)、秋桜(さだまさし:’77)、あずさ2号(狩人:’77)、青葉城恋唄(さとう宗吉:’78)、恋人よ(五輪真弓:’80)、昴(谷村新司:’80)などは確かに名曲である。しかし、日本を離れて駐在生活をしていたので、馴染むチャンスを逃してしまい残念ながら自分では歌えない。香港で駐在を始めた頃、会社のスタッフたちがカラオケで好んで唄う歌があった。広東語の歌詞なので皆目意味は判らないが、そのメロディーが印象に残った。数年後に知ったのだが、これが「昴」であった。

 台湾で仕事を始めた頃、MR(学術情報員)の一人が当時はまだ珍しい輸入コロナの自家用車で仕事をしていた。同乗し病院を訪問する時はいつもカーステレオから明るい澄んだメロディーが流れていた。ポール・モリアである。これがきっかけでムード音楽にも趣味が広がった。マントヴァーニー、アルフレッド・ハウゼ、リカルド・サントス、ヘンリー・マンシーニ、ビクター・ヤングなど。その一つに香港を舞台にした映画「慕情」の主題歌で有名になったアルフレッド・ニューマン作曲の「Love Is A Many Splendored Thing」があった。

 それでも長い駐在生活の間、変わらぬ友はクラシックであった。日本から持ち込んだレコードを繰り返し聞いていたが、駐在生活も後半の台湾でテープを買い、香港ではCDを買ってコレクションの巾が多少広がった。しかし、残念なことにそれらの解説は中国語で書かれているせいで、馴染めず結局は初期のレコードが愛蔵版である。
       (1月下旬号  完)

146)時にはそばに本が(後編)
 少年雑誌やマンガ本に親しみ、貸本屋に出入りした少年時代であった。中学1年の夏休みに足の怪我から2学期を床の中で過ごした時には講談社の世界名作全集を友とした。灰色の受験生活の合間に少しは日本文学に親しんだ。大学で自治会長をした縁で学長に図書館の片隅に世界文学全集を揃えてもらった。良く知られた“定番物”に過ぎなかったが、その中では『赤と黒』、『ジャン・クリストフ』、『チボー家の人々』に特に感動した印象が残っている。第40話でご披露したように理系の学生としては比較的読書に親しんだ方かも知れない。

 入社後は腰痛症に苦しみながら仕事と英語の習得に追われ、読書を楽しむ余裕は無かった。29歳で結婚する前後から多少軽い本を手にするようになった。そんな中で出会ったのが『どくとるマンボウ航海記』である。小さなマグロ調査船の船医として著者の北杜夫が世界各地を訪問する話である。外国事業部に在籍したことが購入のきっかけであったのかも知れない。ユーモアとペーソスに魅せられて、その後『昆虫記』、『青春記』、『小事典』、『酔族館』、『怪盗ジバコ』などの“どくとるマンボウ”の虜になった。

 マレーシアへの長期出張に選んで持って行ったのが、薄くて軽いが中味の濃い文庫本『シンポジウム・日本国家の起原』、『中国小史・黄河の水』、『われら動物みな兄弟』の3冊のみであったことは第60話で紹介した。その一冊『われら動物・・・』は東大理学部を卒業した畑正憲が動物の記録映画の制作に携わった時の経験をもとに書いたもので、68年の日本エッセイストクラブ賞を受けている。確かな科学者の目、動物への深い愛情、メンチメンタリズムに魅せられてホテルの小さな灯火の下で夜が更けるのも忘れた。その後、『博物志』 、『少年記』、『青春記』、『結婚記』、『獣医修行』、『放浪記』などの「ムツゴロウの***」シリーズが文庫本になるたびに買った。マレーシアへ持って行った3種類の文庫本はその後、日本古代史、中国史、軽い小説へと受け継がれ、興三さんの読書傾向を形成したようである。

 その“軽い小説”であるが、奈生子が生まれた翌年であったから73年の第19回江戸川乱歩賞を受賞した小峰元の『アルキメデスは手を汚さない』に魅せられた。よくもまあこれだけと思えるほどムダグチがポンポンと飛び出る青春推理小説。著者は高校の若い先生と思いきや毎日新聞社に在職の年配者であった。その痛快さと題名の面白さに惹かれて『ピタゴラス豆畑に死す』、『プラトンは赤いガウンがお好き』、『ヒポクラテスの初恋処方箋』、『ヘシオドスが種まきゃ鴉がほじくる』、『ソクラテス最後の弁明』、『ディオゲネスは午前三時に笑う』、『クレオパトラの黒い溜息』、『ホメロスの殺人方程式』など文庫本が出るのを待ちわびて留守宅の妻に依頼して駐在地へ送ってもらった。

 その間に城山三郎の『輸出』、『重役会午後三時』、『総会屋錦城』などのビジネス物に傾倒し、次に深田祐介の『西洋事情』、『新・西洋事情』、『西洋交際始末記』、『対談・新西洋事情』などの軽いノンフィクションを手にした。台湾やフィリピンに駐在した頃の新シリーズ『東洋事情』、『新・東洋事情』、『新・新東洋事情』、『最新東洋事情』を身近な情報として楽しんだ。大東亜会議を題材にした『黎明の世紀』は中篇ながら氏が想いを込めた力作である。小説『炎熱商人』は丁度フィリピンに駐在中であったので、臨場感あふれる思いで上下巻を一気に読み終えた。その後の「xxx商人」シリーズは文庫本になった時に日本から送ってもらった。

 中学一年の春休みに吉川英治の『新書太閤記』を読んで戦国時代に興味を持った。さらに幕末へ興味が移り司馬遼太郎の初期の歴史小説に没頭する時期もあった。直木賞となった忍者の世界『梟の城』、『竜馬がゆく』、斉藤道三を書いた『国盗り物語』、徳川家康の『覇王の家』、高杉晋作と吉田松陰を描いた『世に棲む日々』。『峠』を読んで越後長岡藩の重鎮河井継之助を知った。英邁でありながら歴史の非情とはいえ、土壇場で官軍と戦う決断を下し、自身と長岡藩を滅亡へと導いてしまった。

 30歳を超えた頃、東京神田の古本屋で手にしたカッパブックスの『点と線』に魅せられて松本清張の小説にのめり込む。貧しくて高等小学校までしか進学できず、給仕や版工などをしながら苦学する。『西郷札』が直木賞の候補になったのは41歳の時。44歳で『或る「小倉日記」伝』で芥川賞を受賞し、高齢になって小説家の道を歩み始める。ベストセラーがつづき“清張ブーム”が到来する。日本の高度成長の影の部分を“社会派推理小説”として書く傍ら、古代史、美術界、昭和史にも疑惑の推理を広げる。昭和史を題材にしたノンフィクション的な作品は手にしなかったが、その他の殆どの著書を読み漁った。その膨大な小説群のなかから、印象に残ったベスト20を選ぶのはこの上ない難題である。
 『点と線』、 『ゼロの焦点』、 『砂の器』、 『眼の壁』、 『波の塔』、 『霧の旗』、 『球形の荒野』、 『けものみち』、 『わるいやつら』(社会派推理小説)、 『黒い画集』、 『或る「小倉日記」伝』、 『張り込み』、 『坂道の家』(中・短編秀作)、 『陸行水行』、 『耶馬台国』、 『火の路』、 『古代史疑』(古代史)、 『無宿人別帳』、 『かげろう絵図』(時代物)、 『半生の記』(自伝)

 司馬遼太郎作品では初期の戦国物と幕末物の一部を読んだが、駐在生活が始まる頃より、氏の作品が次第に数巻に及ぶ長編になってきたので、短時間で読める清張作品に自然とシフトした。清張の女性描写は他の追従を許さない。それを説明するには角さんの筆は拙さ過ぎるが伊東深水が描く下膨れの美人を見るようである。清張が社会の悪を活写したのに対し、司馬は一人の男の志と生き様を書いた。「疑念」よりも「志」を高める小説の方がサラリーマンとしては向上心に役立ったかも知れない、と今は少し悔やんでいる。それは兎も角、海外駐在の身では手にとって本屋で買い求めることは出来ず、新聞広告を見て留守宅の妻に郵送してもらったため、殆ど全てが文庫本であった。

 転勤の度に大部分の小説は破棄したので書棚は寂しいが、“知識物”に類する本は多少残っている。今それらを眺めて見ると、その多くは日本や中国の歴史書であり、日本文化や日本人のルーツに関する本が多い。しかし、どう欲目に見ても読書内容の乏しさと量の少なさに我ながら愕然たる思いである。言訳になるが、日本語の本が売られていない外地で生活した事と英語と中国語の学習に多くの時間を費やした事がその理由かと思う。一時間読書をすれば日本語ならば50頁は読めるだろうが、英語では5頁にも満たない。40年近くそんな生活を続けてきたのだから、オツムの中は空洞に等しい。退職したら挽回しようと張り切っていたが、時間が豊富にある今は、既に根気は失せ視力は衰えている。真に慙愧に耐えない我が読書歴と言わねばならない。

 台湾駐在の時に読んだ邱永漢の『食は広州に在り』に魅せられて、『食指が動く』、『食前食後』、伝記的な『香港・濁水渓』など、氏の著書を次々と読んだ。その延長上に中国物の読書がある。その記憶を頼り、時に確認の目的で再度ページを捲ってこの『自分史エッセイ』の参考にさせて頂いた。この機会に列挙し著者に謝意を表したい。

   『中国の旅、食もまた楽し』  邱永漢  清朝文庫
   『中国人と日本人』  邱永漢著  中央公論社
   『中国歴史の旅(上)(下)』  陳舜臣著  集英社文庫
   『中国五千年 (上)(下)』  陳舜臣著  平凡社
   『ものがたり史記』  陳瞬臣著  朝日文庫 
   『唐詩新撰』  陳瞬臣著  新潮文庫
   『街道をゆく 40 台湾紀行』  司馬遼太郎著  朝日文庫
   『街道をゆく 20 中国・蜀と雲南のみち』  司馬遼太郎著  朝日文庫
   『街道をゆく 19 中国・江南のみち』  司馬遼太郎著  朝日文庫
   『街道をゆく 25 中国・閩のみち』  司馬遼太郎著  朝日文庫
   『激震東洋事情』  深田祐介著  文春文庫
   『客家・中国の内なる異邦人』  高木桂蔵著  講談社現代新書
   『李白』  福原龍蔵著  講談社現代新書
   『中国歴史散歩道』  伴野朗著  集英社
   『漢詩の心』  石川忠久・陳瞬臣ほか著  プレジデント社
   『新唐詩選続編(白居易・長恨歌) 吉川幸次郎・桑原武夫著 岩波新書
   『古典語典』  渡辺紳一郎著  東峰出版社 
   『中国帝王図 皇なつき(画)』  田中芳樹ほか  徳間書店  
   『漢書5列伝Ⅱ(李広蘇建伝第24)』 班固著 小竹武夫訳 ちくま学芸文庫
                          (1月中旬号  完)

145)寧波・杭州の旅
 上海から南に杭州湾を一跨ぎして「寧波(ニンポー)」に飛ぶ。寧波の歴史は古く唐代には明州とよばれ韓国、日本などとの対外貿易港であった。日本の遣唐使派遣は第一回の630年から260年間続いた。初期には沿岸航海法をと

り朝鮮半島の西を陸伝いで航海したが、新羅と国交が断絶してからは、東シナ海を突っ切って直接にこの明州を目指した。遣唐使たちは入国後、運河を利用して開封を通って長安に上った。

 仕事を終えた翌日、杭州へ出発までの時間を利用して市内観光を考える。ホテルを出て東へ行くと阿育王寺寺と天童寺がある。前者は鑑真が3回目の日本渡航に失敗した後に身を寄せた寺で、後者はわが国臨済宗の開祖栄西と曹洞宗の開祖道元が南宋時代に修行し、画聖雪舟が明の時代に学んだ寺といわれる。西に行くと後漢時代に創建の古刹保国寺とその先に河母渡(かぼと)遺跡がある。東西いずれにするかと迷ったが、河母渡遺跡に行き帰途保国寺に立ち寄ろうと西への道を選んだ。駐車中のタクシーのドライバー名と車番号を書き留めホテルのボーイを大声で呼びメモを手渡して出発する。運転手が強盗に変身するのを防ぐためのジェスチャーで、わざと仰々しく振舞う。

 市街をでると運河沿いの村落となる。白い漆喰の壁に黒瓦の小さな家が密集している。さらにのどかな江南運河の鎮を過ぎると水田が広がる。運転手も初めての地肌道で、途中2回ほど車を止めて道を尋ねる。一時間以上も走ったころ眼前に池が広がる。その先に河母渡遺跡博物館があった。中に入ると7000年前の風景や生活の有様が描かれている。象、熊、虎,犀から鯨までもいたらしい。石器、骨器、木器のほかに陶器、さらには栽培されたイネのモミまで発見された。稲作発祥の地といわれ、先年西安で見た半坡(はんぱ)遺跡に比べ遥かに日本に近い生活との印象である。中国の古代文明の発祥地は黄河流域だけではなく、長江流域と並行的なものではなかったかと考える。道中予想外に時間を費やし保国寺の観光は諦めたが、それでも出発時間にやっと間に合った。

     ―<上有天堂、下有蘇杭>― (天上に極楽あり、地上に蘇州杭州あり)
古人が言ったように「杭州」は蘇州と並び称せられる浙江省の省都である。秦代に銭塘県が置かれてから2200年の歴史をもつ。隋の煬帝は戦国時代から部分的にあった運河を改修し長安からこの地へ運河を開通させた。豪華な“竜船”に大勢の美女を乗せ酒宴を催しながら江南への船旅を楽しんだ。爾来「杭州」と呼ばれ、今では北京までの京杭大運河の起点である。南宋時代に臨安と改称され人口100万の国都として繁栄した。13世紀の様子を「世界で最も美しく華やかな地」とマルコ・ポーロが西欧に紹介している。龍井、虎井、玉井の“西湖三大名泉”で代表される透明で豊富な湧き水のせいか美人の産地としても知られる。

 ホテルの外観は中国様式を残し薄暗いロビーには天井画まである。部屋に入ると調度品などは古式豊かで「さすが古都!」と思わず呟いたが、やや黴臭い感じが漂う。部屋に入るといつものように、先ずは浴室のお湯の出具合を調べる。部屋によっては不備があるからだ。危惧が的中して浴槽の栓がなく、おまけにお湯の温度調節が難しい。フロントに電話すると直ぐに世話係りの女性がやってきた。くたびれた薄いピンクのユニホームに身を包みほつれ毛が目立つが、黒髪に透きとおる白い肌はきめ細やかで、二重の黒目は大きく、鼻はやや丸みをおびて小高い美形。身なりが質素なだけに却って絵から抜け出たように典雅な美しさが漂い、思わず眼を見張る。こんな美人が2日間部屋係りと思えば、お湯の温度などもうどうでもよい。いつになくやさしく微笑んで送り出してベッドに横たわったとたんに、電話が鳴った。
  「ぼろホテルだ、別のホテルに移ろう!」
 李さんからの提案である。杭州の担当MRが遠来の角さんにと気を使ってくれた古式ゆかしいホテルであるが、近年宿泊客が少なく実用性に欠けたようである。「部屋の設備など問題ではないのに」と美女に後ろ髪を引かれる思いでホテルを移った。杭州滞在の2日間、女性たちを観察したが確かに美人が多い。角さんの審美眼では西安と大連の女性は造作が派手な個性美で、杭州と蘇州が皮膚のキメが細かな典雅な美人といえるだろうか。

 西湖は杭州の代表的観光名所。
     ―< 水光 斂艶 晴 まさによし
        山色 空蒙 雨 また奇なり
        西湖を西子に比せんと欲すれば
        淡粧 濃抹 すべて相宜し >― 
             (注記:斂・艶・蒙には夫々「サンズイ」がつく。 西子は西施)

 宋代の文人蘇東坡は西湖を西施に例え「西湖は晴れても雨でもよく、西施が薄化粧でも厚化粧でも美しいに等しい」と讃えている。小舟に乗って西湖を観光する。湖岸や小島の緑柳が美しい。訪れた“西湖十景”には断橋残雪、平湖秋月、蘇堤春暁、花港観魚、柳浪聞鶯などの詩的な名がつく。三潭印(さんたんいん)月(げつ)は西湖に浮かぶ最大の島でその中に湖があり、「湖中の島、島中の湖」と讃えられる。蘇堤とは蘇東坡がこの地の役人であったとき、水利工事に尽力して作った堤防である。唐代の詩人白居易(白楽天)も役人として滞在し堤防を築いた。両者を合わせて蘇堤・白堤と呼ぶ。蘇東坡は文人・役人のほかに食通(グルメ)としても名を残す。東坡を冠したあまたの料理で「東坡肉(トンボウロウ)」は我が国でも馴染みの中華料理の一品「豚の角煮」である。豚肉を四角に切り砂糖・醤油・紹興酒を加えて煮込んだあと、蒸すのが正しい料理法とのこと。概して甘口の料理である。ところで中国で「肉」と言えば豚肉のこと。他の肉には鶏肉、牛肉、羊肉のごとく動物の名を冠す。

 銭塘江は杭州湾に流れ込む。その北岸月輪山に六和塔が建っている。北宋の970年に銭塘江の高潮を鎮めるために建てられた。高さ60m、八角十三層の最上階まで登った。眼下に銭塘江と大橋を見下ろす壮大な風景である。銭塘江の河口はラッパ様に口を開いているために、潮が満ちると海水が大逆流して大津波のように押し寄せ“銭塘潮”となる。テレビで見ただけだが、時速25kmで3、4メートルの高潮が押し寄せるさまは危険と紙一重の壮観さ。中秋の名月のあと4日間が満ち潮で、最も規模が大きい“銭塘の秋涛”を見ようと近年多くの観光客が押し寄せている。

  岳飛廟(がくひびょう)も訪れた。南宋時代に北方の金(女真族)への対応で、金品を贈りなだめようとする和睦派とそれに反対の抗戦派に政府内で意見が分かれた。文人派と武人派の抗争であったのかも知れない。徹底抗戦を主張した武将岳飛の主張は入れられず逮捕され毒殺された。岳飛廟はその霊を祀る廟である。庭の奥には岳飛と息子岳雲の墓がある。廟の楼門をくぐると鉄柵があり、その中に半裸でうしろ手に縛られ頭をたれて跪く鋳鉄製の像がある。岳飛を謀殺した和睦派の奸臣、秦檜(しんかい)とその妻が罪人としてさらし者にされている。「唾を吐きかけるな」と掲示板が書かれているが、却って参拝客を誘っているのか無数の唾跡がある。屍を鞭打った伍子胥と似た情景である。死とともに生前の罪は消え神仏になる日本人の宗教観と比べて何と恨みと執念が深い国民性かと改めて感じた。

 「日本では怨念や慙愧をいだいて死ぬと祟るので、丁重に祀らねばならない。政治家の靖国神社参拝が中国や韓国に非難される度に政府は逃げ腰の発言を繰り返している。内外からの非難を恐れ過ぎて説明ができず「内政問題」と言うのが精一杯。日本全国に広がる天満宮はもともと不遇で死んだ菅原道真の鎮魂に由来している。日本人は死ぬと誰でも神仏になり、死者を分け隔てしない。二等兵も戦犯もない。不本意な死に方をした者は、なおさら丁重に祀らねばならない。死者に鞭打ち罪人像に唾を吐きかけるのとは、正反対の宗教観である」
多少はこじつけであっても良い。日本の立場や宗教観を“論理的に説明”すべきである―――と思った。果たせるかな、非難の声は年毎に大きくなり昨今では米国にまで飛び火して、消すのが難しくなった。

 武漢から始まった10日間の江南の旅は終わり、帰り間際に次回は7月中旬に長春から内モンゴルへ行くことが決まった。

  参考資料:『中国・江南のみち』 街道をゆく 19 司馬遼太郎 朝日文芸文庫
        ガイドブック『エアリアガイド/101、中国』  昭文社       (1月分上旬号 完)

144)呉越の死闘、臥薪嘗胆の風景
 虎丘斜塔を見上げていて呉王夫差(ふさ)と越王勾践(こうせん)の復讐の争い“臥薪嘗胆(がしんしょうたん)”を思い出した。長江の中流を楚、下流を呉、その南を越という。春秋時代のなかば呉の国都が現在の蘇(当時は呉か?)、越の国都が会稽。呉越の版図は現在の浙江省の北部と南部にほぼ同じ。ともに長江河口の南に位置する。会稽は紹興と名が変わり文豪魯迅と紹興酒の故郷として今は知られる。“呉越同舟”は犬猿同士が何かの事情で一緒に居合わせること。舟を降りると掴み合いを始めるから、同床異夢より始末が悪い。今回の「呉越の争い」は楚国の内乱で父と兄を殺された将軍伍子胥(ごししょ)が亡命し、呉国の嫡子公子光の食客となった紀元前532年から始まる。逃亡の途中で斉(せい)から移り住む孫武(そんぶ;兵法者孫子)と出逢う。魯国で孔子が弟子に講義していた頃の話である。

 公子光は伍子胥の助けをえてクーデターで王位につく。呉王闔閭(こうりょ)の誕生である。勢いに乗じて中原を目指す。途中、楚の国を通過しなければならないが、兵法者孫子と復讐の鬼伍子胥の活躍で呉軍は楚に勝利し入城する。しかし、父兄の仇敵、楚の平王はすでに墓中に眠る。怨念が爆発した伍子胥は平王の墓をあばき、屍を鞭で三百回打ったと『史記・伍子胥伝』は伝える。その場で遭遇した旧友の申包胥がこれを諌めると“われ日暮れて道遠し”「16年もの永きに渡りこの日を待っていた。老いの身に手段を選ぶ暇はない」と言って憚らない。楚人の執拗さを表す有名な場面である。

 10年が過ぎて呉王闔閭は再び中原を目指す。 後顧の憂いを絶つために、允常(いんじょう)が死に勾践(こうせん)に代替わりした機を狙って越の討伐を決意する。允常の墓前で呉越両軍が対峙した時、  
 「汝らの死後、遺族の面倒を見よう」と因果を含められた越軍の罪人たちは、呉軍の眼前で集団自刎(じふん)の奇策を展開する。あっ気に取られた呉軍に対し陵墓に潜んでいた越軍が襲いかかり呉軍は大敗する。この乱戦で呉王闔閭は重傷を負い、日を経ずして落命し姑蘇城外の虎丘に埋葬されることになるのだが、臨終の床に息子の夫差を呼び寄せて
 「越の勾践が汝の父を殺したことを、忘る勿(なか)れ」と遺言する。
死者に鞭打つ伍子胥を目の当たりにし、
 「伍子胥の執念深さと復讐心に学べ」
と教え込まれて育った呉王夫差は、復讐心の緩みを戒めるために薪の上に寝起きの日々を過ごす。“臥薪”である。その仇敵勾践主従こそ「天莫空勾践 時非無范蠡」(天、勾践を空(むな)しゅうする莫(なか)れ、時に范蠡(はんれい)無きにしもあらず)と桜の幹に走り書きされた勾践と范蠡である。日本の南北朝時代の忠臣児島高徳の美談については第12話で紹介した。

 奇襲作戦で勝利したものの実力では呉軍に及ばないことを知る越王勾践は、今の内に呉を打ちのめそうと出陣を決意する。忠臣范蠡は「時未だ到らず」と諌めるが聞く耳を持たない。忠言は的中し太湖のあたりで大敗し敗残兵と共に会稽山に逃げ込む。包囲された勾践は、呉軍の宰相伯嚭(はくひ)に賄賂を贈り呉王への口添えを頼む。
 「后(きさき)を側女(そばめ)として差し出し、己は陛下の僕臣となる」
懸命の命乞いである。軍師伍子胥は形相を変えて諫止(かんし)するが呉王夫差は越王勾践の懇願を聞き入れてしまう。夫差は父が食客とした楚人伍子胥の執拗さを疎ましく感じ始めていた。

 馬屋番として人質生活を送るが、許されて2年後に帰国を果たした勾践は、その日から復讐を誓い、苦い胆(きも)を嘗(な)めては
 「会稽の恥を忘れるな」
と己に言い聞かす。“嘗胆”の生活である。一年遅れて范蠡も釈放され主従は協力して富国強兵を進めるかたわら、呉王夫差に金品を差し出し恭順を示す。加えて南国越でとれる紫檀・黒檀を送って宮殿建設を誘い、さらに美女を贈って遊興の日々へ誘惑する。その中の一人に西施がいた。范蠡によって歌舞音曲を教え込まれた沈魚落雁(ちんぎよらくがん)の美女である。芭蕉の俳句にも詠まれている。
    ―< 象潟(きさかた)や雨に西施が合歓(ねぶ)の花 >-
中国史上、艶姿により名を残す美女たちのなかでも、とりわけ美しさと数奇な運命から、楊貴妃、王昭君、西施、貂蝉(ちょうせん)は中国四大美女といわれる。貂蝉は三国時代の楽女。養父王充の策に従い、後漢の実力者董卓と呂布義父子の夫々と密会を重ね二人の仲を割く。王昭君を除く他の3人は傾国の美女である。

 越の賢臣范蠡の籠絡策を見抜き、諌める伍子胥の言葉はもはや“忠言耳に逆らう”こととなる。奸臣伯嚭(はくひ)の讒言(ざんげん)により、ついに夫差は伍子胥に剣を与え自決を促す。今はこれまでと自刃を決意した伍子胥は使者に向って、
 「我が墓に梓を植え、それで呉王の棺をつくれ。我が目をくり抜いて呉の東門に掛けよ。越軍が侵攻し呉を滅ぼすさまをしかと見とどけよう」
と言い放ち、立てた刃(やいば)に身を伏せる。伍子胥の死を知った范蠡は勾践に向って進言する。
 「ついに恨みを晴らす時が来ました」
越は呉都の姑蘇城を包囲する。3年が過ぎて落城の時至り、夫差は命乞いをするが范蠡は
 「天の与うるを取らざれば、却ってその咎(とが)を受ける。会稽の恥を忘れる勿れ」
と苦渋の決断を我が王勾践に迫る。自決にのぞみ呉王夫差は、
 「あの世で伍子胥に会わせる顔がない」
と己の顔を布で覆って自刃する。22年にわたる呉越の復讐戦が終結したのは紀元前473年のことであった。

  -< 旧苑、荒台、楊新たなり  菱歌の清唱、春に勝えず
      只今、唯有り、西江の月  曾(かつ)て照らす呉王宮裏の人 >-
唐の李白は姑蘇台の遺跡を訪ね、「蘇台覧古」という七言絶句をつくった。菱歌とはヒシの実を摘むときに歌う民歌であり、呉王宮裏の人とは西施を指す。

 功臣范蠡のその後について『史記』は次のように伝えている。 
 「飛鳥が尽きると良弓はしまわれ、狡兎(こうと)が死ぬと良犬は煮られる。敵国破れれば謀臣亡びる。勾践王とは困難は共にできるが、楽しみは共にできない」
僚友に離別の書を残して越国を出奔する。役目が終われば無用であるとの意味である。引け際の見事さこれに勝るものはない。斉の国に行き名を変えて製塩業で財をなす。斉王が聞きつけて宰相に迎えたいと申し入れるが
 「尊い名声を久しく受けるのは不祥」
と言って、蓄えた財を知人縁者に分け与え黄河を遡上し陶の国に移る。ここでも交易で巨万の富を築いたと伝えられる。「陶朱公」と呼ばれたそうだから、朱の交易をしたのであろう。長江中下流の覇権は呉から越、楚と移り最後に秦によって中国全土が統一される。

    参考資料: ものがたり史記 陳瞬臣  朝日文庫
                   中国五千年(上) 陳瞬臣  平凡社
          中国帝王図 皇なつき(画)、田中芳樹ほか  徳間書店       (12月分下旬号 完)

143)姑蘇城外寒山寺、江南の旅
 6月の中旬に再びベストコールの拡張旅行に出かける。今回は「武漢~蕉湖~常州~蘇州~寧波~杭州」。長江(揚子江)の中下流域、水郷江南10日間の旅である。大会社のオーナーに出世した李社長にとって武漢は故郷に錦を飾る一大イベントとなった。南京に飛び列車に乗り換え3時間で「蕉湖」に着く。説明会を終えて早めに就寝、翌朝は4時起きである。車中で中国式握り飯を頬張りながら2時間ほど走って水辺に着く。聞けば長江とのことだが本流の淀みは湖となって、その区別は定かではない。彼方に対岸らしきものがかすかに見える。小一時間待つほどに朝靄の中から船体が姿をみせる。映画『アフリカの女王』の名場面を思い出す。車ごとフェリーに乗り込んだ時、これから対岸の常州へ行くと知らされた。

 「常州」は北京と杭州を結ぶ京杭大運河沿いの中堅都市。宋の時代、蘇軾(そしょく、号は東坡・とうば))が各地を遍歴したのち亡くなった土地でもある。 説明会を終えて上海行きの列車で無錫を通過して「蘇州」へ到着する。長年憧れた江南の古都である。
      ―< 幾年の想いで聴くや寒山寺 >―     
到着の日にふと詠んだ駄作である。今日は日曜日、武漢出身の李さんには蘇州は馴染みの町、ホテルで寝て曜日を決め込む。角さんは小雨の中を一人で観光にでかけた。
      ―< 緑波 東西南北の水   
              紅欄 三百九十の橋 >―
唐の詩人白居易は水都蘇州をこう詠んだ。唐の時代には洛陽や長安に米を運ぶ水運の拠点であり、南宋以降近代まで絹織物の商工業で繁栄した。千年以上も江南穀倉地帯の中心地として栄え史跡と庭園文化を今に残した。
   
 先ずは四大名園の中で最も有名な拙政園(せつせいえん)に行く。唐代の住居は元代に大宏寺となり、明代に官職を追われた王献臣が故郷に戻りこの寺跡を造園して拙政園と名付けた。“拙者之為政”(愚者の政治)から採った。庭の半分を占める大小の池泉の中に、樹木、山石、堂・亭と曲廊がほどよく配され重厚な雰囲気を漂わす。日本庭園の源流ではないかと思った。次に近くの獅子林を訪れる。太湖の底から取り出した奇怪な形の太湖石が林立している。天目山の獅子岩に因んで命名された。タクシーを拾って蘇州最古の庭園、滄浪亭(そうろうてい)へ行く。屈原の詩「漁夫」の「滄浪之水」から名付けたと説明書に書かれている。数人の中国人が観賞しているだけで岩の峰、竹林、渓流、楼閣と回廊が静かな空間美をみせている。

 昼食後に城外の留園を簡単に見学して虎丘へ上る。春秋の末期(紀元前5世紀)呉王夫差がつくった父闔閭(こうりょ)の墓地である。小山の周りに堀を巡らし照葉樹が生い茂り白鷺が群生しギャギャとやかましい。緑葉は白鷺のフンで白ペンキを撒き散らしたようである。闔閭と一緒に埋蔵された三千本の剣を求めて、後に始皇帝が掘り返したところ、そこから猛虎が現れて発掘を中止させた。盗掘の跡が剣池となり、すぐ近くにある虎丘塔の地盤が緩んで傾いたと伝えられる。有名な虎丘斜塔は961年創建というから相当古い。堂々たる磚(せん)を重ねた七層塔であるが、ピサの斜塔に劣らず傾いていて登上禁止であった。

 虎丘をおりて運河沿いに寒山寺へ歩く。黄色の塀に黒々と「寒山寺」と大書している。梁代の502年に創建の名刹で日本人が愛してやまない漢詩「楓橋夜泊(ふうきょうやはく)」の石碑もある。科挙の試験に失敗して北京から故郷に帰る失意の船中で眠れぬままに張継が書いたといわれる。3年後に再挑戦し見事合格したことを張継の名誉のために付言しておく。
     ―< 月落ち烏啼いて霜天に満つ
           江楓、漁火、愁眠に対す
        姑蘇城外寒山寺
           夜半の鐘声、客船に到る >―

 入口はすでに閉ざされている。訊けば僧業の為に4時に閉門する慣わしとのこと。留園に立ち寄り遅れたことが悔やまれる。塀越しに立派な五重の塔を見るだけで参観を諦め、人影がまばらな間口の狭い家並みの町を散策する。白壁と黒瓦の家並みは古色蒼然として美しい。近くに「鉄鈴関」と書かれた城門があり、階上に上がって運河を眺めると石造りの“楓橋”と呼ばれる太鼓橋が川面に弧影を落としている。小舟が一隻、二隻と蒸気音と波跡を残して去ってゆく。ゆっくりと時が流れる水郷蘇州の静かな夕刻である。

  参考図書: 中国歴史の旅(下) 陳舜臣著  集英社文庫
        中国の旅、食もまた楽し  邱永漢  清朝文庫
                                (12月分中旬号 完)

142)パンスポリンの拡張始まる。
 1995年9月にマニラでアジア会議が開催されタケプロンの拡張戦略が協議された。良い機会なので家内を日本から呼び寄せた。駐在中に研太郎に英語を教えてくれたクルス先生の一家とマニラのホテルで再会した。息子2人が立派な青年に成長していた。

 マニラから帰港し、“香港ビジネス”に精を出すが、席が暖まるまもなく上海の第四製薬工廠からパンスポリンのシンポジウムに講師として招かれた。たまたま先鋒医薬公司が上海市に本社を移転したばかりで、良い機会なので李社長を祝賀訪問した。海南島の海口市で誕生した小さな会社が上海の高層商業ビル最上階34階の全フロアーを所有する大会社に成長していた。中国経済の躍進ぶりを示す好例である。

 開発中の浦東地区を見ようと完成まもない南浦大橋を渡った。観光地として有名な外灘(バンド)がある黄浦江の対岸にある新興地帯。かつては農村に過ぎなかったが、将来の上海を支える広大な新開地で、既にテレビ塔の近くにはポツンポツンとビルも立ち始めている。長江(揚子江)を見ようと更に20分ほど原野の中を車で走る。突然、視界が開けた。ここが長江の河口付近と教えられるが、島影もなく見渡す限り水面で天地の境は遥として定かでない。確かなことは海ではなく河だそうである。

 「上海四薬」は武田から原料薬セフォチアムを輸入しパンスポリンを製造している。ベストコールの急成長に刺激されて昨年7月に続き2回目のシンポジウムである。日本から参加のT君が武田薬品を英語で紹介し、角さんが製品特性を中国語で説明し、上海の内科医と外科医が臨床結果を報告した。

 汎司博林(パンスポリン)は第二世代セファロ系注射剤で中程度の感染症に広く勧められる。一方、先鋒医薬公司が輸入販売するベストコールは第三世代品である。中国では第二世代を飛び越えて一気に第三世代が大ブレークした。販売元が異なる類似2種類の抗生物質を角さんが一人二役で講演することになる。ベストコールの製品説明会では
 「重症感染症には抗菌範囲が広く抗菌力が強い第三世代のベストコールがベスト」
と訴えながら、パンスポリンのシンポジウムでは
 「抗生物質は繁用すると耐性菌が生ずるので、日本では第三世代は最後の切り札として温存し、中程度の感染症には第二世代品が最適である」
とF社、H社、G社などの世界的製薬会社が販売する第三世代の競合製品を意識した説明となる。誤りでも偽りでもないが、多少は我田引水で、鋭利な矛と堅固な盾の商いに似ていなくもない。

 この時、宿泊したホテルで異様な光景を見た。金髪碧眼の女性が広いロビーを埋めるばかりに大勢いて、興奮した面持ちでお喋りをしている。夫々が一歳未満と思われる乳幼児を抱き、幼児篭(クーハン)に入れ、なかには哺乳瓶でミルクを飲ましている。ベビーたちは明らかに東洋顔。2人の中国人は世話係りのようだ。話の内容は聴き取れないが、夫人達の会話は、我が子を初めて抱いたときの歓びか、我が子の自慢話にちがいない。
 (米国からの養子縁組ツアーの一団で各地で縁組を終えた夫人たちが、これから幼児を連れて米国へ帰国するところに違いない)
と考えついた。

 翌年の95年3月に第3回目のシンポジウムを上海で開いた。大阪からU嬢が夕刻到着の予定である。角さんは一足先にホテルにチェックインして昼食にでかけて、路地裏で麺店をさがす。この日の南京牛肉麺は本当に旨かった。牛肉麺は排骨麺と並び中国で最もポピュラーな麺。この場合、“排骨”とは骨付き豚肉に衣を付けて揚げたもの。“牛肉”は時間をかけて煮込んだ、とろけるような牛肉の塊。味は店によって千差万別で、長年かけて作り出したスープ原液には恐らく十幾種類もの香辛料が溶け込んでいるであろう。しかし、日本のスープと違い決して塩辛らくない。左手にレンゲを右手に箸を持って、大きなドンブリに入ったこしの強い麺をフーフーと吹きながらすすった。ネギやモヤシに混ざって緑の香菜(シャンツァイ)が山と盛られているのがさらに嬉しい。このコリアンダはカメムシの臭いがすると大抵の日本人は嫌がるが、慣れるとこれが無ければ画龍点睛を欠く。

 当時、武田ではすでに女性の海外出張は普通であった。U嬢はこれまでアジア各国で販売交渉に携わってきた優秀な女性であるが中国は初めての訪問。彼女は英語でスピーチを始め「一期一会」を紹介する。一生に一度の今日の出会いを大切にしたいとの心を込めた医師たちへのメッセージなのだが、その翻訳が伝わりにくい。プロジェクターを使ってスクリーンにこの「一期一会」の四文字を映し出し「I like this phrase」と言えば一目瞭然なのだが、彼女はこの四字熟語が中国伝来の仏教用語と気づいていないようだ。第一、今後パンスポリンのサポートをお願いしたい医師に対して今回だけの出会いとは場違いの表現といえよう。こんな些細なことでも経験の有無が相手の琴線に触れるか否かとなりビジネスの成果に影響する。

 この年の春の社内慰安旅行はタイのプーケットであった。家内と娘奈生子も参加した。プーケットで奈生子は海上スクーターに載せてもらい運転手と二人で走り去った。角さんが後を追うつもりでいたが、スクーターの運転手がどこかへ行ってしまった。奈生子が乗ったスクーターはすでに島の彼方で行方が知れない。無事帰り着くまでの十数分間はカミサンに叱られるはで、生きた心地がしなかった。バンコック市内を観光したのち、娘は一人で日本に向けて飛び立った。登場口を間違えてアラビアへでも連れて行かれたらどうしようかと、これまた不要な心配をしたものである。

 5月下旬にベストコールの説明会で一週間「桂林~南寧~南昌」を訪れた。桂林は社内旅行、家族旅行に次いで3回目。桂林から南寧へは高原列車での旅である。「南寧」は広西チワン族自治区の区都でベトナムとの国境に近い。チワン族を始め、ヤオ族、ミャオ族、トン族など少数民族が34%を占める。またまた食べ物の話で恐縮だが、この時の夕食代は3人でビールを2本飲みたらふく食って、わずか800円前後であった。食べ物と観光の話ばかりで良い思いをしたように聞こえるが、硬座の列車(硬い座席の2等車)、粗末な食事、日本語を一切話さない旅である。李さんとは英語で話すが他の人とはいつも中国語。角さんだから耐えられた仕事と評価して欲しいと内心では思っている。南寧から飛行機で北東に飛び「南昌」に着く。1912年に結成された共産党が27年8月1日に紅軍を組織して武装闘争を宣言した「南昌蜂起」で有名な近代史の町である。因みに似た名前の昌南鎮は陶磁器で有名な景徳鎮の古名である(内林政夫博士)。

      参考図書:中国事物あれこれ(下)  内林政夫著  杏雨 第11号(2008)    (12月上旬号 完)

141)円高の苦難とカタリンの流通整備
 日本円の為替レートは戦後間もない1949年に1米ドルが360円と決められた。しかし、71年8月のニクソン・ショックでこの固定相場が崩れ12月の「スミソニアン合意」で308円を記録。この時にはビオフェルミンやカタリンの輸出価格の調整で対応に追われた。73年には「変動相場制」へ移行し78年には176円にまで円高が一気に進んだ。そして、85年のG5の蔵相・中央銀行総裁による「プラザ合意」でドル安を認容する決議がなされると240円から2年間で2倍に上昇して120円を記録した。香港に赴任した90年3月は160円前後と小康状態を保っていたが、その後はジリジリと円高が進む。日本からは事あるごとに輸出価格の値上げを要求して来る。香港市場向けの製品については少しずつでも販売価格を調整できるが、中国向けカタリンについては外貨不足の中国を相手にしたスポット・ベースでの取引では値上げは難しい。

 そんな中で94年5月にカタリン輸出の担当地域が中国全土となって、
 (この際、数社ある輸入業者を一社か二社に絞ることができないか)
と考え始めたが、交渉過程の手間暇を考えると口で言うほど簡単ではない。下手をすると総代理店の権利だけ取られて実際の輸出数量が減少する危険さえある。それでも今の内に実施しておくことが重要と決心し、本社を説得し承認を取り付けた。これまで購入量が多く香港に近いので意思の疎通が図り易い珠海麗珠公司と広州市医薬公司の2社を候補とした。その他の公司には決定後に文書で連絡すれば良かろう、と基本方針を考える。
   ・提携会社は一社か二社のみ
   ・年間の引取り数量は前年度中国向け輸出の120%
   ・輸出価格は現在の10%アップ
例によって交渉はキーワードだけ。複雑にすると中国語での交渉能力でハンデを背負うことになる。
 「交渉は勢い。犬に吼えられると恐ろしいが、あちらも怖くて吠えている」
と強気を通すのが、交渉に望むときの信条である。

 案の定、広州市医薬公司はけんもほろろに冷たい返事であるが「市場の20%分は販売権が欲しい」と勝手なルールを提案する。おまけに、これまでの友好関係とダーゼン販売の実績を強調する。さすが商売上手の広東人であるが、換言すれば“実現不能な口約束はしない”信頼性がある。一方、珠海麗珠公司はこの提携話に乗ってきた。上海系の会社で広州市医薬公司に対し競争心を覗かせる。しかし、「広州市医薬公司に20%分は販売権を分与する」点で交渉が難航した。20%と言いながら実際にはそれ以上を広州市医薬公司に横流しするのではなかろうかと、こちらの対応を疑ったのである。誠心誠意説明し、やっと10%で納得してもらった。角さんを信じてくれたのである。

 交渉はジャンケンに似ていると思う。相手がグーを出すと予想しパーを出そうと考えるが、それを予想した相手がチーを出してくる。ならばこちらはグーで相手はパーとなる。結局堂々巡りで何が強いか正しいか判断できない。戦略戦術交渉にかけては角さんなど華人の足下にも及ばない。台湾で仕事をしていてそのことに気がついた。爾来、腹の探り合いは止めて、“是々非々正論直球プラス誠意誠実”を信条に彼らと接してきた。珠海麗珠公司も広州市医薬公司も、そして上海四薬工廠も先鋒医薬公司の李さんもこんな自分を信頼してくれた、と今は思っている。

 そんな中で95年の年明けに、急激な円高が始まり100円を割った。そして、4月19日に歴史に残る79円75銭を記録した。カタリンのみならず、ベストコール、パンスポリンにとっても苦しい時であった。製造業者、輸出元、輸入元が夫々利益を削る、一方で、患者にも値上げを負担してもらう四方一両損で凌いだが、正に胃の痛む日々であった。それにしてもカタリンについてはスポット・ベースを止めて、輸入業者を2社に絞り込んでいたことが苦難を乗り切るのに役立った。 (11月下旬号 完)

140)西安、西域の香
 唐の都長安は玄宗皇帝の時代に最盛期をむかえ、人口100万をこえる国際色豊かな大都市であった。東西9.7キロ、南北8.6キロの城壁は5メートルの高さで、碁盤目状に百八坊に区切られている。これは自然発生した数ではない。中国全土を表す九州の9と十二ヶ月の12を掛けて得られる除夜の鐘にも通じる数で、時空全てを支配する皇帝の居所を象徴する。皇城の南正門が朱雀門で、そこから南への巾150メートルの朱雀大街によってまちが二分され東街と西街があった。東西に市があり、東市付近には裕福な官人が居住し、西市は庶民が多く住み、西域から来た胡人や胡品で賑わった。この国際的西市を模したのが広州交易会(第111話)と聞いた。

   < 五陵の年少 金市の東  
               銀鞍 白馬 春風を渡る
           落花踏み尽くして 何処にか遊ぶ
               笑って入る 胡姫酒肆(しゅし)の中 >  李白 「少年行」 (*年少=少年、 酒肆=酒場)

 西安では西域風の食べ物と美人に出会えると聞いていた。餃子と火鍋と羊肉のシシカバーブが印象に残っている。餃子は野菜がたっぷり入ったキングサイズと赤黄緑の色彩をほどこし動物を模った可愛いい2種類がある。いずれも蒸したもので水餃子ではない。火鍋は西安風しゃぶしゃぶといったところ。薄切りの羊肉と野菜や春雨を熱湯に通し、香辛料が効いたタレにつけて食べる。シシカバーブは西域風羊肉の串焼きで、ウイキョウ、大韮(にんにく)、唐辛子で味をつけている。いずれも芳香が何ともエスニックである。

 アジアで長年仕事をして多くの人たちに出会ってきた。爾来、“人の顔”を観察するのは角さんの趣味の一つになっている。地方ごとに独特の顔があり、悠久の歴史の中で少しずつ血が混って来たようである。湖南省の鎮だったろうか女性の皆が同じようにまん丸なポッチャリ型の顔をしていた。山や河に遮られDNAが交じり合う機会が少なかったのであろう。西安では街頭で思わず振り返り、レストランでしばし見とれる美人に幾度も出遭った。背丈は高めで、色白彫が深く目鼻立ちがはっきりしたタマゴ型。化粧気は無く自分が美形であることさえ意識せず額に汗して働いている。こんな原石に出遭った時ほど感動することはない。一人で粗末な店に入りジャージャン麺と蒸餃子を注文した。茹で上がった熱々の麺に煮込んだ羊のひき肉をかけて食べる。スパゲッティーミートソースに似ているが生麺で細い。ひき肉には多種類の香辛料が使われているのか複雑で深みのある味。日本の単味と違う点である。ウエイトレスには美貌とか優雅といった形容詞は当らない。相応しい単語が見つからないのがもどかしいが、兎に角、魅了されながらジャージャン麺を口に運んだ。西安の路地裏で出遭った麺と女性の密かな思い出である。

 月曜日と火曜日は主要医院のリーダー医師を精力的に訪問しシンポジウムへの協力を依頼した。夕刻のシンポジウムは大学病院の講堂が一杯になるほどの盛況であった。角さんが会社と製品を紹介し、地元の内科医と外科医が臨床結果を報告した。その後の夕食会では例によって参加医師と言葉を交わし葡萄酒で乾杯をして武田薬品(ウーティエン・ヤオピン)、角興三(ジヤオシンサン)、倍司特克(ベストコール)を宜しくとお願いする。医師は自分たちが知っている日本情報を面白がって披露し、確かめるように質問をしてくる。曰く 
 「日本の太々(おくさん)は“先生健康、不在家裏(亭主達者で留守が良い)”を好む」
 「日本の太々はタバコ臭を嫌うので、先生(しゅじん)はベランダに出て喫煙する。夜であれば吸引ごとにタバコの火が赤くなるので、それを蛍族という」
 「日本のサラリーマンは帰宅途中に必ず居酒屋に寄って一杯飲んでから帰宅する」
 「会社で重要な仕事に就いていると、忙しくて定刻には退社できず残業をする。早く帰宅するのはダメ男。だから妻や近所の手前、居酒屋に寄ってから帰宅することになる」
 「酒が飲めない人は仕方が無いので、パチンコ店かマージャン屋で時間をつぶす」
TVから得た情報であろうか、単純明快で生半可ながらまことしやかに面白可笑しく編集されている。芸者・冨士山・新幹線はもはや過去の話題。角さんは日本を離れて既に久しく新聞だけが情報源。むしろ彼らのテレビ情報の方が新しい。あちこちで同じような質問を受けたが、当初は蛍族や弾球盤(パチンコ)など何のことか判らなかった。こんな話題が宴席では一番盛り上がり、格好のノミニケーションであり民間外交となる。

 離陸までの時間を利用して、一人タクシーで清真大寺を訪れた。道を間違えて小路に迷い込みタクシーが進めない。下車して水はけの悪い路地を歩く。西域の血と伝統を唐代より綿々と引き継いできた人たちの生活圏であろう。中国籍になり若い人たちは北京語も話せようが、宗教や生活はイスラム世界を保持しているに違いない。多少気味が悪いが、争いさえ起こさなければ危害は無かろうと勝手な解釈をして民家の軒先を縫うように進んだ。清真大寺は西安最大のイスラム寺院で中国風の建築様式であるが、木造でなく石造りである点が大きな違いである。

 帰り際に門前の露天商で象の置物が目に留まった。子兎ほどの大きさである。20数年前、初めて海外出張のビルマ(現ミヤンマー)で木彫りの象を買って以来象に愛着がある。木彫りでなく象牙か骨の小さな四方形片をパッチワークのように繋いで貼り付けている。鞍や轡(くつわ)は金属性であちこちに赤や緑の玉飾りが付いている。精巧な工芸品であるが天然の宝石か或いはガラス玉か不明で、作成年代さえ判らない。煤を塗って骨董品に仕上げた紛い物かもしれないが、そうでなく新しくとも、清朝末以前に作成された年代物と信じたい。
「多少銭?(幾ら?)」と訊ねると「両千塊(2千人民元)」との答えが返ってきた。それに対して「700元」と値切る。土産物店では思い切って安値を求める。価格交渉は勢いが大切と心得ている。すったもんだの交渉の末1000人民元に落ち着いた。日本円で1.5万円である。先年、テレビのお宝番組に申請したが、音沙汰のないまま今日も廊下の一隅にある。

 空港へは別の道を通った。プラタナスの大木がアーチ状に枝を張り深い木陰をつくる。西域よりシルクロードを長旅しやっと長安を眼前にした時、この木陰がどれほど休息をあたえたであろうかと、1200年前の古に想いをはせた。この並木が途絶えた道べりに、駱駝に乗った大商隊の大きな塑像があった。これから西に向けて旅立つキャラバン隊に別れを告げてタクシーは速度をあげる。次から次へと幾つもの陵墓が後方へと消えていった。

    ―< 長安一片の月  万戸衣(きぬ)をうつ声 
          秋風吹いて尽きず  総て是れ玉関の情 >―   (李伯)
    ―< 葡萄の美酒  夜光の杯 
          飲まんと欲すれば  琵琶馬上に催(うなが)す >―     (王翰)
    ―< 君に勧む  更に尽くせ 一杯の酒  
          西のかた陽関を出づれば  故人無からん >―  (王維)

    参考図書: 漢詩の心 石川忠久・陳瞬人ほか プレジデント社 (11月中旬 完)

139)空海と玄奘と仲麻呂の風景
 翌、日曜日は李社長と弟の西安担当MRの三人で陝西省博物館を訪れた。別名を碑林(ペイリン)という。門をくぐった正面に亭があり「碑林」と書いた額が架かる。これは玄宗皇帝が自ら寄せた序とのこと。その中に有名な「身体髪膚コレヲ父母ニ受ク・・・」の文字が見える。屋内には歴代の著名な書家の名碑2,300基を展示している。まさに“石碑の林”である。王義之や顔真卿などの書も目につくが、無学な角さんには審美眼はなく、むしろ陵墓から移管された墓守の石獣、石人、仏像などの石刻品に惹かれた。それにしても玄宗皇帝が書いた序とは、唐の時代にすでに長安のあちこちに立つ石碑を収集して風雨から守り歴史文物としたことを意味する。中国の歴史の深みと永さに改めて感銘した。

 城壁の南門を出て少し行くと壮大な唐風の新建築が現れる。これが1991年に開館した陝西歴史博物館である。陝西省から出土した何十万点の中から選りすぐった逸品である。周代の青銅器、貝幣、秦代の陶用俑、指南車、唐三彩、唐墓壁画などが分かりやすく展示されている。大茘人(藍田原人)の胸像と説明版を写真に撮った。フラッシュに驚いて警備員が走って来て、 
 「フイルムを没収する」と叱責する。これに対して角さんは
 「“撮影禁止”の表示の位置が悪く目に付かなかった」と苦しい言い訳をする。さらに
 「没収されたら昨夜、西安市高官と一緒に写した夕食会の写真を贈れなくなる」と誇張話を付け加える。褒められた光景ではないが、必死の説明で大目にみてくれたのか、没収は免れた。今、アルバムに残った説明文を読んでいる。
 “大茘人は中更新世末期、今から約20多万年前の智人化石。・・・当時天候不順の藍田・・・”と読めるが、残念ながら・・・の箇所はフラッシュの反射光で白くなっている。

 すぐ近くに大雁塔で知られる慈恩寺がある。唐の第三代皇帝高宗が亡き母親の追善供養に建立した寺である。玄奘は27歳のとき国禁を犯して出国しインドに赴く。43歳で帰国し、仏典を経蔵・律蔵・論蔵の三種類に分類したことから「三蔵法師」と呼ばれる。玄奘の書いた『大唐西域記』をもとに宋代に講釈師により語り継がれた話が、明代の呉承恩により長編小説『西遊記』として集大成された。持ち帰った多くの経典を収蔵するために境内に建立したのが高さ64mの大雁塔、西安のシンボルである。この寺で多くの人手と年月を費やして中国語に翻訳された。盛夏の中、汗を拭きながら急斜面の薄暗い階段を7層の最上階まで登った。広大な市街を見下ろすと、はるばる古都西安に来た歓びがわいてくる。

 蒸餃子と坦々麺の昼食を終えて李兄弟はホテルへ帰り、角さんは一人で観光を続ける。先ず訪れたのは興慶公園。玄宗皇帝が政務をとり、日本の遣唐使など外国からの使節を謁見し、楊貴妃と日々を過ごした興慶宮の址である。当時は殿や楼や亭など幾多の建物と広大な池をもつ庭園があったが、今は沈香亭など数棟が静かに復元されているにすぎない。
    ―< 名花 傾国 両(ふた)つながら相歓ぶ
        常に 君王の笑みを帯びて看るを得たり
        解釈す 春風無限の恨み 
        沈香亭北 欄干に寄る >―        李白
 名花は牡丹、傾国は楊貴妃。最愛の二つに目をやって皇帝が微笑んでいる。憂いを誘う春風の中で楊貴妃が沈香亭の欄干に寄り皇帝に微笑み返す情景であろうか。沈香木で建てられた沈香亭は玄宗と楊貴妃が過ごした館で、香しい匂いが興慶宮一円に漂よっていたに違いない。

 園内には阿倍仲麻呂(中国名朝衡、晃卿)の記念碑が建っている。彼は716年に19歳で入唐し進士の試験に合格して官吏になり、玄宗皇帝に仕え李白や王維と親交を結んだ。56歳の年に37年ぶりに帰国の途についた。当時、遣唐使の船団は4隻からなり、第一船には大使の藤原清河と阿倍仲麻呂、第二船には副使大伴古麻呂と6回目の渡航に挑戦する鑑真、第三船には副使吉備真備が乗っていた。第二船と第三船は無事日本にたどり着くが、第一船は沖縄付近で暴風雨に遭い流されてベトナムに漂着する。阿倍仲麻呂は苦難のすえ2年後にやっと長安へ帰還するが、この年安禄山の乱がおこり、帰国を諦めて73歳でこの地で没した。
    ―< あまの原 ふりさけ見れば春日なる
            三笠の山に いでし月かも >―  (小倉百人一首)
 船出する前に蘇州で詠んだとされるこの望郷の歌は、会社生活の大半を外地で過ごし、今一人記念碑の前にたたずむ角さんの胸中と重なった。

 『隋代の582年に霊感寺として創建され、唐代の711年に青龍寺と改名。入唐八家中、六家(空海、円行、円仁、恵運、円珍、宗容)が青龍寺で学んだ。北宋の1086年以後、次第に荒廃していった。1982年から発掘調査が始められ伽藍が再興された。』
 貰った中国語による青龍寺の紹介文である。由緒ある寺院のようだ。空海は804年31歳の年に7歳年長の最澄とともに入唐する。最澄は修行を遂げた僧が本場へ行って最期の仕上げをする“遣学生”。かたや空海はゼロから仏教を学ぶ“留学生”であった。青龍寺で恵果アジャリに教えを乞う。
 「吾、汝を待つこと久し、来ること何ぞ遅かりき。生期まさに終へんとす。精勤して早く受けよ」
恵果は残る命を惜しむように真言密教を空海のみに伝授した。それゆえに真言密教は日本だけに伝わり残った。いま境内には角さんが一人たたずむ。再興されて間が無いためか、照りつける7月の太陽に庭石は白く輝き、植樹された木々はまだ低く、古刹の風情にはほど遠い。本堂の軒には「恵果空海記念堂」の額が架けられ、近くには1982年に四国4県の人々により建立された「空海記念碑」があった。

 帰路、小雁塔を急ぎ訪れた。日はすでに西に傾き受付け時間は終了していた。唐松林の中に静かにたたずむ塔を見上げながら、安禄山の乱により捕らえられて幽閉された詩聖、杜甫が別れ別れになった妻子を偲んで詠んだ「春望」を口ずさんだ。

    ―< 國破山河在 城春草木深 感時花濺涙 恨別鳥驚心 
        烽火連三月 家書抵萬金 白頭掻更短 渾欲不勝簪 >―

    ―< 国破れて山河在り  城春にして草木深し
           時に感じては花にも涙をそそぎ  別れを恨んでは鳥にも心驚かす
        烽火 三月に連なり 家書 万金に抵る 
           白頭掻けば更に短く  渾て簪に勝えざらんと欲す >―

  参考図書:JTBポケットガイド 132 中国
       李白  福原龍蔵著  講談社現代新書
       中国歴史の旅(上) 陳舜臣著  集英社文庫
       小説 翔べ麒麟(上・下) 辻原登  文春文庫
       小説 空海の風景(上・下) 司馬遼太郎  中公文庫
       NHKカルチャーアワー 2004.4-6 大唐の都・長安を絢爛に生きた人たち  (11月上旬号  完)     

138)玄宗皇帝と楊貴妃の愛
 麗山の麓にある温泉地「華清池」の水面には殿や亭が影を落とし柳が風にゆれている。冬の間、玄宗皇帝と楊貴妃が“温泉ノ水ハ滑ラカニシテ凝脂ヲ洗グ”甘い日々を過ごした離宮の跡である。唐朝第五代の玄宗皇帝は第三代高宗の則天武后いらいの権力闘争で荒廃した政治を立て直し安定した社会を築いた。「開元の治」と讃えられる。しかし、最愛の皇后と死別してから老いの兆候が現れはじめ、息子の妃楊玉環の豊満な美貌に心を奪われる。二人を離縁させ玉環を出家させたのち、改めて還俗させてから自らの後宮に迎え入れる。楊貴妃の誕生である。このとき楊貴妃27歳、玄宗皇帝61歳であった。貴妃とは後宮の位階(いかい)で名前ではない。皇帝の夫人には正一位の皇后、貴妃、淑妃、徳妃、賢妃がある。正二位以下は夫人とは言わない。

 台湾に駐在していた時に「環肥燕痩」という成語を教わった。「環」は楊玉環のことで、「燕」は漢代を代表する美女趙飛燕を表す。楊玉環は豊満で趙飛燕は柳腰というわけだ。見方を変えれば漢代にはスリムが好まれ、唐代にはグラマーな女性が愛されたのであろう。ある時、玄宗は宮廷詩人の李白に楊貴妃を愛でる歌を求めた。出来上がったのが有名な「清平調詞」。
    ―< 借問す 漢宮 誰か似るを得たる。 
           可憐の飛燕 新粧による >―
「美女揃いの漢の後宮で、誰が楊貴妃様に似ているでしょうか。居るとすれば美女の誉れ高い趙飛燕が化粧をしたばかりの姿のみでしょう」
最大級の讃辞に玄宗と楊貴妃は上機嫌であったが、取り巻きの一人高力士がこの詩に難癖をつける。彼は李白に私怨を抱いていた。何時の世でも宮仕えで敵を作ると足元を掬われる。
「飛燕は皇太后にはなったが、後に庶人に落とされて失意の内に自殺した。楊貴妃を蔑む歌である」と。こうして李白は長安を追われ漂泊の旅にでる。

 唐代の詩人白居易(白楽天)は『長恨歌(ちょうごんか)』で二人の出会いから離別までを朗々と歌い上げた。
    ―< 漢皇色を重んじて 傾国を思う 御宇(ぎょう)多年求むれども得ず
       楊の家に女(むすめ)あり 始めて長成す 養われて深閨にあり 人未だ識(し)らず 
       天の生(な)せる麗質(れいしつ)は 自ら棄つるに難く 一朝選ばれて君王の側に在り  (一部省略)
       春寒くして 浴を賜ふ華清の池 温泉水滑らかにして 凝脂(ぎょうし)を洗(そそぐ)ぐ  (一部省略)  
       春の宵は短きを苦(なげ)き 日高くして起く 此れ従(よ)り 君王は早く朝(まつりごと)したまわず 
       春は春の遊びに従い 夜は夜を専らにす  (途中省略)  
       後宮の佳麗 三千人 三千の寵愛 一身に在り  (途中省略)
       七月七日長生殿 夜半人無く 私語の時
       天に在りては 願わくば作(な)らん 比翼の鳥
       地に在りては 願わくば為(な)らん 連理の枝
       天長地久(てんちょうちきゅう) 時有りて尽くとも
       此の恨み 綿綿として尽くる期(とき)無し >ー

 玄宗皇帝と楊貴妃の華やかなロマンスを映すこの華清池は近代政治の舞台でもある。国共相争うなか、民衆の抗日デモに押された張学良は反共から抗日へ変節し、蒋介石をこの華清池で監禁し内戦の停止と抗日救国を迫る。1936年12月中国現代史が動いて第二次国共合作が進む。世にいう西安事件である。蒋介石が宿泊していた五間庁の窓には銃弾痕が残り薄暗い部屋は当時のまま残っていた。(艶消しだなー)と正直思った。

 半坡(はんぽ)遺跡博物館を訪れた。近くには滻(さん)河が流れている。6,000年前の新石器時代の母系社会の村落跡3平方kmに屋根をつけて発掘当時のままを保存する博物館である。農業を中心に狩猟、漁獲、牧畜を営み、彩色紋様の陶器を使う典型的な仰韶(ヤンシアオ)文化の遺跡とのこと。製陶の竃跡(かまどあと)や死者を折り曲げた甕棺埋蔵もあったと記憶するが、この甕棺は翌年訪れた寧波の河母渡(かぼと)遺跡と混同しているかも知れない。誤りであればお許し願いたい。

 茂陵への道でザクロの木々を見かけた。自生の木でも、観賞用の植木でもない。紛れもなく実をとるためのザクロ畑である。背丈は低く緑の葉は茂り赤い大きなザクロが実っている。背が高く葉は少なく実が小さい日本で見慣れたザクロの木とはまるで違う。「紅一点」は宋の政治家王安石の柘榴(ざくろ)の詩「万緑叢中紅一点」に由来するが、今改めてアルバムで見ると実の数こそ一つではないが詩のとおりに緑葉が茂っている。一盛買ってその場でかぶりついた。日本の物より大きくジューシーで甘い。これなら果物といえる。作物として品種改良が進んだのであろう。女性ホルモンに似た作用があるとかで更年期女性の健康食品として、そのジュースが近年日本で売られているが、西安あたりが原料供給地かもしれない。

 前漢第五代皇帝の陵墓を訪れた。正面に「茂陵 漢 武帝劉徹之墓」と大書した碑が立っている。前漢皇帝陵墓のなかで最大で、53年の歳月をかけ毎年税収の3分の1を費やして建造されたそうである。馬などの石獣を見物のあと、一辺が35m四方、高さ46mの陵墓を登った。禿げ上がり地肌がむき出しであるが、植林された苗木が育ち始めている。匈奴討伐軍を組織し西域に将軍を送り、シルクロードの基礎を築いた大皇帝の頭上を土足で登ることに多少の戸惑いは感じたが、大好きな『史記』の発端ともなった武帝を身近に感じて心が躍った。

 夜は医学会の重鎮を招待してささやかなパーティーを開いた。「日本人と直接会話をするのは初めて」と皆さんが歓迎してくれた。    (10月下旬号)

    参考図書:JTBポケットガイド 132 中国
           古典語典  渡辺紳一郎著  東峰出版社 
           新唐詩選続編(白居易・長恨歌) 吉川幸次郎・桑原武夫著 岩波新書

137)長安の都(史記、奇貨居くべし)
 どんな旅でも空港から市内への車中は心がときめく。これまでの旅では、ゴム林がどこまでも続くクアラルンプール、夕日に映える雪の白樺並木モスクワ、白い柳絮(りゅうじょ)が乱舞する北京が特に印象に残っている。「西安」ではどんな景観が現れるかと心をときめかせて車窓から眼をこらす。どこまでも平坦な田園を走っていると突然ピラミッド型をした陵墓が姿を見せる。急ぎカメラを向ける間もなく次から次へと現れては去ってゆく。さすがに紀元前11世紀から2,000年間に11の王朝が都をおいた中国屈指の古都。とりわけ唐代の長安は東西の文明が融合し繁栄を誇った。明代に西安と名を変え、今は陝西(せんせい)省の省都。安定門(西門)をくぐり旧市街へ入る。城壁は厚く高い。東西と南北を貫く直線道路が交差する街の中心部にランドマークの鐘楼があり、その先のホテルに落ち着く。明日は週末で2日続きの観光を楽しめる。

 医師会の役員が観光に案内してくれる。城外へ出て先ずは「秦始皇帝兵馬俑坑(へいばようこう)博物館」を訪れる。1974年に井戸掘りの農民が偶然発見した1号坑。東西230m、南北62mの体育館のような大ドームで発掘現場をそのまま覆っている。俑とは死後の生活を助けるために副葬された人形(ひとかた)である。178~187cmの甲冑に身を固めた6,000体の兵士は精巧に出来ていて一人ひとりの表情までも異なる。実際の近衛兵に似せて作ったと考えられている。

 始皇帝ほど数奇な運命を辿った英雄も珍しい。豪商の呂不韋(りょふい)が趙の国の都、邯鄲(かんたん)を訪れて路上で子楚(しそ)に出遭ったときから物語は始まる。戦国七雄の秦がまだ弱小の頃である。子楚は趙に人質として預けられたが価値が乏しい人質なのか、みすぼらしい風体である。子楚は秦の昭襄王(しょうじょうおう)の安国君(あんこくくん)太子の息子であるが、20数人の子のひとりにすぎない。生母はとっくに安国君の寵愛を失っており、王位継承順位が末席ゆえに出された人質である。安国君は今は華陽夫人を溺愛しているが子宝に恵まれない。事情を知った呂不韋は(“奇貨おくべし”、掘り出し物は買っておこう、と膝を打った。

 呂不韋は子楚に大金を与えて身なりを整え車馬を準備し賓客を招かせた。今も昔も見た目が90%でプレステージは大切である。呂不韋は状況を整えたのち秦の都へ行き手蔓(てづる)を求めて華陽夫人に金品を献上すると、目通りがかなう。子楚の人品骨柄を褒めそやし、趙国での高い評判を涙ながらに伝える。
 「異国で父上と華陽夫人を慕って日夜泣いています」
 それを聞いた華陽夫人も賢い。
 (いずれ自分の容姿が衰えれば安国君の寵愛も去ってゆく。しかし子楚を養子として跡継ぎにしておけば・・・)
 安国君との寝物語で「子楚を養子にして欲しい」とおねだりをして約束を取り付ける。

 ところが筋書きに思わぬ手違いが生じる。人質生活の侘しさを慰めてやろうと呂不韋は愛妾朱姫(*)の舞を子楚に見せたところ、あろうことか
 「あの姫が欲しい」と子楚が言い出した。
 (掌中の珠、朱姫をこんな小倅にやれるものか)と、一旦は内心で毒づくが、
 (朱姫の腹にいる我が子が秦国の世継ぎにならぬともかぎらない)と、思い直す。
朱姫が産んだ男子は「政(せい)」と名付けられる。フォローの風が吹いて子楚は朱姫と政ともども秦国に無事逃げ帰る。まもなく祖父の昭襄王が死に父の安国君が王位につくが、わずか一年後に死去して嫡子の子楚が即位する。秦王荘襄王の誕生である。正夫人の朱姫が王后となり、その子政は皇太子となる。 (*:『史記・呂不韋伝』では舞姫と書かれ朱姫の名はない。後年、小説などで朱姫とよばれようになった)

 やがて、太子政は13歳で王位につく。奇貨と睨んだ子楚は早死にしたが、みごもった愛妾朱姫を献じて、生れた子の政が秦の始皇帝となった。こうして、呂不韋は秦の宰相に上り詰める。ところが、ここでまた予期せぬ事態が発生する。皇太后となった始皇帝の生母朱姫は、夫の荘襄王が早死にし、若くして未亡人となってしまっている。舞の名手は淫乱な女でもあった。空閨を守れるはずもなくかつての男、呂不韋に近づく。互いに馴染んだ肌の温もりで、よりを戻すに時間はかからない。しかし、太后の欲情の相手をしているうちに、
 (今はまだ年若であるが、この始皇帝が己の出生の秘密に気づく時が早晩来ないともかぎらない。露見すれば身の破滅だ。ヤバイ! どうするか?)
用心深い呂不韋は自問自答を繰り返す。

 呂不韋はロウアイなる男が天下一の巨根の持ち主との情報を得る。同衾の睦言で、この絶倫男の噂を太后の耳にそれとなく吹き込む。案の定、彼女は艶っぽい目をして乗ってきた。腐刑を司る役人を買収して去勢したとの偽報告書を書かせ、宦官として巨根持ちのロウアイを太后の世話係りとして送り込む。歳月が経つ間に太后が2児を出生したとの噂が大奥に流れる。ある日、呂不韋は始皇帝から書簡を受取った。
 「貴殿ハ何ノ功アッテ今ノ領地ヲ得テイルカ。ドンナ血縁ガアッテ仲父ト呼バレルノカ。蜀ノ国ニ移ルガヨイ」
と書かれている。仲父とは斎の垣公が臣下の管仲を敬って呼んだ敬称である。書簡を読んだ呂不韋は「今はこれまで」と毒を仰ぐ。始皇帝24歳の時である。

 身辺整理を終えた始皇帝はそれ以後、天下統一の事業に邁進する。中国で初めての統一国家である。全国に郡県制を敷き、主要道路を舗装し、度量衡や貨幣や文字を統一した。お陰で今日全国どこに行っても筆談が通じる。不都合な書を焼き儒者を生埋めにする「焚書坑儒」は悪政として残る。匈奴侵入に備えた長城の築城や厳し過ぎる法治制度ゆえに、この類まれな大皇帝が巡幸中に客死すると歴史が暗転する。随行の宦官趙高(ちょうこう)、宰相李斯(りし)、末子胡亥(こがい)の三人で密議し遺書を書き換えるという史上空前の奸事で後継者が入れ替わったことは前項でふれた。愚鈍な末子胡亥が跡を継いだが故に大帝国を維持できず、始皇帝の死後4年の紀元前205年に秦国は滅亡する。泰山で「封禅の儀」を祀り始皇帝と名乗って以来わずか15年後のことである。

      参考図書: ものがたり史記  陳舜臣著  朝日文庫     (10月中旬号 完)

136)無錫、温州、済南の旅
 武漢から飛行機で上海に飛び列車で「無錫」に着く。
    ♪ 上海、蘇州と汽車に乗り、
         太湖のほとり無錫の町へ
      鹿頂山から太湖を望めば・・・ ♪     (無錫旅情 中山大三郎作詞/作曲) 
長江の下流に位置する無錫は三千年の歴史を有する古都である。錫を産出し有錫と呼ばれたが、それ故に諸侯の標的となり争いが絶えなかった。たまりかねた人民が領主に地名の変更を願い出て無錫と名付けられたという。飛行機の離陸までの時間を利用して一人タクシーで太湖まで行った。中国で三番目に大きい淡水湖とのこと。残念ながら鹿頂山へ登る時間も遊覧船に乗る暇も無く、対岸が霞む静かな湖岸で記念写真だけを撮って引き返した。

 再び上海に戻り浙江省の「温州」に飛ぶ。欧江下流の南岸に位置する港湾都市。濁流が滔々と流れる大河の中洲へ小舟で渡り江心寺を参拝した。接待した医師の一人が
 「温州は日本人と血でつながっている」
と言っていたが、街で見かけた人々の顔立ちは日本人とそっくりだし、食後にだされたミカンは日本の温州ミカンに良く似ていた。詳しい由来は知らないがミカンの名前は偶然の一致ではないかもしれない。

 「済南」は山東省の省都。“戦国七雄”の一つとして最後まで秦と覇を競ったのが斉の国である。山東半島の南側は黄海で、北側は黄河が流れこむ渤海である。その対岸に朝鮮半島がある。山東省といえば孔子と泰山と徐福を思い出す。孔子と高弟の言葉をまとめたのが論語で、その教えが儒教。孔子は周を理想の国として秩序ある封建制度をめざしたが、為政者を律する教訓で人民の視点に欠けるので、今日的人権からは少なからぬ問題があろう。韓国と日本の精神的支柱だが、本場の中国では道教が一般的。道教は本来、不老長寿の神仙思想に根をおいた民間宗教であったが、新たに輸入された仏教に対抗するために老子を祖とする理論体系を作った。老子も唐王室も同じ李姓であったことが関係しているのかも知れない。

 中国で山といえば泰山を指す。紀元前221年に天下を平定した秦の国王はここ泰山で天地を祀る「封禅の儀」おこない、自らを始皇帝と呼ぶことにした。爾来、皇帝は倣ってきたが、それを許されたのは治績を上げた聖天子だけであった。仙術を行う方士、徐福はこの地で始皇帝に出会い
 「海中ノ三神山ニ仙人オリ、不老長寿ノ仙薬アリ。童男童女トトモニ之ヲ求メン」
と進言し、資金を得て3,000人の童男童女を引き連れ東海へ向け出発したと『史記』に記されている。その結末は定かでないが日本の海浜には徐福伝説が残り、和歌山県の新宮市と熊野市には「徐福の墓」があると聞く。「神武東征」伝説も大阪を迂回して熊野に上陸し、そこから大和を目指している。徐福伝説と無縁でないかも知れない。

 始皇帝は5回目の巡幸中にこの山東で病に臥す。死期を察した始皇帝は璽書(じしょ)を書き長男の扶蘇(ふそ)を後継者に指名し、帰途の河北省で50年の生涯を終える。“人生50年”の謂れである、と角さんは信じている。遺体の悪臭を消すために干し魚で囲って咸陽まで運んだという。後継に指名された扶蘇は父始皇帝の「焚書坑儒」を諌めたせいで懲罰的に北方の匈奴討伐に派遣されている。巡幸に随行の要人は宰相の李斯(りし)、末子の胡亥(こがい)、教師役の宦官趙高(ちょうこう)だけである。趙高の奸策を三人で密議し璽書が書き変えられ、胡亥が二世皇帝となる。資質で劣る胡亥では厳しい法令に喘ぐ民衆の不満を押えきれず、秦帝国はわずか15年で崩壊する。

 “山東大漢”は中国では良く知られた言葉で、山東人は総じて色白美形の大柄。諸葛孔明も山東人で
 「身長八尺(184cm)、容貌ハハナハダ偉ナリ」と云われている。加えて
 「無量ノ酒ヲ飲ンデモ仲尼(ちゅうじ、孔子)ハ乱レズ」
と論語曰くのとおり、山東人はめっぽう酒に強い。中国では宴席で乾杯を強要される機会は少なかったが、山東人は例外的に乾杯、乾杯の強要が凄まじくほとほと閉口した。この習慣が韓国を経由して日本に伝わり、そして台湾に移入されたのではないかと、文化の伝播を思った。

 翌朝、黄河を見に行こうと皆で黄河大橋まで30分ほど車を走らせる。川床は済南市より4メートルも高く、川幅は1kmに及ぶとのこと。土手を下りると広い雑木林の間に畑があり、さらにその向こうに小さな土手があったりしてなかなか水辺にたどり着けない。滔々と流れる黄河で悠久の歴史を偲ぶ我が姿を想像していたのだが、近年は黄河の水量が激減して“断流現象”は年間200日を越え、その距離は700キロ上流の開封市にまで及ぶそうである。降水量の減少に加え土地の砂漠化、土砂の流出、保水力の減少、取水量の急増などがその原因といわれている。やっと水のあるところに行き着きズボンの裾をめくって歩む。まるで有明湾の潮干狩りの姿である。
    ―< 白日 山に依って尽き   
          黄河 海に入って流る
       千里の目を窮めんと欲し  
          更に上る 一層の楼 >―
 王之渙(おうしかん)の「鶴鵲(かんじゃく)楼に登る」はすでに歴史の彼方に流れ去ったようである。

 そのあと女性のMRに案内されてケーブルで山に登った。大きな伽藍と石組みのある一帯が記憶に残っている。ガイドブックに紹介されている標高285mの千仏山と思っていが、手帳の1995年7月16日(日)の欄に「泰山」とメモ書きが残っている。本当に泰山に登ったのかどうか疑問であるが、当時は泰山についての知識は乏しく思い入れは薄かったので、印象に残っていないだけかも知れない。兎も角、残念ながら記憶も記録もあいまいな不思議な山であった。

 霧が濃くなってきたので急ぎ下山して、三つの公園をタクシーで足早に回った。済南七十二湖といわれ、済南は「泉城」とも呼ばれる。黒虎泉(こくこせん)公園と趵突泉(ほうとつせん)公園の湧き水は水量多くあくまで透明である。大明湖の澄んだ湖面にはボートが浮かび、湖岸に並ぶ柳が風にゆれて美しかった。
    ―< 四面荷花 三面柳
          一城山色半城湖 >―   (清朝、 劉鳳浩)

 河北省の省都「石家荘」でシンポジウムを終えて列車で北京に移動する。午後「北京新薬特約公司」で打合せをして、夕刻にシンポジウムを開く。翌日憧れの西安へ飛んだ。

   参考図書: ものがたり史記  陳舜臣  朝日文庫
         中国歴史の旅(上) 陳舜臣著  集英社
         漢詩の心  石川忠久・陳舜臣ほか著  プレジデント社      (10月上旬号  完)

135)ベストコールに舵を切り武漢へ
 留守中の書類整理をしていると電話が鳴った。
 「ベストコールの拡張支援で先鋒社から幾らのAbsence Feeを受け取っているか?」
本社からの問合せである。Absence Feeとは自社を留守(アブセンス)にして、他社の支援に出かけた時などに相手側から受取る労賃のようなもの。知識としては知ってはいるが、ベストコールの拡張支援に出かけて、提携先から手間賃を貰うなど考えたこともない。 「中国への往復航空代と宿泊代は武田IMCが支払い、中国内での旅費と食事代は先鋒社が負担する」
と即答した。米国で提携会社に誘われて社用機に便乗して会議の開催地へ行ったところ、後日飛行機代の請求書が届いたとの話を聞いたことがある。
 (米国帰りの理論本位の部長には、共同作業を尊ぶアジア方式は通じないのか。理に義と情を少し加えてこそ味のある仕事ができるというものだ)と内心つぶやく。

 割り切れない気持ちを引きずって、週末に久しぶりのゴルフに興じているフェアー・ウエイの真ん中で、何故か室生犀星の詩が突然浮かんだ。
   ―< ふるさとは遠くにありて思ふもの  
               そして悲しくうたふもの
      よしや うらぶれて異土の乞食(かたい)となるとても 
         帰るところにあるまじき
      ひとり都のゆふぐれに  ふるさと思い涙ぐむ >―

 3年前の92年に研太郎を亡くした時、国際本部長から
 「帰国するか?」と誘いを受けたが、「今頃日本に帰っても使い物にならないでしょう」と断っている。今更帰国しても大した仕事は出来ないであろうと率直思う。幸いなことに香港の仕事は順調に拡大し、中国の業績は目を見張るものがある。特にゼロから始めたベストコールだけでも一昨年の粗利が1億円余り、昨年が2億円近く、今年は2億円強が確実視されている。本社が船積みの労をとってくれてはいるが、それ以外は自分一人でやってきた。他に必要経費はなく粗利額にほぼ等しい純利益を本社にもたらしている。(一昔前であれば優秀社員賞の対象であり、55歳を過ぎた老兵の仕事としては過ぎたる業績)
と誇りに思う。しかし、ライフサイクル終末期の旧製品を掘り起こしたにすぎない。新製品を欧米に販売する体制づくりに躍起の国際本部の幹部たちにとっては“その他地域の雑品目の目先の利益”にすぎない。会社では“将来への大きな貢献”が評価対象である。香港駐在となって5年余りが過ぎた1995年のことである。しばらく犀星の歌を口ずさむ日々が続いた。

 そうしたある日、再び李社長からシンシポジウム支援の要請が届く。腹を固めた角さんはベストコールの拡張支援へ大きく舵を切った。今回は7月11日から27日まで「武漢、無錫、温州、済南、石家荘、西安」の旅である。
 
 「武漢」は湖北省の省都。長江に最大支流の漢江が合流する所にあり、古来より軍事、交通、商業の要衝。寒暖の差が大きく夏は猛暑で、南京・重慶と並び中国の“三大火炉(ストーブ)”とよばれる。春秋時代には長江中流の洞庭湖を中心とする湖南・湖北一帯を「楚」と言った。国々は互いに覇を競い呉を破った越を楚が併呑し、その楚は最後は秦に破れるが、戦略に富み執拗な性格といわれる。武漢出身の李社長は「楚人は周に滅ぼされた商(殷)の末裔で“商人”の語源となったように湖北の武漢人は頭が良くて商売上手。だが、湖南人は融通の利かない頑固者」
と言う。しかし、角さんに言わせると商売上手に異論はないが、李さんも頑固で粘っこい。ある時、土産物店で売られている漢字を書いた板のレリーフを見つけて
 「どれが好きか? “忍”はどうか?」と訊ねたら、彼は即座に
 「忍(我慢)はいやだ、“挑”(挑戦)だ」と応えた。
 (やはり日本人とは違うなー)と思った。
因みに、自説が容れられないことに怒り心頭に発して汨羅に身を投げた屈原や共産党革命を成就した毛沢東は湖南省の人である。

 長江に架かる中国第一号の武漢長江大橋は旧ソ連の技術援助を得て2年をかけて1957年に完成した。上段を自動車が、下段を列車が走る二階構造で全長1.6kmという。橋の中ほどで下車して長江の流れに悠久の歴史を偲んだ。この少し上流が『三国志』で有名な“赤壁の戦い”の舞台。孫権と劉備の連合軍が曹操軍を撃破して、三者の力が均衡し魏の曹操、呉の孫権、蜀の劉備による「天下三分」が整った。橋を渡りきった丘の上に黄鶴楼(おうかくろう)がどっしり建っている。日本の五重の塔をイメージしていたが五層の大楼閣である。なるほど中国は漢字の国、塔と楼をしっかりと使い分けている。正面から見上げると黄色の屋根は階ごとに三重に重なり正に鶴が翼を広げた華やかさである。昔、仙人が一場の休息をえたお礼に黄色いミカンの皮に鶴の画を描いた。鶴は絵から抜け出して仙人を乗せて飛び去った、との伝承から名付けられたという。創建は三国時代であるが再建を重ね今日に至っている。古来の文人、詩人に倣って角さんも黄鶴楼に登った。眼下を武漢大橋が長江を跨ぎ、長江は左から右へと流れるが、その行方は遥として見えない。正に李白の「黄鶴楼にて孟浩然の広陵に行くを送る」の風景そのままである。 
     ―<  故人西のかた黄鶴楼を辞し   
           煙花三月  揚州に下る
        孤帆の遠影  碧空に尽き  
           唯だ見る長江の天際に流るるを  >―  
            
    参考図書: 漢詩の心  石川忠久・陳舜臣ほか著  プレジデント社      (9月下旬号  完)

134)ランカウイと貴陽・厦門・福州の旅
 久しぶりに香港に帰ると机一面に書類が並べられている。ルーチン業務は秘書が処理してくれるが、日本語の書類や判断が必要な事項は角さんの帰りを待っている。一人駐在の辛いところ。土、日曜日を返上して書類整理に没頭する。

 復活祭の連休を利用した今年の社員慰安旅行は「ランカウイ」である。マレーシア北端がタイの国境に接する海浜リゾート。費用を払えば家族も参加できるので、かつて市場開拓に精魂を込めたペナンとクアラルンプールをカミサンに見せたくて呼び寄せた。22年前には閑散としていたペナンヒルの登り道には土産物屋が立ち並び、どこが山頂か判らぬ状態に変わっている。ペナンの市街も賑やかになって、かつてののんびりとした南洋の趣が薄らいでいた。ヘビ寺では以前と同様に幾百匹とも思えるヘビが線香の煙に陶酔しているが、心なしか数が減ったようである。クアラルンプールのサルタンの館やイスラム寺院風の鉄道駅舎は昔のままながら、市街は高層ビルが林立する大都市に変わり、かつて宿泊したホテルの所在は判らない。その変貌ぶりに失望の念を禁じえないが、若い頃、孤軍苦闘した思い出の地を再び妻と旅することに満足した。

 セミナーの顕著な成果に気を良くして再度ベストコールの拡張旅行に同行した。今回は「甚江~北京~貴陽~厦門(アモイ)~福州」の12日間の旅である。いつも思うことだが、航空網が思うにまかせぬ広大な中国にあって、よくもこれだけ各地でのシンポジウムを短期間に計画できるものと、その手際よさと実行力に感心する。先ずは広東省最南端の甚江へ、そして北京からUターンするように南西に3時間飛行して貴州省の省都貴陽に到着する。那覇に近い緯度ながら海抜1000メートル余りの高原にあるせいで酷暑厳寒がなく昆明に次ぐ「第二の春城」の別名がある。少数民族が多く経済的には遅れているが貴州は茅台酒(マオタイ)の故郷である。

 無事シンポジウムを終えて翌朝、貴陽と昆明間を結ぶ高原列車「貴昆線」に乗って2時間、安順に到着する。ここはミャオ族やプイ族が多く住み、彼らが作るろうけつ染が有名なところ。タクシーで暫らく走って郊外の小さな田舎町で昼食となった。犬肉料理が有名な町だそうである。軒下に“花江狗肉”の看板がかかり、小さなテーブルと椅子が所在無げな薄暗い一軒に入る。料理の準備を待つ間、近くをぶらつく。人影はまばらで道幅は広い。どこに行っても人人人の中国では見慣れない風景で“真昼の決闘”の場面を思い出す。主人が浅底の鍋に肉や野菜を投げ入れて煮込む。日本のスキヤキに似た料理法で、タレには多種類の香辛料を混ぜ込んでいるらしい。スッポン鍋よりは濃厚でスキヤキよりも脂ぎった味である。これまで珠海や広州で狗肉料理を食べた経験はあったが、この日の狗肉が一等旨かった。“羊頭狗肉”と言われるように羊肉は上等で狗肉は下等の肉とされるが、薬膳では滋養強壮となっている。その夜、男の陽が元気づいて閉口した。齢70歳近くになって思い返せばなおのこと恋しい料理ではある。

 満腹のあとさらに車に揺られ「黄果樹大瀑布」に着く。中国で最も有名な落差70m、幅80mの大瀑布が雪解け水で轟いている。フイルムを使い切って露天で買ったが、香港に帰って現像したら何も写っていなかった。(騙すより騙されるのが悪いのか)と、またまた自戒した。

 「龍宮鍾乳洞」の中をボートに乗って見物した。これも初めての経験であった。帰路の峠越えはそれ以上に異様な風景であった。水成岩であろうかボタ山を大型化したような黒い地肌がむき出しの山が重なり、日が当たる山頂付近に僅かに草木が生えるだけの完全に死の世界である。桂林のカルスト地形とも昆明の石林とも違う景観。やはり中国は地大物博と言われるだけあって奇怪な自然が残っている。陽光が薄れ灰色の山がいよいよ迫る中を、縫うように車はくだっていった。

 深夜、南京のホテルに到着。仮眠をして早朝の飛行便で「福建省」の厦門に向う。かつて福建省は閩(びん)とよばれ、中央政府から見れば中国の片田舎であった。山脈が海に流れ出した痩せた土地柄で明末から移民を送りだしてきた。彼らが台湾住民となり、フィリピンやマレーシアの華僑となった。一方、リアス式海岸のお陰で良港に恵まれ、十三世紀にはマルコ・ポーロが『東方見聞録』でザイトンと称賛した「泉州」が“海の陶器路(チャイナロード)”の出発港として栄えていた。しかし、泉州港は船底へ牡蠣が付着するのを防ぐ目的から河岸に建設された為に、ほどなく土砂で埋もれ、海外貿易港としての地位を「厦門」に譲ることになる。土地の発音アモイは世界共通語となり、福建省第二の都市で近年は経済特区として急発展中である。対岸の台湾とは一衣帯水(いちいたいすい)の距離にある。亜熱帯に属し風光明媚。明代初期には倭寇に備えて厦門城が置かれ、明末には清朝に抵抗し明朝復興を画す鄭成功が要塞を築いた歴史をもつ。

 強行日程で昼食時間を利用したシンポジウムを開催する。仕事を終えて短い観光を楽しむ。先ず訪れた万石植物園には天から降ったか地から湧いたか多数の巨岩が重なり合い、その隙間から榕樹(ガシュマロ)が生え巨岩の上を根が網状に這っている。巨岩には経文や詩文が刻印され儒教と仏教が混在している。唐代に創建の南普陀寺(なんふだじ)の大慈殿は三重の屋根が思いっきり反り返り南国らしい豪華絢爛さを誇る。そこの巨岩に刻印され赤色の「佛」字は4メートル四方もあるという。

 鼓浪島(コロンス)へフェリーで渡る。小さな岩島であるが、かつて国際共同租界があったところで西欧風の建築が今も異国情緒を漂わせている。中国でピアノの所有率が最も高い街とのこと。自動車は勿論のこと自転車や犬猫の持ち込みさえも禁止している。人の訪問も制限して緑豊かで静寂な環境を保っている。丘の上には巨大な鄭成功の立像があった。島からもどり胡里山砲台跡を訪れる。清朝末期に設置された大砲が青い海に砲口を向けている。海堤に備えられた望遠鏡を覗くと台湾海峡の彼方に台湾領の金門島が見える。
 (あの近くの澎湖島にダーゼンの拡張で訪問したのは22年も前で、当時はまだ両岸は戦時下であった)
と感慨にひたる。夜はキー・ドクター数人を招いて岸壁につないだ船の中で海鮮料理を楽しんだ。

 残念ながら泉州へ行く機会はなかったが、省都「福州」を訪れた。別名は“榕城”で、市街は榕樹(ガシュマロ)が繁り何となく台湾の台南市を思い出す風情である。武夷山を源流とする閩江は水量豊かな濁流となっている。アヘン戦争の国民的英雄林則徐は福州の人と教えられた。

 シンポジウムを終えると講演者角さんの役目は終るので、李社長が医薬販売会社と受注活動をしている合間を利用して、一人で湧泉寺(ゆうせんじ)を訪れた。郊外の鼓山山腹にある908年創建のこの禅寺が、空海所縁の寺と知ったからである。タクシーが山道を登るにしたがい市街がかすんでゆき、代わって蛇行する閩江が素晴らしい眺めをみせる。うっそうとした木立の中に、かつては大伽藍であったろうと往時を忍ばせる色あせた山門と朽ち欠けた土塀があり、その奥に天王殿、大雄宝殿などが静かにたたずんでいる。その片隅に「空海入唐之地」と書いた碑を発見する。比較的最近に建てられたものに違いない。空海はこの地に流れ着き入国を拒絶されたが、それを救ったのは彼の高い漢文の素養であった。許されて長安の青龍寺に赴いたのである。   (9月中旬号  完)

133)合肥・南京・大連の旅
 中国眼科学会の年次総会に協賛して展示会に参加した。千寿製薬の高下さんと部下のN氏とO嬢も大阪からやって来た。角さんが入社時にお仕えした高下部長のご子息である。11月の「北京」は夜ともなれば外気は冷たくすでに冬仕度である。小さな食堂の入口には半透明の帯状板が垂れ下がっている。ビニール製なのか厚みがあって重いので風が吹いても簡単には動かず格好の二重扉となっている。ヨイショと声をかけて重量感が十分な幅広い暖簾をかき分けて入る。安価で実際的な生活の智恵である。白菜漬と炒めピーナツを摘まみながら青島ビールを傾けていると、薄削りの羊肉に春雨、豆腐、餃子、野菜などがアルミの大皿に山と盛られて出てくる。それらを火鍋子(ホウゴウツ、間仕切り鍋)に投げ込み、唐辛子ベースのタレを付けて食べる。北京の冬の名物料理“淛羊肉火鍋(サオヤンロウ・ホウゴウ)”を4人で囲みながら話がはずむ。

 95年の春節が明けると昨秋のシンポジウムの成功に気を良くした李社長から再び要請が入る。3月下旬に「合肥・上海・南京・大連・北京」の旅に出発した。広港列車で広州に行きそこから一時間半余り飛んで「合肥(ごうひ)」に着く。安徽省(あんき)の省都である。二千年の歴史を持つ古城で、三国時代に孫権が率いる呉軍十万の寄せ手を魏の曹操の大将張遼がわずか八百の兵で凌いだと伝えられる。シンポジウムの後は夕食会で、二次会はダンスパーティー。タンゴやワルツやルンバなども時折混じるが、殆どは密着型のブルース。看護婦も参加しているのか女性が結構多い。パートナーには容姿ではなく、女医、購買担当官、看護師長など高官と思しき人を優先するが、来る人拒まずと八方美人の“社交ダンス”に徹する。

 突然、照明が消えて真っ暗になる。とパートナーの握った指と抱いた手に力が入る。何となくもやもやとした気分になってゆく。暫らくすると燈がともり、互いにそ知らぬ顔で踊りを続ける。その内、美人の医師から
 「明日、黄山に一緒しませんか?」
と密やかな誘いも頂戴した。黄山は桂林とともに歴代の画人が一度は描きたいとあこがれた風光明媚な峻嶺である。ここから黄山は遠くないが残念ながら明日は移動日。改革開放の波がこの地にまでも及び、多少隠微な娯楽が流行っているのであろうか。こんな戯れを繰り返しながら合肥の夜が更けてゆく。共産主義国家で経験した“合肥一炊の夢”であり、つかの間のときめきであった。

 翌朝、上海に飛び同じように病院訪問、シンポジウム、夕食パーティーをこなし列車で南京に向かった。蘇州を通過するとき車窓から見たのは北寺塔であろうか。呉の孫権が母の供養に立てた塔であるが、現存のものは南宋時代に再建されたもの。そして無錫をへて「南京」に入る。すでに陽は西に傾いている。南京担当のMRが短時間の観光に案内してくれた。

 南京の歴史は古く華麗である。春秋時代の紀元前473年、越は呉を滅ぼしこの地を領有し将軍范蠡(はんれい)が要害のこの地に築城したとされる。第12話でご紹介した児島高徳の後醍醐天皇へのメッセージ「天、勾践を空しゅうする莫れ 時に范蠡無きにしも非ず」の范蠡である。その後、金陵(きんりょう)、秣陵(まつりょう)、建業、建康と呼び名が変わる。五胡十六国時代には六朝(呉・東晋・宋・斉・梁・陳)の首都として栄える。『宋書』には倭の讃、珍、済、興、武がこの建康に朝貢の使節を送ったと記されている。日本古代史で知られた“倭の五王”である。唐代の詩人杜牧はいにしえの建康をしのび『江南の春』にその繁栄ぶりを歌った。
     ―< 千里 鶯啼いて 緑 紅に映ず
          水村 山郭 酒旗の風   
        南朝四百八十寺
          多少の楼台 煙雨の中 >―
 
 明の太祖朱元璋(洪武帝)が1368年に都と定めた頃は応天府と呼ばれたが、第三代の永楽帝が1421年に北京に遷都してからは、北京に準じて「南京」と名付けられた。時代は下り清朝末期に太平天国の首都となり、辛亥革命(1911)後に一時期、臨時政府がおかれた。

 プラタナスが大きく枝を広げる緑のアーケードの街並みは美しく、堅牢で高い城壁に囲まれ、落ち着いた城郭古都である。夕闇が迫りくるなかMRと二人で中山陵に急いだ。孫文の号中山にちなんだ陵墓である。長く巾の広い階段を息せききって登った。静寂のなかに白壁と瑠璃色の瓦が荘厳さ引き立たせる。閉門間じかで人影はまばら。唐松であろうか針葉樹が繁る広大な境内を歩きながら、偉大な革命家が提唱した民族・民権・民生の三民主義が、この国にいつ根付くのかと考えた。

 シンポジウムを終えた翌日、出発までの時間を利用して南京長江大橋を訪れた。全長6700余メートル。対岸は霞んでいる。車で中ほどまで行き橋の上から初めて長江を展望する。中国一の大河にやっと来たとの感動が湧いてくる。昨秋に見た重慶の水と比べると濁は少なく流れも穏やか。武漢、重慶に次いで中国で三番目に建設された大橋である。1960年の着工後に中ソ対立がおこり、ソ連技術者が全員引き上げた後、苦難の末にやっと68年に自力で完成した歴史的大橋で、上階は歩道付きの自動車道で、下が鉄道橋の二階建てである。

 2時間ほどの飛行で長年憧れた「大連」に到着した。大連が日本人に身近になるのは1895年日清戦争後の下関条約により清から遼東半島の租借権を取得した時からである。しかし、露独仏による三国干渉で僅か2週間足らずで日本の手をはなれ、3年後に不凍港を渇望するロシアの領有となる。“遠い”という意味のロシア語から「ダーリニイ」と名付けられるが、1905年日露戦争後に日本が再度租借して「大連」と漢字をあてた。軍港の旅順に対して、大連は商港の役目を担い満鉄の始発駅と満州開拓への玄関港として発展した。

 改革開放後の大連は日本企業の一大進出地となっている。宿泊した新築ホテルは安普請ながらフランス風の装飾がほどこされロビーの照明はほどよく抑制が効き、コーヒーラウンジは薄い紫色で怪しげに沈んでいる。日本人旅行者と当地の成金ビジネスマン、甘い商機を求める若者、さらには共産国家とは思えない厚化粧の女性たちで賑わっている。

 仕事を終えた翌日、大連と瀋陽を担当する2人の美人MRが海浜公園に案内してくれた。メリーゴーランドと観覧車が廻ってはいるが北国の3月では入園者はまばらで何か物寂しい。高台から大連港の賑わいを遠望した。広州交易会で宿泊した白雲山荘は彼方に見える山にちなんで名付けられたと知って嬉しかった。日本租借時代の街並みを見たいと希望するが彼女たちには馴染みがない。住居を取り壊し拡幅工事の埃っぽい道を彷徨して、やっとアカシヤの並木や旧いビルが残る一画に行きついた。かつて小説で読んだノスタルジックな風景が蘇る。前夜の接待の席で老教授が
 「大連はパリをモデルにしてロシアがつくった街です」
と教えてくれた。『アカシヤの大連』は昭和44年に清岡卓行が芥川賞を受賞した名作である。長男研太郎が誕生したこの年、それを読んで甘く切ない感傷からヘルマン・ヘッセの『帰郷』に似ていると漠然と感じた理由を発見した気分になり、これだけでも大連に来た甲斐があると思った。北京では2つのシンポジウムをこなして今回の旅を終えた。

     参考資料: 中国歴史の旅(下)  陳舜臣著  集英社文庫
             漢詩の心  石川忠久・陳舜臣ほか著  プレジデント社
                                                   9月上旬号 完

132)重慶と昆明への講演旅行
 ある日、先鋒医薬公司の李社長から
 「ベストコールのシンポジウムを実施したいので講師として是非参加してほしい。拡張支援はしないという角さんの言葉に従ってきたが、このままでは販売がジリ貧になる」
脅迫とも聞こえる強い要望である。中国全域が活動範囲となったので、角さんにとっても悪い話ではない。こうしてベストコールの講師として中国各地を訪問することになった。
その旅の合間に訪れた名所旧跡にご案内する。第一回目は94年の9月の重慶と昆明であった。

 広州で李社長と落合い重慶へ向う。当時は四川省の省都であったが、今日では中央政府の直轄地に格上げされ、四川省の省都は成都となった。ついでながら重慶市と四川省を合せた人口は1.3億人で日本を上回る。一時間半の飛行で到着し、ホテルに荷物を預け早速、第一と第三人民病院を訪問し医師達に講演会への参加を依頼する。夜は主任級の医師を招き夕食会を開き人間関係を深める。翌日は第二と第四人民病院を訪れる。夕刻から開かれたシンポジウムでは地域のオピニオン・リーダー(著名な内科と外科の教授)がベストコールの使用経験を発表し、角さんは武田薬品の概況と製品の特性を中国語で紹介する。OHP機を使って目に訴えるために下手な中国語でも結構通じる。台湾では専門用語は英語で良かったが、ここ大陸では細菌名などの外来専門用語も北京語なので、発音が難しい。講演後の質疑応答では方言訛りの北京語が聴き取れず、李さんが質問を英語で通訳する。日本人を初めて目の当たりにする先生も少なくなく、中国語での説明を評価してくれる。正に客寄せパンダの効果満点である。

 講演の中で“三角論”と“プール溺死論”が好評であった。前者は化学療法の本から借用したが、後者は角さんが考案したMICの説明方法である。地方の医師には初めて聞く新知識であったようだ。講演は「三角四角の角(すみ)と書きます」と自己紹介で始め、“三角論”の説明に入る。微生物のサイズは真菌>細菌(バクテリア)>ウイルスであり、感染症の病原菌としては細菌が一般的。人間は細胞の集まりであるが、細菌は一つの細胞からなる。この細胞を死滅させ、人の細胞には悪影響を及ぼさない抗生物質が理想的である。普通の病気では薬と人体(組織)の二者関係であるが、抗生物質療法では人体・細菌・抗生物質の三角関係にある。細菌が感染症で人体を傷め、抗生物質が細菌を殺すが、時として抗生物質が人の細胞に危害(副作用)を及ぼす、三者関係にある。つまり人体には無害で細菌には有害な抗生物質が理想的である。細菌は細胞壁をもち、人の細胞は細胞膜をもつ。この壁と膜は微細構造が異なるので、セファロスポリン系抗生物質は細菌の細胞壁は破るが人体の細胞膜には影響が少ない。従ってセファロ系のベストコールは安全性が高い抗生物質であると先ずは「三角関係論」から我が製品の優秀性をアピールする。

 細菌が或る濃度の抗生物質に接触すると発育(=増殖)が停止して死滅する。それを感受性といい、発育を阻止する最低の濃度をMIC(Minimum Inhibitory Concentration) という。特定の抗生物質が種々の細菌を発育阻止するMICは異なり、実験で調べられる。MICの数値が小さいほど良く効く抗生物質である。患者が抗生物質を服用すると小腸で吸収されて肝臓を経て(静脈注射の場合には直接)血中に入り病巣に移行する。その抗生物質の組織内濃度がMIC値以上であれば殺菌作用(または静菌作用)を示すが、MIC値以下であれば細菌は死滅しない。

 「黄色ブドウ球菌、淋菌、大腸菌、肺炎桿菌、緑膿菌などのMIC値は、例えば日本人、山東人、イタリア人、英国人、ノルウェー人の平均身長のように民族により差異がある(*)。その高さが異なる人形を水泳プールに立てて水を入れると、ある水位になると背が低い順に溺死する。背丈をMIC値とし仮定し、水位を抗生物質の濃度と解釈すれば、人の組織に高濃度に移行し、多種の細菌に感受性があり、MIC値が小さく、人体に悪影響が少ないのが優れた抗生物質である」
と、“プール溺死論”で抗生物質療法の本質を説明して、同じセファロ系の中でベストコールが特に優れていると強調する。そして最後に「三角形(サンジァオシン)の角興三(ジァオシンサン)を宜しく」と中国語の駄洒落で名前を売り込んで講演を締めくくると、拍手喝采となる。
 (*:細菌のMICは1.56~6.25~12.5~25~50μg/mlの如く、民族による平均身長差以上にその差異は大きい)

 翌日は出発までの間に市内を観光した。中心街は長江と嘉陵江(かりょうこう)にはさまれた細長い半島状の丘陵にあり、家々が積み重なるような坂道と石段の街で、“山城”の別名もある。内陸性気候で夏は“天下の釜”といわれる猛暑となる。人々でごったがえす狭い道を半島の先端へと歩く。そこは両江の合流点にある「朝天門埠頭(ふとう)」であるが、水面からは20メートルほどの高さ。急勾配の階段を人夫が天秤棒を担ぎ、或いは背負って荷物を運び揚げている。竹を半分に割り両端に切り込みを入れた、軽くしなやかな天秤棒である。日本の天秤棒と比べ単純、軽量、安価である。その働く姿に中国人の逞しい生活をみた。少し彼方の急斜面をケーブルカーが上下して船から大きな荷物を運んでいる。対岸が霞む大河で、茶色の濁流は速そうで、その中を多くの船舟が行き来している。三峡下りの起点で初めて目にする長江である。昼時になり小食堂に入り本場の麻婆豆腐を注文する。豆腐は硬めで、合わせ調味料には黒胡椒を使っているのか黒っぽい色合いで痺れるような辛さである。麻には痺れるとアバタの二つの意味がある。アバタ面の婆さんが創作した豆腐料理からこの名がついたと言われている。

 霧雨の中を空港に到着したが、いっこうに搭乗案内がない。霧が立ち込めたのである。
   ―< 蜀犬日ニ吠ユ >―
蜀の国とは現在の成都地方であるが、四川盆地では陽光の日が少なく、たまに太陽がのぞくと犬が驚いて吠える、と謂われる。盆地なので水蒸気が容易に動かないのであろう。結局、その日は欠航となりホテルに引き返した。李さんは昆明のMRに電話し今夜の医師接待をキャンセルするように指示をだす。夜は三人で「水煮魚」をつついた。四川火鍋(ホウゴウ)の一種で鯉に似た川魚を唐辛子ベースで味つけした寄せ鍋料理である。唐辛子のことを辣椒(ラージャオ)というが日本のものとは種類が異なるのであろうか、字づらからは“辛い山椒”をイメージする。辛いこと甚だしい。お湯を加えて薄めるが到底日本人の口に入る代物ではない。四川人は辣椒を偏愛することで知られている。辛さが爆発し口の中が痺れてくるが、多種の香辛料のゆえであろうか、甘いような旨味も感じられる。汗をかきかき、その多彩なうま味を楽しんだ。

 欠航のお陰で翌朝、嘉陵江河畔にある紅岩村を訪れた。ここは日中戦争時、八路軍や中国共産党南方局の事務所があったところ。記念館の前に周恩来の等身大の立像があり、屋内には孫文の筆による“天下為公”(天下は公の為に)の額が掛かっている。枇杷山公園であったろうか記憶が曖昧だが日本軍の空爆を受けた時の写真が展示されている。日中戦争のさなかに国民党が首都機能を大陸奥地の重慶市に移したので、日本軍は1938年12月から重慶への空爆を始めた。奥地にまでよく攻め込んだものと驚く反面、こんな内陸に来てまで日本侵略の展示を目にすることが悲しかった。

 翌日は無事に離陸し南西の昆明へ向かう。戦時中、日本軍が重慶を空爆したとき、
「ここが危なくなれば、更に奥地の昆明へ逃げればよい。日本軍といえどもそこまではコンメイ」と蒋介石が駄洒落を言ったとか。近年は日本のマラソン選手が高地トレ-ニングをする場所としても知られるようになった。到着が遅れたために病院訪問は中止したが、夕刻からのシンポジウムには間に合った。予定変更で観光時間がなくなり李さんは残念がったが、角さんはこの春に社員旅行で訪れたばかりで慰め役となった。 (8月下旬号  完)

131)上海、夜霧のブルース
 天津武田の設立が決まり、北京事務所は本社に昇格し、天津に錠剤工場を建設することになった。北京には許認可権をもつ衛生署(厚生省)が所在する事と、これまで天津製薬公司と提携関係にあった点が決め手となり、上海や広州でなく本社の所在地が北京に決まった。因みに、この天津工場は約二年後に完成し中国で第一号のGMP工場となった。

 昆明から帰って間もなく大阪本社から上海への出張命令を受取った。中国ビジネスの分担を北京側と協議するように、との指示である。4月末であったろうかY社長と拡張担当の豊田君が北京から来て上海日航ホテルで協議した。これまでは長江(揚子江)から北を北京事務所が、南を武田IMCが担当していたが、
 「今後は地域制を廃止して品目制に変更する。武田IMCは日本武田が中国へ輸出する非内服薬(注射薬や点眼薬)のマーケティングを支援して手数料を受取る。天津武田は天津にある自社工場で錠剤を製造(工場の完成までは輸入)して販売する」
ことが決まった。この結果、これまで手塩にかけて育てたダーゼン錠の商権を天津武田に譲渡する代わりに、パンスポリン注射の拡張支援が武田IMCの業務に加えられた。こうしてその後、角さんはカタリン点眼液、ニコリン注射剤、抗生物質のパンスポリンとベストコール注射剤の四品目の受注と拡張で中国全土を訪れることとなる。

 豊田君とは台湾で業務を引き渡した旧知の間柄。夕食を終えるとY氏は早ばやと自室に引っ込んだので、二人だけで上海の夜を散策することにする。台湾の飲食街、林森北路を夜な夜なさすらって多少不良気が身についた二人である。角さんにとっては子供の頃より永年憧れ、台北のカラオケ・ラウンジでと幾度となく歌ったディツクミネの「夜霧のブルース」の舞台上海。
    ♪夢の四馬路か虹口の街か・・・♪ 
      ♪男同士の相合傘で・・・♪ 
戦前から「日本租界」、正しくは国際共同租界にある四馬路と虹口は上海語ではスマロとホンキュと発音する。宿舎の上海日航ホテルは空港には近いが中心街のはずれにある。加えて改革・開放が始まって間が無いせいで、僅かのネオンサインが遠慮がちに灯るほの暗い街並み。
 (さてどっちに行ったものか)と迷っていると二人の美女が近づいてきた。
 「日本語会話を教えて欲しい」という。
ホテルに引き返してコーヒーをすすりながら北京語での会話に花が咲く。
 「旧日本租界にあったスマロやホンキュは何処にあるか」と問えば、
 「案内して上げましょう」と親切な答えが返ってきた。
多少胡散臭いが命までは取られないだろうと、タクシーを拾う。そこまでは良かったが、あちこちタクシーを走らせるだけで、どうも行き先を知らないらしい。そのうちに自分の家に行こうと言いだした。
 「そら来た」と心の片隅で少なからず期待をしている言葉が跳び出して、内心小躍りする不良の二人。 しかし、現実となると腰が引けるところがチョイワルたる所以。そろそろ潮時と判断し
 「明日の打ち合わせ会議が9時からホテルで始まる」
と適当な理由をつける。多少のお礼金を渡してタクシーを降りる。雨こそ止んでいたが、歌の文句そのままに夜霧が濃い、ほろ苦い上海の夜であった。

 翌朝三人で上海の名所“外灘(バンド)”に行く。長江河口デルタを流れる黄浦江の岸壁の遊歩道は恋人通りと呼ばれロマンティックである。外国船が汽笛を鳴らし、ポンポンと小舟が行きかう。近郷や大陸各地から買出しや物見遊山にやって来たお上りさんであふれ、甲高い物売りの声もまじる。対岸の浦東地区には東方明珠塔がひときわ目立つがビルはまばら。その後、幾度もここを訪れたがその度に人が増え対岸にビルが建設されていった。この岸壁の黄浦公園に沿って走る中山東路は戦前に東洋一を誇ったヨーロッパ風のビルが並ぶノスタルジックな景観である。その一つ和平賓館は日本の帝國ホテルに匹敵する戦前からの由緒あるホテルで、往時からジャズの生演奏でも知られている。北館と南館の間を起点にして上海の銀座通り南京路が西に向って走る。訪れた時は照明もまばらな売ってやる式の商店街であったが、今は真昼と見間違うばかりにネオンが輝く中国一の賑わいになっていると聞く。

 次に豫園を訪れた。明代の高官によって造営された大庭園は時の流れのなかで半分以下の広さになってしまったが、それでも江南を代表する名園で大小の池や渓流の水面に影を落とす楼閣、奇岩、岩山など日本庭園の源流を見る思いである。見上げる大楼閣は中国情緒たっぷりで、台北の圓山大飯店はこれに倣って建造されたに違いない。その周辺の「豫園商城」では大小さまざまな商店が軒をつらねる。観光客で肩が触れるほどの混雑。騒音で会話は聞こえず、汗と体臭と埃が充満する。静かな京都などからやって来たご老人などは半時で人いきれにあたって失神しそうな賑わいである。      (8月中旬号  完)

130)昆明と石林への旅
 1994年春の社員旅行は昆明と石林に決まった。昆明は香港から西北西へ2時間飛んだ海抜1900mの高地にある雲南省の省都。台北と同じ緯度なので寒暖の差が少なく“四時如春(スーシールーチュン)”、四季を通じて春の如しといわれる。市内はいたるところ花が咲き“春城”の別名にふさわしい落ちついた街である。

 翌朝、バスで2時間半ほど走り名勝の「石林」に着く。この辺りは3億年前までは海底にあったが地殻変動で隆起した。地表の石灰岩層は風雨に浸食され永い歳月を経て、あたかも無数の巨大な剣が立ち並ぶ大地へと変貌した。“望峰亭”に上ると全容が見渡せた。ところどころに僅かに緑の灌木が見られるが大丘陵は見渡す限り石柱に覆われている。広大な墓地或いは大造成地に林立するエンピツ型ビル群とでも譬えられようか、筆舌に尽くし難い。桂林が石灰岩の小山群とすれば、ここ石林は石灰岩の剣の丘陵である。あちらが景観ならばこちらは奇観である。

 近くには石柱に囲まれて“獅子池”が静かに広がる。澄み切った明鏡のような湖面に剣峰が映る。湖岸の大岩柱に「石林」と赤字で彫り込まれている。傍らでイ族の娘たちが民族衣装をまとって手製のバッグや装身具など土産物を売っている。彼女たちは彫が深く目鼻立ちがはっきりして磨けば光る原石の美人ぞろい。そこから石林大地の地下にある洞窟に入る。豆電球が足元を僅かに照らす通路は細く鍾乳洞とは違った趣である。グループで列をなし、時には腰をかがめて進む。前後には他のグループ客もいて道に迷う心配はない。と思っている矢先に、どこでどう間違えたか気がつけば前にも後にも人がいない。石壁の観察に気を取られてはぐれたようである。少し後戻りするが誰もいない。前進すると路は二手に分かれている。どちらに行ったものか。右側を選んでしばし行くとまた分岐する。網目状の地下迷路の中で取り残された実感が湧いてくる。この時ばかりは悪戯っ子角さんも緊張した。不安ながらも豆球が点いている路は大丈夫だろうと勇気を奮って前進を続けて、やっと洞窟から出た。しかし、待っているはずの仲間はいない。不安の中で待つほどに一団が出てきた。途中で角さんがいないのに気づいて洞窟内を探し回ったそうである。角さんの守役と自らを任じる現地人ナンバーワンのTさんに大目玉をくらった。

 この地が漢民族の版図に入ったのは漢の武帝の時代である。長安ではこの地に住む古タイ族を滇(てん)とよんだ。1956年この近くの山から「滇王之印」と書かれた金印が発見された。ヘビの彫刻の“鈕(ちゅう)”は日本の志賀島から出土した金印「漢委奴国王」と同じで、同時代の兄弟印と考えられている。滇族は現在、イ族とよばれる稲作少数民族の祖先である。その名がついた「滇池」、別名昆明湖を訪れた。琵琶湖の半分ほどの大きさの高地湖である。湖岸の大観楼公園は昆明の別名、春城にふさわしく色とりどりの花で埋まり、春陽が心地よい。
  ―< 五百里滇池 眼底ニ奔来ス 襟を披キ 被物ヲヌゲバ・・・・>―
孫髭翁が即興で書いたという百八十字にもおよぶ故事にまつわる長聯が掲げられている。土産物屋で半畳余りのろうけつ染の壁掛けが目に入った。羽根飾りを着けた男たちが大舟と小舟を漕ぎ、鳥が列をなし天空を飛んでいる。向う先は太陽。滇族の伝承を描いているのであろう。粗い綿布に藍と赤で染めた図柄で、日本で云われる「天の鳥船」を思い出して記念に買った。この布絵はいまも角宅の廊下の壁を飾っている。

 小さなソバ屋で過橋米線(コオジァオミーセン)を汗を拭き拭きすすった。昆明の名物料理である。過橋とは「橋を渡る」、米線はビーフンのこと。科挙の試験に備え猛勉強中の夫に妻が橋を渡って川向こうの勉強部屋に食事を運ぶ。折角の米線が冷めて伸びないようにと、麺と具とスープを別々の碗に入れて夫のもとに届けたのが名前の由来。麺の上に薄切りの豚肉と野菜をのせ、食べる直前に熱々のスープをそそぐ。鶏ガラを煮込んだスープの表面は油でおおわれ簡単には冷めない。元祖、愛妻弁当である。

 昼食を終えて道教の寺「龍門」を目指す。長い石段をゆっくりと登るほどに、道幅は徐々に狭くなる。ついには断崖に貼り付くように人ひとりがやっと通れる険しい崖道となる。“蜀の桟道”はこんなのかと想った。勾配はいよいよきつく左側は断崖絶壁で手すりだけが頼りである。足元をみると目が眩むが、眼を転ずれば先ほどの昆明湖の岸近くにはハート型をした魚捕りの仕掛けが、三つ四つ浮ぶ。まさに絶景である。遥か彼方の湖畔で鄭和は生まれ育った。彼はヨーロッパの大航海時代に先立つ15世紀初頭に二万人余りの大船隊を率いてアジアの国々から遠く東アフリカまで大航海をした。宦官として明の永楽帝に仕えたが、漢民族ではなく代々イスラム教徒であった。どのような運命をたどったのであろうか。雲南からの凱旋将軍が上呈した戦利品の中にこの去勢された少年奴隷が混じっていた。そして燕王が幾多の戦いをへて永楽帝になる過程で戦功をたてながら昇官したのであろう、と陳舜臣の推察を司馬遼太郎が『街道をゆく』の中で紹介している。

 岩を刳り貫いたトンネル階段を這って潜り抜け、石段を登りつめると、閻魔大王に似た像が睨みすえている。道教の霊官の一人である。やっと龍門石坊や達天閣にたどり着く。線香に点火して石室内の観音坐像に手を合わす。復路に山腹を下る途中、小さな売店でペットボトルを買って喉を潤す。残りの水を旅行バッグに入れて下山した。ペットボトルのキャップが不備であったのか、閉め方が不十分だったのか水漏れを起こして会社の創立記念に貰ったカメラを壊してしまった。フイルムは幸いにして難を逃れた。

 昆明空港で版画を買った。手前にトウモロコシの畑があり、道の向こうに丘陵が重なる。極端に単純化した構図で、彼方に雪に覆われたヒマラヤが陽光を浴びて輝いている。三分の二ほども占める紺碧の空に白い太陽が浮かんでいる。左隅に“西蔵的中午”(チベットの午後)と標題が書かれている。香港で額縁を作り今も玄関を飾っている。中国各地で興奮の中で見境なく買った安物の絵の中ではお気に入りの一枚である。

 『自分史エッセイ』は記憶を頼って書き始めたが、駐在時代に入ってからは手帳とアルバムが拠り所となっている。この「昆明・石林への旅」の項を書くに当り、当時のアルバムを見ていて思わぬ写真を発見した。ガイドブックの写真と全く同じ風景をバックに角さんが写っている。
 「古来より“大理の華”と詠われてきた崇聖寺三塔は唐代の初期に建てられた。昆明より約400キロ、車で所要8~10時間」と説明が加えられているが、貸切バスで所要時間が短縮されれば、あながち行けぬ距離でもあるまい。角さんの記憶にも記録にも無いが写真が何よりの証拠。ともかく大理石の語源となった大理を訪れたようである。

   参考資料: 街道をゆく 20 中国・蜀と雲南のみち 司馬遼太郎著 朝日文庫       (8月上旬号  完)

129)年末会議の風景
 毎年11月に入ると4月から始まる次年度の予算立案に着手する。最も多忙で緊張する2ヶ月である。基本方針を策定し戦略を構築する。それを実現するために組織、人事、製品、拡張など種々の角度から現状を分析し戦術を考える。これらをフォーマットに簡潔に書く。胃が痛むほど必死に考えると対策も生まれる。これを“文章編”と略称する。さらに品目ごとの販売数量と金額と粗利益を算出し、そこから諸経費を差し引いて営業利益を算出する。損益計算書(プロフィット&ロス)、貸借対照表(バランスシート)、現金残高表(キャッシュフロー)を作成する。この“三面計算”で経営の健全性を確認する。これらを“数字編”と呼んだ。こうして次年度の年間計画ができると、それをスタートとする5年間の年度別計画を策定し、昨年作成の5カ年計画と比較する。これをローリング作業と呼ぶ。

 頭が痛いのは従業員の給与査定。中国が天安門事件の痛手から立ち直り、香港の市況が上向くと人件費が急騰する。おまけに会社の業績が良いとなると昇給の要求も強い。社員一人ひとりの給与は営業部長T氏の意見を聴きながら角社長が決めるのだが、実態は二人の対峙した形で厳しい給与交渉となる。彼は営業センスに欠けるが現地人を纏めるカリスマ性とガッツを備えているので、角さんは我慢をしながら使っている。高い賃上げ要求に対し高額の販売計画を課す。意欲的な経営計画は格好いいが、実現できなければ自分の首を絞めることに繋がる。子会社社長の辛いところである。

 4年目の給与交渉の時だったか、前任のT社長に仕えた時に倉庫の整理に汗を流した苦労話を得意げに持ち出し、会社への貢献を誇示して提示された昇給額に不満をあらわにした。少し慢心していると感じていたので、良いチャンスと思い、
 「そんな低次元の仕事をしてもらうために、高給を払っているのではない。第一、君の給与が上がり過ぎると、会社が耐えられなくなり、君の当社での選手寿命が短くなるよ」
と精一杯の皮肉で牽制した。その翌日から横柄な態度が消えた。給与交渉では彼には全職員のバックアップがあるが、こちらは単独である。誰にも相談はできない。へたに大阪に相談などすれば、
 「角さんはTさんを抑えきれていないのではないか」
 「角君は従業員の給与一つ自分で決められないのか」
などの讒言(ざんげん)や噂話が流れないともかぎらない。本社に対してさえうっかり相談はできない。厳しいサラリーマンのサバイバルゲームである。こうして出来上がった年間経営計画書を12月中旬までに本社に送り、下旬に大阪で開かれる「年末会議」に臨む。

 かつて「年末会議」は本社の社長や役員が列席する御前会議であったが、角さんの時代になると国際本部内の会議になった。秋には欧米の子会社、年末にはアジアの子会社の社長たちが本部に集い、連日、午前と午後に分けて2社の経営が論議される。海外子会社の社長が一年で最も緊張する時である。会議室に入ると本部長を中心に関係会社管理部、輸出営業部、財務部、学術部の部課長が列席している。敵は大勢でこちらは一人。彼らは事前に提出した資料を精読し政策に誤りや矛盾はないか、計画数字に過不足はないかと準備に怠りない。右から左から正面からと何処から矢が飛んでくるか判らない。悪意はないにしろ、敵か味方か不明である。うっかり調子に乗ると“褒め殺し”に会わないともかぎらない。こちらも自問自答して準備万端整えて帰国する。かつて台湾やフィリピンに駐在していた頃、上司の社長からこの時期になると意見を求められることが多かった。そのたびに、
 (いいアイデアだなあー)、(それは社長ご自身が考えることですがなー)などと、内心思ったものである。角君を本社スタッフに見立てて模擬問答をしていたのだと、その立場になって初めて気がついた。

 1994年の会議で武田IMC社の経営についての討議が終了し、返還後の香港と中国の動向に議題が移る。97年7月1日に香港は中国に返還される。それ以降の50年間は「港人治港」と「一国二制度」が統治の柱である。「港人治港」とは香港人が香港を治め、中国は軍事と外交以外には不干渉。そして「一国二制度」とは国は一つだが中国と香港の制度は夫々別々となるとの意味。中国はこの二つの大原則を香港と全世界に向けて公表している。
  Q:薬事法はどうなるのか? 
  A:勿論、中国と香港は別の薬事法となる。
  Q:中国製の薬品は自由に香港に輸入できるか? 
  A:香港の登録許可証がなければ輸入できない。日本製品を輸入する場合と全く同じ。
  Q:通貨はどうなるか?
  A:当然、人民元と香港ドル、別々の貨幣が使用される。香港ドルといえども米ドルや日円と同様に外国の通貨である。
などと、初歩的事項が確認される。「一国二制度」を言葉として知ってはいても、その本質的意味を日本側は必ずしも充分咀嚼していない。さらに質疑は続く。
  Q:外国人の預金が凍結され、外資系企業が国有化される恐れはないか?
  A:一国二制度ゆえ、あくまでも香港の制度で管理されるので、その心配はない。
  Q:香港と上海で個々の銀行や金融市場は並立となるのか?
  A:勿論、競争関係で並列する。金融制度やノウハウは一朝一夕には得られない。
  Q:中国政府から見て、上海の銀行を香港の銀行に優先させる事態は起こらないか?
  A:“港人治港”と“市場経済”が基本原則。しかし万が一、二者択一の異常事態が生じたら、上海は実子であるが、香港は継子の扱いを受けるかも知れない。
と俗っぽい一言で本質を説明する。

 そして中国本土に現地会社を設立する話となる。天津の提携会社に武田が資本参加して合弁会社を設立する案が具体化しているらしい。武田は50%以上を出資して経営権を得る予定のようだ。
 「角さん、マーケティング担当の副社長で北京に行かれませんか?」
と、後輩の課長が唐突な質問した。まさに想定外の論題であり、列席の後ろから飛び出した長距離砲の癖球である。反射的に角さんの頭が急回転する。
 (過去、外国事業部の人事は極秘で進められてきた。本部長が国内から移って来てやり方が変わったのか?)(本気か? 牽制球か? 個人の意見か? 本社の出来レースか?)
 「社長の方がいいですな~」
と一言答えた。これまで永年、海外の子会社で社長を助けて働いてきた。
 (もうこの辺でその役は終わりにしたい。アジアでは社長でなければ充分力を発揮できない)
長年の経験から現実を知り尽くしている。加えて「改革・開放」のエネルギーが大爆発を起こし急拡大する中国市場では、形式的な組織や制度の整備より、営業を先行させ製品名と会社名の知名度を上げることを優先すべきである。売上げさえ上がれば、後のことは付いてくる、との実践的な思いが強い。瞬時に考えて発した一言であった。会議ではその話題はそれで終わった。

 一年後に天津武田が誕生し経営学専攻のY君が社長となり、後輩薬剤師の豊田君が営業本部長として就任した。
 (高額の資本を投下し、会社を設立し工場を建設するには、財務に強い専門家をトップに据えて、将来の基礎を着実に築く道を選ぶのが会社としては王道であろう)
改めて本社の考えを納得した。しかし、あのとき質問をした後輩の意図は今もって定かでない。社長にしたい意中の人へのメッセージであったのか? 或いは角さんが意欲的肯定的な回答をすると期待して投げてくれたホームランボールであったのか?      (7月下旬号  完)

128)バッタで死にかけた話
  香港返還を3年後に控えた1994年だったか、社長と専務が中国南部の視察に来た。武田部長が随行者である。中国市場の将来を睨んだ戦略検討が確かに動き始めた。 香港から深圳を経て広州までは開放先進地区である。山々が爆破され高速道路と工場団地が次々と建設され、急ピッチで国家建設が進む。週末ごとにゴルフに通うバス道は翌週には既に景観が変わっている。低賃金を求めて日本や台湾から技術と資本が集まる。
 「この辺りは10年後に中国のシリコンバレーに、20年後には中国は世界の工場になります。我社も工場建設を急ぐべきです」
ハイヤーした“黒塗りロング・ベンツ”の中で角君が熱っぽく進言する。予想より遥かに早いペースで工場団地が建設され今日既に世界の工場群となった。携帯電話は我が国より普及し、固定電話は無用の長物となる。極論すればハイテク技術の進歩で、戦後から日本が営々と築いてきた工業インフラの優位性が消失し、両国は同じ土俵で戦うことになった。違いは20分の1の人件費のみで、これが日本を席捲したデフレの元凶である。

 3社を訪問して1泊2日の視察旅行も終りに近づき、昼時になって広州市の旧外国租界の一角にある高級ホテル、白天鵞賓館(ホワイトスワン・ホテル)に案内する。入口近くに様々な珍味の“おつまみ”が並んでいる。中指サイズほどもあるバッタの佃煮が目にとまる。誰かが「これいこか? 戦後の食糧難のときにイナゴを食ったよなあー」と言って一皿取上げる。さらに2、3種類を加えて珍味を当てにビールで乾杯となる。通訳兼案内係の大役を無事終えてホッと一息した角君は手洗いに立つ。小便をしている途中で腹痛を覚え大の個室に入る。悪感と嘔吐感が強まり
 「ここで倒れたら誰も気付かぬなあー」
との危惧が一瞬脳裏をかすめトイレを出る。廊下に出たところでへたり込み
 「目立つ方が良かろう」
薄れる意識の中で危機感が働いて仰向けに倒れる。
 「有人倒了着! 叫医生!」 (誰かが倒れている! 医者を呼べ!)
叫び声と駆け寄る足音が意識の彼方で聞こえる。医師が血圧を測り始めたとき、少し意識が戻ったのか、
 「保持血管、快々!」 (早く血管を確保しろ!)
と角君は中国語でわめいたそうである。どのくらいの時間が経過したのであろうか、気がついた時には病院の大部屋ベッドに西日が差込んでいた。

 激しい下痢、顔は真っ白からチアノーゼを示す黒紫に変化し、血圧はゼロを記録。医師は危険な状態と同行の盧嬢に伝えたそうである。バッタの佃煮は美味な高蛋白食品として山東省の特産品とも後日、教えられた。アナフィラキシー・ショックであろう。その症状と救急処置については台湾でリラシリンの販売をしたときに学習していた。
 「アナフィラキシー・ショック時には即刻、昇圧剤や輸液を静脈注射しなければ落命する。その為には降圧で血管が平たくなる以前に注射針を静脈に刺し込み、薬液を注入する事前準備をすることが何よりも優先的に求められる」
消え行く意識の中でそれを想い出して、
 「(血圧を測るよりも)速く血管を確保して!」
と叫んだのである。その時の詳しい症状と施された救命処置を聞き漏らしたことが今となっては残念である。死線をさまよった数時間であり、大のトイレから出たのが生死を分けた境目であった。

 広州から香港へ帰る3時間の列車の中で、社長には母君を台北の陽明山公園へご案内した時の話をし、K大ラグビー部OBの専務には
 「義母の叔父さんはK大ラグビー部の創設者で、その立ち上げに実家の資産を潰した」
などの縁を話題にしようと、アピールのストーリーを考えていたが、叶わぬこととなった。

 一週間後に日本へ呼び戻され精密検査を強制的に受けさせられた。ありがたいことである。しかし、一段落すると過去に事故に遭われた駐在員の方々が思い出された。急性A型肝炎が数人、B型肝炎で落命された先輩、胃潰瘍で大手術を受けた上司、単身赴任中に酒が過ぎたのか帰国直後に倒れた上司、交通事故で亡くなった先輩などを見聞してきた。決して他人事ではないと痛感した。
 「これからは充分注意し、仕事よりも健康を優先し是が非でも五体満足で日本に帰ろう」
と心に決めた。

  これには後日談がある。本社での販売会議の席でこの「バッタ事件」が話題となった時、ある役員が
 「角君それはおかしいぜ。初めて食べてアナフィラキシーが起るかなあー」
ときた。一度目の摂取で体内に抗体ができ、二回目の摂取で抗原抗体反応が起こり、ショック症状が現れるとの示唆である。さすが有名大学で教鞭をとられた薬学博士。お説のとおり初めてではなく、実は十数年前に台湾で似たようなバッタを食べた経験があった。自然界のルールは正直である。好奇心と用心深さを使い分け、リスク管理を怠りなく長い海外生活をエンジョイしてきたが、終盤の大事な局面で大失敗をした。人生どこに落とし穴があるか判らない。人間(じんかん)到る所青山はあるが、時として禍も降りかかる。そして物忘れがひどいのはあの時の意識喪失が原因ではなかろうかと、思い起こす今日この頃である。      (7月中旬号  完)

127)天津出張と欧州駆け足旅行
 1993年の9月に提携会社から“Med Rep管理”の講演を頼まれて天津に出かけた。天津は北京の海の玄関口で東京と横浜のような関係で、北京・上海と並ぶ政府直轄市である。 昼食は有名な“狗不理包子舗”に招かれた。味の濃い具を弾力ある麺が覆う小ぶりの肉マンである。創業者が幼時のあだ名からつけた店名で、元々は“狗不理”、即ち「犬も相手にしない(腕白者)」の意であるが、今では「犬も食わぬ(味)」と逆手の宣伝が効いて評判になっている。

 年が明けて94年の1月に“アジア会議”で台北を訪れた。市街はビルが林立し高速高架橋で日陰が増え昔馴染みの街ながら現在地が分らないほどに風景が変わっている。会議を終えた夜の酒場で、今は高級クラブのママに出世した30年余り前の小妹(小間使い)に出会った奇遇は既に述べた。

 勤続25年の祝いに会社から一週間の休暇と10万円が支給され、ロンドン・パリ・ローマの団体旅行を申し込んだ。香港から大阪に一旦帰り、妻と一緒に東京から出発した。3月中旬であったかと思う。曇り空の下でウエストミンスター寺院とロンドン塔を眺めた。英国の明と暗を刻んだ歴史的建造物である。バッキンガム宮殿の衛兵交代を見物し、台北忠烈祠のそれを思い出した。自由時間を利用して大英博物館に行くと言ったら、英語が話せるということで俄かリーダーにされてグループ数人と一緒に地下鉄に乗った。エジプトから持ち帰った多数のミイラとロゼッタ石などの古代エジプトの発掘物に大英帝国の栄光と横暴を垣間見た。

 エッフェル塔、凱旋門、シャンゼリゼ通りにパリの香りを感じ、ノートルダム大聖堂のステンドグラスに我を忘れた。コンコルド広場に直立する古代エジプトのオベリスクは所を得ていないと思った。ベルサイユ宮殿では正面広場にあるルイ14世の騎馬像を見上げて太陽王を偲び、宮殿内の所縁の名前がつけられた部屋部屋では壁面と天井を飾る華麗な肖像画、歴史画、宗教画に魅入った。“鏡の間”のきらびやかさには目がくらんだ。憧れのルーブル美術館では短時間にお目当ての絵画や彫刻を見ようと広い館内を小走りで回る。「モナリザ」は思いのほか小さい。その美しさに魅せられて「ミロのビーナス」のミニ・レプリカを記念に買った。小学校の修学旅行で奈良の大仏の小さなレプリカを、無意味と言って買わなかったことと矛盾する。年を経て童心に逆戻りしたのかと苦笑した。時間に追われるようにセーヌの川べりをオルセー美術館へ急ぎ美術館のハシゴをする。ルネッサンスから近代への様々な絵画、とりわけ印象派の収集に圧倒された。地獄門などロダンとカミューの彫刻に目を凝らしながら二人の愛と離別を偲んだ。

 ローマでは闘技場(コロッセオ)に歴史の重みを感じたが、トレビの泉は想像より小さく多少期待はずれであった。サン・ピエトロ大寺院の豪華さに感動した。その円形広場を囲む回廊には時計の分刻みのように円柱が立ち並び、広場の中心にはエジプトから持ち帰った高いオベリスクが立ち幾何学的な美を誇っている。ローマ在住の日本人女性ガイドから
 「スリが横行しパスポートを取られると帰国が遅れる。一人歩きや夜歩きは絶対にしないように」
と再三釘を刺されて、従順にも案内される店だけで買物をし食事を摂った。今となっては残念というほかはない。夕食を終えてカンツォーネのオプションツアーに参加した。期待が大き過ぎたのか、何だか場末の三流歌手のお相手をさせられた思いであった。

 ポンペイの遺跡には言葉を失った。一瞬にして繁栄の都市と生活が火山灰の下に埋もれ、人々は生きたまま熱い火山灰にまみれ彫刻のようになった。当時の状況を想像するだけで胸が痛む。ナポリでは美しい景色に興奮し写真機のシャッターを押しまくった。後で考えると肉眼でゆっくりと眺めた記憶が無い。やはり風景は目に焼きつけ脳に記憶させるものである。

 パリーからローマへの機上から眺めたアルプスの山々の美しさは感嘆の一言につきる。ナポレオンのアルプス越えの苦難が脳裏をかすめたが、眼下の山々は朝日に輝いていた。これまで機上からの素晴らしい眺めを夫々の旅で楽しんだが、朝日に輝く白銀のアルプス越えは三指に入る。駆け足ではあったが思い出深い妻との欧州旅行であった。

 数年前にモスクワで西洋の片鱗に触れた以外は今回が始めてのヨーロッパである。興奮のあまり東洋と西洋を比較思考する余裕は無かった。市民との接触もなく、ただ感動して建造物を仰ぎ見たに過ぎない。そんな中で日本と比較すると石の文化で、スケールが大きく、そして「バベルの塔」の末裔を象徴するように寺院が天を目指して高くそびえているとの印象であった。     (7月上旬号  完)

126)李陵・史記と明の十三陵
 早春の風に吹かれながら角さんは万里の長城で“李陵事件”と『史記』の誕生に思いをはせる。その著者司馬遷は王室の記録を司る史官の家系に生まれ、20歳(*1)の時に歴史を書くために中原一帯を旅し風俗や伝聞を収集した。紀元前110年が悲運の年となる。漢の武帝は秦の始皇帝に倣って天地を祀る「封禅の儀」を行うべく泰山に赴いたが、父の司馬談は供を許されず洛陽に留めおかれた。大史令を拝命する司馬談には耐えがたい屈辱で、悔しさのあまり病に臥す。憤死の床で父は息子司馬遷に、孔子の『春秋』以来途絶えている史書の著述を託す。父の後を継いで大史令となった司馬遷が『史記』の稿を起こした矢先に“李陵事件”が起り運命は一変する。紀元前98年のことである。

 漢の武帝は張騫が語った西域にいるという名馬、疾駆すれば血の汗を流す“汗血馬”を熱望して匈奴に使者を送るが、誤解から使者は惨殺される。武帝は報復を決意し李妃の兄、李広利を総大将に任命する。軍功を挙げさせ候(大名)に取り立てる布石でもある。 支援部隊として勇将李陵は歩兵五千人を率いて出陣するが、匈奴の英傑冒頓単于(ぼくとつぜんう)の本隊三万騎に遭遇する。死闘を繰り返し李陵軍は単于軍に大打撃を与えるが、刀折れ矢尽きて投降する。囚われの身となり生き恥をさらす李陵の罪状を審議する御前会議が開かれる。並み居る群臣たちは武帝の気持ちを忖度(そんたく)して有罪論を呈す。義憤を感じた司馬遷は只一人、李陵を強く弁護した。
 「孤立無援のなかで一時的にせよ匈奴の大軍を撃破した功績は顕彰に値する。囚われても自刃しないのは、漢軍のために働く機会を探っているのであろう」
しかし、この論旨は三万の本隊を擁しながら敵の支援部隊に壊滅された李広利を間接的に批判した、と解されて武帝の怒りをかう。こうして司馬遷は宮刑を下される。男性の象徴を切断する(*1)酷刑である。そのあとが腐臭を発することから腐刑ともいわれる。このとき司馬遷48歳(*2)。

 翌年さらに不幸な事件がおきる。囚われの身でありながら李陵が漢軍との戦に備えて匈奴兵を訓練しているとの情報が届くと、武帝は怒りを爆破させ李陵一族を皆殺しにする。しかし、匈奴兵を訓練したのは別人の李緒であったと後に判明する。

 蘇武はかつて李陵とともに侍中であった(*3)。彼は捕虜交換の使命を得て匈奴兵の捕虜を引き連れて平和の使節として匈奴に赴くが、途中、捕虜の反乱に遭い捕らえられる。武帝への忠誠から匈奴の軍門に降ることを善しとせず、無人の北海(バイカル湖?)に流刑されて雪を呑み毛織衣の毛を食らい一人屈辱に耐え生きながらえていた。冒頓単于の娘を娶り匈奴人になりきっていた李陵は北海の地に赴き、単于の配下なるように勧めるが蘇武は武帝への忠誠心から頑として同意しない。武帝が没し昭帝の御世になったのを機に、李陵は三度目の説得を試みるが、蘇武の心を覆すことはできない。
 「異域の人はひとたび別れてしまえば、もう永久に会えない」
と嘆き、男泣きをしながら舞い歌った。

 ――<万里を径(ゆ)き、沙漠を渡り、 君が将となりて匈奴に奮う。
       路窮まり、矢絶え刃砕け、 士衆(もろびと)ほろびて名すでに堕つ。
      老母すでに殺さる、 恩に報いんと欲すとも将(まさ)に安(いず)くにか帰せん。>―― (*4)

 かくて二人は決別する。李陵は漢に帰還せず万里の長城のki 外で生涯を終え、蘇武は匈奴に留まること19年の後に帰還した。『漢書・李広蘇建伝二十四』中の李陵と蘇武の忠義物語の抜粋である。

 一方、宮刑となった司馬遷は2年後出獄を許される。生き恥の中で自殺を考えるが父の遺命に従い、著述を続け紀元前90年頃に『史記』を完成させる。司馬遷の死は、武帝の1年後、昭帝の始元年(紀元前86年)、60歳(*2)の年であった。

  (*1)陽物の一部或いは全部をとる。陰嚢は全部とる。司馬遷については不明。                                                                                                          (*2)誕生年に3説あるようだが、『中国歴史散歩』に従った(中国政府が1956年に行った司馬遷生誕2100年祭)。 
  (*3)蘇武は蘇建の子、李陵は李広の孫。兵庫県西北部に蘇武岳(1074m)がある。植村直己の故郷の山である。
  (*4)一部を現代風に改めた。君=武帝

 中国には正史と認められる史書が二十五あり「二十五史」と呼ばれる。最も古いのが『史記』であり、次が『漢書』、最も新しいのが『明史』である。『清史』はまだ書かれていない。『史記』は夏・殷・周・春秋・戦国・秦・前漢までを記録している。「本紀」と「列伝」をもつ「紀伝体」形式の史書がこれから始まる。「本紀」は歴代王朝の年代記であり、「列伝」は個人の伝記である。「刺客列伝」「遊侠列伝」「滑稽列伝」などがあり、これが正史に息を吹き込み読み物とした。
   ―< 風粛々(しょうしょう)として易水寒し
          壮士ひとたび去ってまた還らず >― 
荊軻(けいか)が死を賭して秦王(後の始皇帝)の暗殺に出立する名場面である。『史記』は司馬親子、二代にまたがる怨念の書である。と同時に司馬遷は歴史を通して人間を描き、人間を通して歴史を記録した、と角さんは考える。伴野朗氏はその著書『中国歴史散歩』の中で『史記』の特徴を記述の正確さ、現場主義、醒めた歴史眼と3点に要約している。

 万里の長城を終えて「明の十三陵」を訪れる。ここは明の歴代皇帝が眠る”王家の谷”である。明朝の創始者朱元璋は南京を国都と定め、三代目の永楽帝が北京に遷都した。永楽帝以降の十七代最後の崇禎帝までの十三帝(七代は廃帝、六代と八代は同一人)の陵墓である。十四代万暦帝の定陵を訪れた。三十六の石彫が立つ長い参道を歩む。功臣、文官、武将の石像が十二体で、馬、麒麟、獅子、駱駝などの石獣が二十四体ある。地下宮殿への階段を下るほどに冷気をおびる。床からアーチ状の天井にいたるまで全て大理石。石壁で前殿、中殿など五区画に仕切られている。皇帝と皇后の玉座はそれぞれ竜と鳳凰で飾られている。死後の世界はさぞや豪華絢爛であったろうと偲ばれたが、贅沢な定陵の建設が明の財政をひっ迫させたともいわれる。

 明の十三陵から王府井(ワンフージン)へ帰る。北京一の目抜き通りで東京の銀座にあたる。歩道に沿って屋台の赤提灯が長い列をなす。ここが今夜の夕食場所。集合時間を決めてから各自三々五々に自由時間を楽しむ。羊肉のバーベキュー、豚や鶏肉の串揚げ、海鮮料理に焼き魚、水餃子・蒸餃子に焼餅(シャオピン)・鍋貼(クオテイ)、焼ソバに汁ソバ、杏仁豆腐などのスイート類に材料が不明なゲテモノもある。この夜食べた蘭州羊肉麺は格別であった。中国西部の甘粛省蘭州のイスラム風味の名物麺である。何回も延ばして練り上げた麺に羊肉をニンニク、トウガラシなどの薬味で煮込んだ具をのせる。少量の酢が味をまろやかにし、数滴のゴマ油が香をひきたたせる。これまで各地方で口にした“汁そば”の中で上位にランクできる美味しさであった。

 四日目は天安門広場の近くにある歴史博物館と革命博物館を訪れた(今は統合されて中国国家博物館の由)。前者は原始社会からアヘン戦争までを、後者はそれ以後から中華人民共和国が成立した1949年までの資料が展示されている。台湾やフィリッピンやインドネシアで見た以上に、ここでは太平洋戦争における日本の侵略が誇大に展示されている。観光に行ってこういう展示に出会うのは気分がいいものではない。戦車などに混じり月ロケットが直立に展示されていた。空港近くの動物園では初めてパンダを見た。何ともいえぬ愛らしさである。こうして興奮の中で初めての北京旅行を終えた。

  参考資料: 中国五千年(上) 陳瞬臣著  平凡社
         中国歴史散歩  伴野朗著  集英社
         ものがたり史記  陳瞬臣著  朝日文庫  
         中国歴史の旅(上) 陳瞬臣著  集英社文庫
         漢書5列伝Ⅱ(李広蘇建伝第24) 班固著 小竹武夫訳 ちくま学芸文庫       (6月下旬号 完)

125)万里の長城
 翌朝、バスは北京市街から西北70キロの八達嶺に向かう。海抜840mにある居庸関跡を過ぎると峠道はさらに険しくなる。潅木は3月末とはいえ芽生え始めたばかりで未だ寒々としている。車窓から長城の一部が見え隠れし始めて車内の興奮が高まる。この辺りは昔より東西南北に通じる四通八達の交通の要所。憧れの長城に到着する。平均の高さは約8m、上部の幅が約6mといわれる大城壁。入口の左が男坂で右が女坂。傾斜がやさしいく、展望が良い女坂に観光客が多く、先ずはこちらを選ぶ。急な坂道を登るほどに身体が汗ばむ。一息入れて目を転ずれば峻嶺を繋ぐように長城が築かれているのが分る。長城の手前側が中華、外側が塞外で異民族の地である。遥か彼方まで続く長城の果てを眺めて角さんは中国五千年に思いを馳せる。

 「中華」は三皇五帝に始まる。『史記』によればその後、夏・商(殷)・周という世襲王朝が交代した。これを「中国の三代」という。約4000年前に誕生した最古の初期国家、夏王朝の存在は未確定ながら河南省・二里頭(にりとう)遺跡が宮殿跡ではないかと言われている。殷は遺跡が発見されその存在はほぼ確定的である。夏の最後の王、桀は妃の妹喜(ばつき)を溺愛し国を滅ぼす。殷の紂(ちゅう)王は池を酒で満たし木々に肉をつるし男女が飲み食いする歓楽の限りをつくす。しかし、それは酒と肉を捧げて五穀豊穣を天に祈った祭祀の様子との解釈もある。さらに妃の姐己(だつき)を喜ばすために油をぬった銅柱の橋を下から火であぶり、その上を罪人に渡らせる“炮烙(ほうらく)の刑”を考え出す。

 周王姫昌(きしょう)は亡き父の太公が待ち望んでいた賢者に川辺で出会い師として迎える。呂尚、太公望であり、報道などでしばしば紹介される「釣魚台」の由来である。紀元前1020年頃、国力を得た周は“牧野の戦”で商を破る。商王朝は500年の歴史を閉じ遺民たちは各地に散って行く。しかし、その後も彼らは互いに連絡しあい物資の移動を仲介して生業とする。“商業”の始まりである。周は都を鍋京(西安)に定め周王朝が始まる。ある日、異民族の侵入を知らせる狼煙があがり諸侯が馳せ参じるが、間違いの伝令と判明する。兵士たちはガッカリするが、これを見た幽王の笑わぬ皇后、褒姒(ほうじ)は初めて声をあげて笑う。褒姒を寵愛する幽王は彼女の笑顔みたさに偽の狼煙を頻発する。本当に異民族が侵入し狼煙があがったときには諸侯は動かず幽王は殺される。夏・殷・周の末期に現れる妹喜・姐己・褒姒はまさに傾国の美女である。

 紀元前770年、平王は洛邑(洛陽)に遷都し周王家の命脈を保つ。以後を東周と呼びそれ以前の周(西周)と区別する。各地の諸侯は表向き亡命周王朝に敬意を払うが、いずれも我こそ覇王たらんと競う。正に室町末期に酷似している。これ以後、秦の始皇帝が天下を統一する紀元前221年までの550年間を春秋・戦国時代と呼ぶ。「春秋の五覇」では斉の垣公、晋の文公、楚の荘王、越王勾践(こうせん)、呉王夫差が良く知られる。「戦国の七雄」は秦・楚・斉・燕・趙・魏・韓。乱れた世を正すため、或いは仕官の口を探して学者や思想家が諸侯を遊説する。彼らを「諸子百家」と呼ぶ。玉石混交であろうが、その中で孔孟思想の孔子・孟子と老荘思想の老子・荘子、他に墨子、韓非子、孫子などが輩出した。孔孟思想の儒教は韓国と日本で広まり、老荘思想の道教は中華の生活に溶け込んでいるようだ。中国を儒教が浸透した秩序ある礼節国家と考えると足元をすくわれかねない。

 長城は紀元前7世紀の戦国時代に各国が自領を城壁で囲んだことに始まる。秦の始皇帝は匈奴の侵入を防ぐために、それらを繋ぎ合わせて甘粛省から朝鮮への大長城を築く。漢の武帝が玉門関へと延長する。明代に入り東は渤海湾に望む山海関から西は嘉関にいたるほぼ現在の形ができる。今の長城は地図上で2700キロ、起伏や二重、三重を考慮すると5000キロに及ぶ。中国の一里は400mであるから、その長さは1万2000里。白髪三千丈の誇張ではなく、“万里の長城”はむしろ控えめな表現である。三十六丈(約110m)おきに砦をかねる狼煙台が築かれている。明代の城壁は日干し煉瓦(れんが)を焼いて堅牢にした黒ずんだ人造石「磚(せん)」が使われているが、戦国時代の長城は「版築」工法である。両側に板を立てその間に土を入れ少量の切り草と水分を加えて杵でつき固める。今も西安市に残る城壁も表面は磚で覆われているが内部は版築工法である。

 この厚くて高い堅牢な万里の長城を築いたのは、数十万人の兵士だけでは足りず、厳しい法で罪人に仕立てられた徒刑者や徴用で集められた名もなき幾百万の農民であったに違いない。親兄弟や妻子に別れを告げて朔風すさぶ極寒の地に連行され、役人の鞭の下で労働を強いられた。夫の身を案じ斉の国(山東省)からはるばる燕の国まで「寒衣」を届けに艱難辛苦の長旅を続け、着いた時には夫はすでに故人であった。彼女が慟哭すると城壁が崩れ落ち夫の遺骸があらわれる。この「孟姜女(もうきょうじょ)」の伝説は既に敦煌出土の資料にも見られる悲恋物語として古来より芝居や歌曲で人々の感涙を誘ってきた。今は山海関に孟姜女廟があるときく。

 長城は漢と匈奴の戦いをつぶさに見てきた。寒風吹きすさぶ長城で防人たちは家族を想い、外関に遠征した兵士たちは過酷な己が運命を呪ったであろう。
   ―< 夫は辺関を防(まも)り 妾(われ)は呉に在り
         西風妾を吹き 妾は夫を憂う
      一行の書信 千行の涙
         寒は君の辺に到(いた)るも 衣は到れりや無(いな)や >―    (“寄夫、夫に寄せる” 唐詩 陳玉蘭)

 陽光と北風の中で角さんは王昭君の秘話を思いだす。彼女は絶世の美女であったが、宮廷絵師に賄賂を贈らなかったために醜女に描かれ、元帝の目にとまらぬまま、政略結婚で匈奴王単于(ぜんう)に嫁すことになった。宮廷を送り出すにあたり謁見した帝はその美貌を知り悔やんだといわれる。別の物語では後宮生活に嫌気がさした王昭君が自ら進んで匈奴王に嫁いだともいわれる。単于の死後は匈奴の風習に従って本妻の子の妻になり、モンゴルの草原で馬駆ける幸せな生涯をおくったとも語られる。
    ―< 昭君 玉鞍(ぎょくあん)を払い   馬にのぼって紅頬(こうきょう)を啼く
         今日は漢宮の人   明朝は胡地の妾(しょう) >―    李白

    ―< 漢の月は  還(ま)た東海より出ずるも
         明妃は  西に嫁して  来る日無し >―    李白

 漢の武帝は月氏と連合して宿敵匈奴を挟撃しようと月氏に使者を送った。張騫(ちょうけん)である。しかし張騫は匈奴に囚われ10年余り抑留される。その間に月氏は西方に移動し戦況が変わる。紆余曲折をへて長安に帰り着いた時には13年が過ぎていた。張騫は西域について多くの情報を持ち帰り歴史に名を残す。武帝は政策を転換し匈奴との融和をはかるために、甥の娘“細君”を妃として贈る。しかし、烏孫国王は既に老いており、“細君”を孫に娶わせる。彼女は漢への望郷の念耐え難く悲しみを「悲愁歌」に託す。その歌は
    ―< 居るとも郷土への思い常にありて  心の内は傷まし
          願わくば鴻鵠と成りて  故郷に帰らん >―  と結ばれている。
                             
   参考資料: 中国歴史の旅(上) 陳舜臣著  集英社文庫
   中国五千年(上) 陳舜臣著  平凡社
   李白  福原龍蔵著  講談社現代新書
   唐詩新撰  陳瞬臣著  新潮文庫          (6月中旬号 完)

124)初めての北京(紫禁城・円明園・頤和園)
 92年度は好業績で創業以来、初めて配当を出せた。恒例の3月末の社員旅行は褒美に遠方の北京とした。北京空港から市内へ真っ直ぐ伸びる広い道を観光バスはスピードを上げる。トラック、乗用車、オートバイが競い合い、道端を自転車、荷馬車、枯れ草を山と積んだ牛車がのんびりと行く。見渡す限り広大な畑をところどころ防風林が遮り、そのなかに日干しレンガを重ねた小さな民家が点在する。夕日に照らされた柳並木は黄緑に芽吹き、その下を農夫が家路を急ぐ。初めて見る北の大地の田園風景である。この道はその後、自動車専用のハイウエーに変わり趣が半減した。

 紀元前221年に秦の始皇帝が戦国七雄を統一するまで、北京地方は燕の国であった。蒙古高原の雄ジンギス・ハンの息子、第二代太宗が南宋を滅ぼして1279年に全土を統一し、その子第三代の世祖フビライ・ハンが国都をカラコルムからこの地に移し「大都」と名付け、国名を元とした。貧民から身を起こした漢民族の朱元璋が元を滅ぼし1368年に明朝を樹立。第三代の永楽帝が1421年に南京から北京に遷都する。爾来、北京は中国の国都である。その故に今も「燕京」と呼ばれる。

 翌朝、天安門広場に立つ。北の早春はまだ肌寒い。古来、中国の都市は城壁で囲い外側を外城、内側を内城という。その中に城壁に囲まれた皇城があり、さらに堀を巡らした皇帝の居城、紫禁城がある。古代中国では動くことのない星座を“紫微垣”と呼ぶ。紫は天帝の象徴で紫禁城とは「人民禁断の皇帝の城」を意味する。1911年辛亥革命で清朝が倒れると紫禁城は「故宮」(故(もと)の宮殿)と改称され、中国五千年の文物を集めた故宮博物院とした。日華事変が始まるとその損傷を危ぶんだ蒋介石は南京から重慶に大部分を避難させ最後に台北へと持ち込んだ。皇城の正門が五つのアーチからなる「天安門」。黄金の瑠璃瓦、ベンガラ色をした巨大な天安門の上から、1949年10月1日に毛沢東が中華人民共和国の成立を高らかに宣言した。それ以来、天安門は共産主義中国の象徴として幾度か政治の舞台になった。

 「天安門」をくぐると故宮(紫禁城)の正門「午門」に至る。水をたたえ楊がなびく堀が美しい。午門を入り大和門をくぐると大空間が広がる。皇帝を狙う刺客が潜める場所がないようにと一本の樹木さえない。油を染ませた土を焼いた中国式煉瓦を幾重にも重ねて床の厚さは数メートルにも及ぶという。万一、敵が地下壕を掘って侵入しても地上に出られない仕組みである。遥か前方に中国最大の木造建築「大和殿」が偉容を放つ。皇帝のみが昇段できる大和殿への階段は大理石。その中央には巨大な龍と雲が彫刻されている。それが一枚石と聞いて改めて眺め掌で撫でてみる。そして中和殿、保和殿と続く外朝三殿の屋根は中心を表す黄色の瓦、光を示す朱塗りの柱に赤土色の壁。この「外朝」は国家行事を行う場で、“朝廷”の由来である。

 その北が「内延」で建物が多く迷路のよう。皇帝が日常の政務をとり皇后や宮女が生活し宦官が暗躍した大奥である。左手の養心殿は西太后が“垂簾(すいれん)政治”を行った所。日常の営みが展示されている。二つの椅子に人形の太后が正装で坐している。一人が元皇后の東太后で、他方が元皇妃の西太后。右奥の承乾宮には皇帝と皇妃たちのロマンスが伝わる。その先に“珍妃の井戸”がある。歴史に名だたる清朝末の西太后は自らが皇帝に指名した甥の光緒帝と反目するところとなり、その挙句、妃の珍妃を投げ込んだ井戸である。内廷は清朝末期の怨念と悲劇を飲み込んで静かにたたずんでいる。

 紫禁城の後ろに鎮山の「景山」がある。ここからは雄大で威厳あふれる紫禁城の全貌を見渡せる。波うつ甍はいずれも皇帝色の黄金。伝説上の「黄帝」と始皇帝に始まる「皇帝」の発音はどちらも「ホァン・テイ」で皇帝色の由来に違いない。元の時代、敵に包囲された非常時の燃料用にと石炭を積み上げて作った人工の山といわれるが試掘した記録はなく、真偽のほどは定かでない。明末混乱の中、李自成が北京に乱入したとき祟禎(すうてい)帝自らが警鐘を乱打したが、はせ参じる者は無く帝は皇妃皇女を斬殺し、槐樹(えんじゅ)の老木で自縊したと伝えられる。その時期、長城の外でツングース系女真族が勃興し国境へせまってきた。山海関の守備に就いていた呉三桂は何故か関門を開いてしまう。この不可解な行動のうらには女性問題がからんでいたときく。戦国時代以来、2700年ほどもかけて営々と築いてきた万里の長城もただ一人の女性にも勝てない無用の長物であった。

 天安門広場の南に「毛主席記念堂」がある。長蛇の列を耐えて入場すると針が落ちても聞こえるほどに張り詰めた静寂。水晶の棺の中で毛沢東が永遠の眠りについている。広場の西に「人民大会堂」がある。日本の国会議事堂にあたる。テレビで見かける場所であるが、その空間の広さに目を見張った。一万人収容できるそうである。故宮の南に「天壇公園」がある。三層の傘型屋根は瑠璃瓦、円形の祈念殿が威容を放つ。ここで皇帝が五穀豊穣を天に祈願した。歴代皇帝の位牌を祀る皇穹宇(こうきゅうう)を囲む円形の土塀は回音壁と呼ばれる。仲間の一人が壁に口を寄せてささやいた声が反対側に立つ角さんの耳にはっきり聞こえてきた。しかし、10数年後に再度訪れた時には、壁に近づけないように柵が施されていた。内外からの観光客が増えたせいであろう。

 故宮の西にある「円明園」を訪れた。ギリシャの古代遺跡に来たのかと我が目を疑った。西洋建築の跡で、大理石の基底や瓦礫があたり一面に散乱している。ここは元々清朝皇族の夏の離宮であったが十八世紀になって乾隆帝が拡張をして宮殿や楼閣を有する西洋式離宮に造り替えた。しかし、1860年第二次アヘン戦争(アロー号事件)のさなかに英仏連合軍が乱入し略奪と破壊の限りをつくした。略奪の主役はフランス軍で、放火の主犯がイギリス軍であったようである。自分達の西欧宮殿を模されたことに立腹して「満人のお前達には100年早い」と蔑みと憎しみを込めて放火したのではなかろうか、と角さんは義憤を感じた。こうして今も円明園廃墟には雑草の中に崩れ落ちた大理石の石柱や彫刻の残骸が折り重なってころがっている。

 円明園の直ぐ西にある「頤和園(いわえん)」を訪れた。前面に大きな湖、背後に小山をひかえた黄金甍の建物群が眼前に広がる。頤和園(イーホーユエン)の起原は12世紀の金代にさかのぼるが、江南の風物を好む乾隆帝が寺院を改造して離宮にした。土を掘り広大な昆明湖を作り、その残土で万寿山を作ったといわれる。西太后が権力を手中にしたときには、円明園は既に廃墟で利用できない。彼女は自分の隠居所としてこの離宮の大改造を思いつき、頤和園と名付けた。東宮門を入ると謁見の間である仁寿殿、光緒帝を幽閉した玉蘭堂、西太后の寝室の楽寿堂などがある。邀月門(ようげつもん)から700m余りの長廊が始まる。長い廊下の天井や梁欄(りょうらん)には物語の人物や花鳥風月の絵が極彩色でびっしりと描かれている。その前方には石肪(せきぼう、石の舟)が水に浮かぶ。軍艦建造の予算を流用して清朝の衰退を早めたと悪名が残る頤和園であるが、清朝滅亡はすでに時間の問題であり、こうして今は外貨を呼び込む観光名所となったことを考えると、西太后に先見の明があったと脱帽せざるをえない。  (6月上旬号 完)

   参考資料:中国歴史の旅(上) 陳瞬臣著  集英社文庫
        JTBのポケットガイド (中国) 

123)ベストコールの新発売
 1992年のある日、一人の中国青年が会社を訪れた。武田薬品の抗生物質ベストコールを中国で販売させて欲しいとのこと。ベストコールは中国でブームとなっている第三世代のセファロスポリン系注射剤である。本社に問合せると
 「数年前に販売許可を取得して僅かに輸出したが、その後は実績がない。取引をしても良いが船積み業務以外の手助けは人的余裕が無くてできない。学術活動が必要ならば角さんが自身でして下さい」
との突き放した回答である。その男、李氏によれば、
 「日本商社の現地雇員として、或る日本メーカーの同類品を販売していたが辞職し、会社を設立して営業許可を取得した。これまでの取引先と販売員は自分の手中にあり、このルートにベストコールを乗せたい。但し、早くしないと部下が離散し組織が崩壊する」
中国人にしては英語が上手く能力のある男と見た。申し出の理由は大筋で理解できる。しかし、各論に及ぶと、
 「輸入価格はxx米ドル。支払はD/A180日(180日の約束手形)。充分な学術資料とパンフレットの提供。添付サンプルは10%。シンポジウムの開催と講師の派遣」
こと細かく要求は多い。本社が拒絶した点をそつなく全て網羅している。とても受けられる話ではない。

 本社から輸出価格の連絡が入るが、李氏の希望価格にはほど遠い。加えて角さんとしても武田IMCの社内改革と新製品の導入業務に忙しく、これ以上中国ビジネスに足を突っ込む時間的余裕はない。熟考に熟考を重ねて条件を提示した。
 「輸出価格はxx米ドル。支払はL/C at sight (銀行支払保証付きの即金払い)。学術資料は倉庫に眠る僅かの総合パンフレットのみ。サンプルの提供はしない。必要ならば輸入商品から貴社で捻出する事」
組織の崩壊を恐れ、結論を急ぐ李氏の足元を見た強気の回答である。

 早速、李氏が香港の事務所へ膝詰め談判にやって来た。
 「xxセントの値下げ、支払条件はL/C 30日、パンフレットの複製権は授与する。最初の製品説明だけは自分が貴社のMRに行う」
少しばかり譲歩して引き取ってもらった。支払条件の交渉など東京時代の輸出業務の経験が役立った。一週間後に「苦しいが全条件を受け入れる」と李氏から連絡が入った。

 余談になるが、先に紹介した大英帝国の「単純明快な戦略性のある指令」を知ってから、それを心がけるようになった。その後、李さんとは心を通わすビジネス・パートナーになるのだが、ある時、彼が「角さんの仕事の仕方は皇帝のようだ」と言った。骨格だけを単純明確に提示し、小事には言及せず、口も手も出さないことへの賞賛と嫌味の混ざった言葉であろう。大人(たいじん)の中国人から貰った言葉だけに悪い気はしなかった。

 初回注文量の多さに目を見張る。大阪本社に伝えると一桁間違いではないかとの質問が返って来た。よほど驚いたのであろう。お礼に拡張用に中国語パンフレットを作成して提供することにした。パンフレットは一般に次の手順で作られる。研究所の基礎実験と病院での治験データを整理して厚生省(現・厚生労働省)に販売の許可を申請する。ここまでが開発部門の業務。許可が下りると申請資料を基に学術部門が日本語の総合パンフレットを作成する。国際本部はそれを英語版にして各国に提供する。各国は自国言語に訳した総合パンフレットを作る。手元の中国語の総合パンフレットはこうして出来たものであるが、その在庫は少なく一般配布には部数が足りない。角さんが12頁の要約版中国語パンフレットの作成に取り掛かる。コピー機の拡大縮小機能を利用して様々なサイズのグラフ・図・説明文の切片を作り、レイアウトに工夫しながら各ページに貼り付ける。これが印刷業者に渡す原稿となる。
パンフレット中の重要な図やグラフを転用して投影機(OHP)用フイルムを作成する。それに研究所・工場・本社・製品の写真、さらに世界と日本の代表的製薬会社の売上高のグラフを加える。信頼できる品質とアジアで最大規模の製薬会社であることをアピールするためである。こうして講演で使用するOHPフイルムが出来上がる。

 準備を終えて海南島の海口市に飛んだ。取引関係締結への手土産に製品説明で使用するOHP機を持ってきたが、空港の税関で高額の関税を請求された。
 「明日の省立海南病院での説明会に使用するのが目的なので、そんな高額の関税は払えない。院長先生は政府高官の患者に使うこの製品の説明を待っている」
 実際に病院長を表敬訪問の予定であるが、病院での製品説明会はとっさのハッタリである。役人は軍部と高官に弱い。それに交渉では勢いが大切で、気おくれしてはこちらの負けとなる。熱意が通じたのか勢いに気押されたのか、しぶしぶ無税で通関が許される。こんな時、常識的には書類を作成し出国時に持ち出すことを義務付けるのだが、無知なのか無責任なのか、その点はいい加減である。

 南海の孤島と思いきや事務所兼住宅の高層ビルがあちこちに建ち始めている。李氏の「先鋒医薬公司」は高層ビルの一室にある。代理店契約を締結し、集まったMRに製品説明をして新しいビジネスが始まった。92年、駐在3年目の夏であった。海南島は九州よりやや小さな中国最南端の島。トンキン湾を隔ててベトナムと向き合う中国で5番目の経済特区として機能し始めている。島の北端に省都の海口市があり、宋代に文人蘇東披が左遷され行政官として3年間滞在した。蘇東披については杭州の旅で紹介する機会があると思う。また第65話で紹介した宋三姉妹は海南島の出身と聞いた。島の南端には美しい海岸の三亜市がある。ハワイと同じ緯度にあり将来はアジアのハワイを目指している。鑑真が五回目の日本渡航に失敗して漂着したのはこの近くらしい。

 天安門事件の傷が癒え中国の改革・開放が始まると、バスに乗り遅れまいと日本企業の中国進出熱が高まる。大連を中心とする旧満州と広州を中心とする珠江デルタが工場進出の二大中心地である。武田薬品も例外ではない。中国に製剤工場を設立する案が徐々に現実味を帯びてくる。色々な職責の人たちが入れ代わり立ち代わり香港から北京へ、北京から香港へと視察に訪れる。ある時、来港の武田部長が雑談の合間に言った。
 「こんな喧騒の町によくも長年おれるなあ。俺など一ヶ月ももたないよ」
 氏独特の表現“武田節”である。間接的ながら好意的評価の言葉と受け止めた。
 「台湾、フィリッピン、香港と今日まで14年間の島流しですよ」
 嫌みったらしく角さんが応えると、
 「そんなら広い中国大陸に行くかい?」
ときた。      (5月下旬号   完)

122)ゴルフ会員権が湖底に沈んだ話
 単身生活を健やかに過ごすのに、週末のゴルフは欠かせない。名門のロイヤル香港ゴルフ・クラブは順番待ちで、入会にはこの先10年以上かかるとのこと。香港にはもう一つランタオ島にあるが会員権は決して安くない。仕方なくフェリーで国境を越えて珠海まででかけた。一年近く経った頃、深圳の郊外に開設するゴルフ場の会員誘致を受けた。中国で3番目のゴルフ場で外国人を対象にしている。湖畔にあってゆくゆくはロッジの併設も計画されている。
 (フィリピンではプール会員権の詐欺に遭った。再び失敗をしてはいけない)
との思いから慎重に調査すれば、日本との合弁で安全度が高いとのこと。健康には替えられないと、妻から300万円を送金してもらい契約した。

 無事完成して週末の楽しみとなる。朝6時に香港を出発し3時間余りのシャトルバスの旅。日本人の他に香港人、台湾人、韓国人、欧米人が同乗し、週ごとに知人が増える。車中で声を掛けて今日のメンバーに入れてもらう。香港と深圳の間の国境では毎回、バスを降りてゴルフバッグを担ぎ長蛇の列の末尾に並んで、出入国のパスポート検査を受ける。経済特区の深圳を通過して郊外に出るには、さらに特別審査が必要となる。趣味とは言え難儀な事このうえない。毎週一往復で4個のスタンプを押される訳で、この為の特別サブノートが付与されるが、それでも足りず6年半の駐在期間中に5回もパスポートを更新した。

 フェアー・ウェイは広く長くキャデーは若い娘さん。例によって角さんは彼女たちを相手に中国語の会話に余念がない。その日のメンバーと情報交換も楽しみである。ヤオハン社員から新装開店の盛況を聞いたり、台湾の単身赴任者からは軽工業の移転話を教えてもらい、現地妻の献身的サービスの話に興奮する。韓国はベトナムの市場開拓に力を入れていると知る。曰く
 「アジアの他の国々では日本が既に市場を席巻しているので、ベトナムだけは是が非でも確保し死守したい」
その意気込みたるや凄まじい。

 ゴルフ場の辺りには茘枝(れいし)の畑が多い。4月になればスモモ大の甘い実がたわわに実る。手を伸ばしたくなるが李下に冠をたださずと、帰路の通関時に露天商から籠一杯の茘枝を買う。楊貴妃は茘枝が大好物で、この南嶺の地より長安の都まで早馬で運ばせた話は広く知られている。 “もうすぐ来る”ことを中国語で“馬上来(マアサンライ)”と繁用する。料理店で注文品が出てこないので「まだか?」と問えば、「馬上来」との答えが返ってくる。正にソバ屋の出前である。この“馬上来”とは、楊貴妃が春になって茘枝の到着を待ちわびて、
 「茘枝はまだ来ないの?」と宦官の侍従に問えば、
 「馬上来!」(只今、早馬で来つつあります)と応えたことに由来する。

 2年ほど経った頃、湖水の水位が急に上昇しフェアー・ウェイの一部が冠水した。深圳市の人口が急増し水瓶を大きくしたためにフェアー・ウェイを侵食したとの説明である。文字通り浸食である。現実の結果としては、深圳市から狭い土地を高く買わされたに等しい。中国式取引の妙味を学習した。さらにロッジ併設の計画が潰れる。
 「ロッジから排泄される汚物が飲料水源を汚染するゆえに市役所の許可が降りない。浄化槽を建設する資金は会社にない」
とのゴルフ場支配人の説明となる。割りを食ったのは我々ゴルフ場の会員である。

 これには続きがある。香港駐在を終えて帰国準備に忙しいある日、香港の有力新聞に事件は報道された。6年前にゴルフ会員権を発売した当時の売買益に対する税金が未納で、深圳当局は再三警告をしたが納税がないので、ついに差押さえの挙に出たとの内容である。当時は三顧の礼でゴルフ場を日本から誘致した筈なのに、である。 間髪を入れず2週間後には競売に掛けるとの報道。後ろ髪を引かれる思いで角さんは帰国した。その後は香港の友人から情報の入手に努める。結局、中国の大手旅行会社が落札し会員権は失効となり
 「不満者は落札会社と個別に交渉するように」
との発表。香港在住の欧米系の会員は欧米商工会議所から、韓国系の会員は韓国大使館を通して抗議をするが、日本大使館は民事には関与せずとの原則を堅持して側面支援はない。日本グループの執拗な抗議に対して、
 「旧会員には新規募集金額の半額割引の優待を与える」
との最後通告で一方的に交渉打切りとなる。こうして時価400万円の会員権が湖底に沈んで行った。 一連の動きを振返る時、その戦略性と決断力と一気呵成の行動力には眼を見張るものがある。中国商人の凄さを改めて思い知らされた。   (5月中旬号 完)

121)ピロリ菌退治と桂林霊渠の風景
 1993年に消化器潰瘍治療薬のタケプロンを香港で新発売した。画期的新薬には発見物語がある。胃潰瘍や十二指腸潰瘍は強い酸度の胃液が胃や十二指腸の粘膜を損傷して起こると長年考えられてきた。だから胃液を中和するか、或いは胃液の分泌を弱めるのが治療の基本である。重ソー(重炭酸ソーダ)が胃液中和薬として長年使われてきたが欠点は少なくない。近年、胃液分泌抑制薬(タガメットやガスターなど)が開発されて胃潰瘍や十二指腸潰瘍の治療が外科手術から内科的な薬物療法に変わった。この為に腹部外科医の商売が上がったりと揶揄されたほどの治療効果である。それでも胃酸の分泌を弱める程度で完全抑止ではない。タケプロンは新しい理論に基づく胃酸分泌の抑制薬でその作用は従来品より強い。

 胃液は強酸なので胃の中で細菌は生存し得ないと考えられていたが、1982年にオーストラリアのマーシャル教授が胃中から未知の細菌を発見した。ヘリコバクター・ピロリ菌である。この菌は自分でアンモニアを生成分泌し胃酸を中和して身を守る。ところがこのアンモニアが胃や十二指腸の粘膜を傷め胃炎や胃潰瘍を引き起こす。マーシャル教授は自らピロリ菌を飲んで、自説の正しさを実証した。このドラマチックな情報は旧英領の豪州から宗主の英国を経由して、いち早く英領香港に紹介された。因みに、マーシャル教授はこの研究で共同研究者のウオレン博士と共に2005年のノーベル医学生理学賞を受賞している。

 本来、タケプロンは胃酸分泌抑止薬として開発されたのであるが、或る2種類の抗生物質を同時に服用すると、胃中のピロリ菌を死滅できることが明らかになってきた。3種混合による“ピロリ除菌療法”である。こうして香港が英米と並び、ピロリ菌駆除による慢性胃炎や胃・十二指腸潰瘍の治療で先進国となった。この分野で世界的権威の香港大学医学部のラム教授にタケプロンによるピロリ除菌の治験を依頼するようにと本社から指令が届く。ところが全く面識がないのだから電話一本でアポイントは取れない。香港大学病院に足を運ぶが多忙な教授にはなかなか会えない。三顧の礼ならず数回も訪問し面接がかない、やっと治験の計画書(プロトコール)を作成するまでこぎつける。研究協力費は驚くほど高額。これこそが正真正銘のグローバル・スタンダードである。マニラでトパッシー先生とパンスポリンの治験協議をした時の困難を思い起こした。

 95年であったろうか、この縁でラム教授に角さん自身がピロリ除菌療法を受けて成功した。それまでは毎年春先に発症していた胃痛は治まり胃弱の角さんでなくなった。医学界の研究はさらに進み、昨今ではこのピロリ菌が胃癌の原因の一つと言われている。米国のトップ級専門医を招き香港で“ヒロリ菌の除菌療法”のシンポジウムを開催した。二つの世界的新薬、タケプロンとリュープリンのシンポジウムを開催したことで、武田IMC社は医療用医薬品の会社として名実ともに認知され知名度が向上した。

 前述の通り駐在3年目の92年度には20%の配当の見通しとなり、社員の努力に報いて93年3月末の社員旅行は「桂林」と決まった。桂林については前述したので詳しくは省略するが、この時には500メートルに及ぶ巨大な鍾乳洞、蘆笛岩を見物した。赤、黄、緑の光がつくりだす鍾乳石の幻想的世界に魅了された。もう一つ強く印象に残った場所がある。桂林市内から二時間近くバスに揺られて寒村に着いた。昼食となったがその質量ともにお粗末なことはなはだしい。聞けば今流行りの“郷鎮企業”で、観光の村興しに奮闘中。何分貧しい山間部で、朝夕一日二回だけの食事習慣とのこと。悲なしいかな飽食香港人の腹を満たすに必要な昼食の分量など判るはずもない。つつましい昼食を終えて農業用水路を小舟で遊覧する。さながら柳川の水郷めぐりであるが、こちらの方が水は豊富で澄みきって田園の趣がある。気ぜわしい喧騒の香港からの旅人たちを癒してくれる。

 やがて視野が開けて水量が豊かな広い川の瀬に出た。ズボンの裾をまくり冷たい水に足を浸し暫らくは童心に帰る。“霊渠(レイキョ)”という名の世界最古の運河で、秦の始皇帝の命を受けて紀元前223から前214年にかけて、長江上流の湘江と珠江上流の灕江を繋ぐ工事をしたとのこと。民家の一部に発掘された2200年前の遺品が展示されていた。やはり中国の歴史は古く規模は大きい。8世紀の半ば唐僧鑑真が珠江から桂林を経由して長江に入るコースで揚州へ帰える計画をしたのは、恐らくこの“霊渠(レイキョ)”を利用するつもりだったろうと、悠久の歴史をしのんだ。蛇足だが、五世紀初頭に僧法顕は西域を通って天竺(インド)へ行ったが、帰りは海路で東南アジアを経由して広州を目指したと考えられている。中国と西方とは陸のシルクロード以外にも、海上の道でつながっていたのであろう。水上の道はいま我々が考えるよりも古くから遥かに発達していたのではあるまいか。

 その後、96年5月には仕事で3回目の桂林訪問をした。この時には冠岩を観光しトロッコに乗り鍾乳洞の中を小舟で遊覧した。しかし、残念なことに、この時もキンモクセイの香りが市中を満たす10月を外れていた。桂林から列車で南の「南寧」に行った。高原を下りゆく風景を車窓から飽きずに眺めていた。南寧は広西チワン族自治区の首都で、もう少し列車に乗り続ければベトナムのハノイに行き着けるところにある。

  参考図書:『中国歴史の旅(下)』  陳舜臣著  集英社文庫  (5月上旬号 完)

120)武田IMCの再生と苦難
 武田IMC社は古い歴史をもつが10年余り前に改組した。現在のパートナーのツァオ氏は中国が共産化したとき上海から逃れてきて、香港で有数の海運会社を育て上げた経営者。大資産家でありクイーンズ・イングリッシュを操る教養人でもある。株主になってから無配が続いているが不満もいわず武田側に経営を任している。

 会社の業績は角さんが赴任した翌年に僅かながら単年度黒字になり、2年目は大幅な黒字で過去の累積債務を埋めてブレーク・イーブンとなり、3年目(1993年)に配当できる見通しとなった。会計担当者は
 「永年勤めてきたが、これまで赤字続きで配当も納税もした経験がないので、利益処分の決算報告書の書き方が分らない」
と言い出し本社に問合せる大恥をかいた。6月の株式総会で
 「ピーナッツにも等しい僅かばかりですが、初めての配当です」
と、武田側を代表してツァオ氏に報告したら、
 「会社経営は金額の大小よりも配当の有無が重要です。良くやりましたね」
と笑顔が返ってきた。会社を預かる者として正直嬉しかった。翌年の4年目には50%、5年目には100%の配当をして会社としては一応格好がついた。

 武田薬品は4大国際戦略製品が伸長しここ数年好業績を続けているが、93年当時香港では、その一つのリュープリンの上市を終えて、他の3品目の登録申請に向けて準備中であった。これら4大製品を梃子に香港域内で自立するのが将来のあるべき姿であり、角さんに課せられた任務である。その意味では配当ができたとはいえ、中国向け輸出の販売口銭で稼ぐ経営形態は決して満足できるものではなく、これからが構造改革の正念場である。偶々、新聞の一面広告で見つけた蛹(さなぎ)が蝶に脱皮する瞬間の写真をカラーコピーし“脱皮(Ecdysis)”と大書して壁に貼り、社員の意識改革を促した。

 本社の国際本部には海外子会社の管理部門と提携会社への輸出部門がある。武田IMC社は子会社管理部門の傘下にあるが、一方で中国向け輸出を支援して販売口銭を得ており輸出部門とも関係が深い。つまり角さんには二人の上司がいる。この関係で多少の気苦労もあった。最早時効なので思い出話として一部をご披露する。10年余り前にツァオ氏と交わした契約書の中に“中国への独占的入口”(exclusive gateway to China)の文言がある。契約当時は香港以外には中国へのアクセス・ルートはなく、上海出身のツァオ氏の華人ネットワークに期待したのであろうが、結果が得られないままに情勢が変化した。そして93年頃になると武田IMC社ではなく、北京事務所を通して天津の会社と業務を提携し輸出金額も漸次増加している。北京や天津での活動概要については折に触れてツァオ氏に報告してきたが、事と次第によっては契約違反として異議が出ないともかぎらない。

 このような状況下で武田IMC社が高配当を続けると企業価値が上がり、もし、武田がツァオ氏の持株を買取る場合には高額となる。中国ビジネスが大きくなればなるほどそのリスクは大きくなる。多少の犠牲を払っても今の内に株式を買取り、武田の100%の完全子会社にしたいのが子会社管理部門の本音であろう。角さんの活躍は彼らにとっては痛し痒しである。
 「ツァオ氏との提携を今の内に解消できないか」
と、内密の打診があるが軽率に動く訳にもいかない。
 「会社設立以来、永年無配であった。今すぐ提携を解消すれば経営者としてのツァオ氏の面子がなく、問題を複雑かつ大きくする。ツァオ氏は大経営者である。契約解消の金額の大小よりも、面子を尊重するほうが大切である。暫らくは辛抱し配当を続けチャンスを探る方が賢明である」
拙速な行動に角さんが反対意見を呈したのは1994年であったかと思う。

 着任して直ぐに申請した前立腺癌治療薬リュープリンの販売許可が91年におりた。主成分を無数の極小カプセルに充填し注射器で筋肉内に注射する。体内で微細カプセルから主成分が徐々に放出されて効果を発揮する。武田薬品が世界に誇る製剤技術で可能となった治療法である。当初は毎日の注射が必要であったが、カプセルの皮膜の溶解速度を調節して一週間に一度、さらに一ヶ月に一度注射するだけで効果が持続する治療法を確立した。さらに92年には子宮内膜症の効能追加の許可も取得した。米国から高名なM教授を招聘し、子宮内膜症の顕微鏡下手術(マイクロ・サージェリー)のテレビ・モニター・ショーを専門医を対象に実施して注目をあつめた。まさに武田IMC社の香港医学会デビューの日であった。  (4月下旬号   完)

119)鄧小平と客家
 中国の実質的指導者、鄧小平(デン・シヤオビン)は発音が同じ“小瓶”と渾名されるが、生涯3回の失脚を乗り越えたことから“不倒翁”とも呼ばれる。日本的には「起き上がり小法師」である。彼は「白猫でも黒猫でもネズミを捕るのが良い猫だ」の“白猫黒猫論”を唱えた実利者としても知られる。さらに84年2月に華南地区を視察したさい、経済特区を技術・管理・知識の三つの輸入窓口と位置づけ
 「全国的にそうする状況にはないが、一部の地方を先に豊かにすることは可能であり、認容すべきである」と正当化した。
そして92年の春節(旧暦の正月)には再度、上海から深圳、珠海を視察して
 「一層の改革・開放を進めよ」と政府や人民を鼓舞した。
世にいう「南巡講話」である。この時の“先富論”がマスコミで大々的に取り上げられた。共産主義は皆が平等を旨とし貧富の差は許されない。しかし 
 「金持ちになるのに多少の順番があっても良い」と言えば
 「今日は隣人が金持になったが、明日は自分にチャンスが巡ってくる」となる。
人民に夢を与え働く意欲を持たせ、同時に金持ちを是認する見事な戦略的詭弁である。10月の党大会で社会主義市場経済路線が確定し、計画か市場かのイデオロギー論争が終結する。こうして中国の改革開放政策は広東省から中国沿岸部へ広がり、その後揚子江を中流へと遡上する。「経済特区策」に継ぐ「T字型戦略」が始まる。 

 鄧小平が客家であるところから、俄かに客家(或いは客家人)がマスコミで脚光を浴びる。客家とは客家語を話す人たちであるが、一体どのような歴史と特性をもつ人たちであろうか。角さんは台湾駐在時代に客家に興味を覚え多少の知識を蓄えた。さらに91年末に発売されたばかりの『客家、中国の内なる異邦人』(講談社現代新書、高木桂蔵著)を読んだ。それらを参考にして客家を紹介する。

 客家語は中国5大方言の一つで、客家をハッカと発音する。北京語ではクーチャーである。「一、二、三、・・・、十」を客家語で数えると、その発音は北京語と広東語の中間的で日本語音にも近い。古い中原語といわれる。“主人”にたいしての“客人”であり土着の人ではない。彼らはもともと中原の人であったが戦乱などを避けて南下し、そこから更に西進と渡海があった。南下には史上4回の大きな波があったと考えられている。最初は秦の時代に南方へ派遣された防人が始皇帝の死後そこに留まった。次の南下は五胡十六国時代に戦火を逃れ、第3回目が唐末の黄巣の乱などで、第4回目の南下は南宋末期にモンゴルが侵入した時である。こうして江西、広東・広西・福建省などに住み着き客家と呼ばれるようになる。後からきた移入者であるがゆえに、彼らは山間部の痩せた土地を耕し懸命に働いた。明末から清初にかけて、戦乱により過疎となった四川省に広東や福建から入植した。鄧小平はその一族の末裔である。清朝の中期に広東省で人口が増加し、一部の客家は農地を求めて海を渡った。台湾の客家がこれで台湾人口の15パーセントを占めるといわれる。

 1935年大長征(国民党からの敗退)を終えて延安に到着した中国共産党員は僅か2000人足らずに減っていた。その彼らが後に共産党の中心になるのだが、その五分の一が朱徳、葉剣英、廖承志、賀竜、鄧小平などの客家人である。天安門事件の原因となった胡耀邦と趙紫陽は鄧小平が育てた人材であるにも関わらず失脚した。状況判断を誤ったのが主因であるが、客家で無いゆえに鄧小平もかばい切れなかったのであろう。その後を継いで首相になった李鵬は鄧小平の忠僕であり同時に客家である。朱徳は八路軍の総司令官で、葉剣英は広東省梅県出身の参謀長。その子葉選平は90年代初頭、広東省長として北京の意向を無視して半独立国のように突っ走る。鄧小平の「南巡講話」はそれを認知し更なる改革開放を加速した。

 三大華人国家地域(中国・台湾・シンガポール)の中心人物の鄧小平、李登輝総統、ゴーチョクトン(呉作棟)首相はいずれも客家である。シンガポール建国の父リークアンユー(李光耀)も客家であり、フィリッピンのラモスとアキノの両元大統領にも客家の血が流れている。一方、広東省長の葉選平、インドネシアのスドノ・サリム(林紹良)、バンコク銀行グループの陳ファミリーは東南アジア経済を動かす客家トライアングルで、華僑とりわけ客家ネットワークの頂点をなす。歴史上に知られた客家も多い。南宋末期の愛国志士の文天祥、陽明学の王陽明、朱子学の朱子、太平天国を起こした洪秀全、辛亥革命の孫文、夫人の宋慶齢、蒋介石夫人の宋美齢、タイガーオイルで財を成した胡文虎。米国籍の陳香梅は華人ネットワークを活用してニクソン訪中を実現させ米中国交の途を開いた。

 万里の波濤を越えて南洋に赴いた客家羅芳伯の足跡を追えば華人、特に客家の生き様が見えてくる。18世紀末、34歳の彼は妻子を残し広東省の梅県(梅州)を後にしてゴールドラッシュに湧く西ボルネオを目指した。梅県は客家“父祖の地”として知られている。余談ながら1997年5月角さんは梅県を訪れた。それについては後の機会に譲る。海外にでた中国人は「白手起業」(裸一貫で身を起こし)、「落地生根」(その土地で働き骨を埋める)しか生きる道はない。生国の保護も法律もない異国の社会で団結し相互扶助の「公司」を組織する。羅芳伯は「蘭芳公司」を設立する。スルタン(部族王)の争いを仲介和解させ一躍名を成し頭角を現す。スルタンへの推挙を断り「大唐総長」(大統領)と名乗り公司を改組し独立国“蘭芳”を設立する。米国に10年先立つ1777年、世界最初の共和制国家である。オランダのインドネシア進出により属国となり107年続いた客家の蘭芳共和国は消滅する。清朝が倒れ時代の荒波の中で組織の一部はスマトラからクアラルンプールに亡命する。その客家一族からリーカンユー(李光耀)が出て1965年にマレーシアより分離独立してシンガポールを建国する。客家人を中核とする第二の「蘭芳公司」である。見事な“国取り物語”であり、その国花“蘭の花”の所以でもある。

 客家は定住地を持たないところから“東洋のユダヤ人”と言われる。永い放浪の旅の中でもその文化と言語を堅守し、ついにはシンガポールを建国した。奇しくもイスラエル建国とほぼ同時期である。ユダヤ人を支えたのがユダヤ教ならば、客家の支柱はその強い精神性であろう。自身が客家である胡文虎はそれを刻苦耐労、剛健弘毅、創業勤勉、団結奮闘の四つの精神性に要約している。また、高木桂蔵氏は著書の中で「中華民族は一般に保守的であるが、客家人は例外的存在である。彼らは革命的であり、進取の気分にあふれている。豪柔双方の特色を持つが、剛毅慈愛であるとともに凶暴的精神を持つ民族である」との英国の研究家エイテルの見解を紹介している。

 一般に華僑は経済に関心が高く現地の政治に介入することが少ないが、客家人は政治指向が強い。そして一般華僑が製造業よりも流通・仲介・飲食業に就くのに反し、客家人は警官・軍人・政治家・会計士・教師・土木建築の傾向が強い。「軍人か革命家になれば成功する」「経書を読まないならば、目が見えても仕方がない」との客家の諺がそれを物語る。血縁・地縁を重視し、信義を重んじ仲間を裏切らない。漢民族本流としての強いナショナリズム、文化・伝統保持への自信、教育の重視、女性の勤勉性も大きな特徴の一つである。彼女たちは働くためと移動に不都合との理由で南宋時代から連綿と続く中国の悪習、纏足に染まらなかった。

 客家は“醸豆腐”を大切にする。薄く切った豆腐の中に肉片を詰めて濃い味に煮込んだ家庭料理の一種である。元々、北方華人は春節(正月)を餃子で祝うが、南方に移住した彼らは小麦粉を入手できず、餃子の代用品として醸豆腐を考案した。客家が北方から移り住んだ頃の名残である。“二次埋葬”は今でも客家に残っている。普通の中国人は納棺土葬であるが、彼らは死後4、5年で掘り出し白骨化した遺骨を丁寧に椿油で清め、陶甕に収め風水に従い埋蔵する。中国では北方が嫁取り婚、南方が婿取り婚といわれるが、客家の基本は“嫁取り婚”である。伴侶を亡くし再婚するならば男性は49日以内に結婚し、女性は葬儀の日に亡き夫と一緒に墓地へ行ってはいけないと、台湾で聞いた。再婚のルールがあることは再婚を認めている訳で、実践的で有り難い風習かもしれない。外敵から身を守るための集合住宅「囲屋(ウェイウー)」は古い時代の中国建築様式を客家のみが現在に至るまで受け継いでいる。福建省の山間部には客家の環状集合住宅「円楼(ユアンロウ)」が今も残っている。  
    
   参考図書:『客家、中国の内なる異邦人』(講談社現代新書、高木桂蔵著)     (4月中旬号   完)

118)香港の盛衰と返還問題
 1997年7月1日に香港は中国に返還される。この“借りものの時間と場所”はいつどのようにして始まったのであろうか。アヘン戦争で勝利した英国が“99年の香港租借権”を奪取したとお思いの方が少なくないが、厳密には正しくない。歴史をひもといて見る。14世紀初頭にマルコ・ポーロが書いた『東方見聞録』は西洋人の眼を東洋に向けさせた。それが1492年コロンブスのアメリカ大陸到達を誘い、西洋列強の東洋進出競争が始まる。ポルトガルは1513年にマカオに進出し、英国は1600年に東インド会社を設立し、そこを拠点に中国大陸へ触手を伸ばすことになる。

 18世紀の産業革命で豊かになった英国は中国から茶葉を大量に輸入するが、それを上回るインド産のアヘンを中国に輸出する。輸出入の不均衡により大量の銀が中国から流出する一方、中国内にアヘン吸引者が蔓延する。1838年、欽差大臣(特命大臣)として広州に着任した林則徐はアヘン禁止令を発し、イギリス商人から没収した大量のアヘンを人工池に破棄する。これに生石灰(酸化カルシウム、CaO)を投げ込むと化学反応で大沸騰の煙霧が発生する。けっして火をつけて焼却したわけではない。報復すべく英国は東洋艦隊を香港から出港させ、上海から長江を遡航して南京へ迫る。アヘン戦争に幕をひいたのが1842年8月の“南京条約”である。「香港島の割譲、五港(広州・厦門・福州・寧波・上海)の開港、賠償金の支払」などからなる一方的な要求を清朝に突きつける。これぞ歴史に残る不平等条約の第一号。戦争責任を負って林則徐は都から遥か遠い新疆に左遷される。宮仕えの厳しさである。

 膨大な賠償金の支払いで農民は重税にあえぎ、漢民族による天下を目指して太平天国の乱が始まる。その混乱に乗じて英国はアロー号での国旗屈辱、フランスは宣教師殺害事件を口実に清国に戦争をしかける。第二次アヘン戦争に勝利した英国は“北京条約”を締結し九龍半島を割譲させる。光緒帝(こうしょてい)が11代皇帝となり西太后が摂政についたのが75年。朝鮮の改革をめぐる日清戦争で清国が弱体ぶりを露呈すると、英国は「新界と周辺の島々の99年間租借権」を清国にせまる。1898年6月のことである。こうして“借り物の時間”が1997年の6月末日まで続く。お判りの通り99年間の租借は新界地区のみである。香港島と九龍半島は南京条約と北京条約によって中国から英国に永久割譲されたもので、返さなくてもよい区域である。
              
 余談になるが1862年、偶々上海に滞在していた高杉晋作は太平天国の乱や一連の中国の混乱を見聞し近代化の緊急性を痛感して帰国する。日本にとり他国の歴史に学んだ幸運な偶然といわねばならない。また、アヘン戦争勃発の頃、英国は中国大陸への橋頭堡を築く目的で「北京から遥か遠方、人里離れた漁村、深い港湾」の3条件を満たす良港を探すよう艦隊司令長官に指示をだす。探し当てたのが香港であった。このことを本で知ったとき、長たる者このように単純明快で戦略性のある命令を発したいものと、鳥肌立つ思いで興奮した。
 
 1982年9月サッチャー英国首相が鄧小平との会談を終えて、中国人民大会堂を出るとき石の階段でつまずいた、という逸話がある。“鉄の女”サッチャーがフォークランド紛争に勝利し、余勢をかつて鄧小平との香港返還交渉に臨んだ。この時点では条約に従い香港と九龍は返還しない決意であったが、鄧小平の軍事的非常手段も辞さないとの恫喝にも似た強固な交渉に屈したようである(深田祐介著書)。92年になると最後の総督にパッテン氏が就任し、実務面での本格的な返還交渉が開始される。角さんの駐在とほぼ同じ期間である。中英間で展開される虚々実々の交渉術を新聞紙上で楽しみ学習させてもらった。

 英国の植民地政策の根幹は中国人エリートを育成し彼らに実務を任すレッセフェール(自由放任主義)であり開明的であった。中国革命の父、孫文は1887年に開設された西医学院で西洋医学を学んだ。この学院は1911年に香港大学に編入されて医学部となる。太平洋戦争中に3年8カ月の間、日本が統治する一時期があったが、戦後英国領に戻ってからは国共内戦や中国の共産主義化で大陸を逃れて来た人たちが経済の底辺を支えた。そして、朝鮮戦争が勃発すると米国と国連軍が中国大陸への禁輸政策を採り経済活動が停滞する。このような中で豆電球やゴム草履などの手工業的雑貨品の製造が始まった。その一つ、ホンコン・フラワーのビジネスが大輪の花を咲かす。66年に文化大革命が始まると反英暴動が起り工場のストライキが頻発し香港の地価が暴落する。その土地を買占め巨万の富を築いたのが李嘉誠たちの香港富豪であり、香港ドリームの謂れである。

 こうして香港に加工製造業が根付いて行く。武田IMCの倉庫がある高層工業ビルは印刷業などの軽工業で占められている。上半身裸の男やTシャツ一枚の小母さんたちが短パンツで汗と油にまみれて機械音の中で働いている。工場とは平屋建てか低層建築との日本の常識は香港では通じない。その軽工業も80年代に入り中国の改革・開放が進むと、安い労働力を求めて広州一円に製造拠点を移し、香港製造業の空洞化が始まる。こうして珠江デルタでは山を削り池を埋め高速道路が建設される。昨日の田畑は今日は工場の敷地に変わる。ゴルフをしていると遠くでドカーン、ドカーンと発破の炸裂音が聞こえてくる。山を崩しているのであろう。深圳郊外にあるゴルフ場への沿道の景観が日一日と変わりゆくさまを、週末のバスから眺める。

 ある日の夕暮れ時、乗り合いのミニバスに揺られて珠海から広州へ向った。午後10時を過ぎ広州に近づいた時、沿道に並ぶ工場が豆電球のイルミネーションで不夜城のごとく光り輝いている。これが共産国家かと我が目を疑ったが、これこそ香港から移転した工場で製造された幾十万個の豆電球の光であった。香港経済は軽工業が衰退しサービス業の色彩を強める。アジア最大の貿易センター、海運センター、そして金融センターへと変貌を遂げて行く。

 日経平均株価が最高値をつけたのが89年の12月29日で、角さんが香港に着任したのが翌年の3月。日本の人々がバブルの崩壊を実感するのはその3、4年後である。それまでは、日本の都道府県庁や都市銀行、地方銀行、大小の証券会社などの官公庁や金融機関が積極的に香港へ進出した。武田子会社の存在を知った大手銀行がしばしば小さな事務所を訪れては取引を求め、M&Aや投資への融資を申しでた。それに対し、 「借入金で新たな投資をして成功するには、多大なエネルギーが必要。自分にはそんな時間も能力も興味もない。海外での営業経験は多少あるので営業活動にエネルギーを集中したい」
と角さんは決まって応えた。財務を中心にした経営やM&Aによる規模の拡大を否定するものではないが、地道なマーケティング活動こそ経営立て直しの王道と心底思っていた。

   参考資料:激震東洋事情  深田祐介著 文春文庫
        中国歴史の旅(下) 陳瞬臣 集英社文庫      (4月上旬号 完)

117)母・研太郎と汕頭・厦門
 駐在生活が1年過ぎた1991年の2月初めに母が亡くなった。振り返れば1980年2月、マニラから極寒の日本に帰って、間もなく小さな脳卒中(ストローク)で倒れた。リハビリの甲斐あって杖を突いて歩くまで回復していたが、次第に部屋に閉じこもりがちになり、ベッドから天井を見るだけの歳月となった。たまに帰省して見舞うと、じっと見つめ暫らくたってから、にっこりと笑い、
 「興三さんか?」
と言う状態になった。いわゆる認知症ではなかったが、年に一度もない見舞いだから、呼び名も戦死した長兄の哲っちゃんに変わり、最後の一、二年は反応も乏しくなった。見舞ったとき充分時間をかけて呼びかけ手足をさすっていれば、記憶がゆっくりと戻り興三さんと分ったのかも知れない、と老人の鈍い反応を知るようになって気が付いた。
 「お盆までもつだろうか」
 「この冬は越せないだろう」
と案じることも一再ではなかったが、兄夫婦の世話で痛いとも痒いとも言わず、静かに天井を眺めて時間が流れたようである。

 4月上旬、社員旅行で汕頭(スワトウ)、潮州、厦門(アモイ)を訪れた。香港から海岸線を北上し広東省第二の都市「汕頭」に到着する。初めての飛行機旅行で社員達は興奮している。良港を持ち早い時期から西洋と通じたためかスワトウ刺繍で知られた街である。ユーカリの並木をバスで一時間内陸に走ると「潮州」がある。秦代以来の古い町で唐代に創建の古刹、開元寺を訪れた。唐の開元時代に創建の寺で、その後ほかの都市でもこの名の寺に出くわした。それもそのはず奈良時代の国分寺の元祖であると、後年何かの本で読んだ気がする。“食は広州にあり”といわれるが、潮州料理は広東料理の一派で味は薄口で油気は少なく日本人の口に良く合う。魚、蝦、蟹、フカひれ、燕の巣などの海鮮を食材に使うので総じて高価。この辺りは福建省と並ぶ華僑の故郷でタイ経済を動かしているのは潮州華僑である。

 翌日は「厦門」に飛んだ。ここは経済特区の開放実験区である。シンガポールを本拠にゴム園で巨万の富を築いた華僑の陳嘉庚を生んだ土地。彼は巨万の富を祖国の教育に捧げた。その一つ厦門大学を訪れた。木々と芝生の緑の中に大きな学舎があった。愛国者の彼はそれを寄付し今では国立大学に昇格していると聞く。南普陀寺、コロンス島、鄭成功の大立像などご紹介したい名所旧跡は多いが、数年後に仕事で再度訪問の機会があったので、その時の紀行文に譲る。船中泊をして早朝、香港に帰着した。軽装であったので夜間、船中の冷房で体の芯まで冷え込んでカゼを引いてしまった。

 この年は香港での生活に慣れ、中国ビジネスも軌道に乗り始めた。長男研太郎が入院したとの連絡を受けたのは、翌年92年2月下旬の木曜日であった。妻からの電話で
 「冬休みにお父さんに買ってもらったパソコンの立ち上げ作業をしていて突然意識を失って椅子から崩れ落ちた」
との説明に急ぎ帰国した。当時のパソコンはソフトのインストールが簡単ではなかった。

 貴子の説明は続く。救急車が到着する頃に彼の意識は戻った。大学の付属病院で脳の精密検査をしたが異常は見つからない。あれこれ検査をして胸部X線で心臓の血管から血液が漏れている疑いがでた。角さんが病室に駆けつけた時には研太郎は何事もなかったかのように病室のベッドの上に坐っていた。週末に準備を終え月曜日に心臓に造影剤を注入して精密検査をする予定とのこと。
 「じゃあー、ガンバッテなー」
と月曜日の朝、握手して手術室に送り入れた。大事になるとは誰も思っていなかった。
研太郎を見送ってから、
 「一体、どんな検査なのですか?」
と偶々出会った若い医師に尋ねたことで、検査説明がなされていないことが判明した。既に研太郎は手術室の中である。その若い医師は驚き慌てて走り去る。息急きって戻り、簡単に検査内容を説明した後、
 「すぐこれにサインをして下さい」
と言って“検査同意書”を差し出した。

 時間は経過して行くが研太郎は検査室から出てこない。夜になって検査中に事故が発生したとの報告が入り急遽、娘の奈生子に帰宅を促し甥の昭一郎医師を呼び寄せた。研太郎が助からないと知らされ手術室に招き入れられたのは翌日火曜日の夜明け前であった。全身に様々なチューブが巻きつき機械だけで心臓が動いていた。
 「造影剤を入れたとたんに解離性動脈瘤が破裂した。予想もせず準備もしていなかったので手の施しようがなかった」
と教授から説明を受けた。後日、フィリッピンのロザレス先生から悔やみの電話があり、
 「造影剤を使った血管検査で数パーセントの確率で起る事故です」
と教えられた。医療事故として争うことは可能かと思った。検査前に不要な質問をしなければ“検査未同意”の医療事故になったであろう、と悔みもした。
 「争っても研太郎は帰らない」
との妻の一言でそれも諦めた。葬儀、初七日を済ませ家内を残し香港に帰任した。この時ほど海外駐在を辛く思ったことはない。半年ほどして村上国際本部長から
 「帰国するか」と、打診を受けたが、
 「今頃日本に帰っても使い物にならないでしょう」と、その場で断った。
家内を一人日本に残しておくのは気がかりだが、それが正直な気持ちであった。と同時に香港での仕事が面白くなっていた。故郷の林野に興三さんの分家用墓地を用意していたので、そこに角家代々之墓を作り埋葬したのは、駐在を終えて帰国してからのことである。  (3月下旬号   完)

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第三巻 (第91話~第116話)

116)カジノの街マカオの風景
 珠海は経済特別行政区の一つで、俗に経済特区とよばれる。中国政府は改革・開放の実験地区として深圳(シンセン)、仙頭(スワトウ)、厦門(アモイ)、海口(ハイコウ)、それに珠海の5地区を指定した。何れも首都北京への影響が少ない遥か嶺南の遠隔地である。深圳は香港に隣接し、仙頭・厦門は海峡を隔てて台湾に面し、海南島の海口はトンキン湾の向こうにベトナムがあり、珠海はスープが冷めぬ距離にマカオがある。地図を開いてこの事実を知ったとき、中国の国家戦略の読みの深さに息を呑み地図を持つ手が汗ばんだ。

 珠海への出張では単なる通過点に過ぎないマカオだが、ポルトガル領の名だたる観光地である。90年の夏に家族4人で訪れた。この日は偶々ジャカルタから観光でやって来たH君が一緒であった。マカオは香港島の5分の1の面積、10分の1の人口で50万人。歴史が古い街である。ポルトガル人が最初にこの地に上陸したのが1513年。英国が香港に進出する300年も前のことである。爾来、ヨーロッパと中国の交易港として、そして1543年の“種子島鉄砲伝来”の後は日本へのキリスト教の伝道基地であった。フランシスコ・ザビエルは日本で布教活動ののち、マカオを足場に中国大陸への渡航を試みたが、近くの上川島で生涯を終えた。セナド広場からカーブした石畳の細い路地、欧風建築や噴水があり、大航海時代のポルトガルの栄華を残すエキゾチックな街である。角さんにとってはマニラの屋敷塀の狭い路地を思い出す風情である。

 圧巻はセント・ポール天主堂跡。17世紀にイタリアの宣教師によって設計され、20年の歳月をかけて完成した。徳川幕府のキリシタン迫害から逃れてきた日本人信徒がこの建設に多大な貢献をしたとの記録が残っている。しかし、1835年台風下で失火し、正面壁(ファサード)だけを残し焼失した。キリストの少年像、聖母マリア像、フランシスコ・ザビエルの像などの彫刻が残っている。これらを取り巻く菊と牡丹の彫刻は日本と中国の信徒の結束を物語っている。天主堂跡の東にある丘は要塞で、そこからはマカオ市街はもとより南中国の海や大陸が一望できる。ここには中国沿岸で最古といわれる灯台と1622年にマカオに進軍してきたオランダ艦隊を迎撃した10数門の大砲が今も残っている。

 マカオはギャンブルの町でもある。有名なカジノ以外にもドッグレース、二輪馬車レース、そしてマカオ・グランプリがある。角さんがタクシーで珠海へ急ぐ道路が、その日はカーレースのコースに変わる。出張帰りのフェリー待ちで時間があればカジノを楽しむ。入場料は不要。大抵は3個のサイコロを使う「大小ゲーム」。合計は3から18であるが、これを二分して4から10までが小、11から17までが大。3と18は胴元の手中である。また3個のサイコロのゾロ目とか合計が奇数か偶数かなど各種の組合せがあり、難易度が高ければ賞金が大きくなる。あるとき角さんは半時余りを“小”ばかりに賭けてみた。当然と言えば当然な結果だが、面白いことに損得は殆どなく無料で遊ばせて貰う結果となった。

 今は中国人が雲霞の如くカジノへやって来るそうだが、当時は大部分が香港人であった。そばで見ていると恐ろしくなるほどの大金を一度に賭ける。よほどの金持ちか或いはカジノで生計を立てるプロであろう。博打と言えば、博打と言えば、台湾は高雄と台北間を飛ばす伝書鳩レース、フィリピンは鶏頭、華僑全般はマージャン、マカオはカジノであるが、香港では競馬が盛ん。暑い季節を除いて週末になると場外馬券場は大賑わいとなる。かつてアジアの英国植民地には必ずカジノか競馬場があった。賄賂などでしこたま溜め込んだ役人が大金を携えて帰国しても、カジノで儲け競馬で大穴を当てたと言えば大金の所持を正当化できるからである、と何かの本で読んだような記憶がある。

 マカオはポルトガル、仏領モロッコ、ポルトガル領アンゴラ、インド、中国。様々な文化が混ざり合った街である。国境の近くに孫中山記念館がある。白を基調にした3階建ての建物で、北アフリカにルーツを持つムーア式建築。エキゾチックなアーチ形の門柱やバルコニーには満開のブーゲンビリアの赤い花が似合う。会社のスタッフたちと海上の橋を車で渡りタイパン島の有名な「ピノキオ」にポルトガル料理を食べに行きカニの油炒めを頬張った。またアフリカンチキンはマカオの名物。アンゴラから兵士が持ち帰った料理がポルトガル経由でマカオに移入され中国式に味付けされたそうである。

 ポルトガルからマカオに“闘牛ショー”がやって来た時に、荒井氏、関氏夫妻と一緒に見物に出かけた。荒井氏とは年賀状の交換がメル友に発展し先般10年ぶりに東京で再開した。関氏については別の機会に報告する。気象台始まって以来の記録的寒波の日で震えながら闘牛を見た。数本の剣を突き立てられても、なお、突進する牛がけなげである。マタドールが止めを刺さなかったのがせめてもの救いであった。主役の闘牛は本国に送還されるわけでない。数日後にその肉が市販されたと新聞に報道された。その後、闘牛ショーを見る機会はなく思い出深い風景である。このマカオは香港返還の2年後の1999年末に「一国二制度」が保障される形で中国に無事返還された。

   参考資料:ガイドブック(ひとりで行ける世界の本4“香港マカオ“)日地出版      (3月中旬号)

115)広州・珠海と鑑真和上
 広州市は広東省の省都で珠江デルタ工業地帯の中心地。躍進著しい中国経済を引っ張る機関車であるが、北京政府からは共産党路線から脱線しかねない、暴れん坊の広東王国とヤッカミ半分で見なされている。5匹の羊が稲穂を咥えてこの地に現れた伝説から“羊城”の別称もある。清朝が鎖国していた時代も広州は国内で唯一の対外通商港として繁栄した。そのせいか広州人は商売上手で契約を尊守するように思われた。

 話は少し遡るが駐在を始めて暫らく経った或る日、広州市医薬公司からカタリンの引き合いが入った。広州市が出資の広東省を地盤とする医薬品の販売会社で、共産主義の中国で一般的な組織形態である。売買契約書の交換はファックスと郵送で可能だが、関係を深める目的で急ぎ訪問した。就任挨拶に続いて今回が二度目の訪問。九龍駅で出国手続きをして九広・国際列車に乗り込む。途中、深圳駅も通過する3時間半の直通で、終着の広州駅で入国手続きをする。その後も度々訪問し担当者との関係を深め、受注量も増加していった。幾度目かに営業部長の女史に面会がかない、この公司が主催する新薬説明会に招待して貰える約束を取り付けた。

 番禺で開催された新薬説明会に参加したのは1990年の秋であった。省内の主要病院の購買担当者や主任医師たちを一泊二日でホテルに招き、メーカー10社余りが自社品の説明をする。年間に数回開催されるようで、メーカーは賛助費を払って参加させてもらう。割当時間はわずか15分間にすぎないが、パーティー後に医薬公司が受注活動をする“説明即売会”である。角さんはダーゼンの製品特性をワープロでまとめ、製品や工場・研究所のカラー写真を交えて、OHP(Over Head Projector)で手際よく説明する。しかし、香港や中国からの参加者は掛け軸方式や手書き文字のOHPである。角さんの発表技法(プレゼンテーション)に一日の長がある。加えて日本人による中国語での説明が受けたのか、数日後に大量の注文が来た。その後も肇慶や仏山などの説明会に招かれた。

 そんな日々の中で先に紹介した盧嬢に出会った。中国企業に籍を残したままアルバイト的に秘書兼通訳として一緒に仕事をするようになった。規律に縛られない実質本位の広東王国のあり難さである。彼女は角さんの手からダーゼンビジネスが離れるまで、良く助けてくれた。未知の外国では何をするにも最初は手探りで、ここまで来るのが一苦労である。曲がりなりにも中国語が話せたこととフットワークを大切にしたことが良かった。“犬もあるけば棒にあたる”は角さんの信条の一つである。販売ルートが整うと、次は医師への直接拡張訪問である。職業紹介所に依頼して2名の医師をMRとして雇用した。中国の医師は公務員で給与が安いので貴重な人材をスカウトできた。こうして毎月一回、広州に出張してはMRと一緒に病院を訪問して実地教育する。その内に日帰りでは足りず宿泊出張となった。

 中国では政府であれ会社であれ、国民や従業員に腹いっぱい食べさすことが何にも優先する責務である。昼時になると大衆食堂で彼らに昼食を振舞う。店先の生簀(いけす)では魚が泳ぎ金網の中では鳥、兎、カエル、ヘビや珍獣がうずくまっている。空飛ぶものは飛行機、足のあるものは机と椅子、水中のものは潜水艦、これら以外は何でも食べるゲテモノ食いの広東人。ある日、MRのたっての要望を入れて鼻の尖った小さなタヌキのような見かけぬ珍獣を選んだ。十数年後に重症急性呼吸器症候群(SARS)が流行った時、コロナウイルスの伝染源として話題になったハクビシンが、その時食べた珍獣であったようである。

 次第にダーゼンの販売が上昇し、カタリンの知名度も上がってゆく。この2品目の日本からの輸出額に対し、5%の販売口銭が入るので武田IMC社への利益貢献は大きい。香港でのチマチマした商売とは雲泥の差で、中国市場の底の深さを実感する。その間に改革・開放が加速し広州市内の景観が日を追い月ごとに変わって行く。駅前広場にたむろする“盲流”の群れが膨らみ、駅の出入りには身の危険さえ感じる。盲流とは地方からの出稼ぎ群のことで、当ての無いまま地方から盲目的に流れ出てくるのでこう呼ぶらしい。汗と垢と埃にまみれ広場に寝起きして仕事を探す。警官が出動して治安にあたるような事態も起る。経済発展の爆発的エネルギーを目の当りにした。広州市は熱気をもらった思い出深い改革・開放の都市である。

 珠江河口の珠海市の公司からもカタリンの注文が舞込む。中国で上位にランクされる上海系の医薬品製造販売の会社である。角さんは早速訪問し人間関係を深める。香港からマカオへはフェリーで1時間。入国審査をおえて北端の国境までタクシーで10分余り。ここの初代石門は1573年に建設された由緒あるもので、今は中国との国境となっている。出国から入国までの100メートル余りは緩衝地帯の通路。テレビや冷蔵庫などの電気製品を中国に運び込み、持てる限りの農作物をマカオに持ち帰る人々が行きかう。その殆どが小母さんたちで、国境を股にかけて稼ぐ運び屋である。そのあいだを縫うように早足で進む。一回の出張で香港、マカオ、中国の通関で合計8個の出入国のスタンプがパスポートに押される。この会社の営業部長にも気に入られ次第に受注量が増える。大阪本社の上司やカタリン製造元のスタッフを案内して幾度か訪問した。珠海もまた足繁く通った思い出の町である。

 唐招提寺の開祖鑑真和上はこの珠江デルタと深い関わりがある。鑑真と日本との縁は2人の留学僧、普照と栄叡がこの高僧に揚州で出逢った時に始まる。鑑真はこの留学僧の懇請を入れて、日本に仏教の戒律を伝えるために渡航を決意する。しかし5回も渡航に失敗する。5回目には台風に遭遇し潮に流され飢えと渇きの中で海南島に漂着する。その地の有力者馮(ひよう)氏の世話で疲労が癒えると再度挑戦を決意する。その為には一旦揚州へ戻り準備をしなければならない。対岸の広東省南部から揚州へは二つのルートがある。一つは西北に遡上して灕江から桂林を経由して長江(和名は揚子江)に入るコースと、今ひとつは珠江を北に上って南昌を経由して長江に入るコースである。馮氏の勧めもあってか鑑真は桂林経由を選ぶ。桂林に滞在中に噂を聞きつけた広州の有力者が桂林にまでわざわざ迎えにやって来る。断りきれず再び灕江から珠江を下り広州へ戻る。その間にお伴の栄叡が肇慶で異国の土となる。この時の涙と過労が鑑真の視力を奪ったと考えられている。手元の地図では陸路にみえるが、南船北馬といわれるように網の目のような水路を伝っての旅であったろう。揚州で再び資金を集め第6回目にしてようやく来日する。その間に12年が経過していた。井上靖の『天平の甍』のクライマックスの一つである。

   参考資料:中国歴史の旅(下) 陳瞬臣著 集英社文庫   (3月上旬号  完)

114)九龍半島と家族との桂林  
 スター・フェリーは香港島と九龍をつなぐ海の渡しである。乗船時に改札口で片道の代金60香港セント(約10円)を手渡すだけでキップはない。無駄を省いたいかにも香港らしい単純明快なシステムである。所用がなくてもただ漠然と8分間の船旅を楽しめる。昼には昼の、夜には夜の趣がある。とりわけ仕事に疲れた夕暮時に波立つ白い航跡を見ていると忘我の境地になれる。その間に大気は刻々と暮色を変えてゆく。香港島から見る九龍の尖沙咀(チム・シャッ・ツイ)の海岸通りは異国情緒に溢れる。そして復路。香港島の山腹に立ち並ぶ高層ビルに少しずつ燈がともり始め陰影が旅愁を駆り立てる。夕闇が深まるなかでネオンが静かに紋様を描く。この時ばかりは昼間の喧騒を忘れ小さな揺れを楽しむ。

 香港島にもマンダリンなどファイブスターのホテルがあるが、有名なホテルは九龍側のチムシャッツイに多い。シェラトン、リージェント、シャングリラなど。その代表がペニンシュラ・ホテル。1928年の開業で大英帝国の面影を残すロビー・ラウンジでは日本からの観光女性たちがアフタヌン・ティーの順番を待っている。一、二階はイタリアやフランスの有名ブランド店が集まるショッピング・モール。ルイ・ヴィトンの店には日本のギャルがこれまた列をなす。彼女たちが出入できるのも日本の経済成長と“円高のお陰”である。

 その直ぐ近くに重慶ビルがある。究極の雑居ビルで入口付近ではアジアやアフリカ系の如何わしい人たちが安宿やコピー時計などの客引きをしている。天国と地獄、富と貧困、落差の大きい香港を象徴している。そこから少し離れたチムシャッツイ・イーストには日航ホテルがあり、その直ぐ前はDFS(Duty Free Shoppers)。免税店とはいうものの結構高い。日本からの来訪者を案内してしばしば訪れたが、自分が買った物は限られている。ドアを開けると甘い化粧品の香りが漂よってくる。今でも日本の百貨店に入ったとき思い出す懐かしい香港の香りである。

 九龍半島からネイザー・ロードを北に行くとモンコク。有名な女人街がある。衣類、アクセサリー、バッグ、化粧品、雑貨などの女性用品を売る屋台が軒を連ねる。けばけばしい原色のショーツやブラジャーの下着がぶら下がる。さらにその北に麻薬、密売、売春、マフィア、悪の巣窟として知られた九龍城があるが、好奇心旺盛な角さんもここだけには足を踏み入れなかった。ネイザー・ロードの北端を東西に走る大通りは界限街(バウンダリーロード)。ここから深圳河にいたる土地が新界(ニューテリトリー)である。先刻までの雑踏と喧騒を忘れるのどかな田園風景が広がる。この地区のタクシーは緑色。かつては赤色であったが牛が攻撃してきたとの理由で変更された。九龍駅から軽便鉄道に乗れば20分ほどで終点の羅湖駅に着く。ドブ川の深圳河を徒歩で渡ると、そこは中国・深圳市。何十回渡ったことであろうか。長蛇の列を待って出入国の通関審査を受ける。香港市民に命水を送る太い水道管が存在を誇示するように横たわり、山腹には金網が延々と続き香港との国境を作っている。

 休日に角さんは自宅の裏山を散策した。山歩きの道は整備され標識に従って行けば迷うことはない。展望の良い処からはハーバービユーが楽しめる。俄かには信じられないであろうが、ここには手付かずの大自然が残っている。自然が豊かなのも香港の特色である。

 駐在を始めた年の夏休みに家族3人が来港し1ヶ月間一緒に過ごした。香港島の南側にある香港仔(アバディーン)、浅水湾(レパルス・ベイ)、赤柱(スタンレー)、海洋公園(オーシャン・パーク)も観光した。香港仔では小さな舟で寝起きする海の民、蛋民たちの海上での生活を見学し、水上レストランで夕食をした。浅水湾は『慕情』の2人が海水浴を楽しんだ場所である。赤柱は英国人が多く住む高給住宅地で、スタンレー・マーケットは英国品やブランド物の中古品など掘り出し物に出遭えるところとして観光客に人気がある。海洋公園は水族館など見るべきスポットが多い。ローランド・パークとヘッドランド・パークの2つのエリアを長いロープウエイが繋いでいる。そのゴンドラの遥か下は山肌が南シナ海に流れ込んでいる。素晴らしい眺望だが、角さんの高所恐怖症が子供にばれて、その日を限りに親の権威は失墜した。

 深圳経済特区の郊外にレジャーランドがあり、その一画に「錦繍小人国」がある。広大な敷地を利用して中国全土にある名所旧跡景観を本物そっくりの縮小版で紹介している。まるで小人国に迷い込んだガリバーである。その時には、紫禁城や万里の長城や蘇州の町並みなど一部が印象に残ったに過ぎないが、のちに中国大陸を旅行し各地の建造物や自然景観に出逢うたびに懐かしく思い出した。マカオと桂林にも4人で行った。マカオについては別の機会に譲る。

  “桂林ノ山水ハ天下ニ甲タリ”
 甲乙丙丁と続く最初、つまり一番美しいとの意味である。桂林は山水画の世界として日本人に馴染みの観光名所。桂とは木犀(もくせい)のこと。日本語との同字異種である。台湾駐在時代に中国語の老師(先生)から
 「10月になると10万本の桂がいっせいに開花し、街中に甘い香りが漂う」
と聞いて、長年憧れた街である。桂林には金桂、丹桂、銀桂、四季桂の4種類の木犀があり、丹桂が日本の金木犀にちかく、金桂はもっと色と香りが強いようである。ワインに漬け込んだ「桂花酒」や茶葉に乾燥花をまぜる花茶の一種「桂花烏龍茶」が有名である。

 山肌の奇観と石壁の古い石刻が見所の畳彩山(じようさいざん)、市街に竹の子が生えたような独秀山(どくしゅうほう)、象が灕江の水を飲んでいるような象鼻山(しようびざん)などを見物し、翌日は郊外から陽朔まで3時間の灕江下りを船室の屋上から楽しんだ。3億年前に海底が隆起し風雨に侵食されてできた石灰岩の奇峰があちこちにそびえる。次々と迫る奇岩、川岸の民家、放牧の牛、竹筏の川下り、釣り糸を垂れる古老などの一つひとつが一幅の絵画である。夜は鵜飼を見物した。日本とちがい、鵜は紐に繋がれることなく自由に泳ぎまわり飲み込めるかぎりのあらゆる種類の魚を持ち帰る。香港に帰って買い物中にカメラを失った。研太郎との最後の記念写真が残らなかったのを今も悔やんでいる。

 ある日、研太郎が興味深いことを口にした。
 「香港はHong Kongと書いてホンコンと発音するが、King Kong はキンコンではなく、キングコングと言う。何故だろう」
言われてみれば奇妙な話であるが、答えは簡単。香港は耳で聴いた通りにカタカナとしたが、King Kong は英語のスペルにしたがってカタカナにしたに違いない。

 その後も妻は時折、香港に陣中見舞いにきてくれた。角さんは家内の手料理を期待するが、カミサンはレストランでの外食を楽しみにしている。互いの希望や目論見が一致しないのは世の常。中華料理と買物を少し楽しんだ後は、
 「長く留守にすると、テニス仲間から外される」
などと言って早々に帰国する。その来港の足も次第に遠のいていく。彼女も芦屋で一人だけの生活が定着してきたようである。    (2月下旬号   完)

113)サンマを焼く風景
 単身駐在中の食事について報告しよう。食事の楽しい思い出は数知れないが辛いと思ったことは一度もない。当時の生活が鮮明に思い出され郷愁さえ感じられる。朝食はトーストとチーズと野菜サラダに牛乳と紅茶が定番であるが、気分を変えて時には、朝飯屋の店先で油条(ユウティアォ)か或いはもち米の中国式お握りを頬張り豆乳をすする。油条はよく練った小麦粉のドウを延ばし割り箸状に切って油で揚げたもの。中華式お握りの中には搾菜(ザーサイ)か、刻んだ油条の具が入っている。具の種類で辛いお握り、甘いお握りと区別する。台湾駐在時代にしばしば親しんだ朝食とほぼ同じ。朝食後には、果物の生ジュースで繊維質とビタミンCを補給する。

 昼は麺店や小吃店(めし屋)に一人で行く。一時期、職員たちの誘いで昼食の輪に加わったが、お互いに気詰まりなので短期間で止めにした。来客があればスタッフと一緒に飲茶(ヤムツァー)の昼食となるが、普段は数軒あるお好みの店を日毎渡り歩く。ウドンのような上海麺、ニラと豚のひき肉がたっぷり入った北京水餃子、細くて独特の風味を持つ広東麺など。焼餅(シャオピン)、鍋貼(クオテイ)、饅頭、蒸餃子或いは小籠包の日もある。上海炒麺は焼きうどんに似ており、揚州炒飯は焼飯の定番。好みのおかずを選ぶカフェテリア式の店でご飯物を食べることもある。肉か魚料理に野菜とスープ。中華圏で良く出る野菜は豆苗(トウミヤオ)と空心菜(コンシンツアイ)の炒め物。豆苗はぬめり感がよく、空心菜は茎が空洞なのでこの名があり、シャキシャキとした歯ざわりがたまらない。油でさっと炒めた後、少量の水と塩をふりかけ蓋をして余熱で蒸すと青さが残り野菜特有の歯ざわり感が残る。熱水でさっと茹でたレタスにオイスターソースをかけるのは香港の定番野菜。ご飯物は発泡スチロールに詰めてもらいテイクアウトして、近くの公園のベンチで広げる。食後はベンチで仰向けになり、週刊誌を顔にのせて昼寝をする。大阪時代の2年間を除き、もう12年以上続く昼寝の習慣である。何時でも何処でもいっとき眠れるのが角さんの特技であり健康の秘訣である。

 台湾時代に社長室でSさんと一緒にソファにもたれタオルケットをかけて昼寝をしていたら、本社からの出張者に帰国後告げ口をされた。社長室でのタオルケットが問題になったようであるが、
 (冷房の真下ゆえに冷房病の予防に使ったのがなぜ悪い)
と思ったものであるが、本社と海外では風俗習慣からくる誤解や価値観の違いが問題になることがある。そう言えばこんな椿事もあった。中国語が専門のK君が香港に駐在している頃、本社から出張したある幹部が社内会議の様子を見て
 「大学で中国語を専攻したのに、K君はMed Repと英語で対話をしている。彼の中国語は劣るのではないか」
と、帰国後に感想を漏らした。しかし、これは無知から生じた誤解である。香港の日常語は広東語で、北京語とは全く異なる発音で互いに外国語同然である。くだんの幹部はその事を知らない。K君が大学で学んだのは北京語であり、加えてMed Repたちは英語が下手なので、コミュニケーションがスムースに行かないのは当然である。

 仕事を終えて帰宅途中に日本人クラブに立ち寄る。在香港日本商工会議所と在留邦人会のクラブで、前者は法人が、後者は個人が会員である。ここのレストランで日本食を楽しめる。ビクトリア・ハーバーの黄昏を眺めながら夕食を始める。なじみの友人と談笑しながら定食を食べるうちに対岸のチム・シャツ・ツイにネオンが輝き始める。

 土曜日は終日自宅にこもって仕事や残務整理をするので自炊となる。昼食時にご飯を炊き昼と夜に2度食べる。電子レンジは我がキッチンには無い。朝パンを焼いたトースターで、昼はシシャモを焼き、夜は塩サバを焼く。魚臭が残り内部は煤けるが仕方が無い。或る夕方サンマを焼いていると、隣の香港人奥方が血相を変えて拙宅の呼び鈴を押した。
 「角先生(クオシンサン)、お宅が火事ですよ!」
換気扇から出たサンマの猛煙が隣家にまで及んだらしい。それ以後は、サンマは自重し塩サバに換えたが、真っ黒なトースターは最後まで活用した。夕食にはカレイの煮付けなど魚料理もしたが、魚は骨が残り後始末が面倒なので次第にステーキが定番となった。日本と違いカリフォルニアやオーストラリア産のステーキ肉は安い。第一お腹に入れてしまえば炊事場には何も残らない。安くて美味しくて簡単である。ステーキの美味しさは塩と胡椒の加減次第と学習した。

 言い忘れたが日本の新聞が翌日配達される。95年頃からは電子送信されて香港で編集印刷され当日配達されるようになった。IT進歩のお陰である。朝日新聞の金曜夕刊に翌週のテレビ番組が紹介される。見たい番組があれば妻に電話を入れて録画を依頼する。映画の『寅さん』、ドキュメンタリーの『シルクロード』や『華僑』、『日本の話芸』の落語などである。日本に出張した時などにそのテープを持ち帰る。カミサンは文句も言わず6年半の間、求めに応じて録画撮りを請け負ってくれた。こうして取り寄せたビデオを相手に一人の夕食となる。日曜日にはゴルフの帰りに外食をするが、日本人クラブには行かず銅鑼湾(コーズウェイベイ)にあるタイ、ベトナム、ビルマ、インド、フィッリッピンなど各国のエスニック料理を楽しんだ。アルコールが過ぎると夕食後に机に向えなくなるので、多くてビール一缶が限度である。そんな話をすると
 「酒も飲まずによく駐在生活が送れるなー」
と友人が呆れてくれたが、台湾時代を除き、仕事以外では酒が少ない駐在生活であった。    (2月中旬号   完)

112)ベンツの価格とメイドの風景
 武田IMC社の主要製品は一般薬(大衆薬、OTC薬)であり、将来を睨んで医療用医薬品の育成が必要である。その為に新製品の登録申請、医師への拡張力強化、社員の意識改革に加えて、中国ビジネスの立上げが急務の仕事と現状を分析した。しかしながら会社は生き物。一気呵成に変革を急いでMed Repの反感をかうと販売が停滞し倒産しかねない。営業部長は医療用医薬品を扱う資質に欠けるが、首のすげ替えには多大の出費を伴う。上手に使いながらチャンスを待つか、或いは小さな変化で大きなインパクトを与えるか、などとあれこれ考えた末に台湾で学びフィリッピンで応用したショック療法を思いついた。

 毎朝、会社のお抱え運転手が大型の黒塗りベンツで出迎えてくれるが、その後は有料駐車場に一日放置している。交通網が発達した香港ではバスや電車で通勤する方がはるかに便利で安上がり。日本から訪問客があればハイヤー会社が電話一本でベンツを手配してくれる。
 (こんな不効率なことがあって良いものか)
と、自ら意識改革の範を示すべく社用車を放棄し徒歩通勤に切り替えた。気の毒ながら運転手は辞めてもらうしかない。ショック療法が効いて社内に緊張感が生まれた。行き場を失った社長用のベンツを売り払うことにし、ハイヤー会社などにコンタクトしたが、数年前に日本武田が廃車処分したものをタダで貰った中古車である。ガソリンを食うばかりと買い手がつかない。困っていたら、
 「一度ベンツを運転したかった」
とゴルフ仲間が親切にも購入を申し出てきた。3000香港ドル、日本円で4万5000円程度のオッファー価格。完全に足元を見られている。
 「捨てる神あれば拾う神あり」と、悔しいがそれで手を打つことにした。

 駐在生活を始めたころ週末に家にいると、一日に三回も四回も入浴した。これを友人に話したところ、彼らも同じような経験をしたとのこと。不思議な現象ではあるが、恐らくは家族と離れて人肌恋しかったのであろう。その奇習も生活に慣れ、日曜ごとに国境を越えて中国へゴルフに出かけるようになると徐々になくなった。

 T氏からマンションと一緒に引き継いだフィリッピンから出稼ぎに来たメイドは失敗を理由に暇をだし、マンションのエレベーターで出会った娘に声をかけて雇用契約が成立した。他家のフィリッピン・メイドに日曜日ごとにアルバイトとして4時間ほど掃除と洗濯に来てもらう。アルバイトは条例違反らしいが、送金と貯金のための出稼ぎメイド。声をかければ大抵はチャンス到来とばかり話に乗って来る。角さんはゴルフに出かけて顔を合わすことは殆どなく、合カギを渡し連絡はメモでやり取りする。この娘はフィリッピンに一時帰国の機中でアラブ帰りの出稼ぎ男性と意気投合して目出度く結婚。マスターの運転手として旦那を香港に呼びよせると、日曜日は水入らずの新婚生活なので角さんのパート仕事を辞めた。次のメイドとは2年間の縁があったが、フィリッピンに帰国して初恋の男性と結婚。稼いで貯めた資金を元手に雑貨店(サリサリ・ストアー)を開業した。3人目のメイドは角さんの帰国まで奉公してくれた。先年マスターについてカナダに移住するとクリスマス・カードで伝えてきた。

 当時、香港には多数のフィリッピン人が住んでおり、その数は年毎に増加しついには英国人を凌駕し在留外国人の中で1位にランクされるまでになった。その頃は4万人前後であったかと記憶する。その殆どがメイドである。英語が話せ勤勉で信頼できるので、男女共働きの香港人にとってはかけがえの無い家事労働者である。家庭によってはベビーシッターであり、英語の家庭教師(チューター)で老父母の介護者でもある。在留ビザは“メイド”で取っても実際には賃金の高い秘書や店員として働いている娘も少なくない。

 週末や祝日になるとセントラルにある皇后像広場がフィリッピン広場に一変する。どこからともなく着飾ったフィリッピン人(大部分は女性)が集まり座り込みグループの輪ができる。持ち寄った弁当を広げ野外パーティーが始まりギターが響き歌もでる。見渡す限りの大群衆である。ここに来れば誰に気兼ねもなくタガログ語で思う存分語り愚痴を吐き慰め合うことができる。彼女たちにとっては、我が子を預け家族と別れ故郷を離れ、異国でマスターの厳しい叱責に耐えて働く毎日である。男の出国は外貨獲得の英雄であるが、女の出稼ぎは白い眼で見られる。マスターの悪ガキの虐めに耐えかねて殺害し入水自殺をしたメイドの話が報道された。故郷には我が子が待っているのに・・・。その時の心境を思うと胸が痛んだ。最近日本でも外国人労働者の受け入れが論議されているが、実現するまでには言葉の壁、入国と在留管理、カソリック教会、システム化などその障壁は決して低くないであろう。   (2月上旬号  完)

111)社内旅行と広州交易会
 社員たちがMr. Sumiとよぶ。フィリッピンでは違和感がなかったが、どういう訳かこちらでは落ち着きが悪い。
 「Please call me as Sumi-san instead of Mr. Sumi」(ミスター角ではなく角さんと呼んでくれ)と求めると、今度はMr. Sumi-sanと言う。彼ら彼女らにとってはSumi-san とよぶのは落ち着きが悪いようである。 Sumi-san と自然に呼ばれるようになるのに、半年余りもかかった。

 着任してまもなく2泊3日の社内旅行(エクスカーション)に出かけた。角さんとT氏の歓送迎会を兼ねた催しでもある。広東省の東南端に流れ込む中国第三の大河、珠江のデルタ地帯を貸し切りバスで巡る。馬蹄形(ばていけい)の河口を香港から北上し深圳経済特区、郊外の東莞(トンカン)を経て広州に到着。そこから西寄りに南下すれば番禺(バンユウ)、江門、仏山、中山を通って珠海に着く。国境を越えるとマカオで、そこから東へ高速水中翼船に乗れば1時間ほどで香港に帰り着く。このあたりは中国の経済発展をリードする地域。角さんにとっては初めての中国の大地である。

 九龍の尖沙咀(チム・シャツ・ツイ)を出発し1時間ほどで国境に着く。荷物を持って下車し通関手続きをする。長蛇の列で時間がかかること甚だしい。その間に空のバスも通関検査を受ける。国境を越えてしばらく走り、深圳経済特区を経てアヘン戦争の引き金となった東莞に着く。アヘン戦争については別の機会に譲る。北に広州、南に香港をひかえた地の利が外資を呼び込み、茘枝(れいし)畑が掘り起こされ、トンネルを削岩する国造りが始まっていた。今では東莞は世界のパソコンの部品供給基地になり、深圳は中国の金融とサービスの中心地に生まれ変わった。中山市は近代中国の父、孫文の生まれ故郷でその号に由来する。珠海から徒歩で国境を越えてマカオに入った。二日振りに自由な空気を吸ったとき初めて安堵感を味わった。やはり共産国家を意識しての緊張していたのであろう。

 その後も毎年3月下旬の復活祭休暇(イースター・ホリデー)を利用して社内旅行を実施した。幸い徐々に業績が向上したので、翌年は仙頭(スワトウ)・潮州・厦門(アモイ)、翌々年は桂林、次は北京、そして昆明・石林、マレーシアのランカウイと続き、96年はタイのプーケットと年毎に豪華となった。その時々を観光話として後述する。

 市場開拓を引継ぐ目的でT氏と広州市を訪れた。北京事務所から竹越君が通訳として参加してくれた。彼は中国残留者の帰国子女であり、数年前に武田薬品に途中入社し今は北京に駐在している。武田薬品の中国ビジネスは北京事務所が長江(揚子江)以北を、武田IMC社が以南を担当している。T氏と竹越君と一緒に市内の主要病院と医薬公司を駆け足で訪問した。病院内の機器は旧式ながら整理整頓清掃が行き届き、こざっぱりとしている。しかし、トイレに入って驚いた。入口にはドアがあるものの、個別の大にはドアがなく開けっぱなしである。あるとき角さんが入ったら、しゃがんだ男に珍しそうにジロリと見上げられた。 後に日本でも知られるようになった“ニイハオ・トイレ”である。製品は点眼液のカタリンのみで、前任のK君がダーゼンの開拓を始めたばかりであった。一ヶ月の引き継ぎを終えてT氏は帰国し角さんの駐在生活が始まった。

 4月の下旬に「中国出口商品交易会」で広州に一週間出張した。大阪から前任のK君と北京事務所から竹越君が応援に来てくれた。今年は初参加の見習いであるが秋以降からは一人で参加しなければならない。この通称「広州交易会」は中国唯一最大の国際見本市で15日間開催される。1957年に始まり毎年春秋2回ずつ開かれている。“出口”とは輸出の中国語であるが、実際には出入口(輸出入)の展示商談会で世界各国から多くの人がやって来る。平時では入国ビザの取得が難しいが、この「広州交易会」への参加に限り外国人の入国が緩和される。唐の時代、長安の西市場は国際色豊かな交易場としてにぎわった。この西市場に倣って始まったのが広州交易会であると何かで読んだ記憶がある。大部分の参加者は中国側が用意したホテルに宿泊しそこから会場へ通う。白雲山荘は日本人にとり思い出深いホテルである。

 外国人は現地通貨の人民元は使用できず外貨兌換券(FEC: Foreign Exchange Certificate)しか使えない。「友誼(ゆうぎ)商店」はその為の外国人相手の商店で、日用雑貨や土産物が少々並んでいる。薄暗い店内の片隅に服務員の女性が二人ほどたたずんでいる。無愛想なことはなはだしい。買いたいものがあるとレジでFECを支払い、その領収書を別のカウンターで提示して品物を受取ると捺印されて、不正が出来ない仕組みとなっている。ただ、高級ホテルの中国大酒店内の「友誼商店」には高品質のものがあり、その後広州を訪れるたびに出入りし絹の下着、カシミヤのチョッキやセーター、唐三彩の食器や置物などを買った。中国ではホテルのことを酒店、飯店、賓館などよぶ。現地通貨の人民元を外貨兌換券に交換して欲しいとホテルの入口やタクシーの運転手からしばしば求められた。赴任当時は1US$=1FEC=4.7人民元で、90年末には5.2人民元に変わったが、ヤミでは30-40%増しの売買価格であったかと記憶する。

 「広州交易会」の医薬品展示場では中国各省各市の輸入公司(公団)がブースの片隅で売買の交渉をする。限られた外貨を有効に活用するために中国側も必死なら、大きな期待を担って送り出された日本のメーカーや商社の社員も必死である。日本の社員が商談に失敗したのを苦にして、会場ビルの屋上から身を投げる悲劇も起きた。角さんたちは過去の実績表を片手に、上海市医薬公司とか、山東省医薬公司、北京特薬公司などのブースへ頻繁に足を運び、顔見知りの購入担当者を探す。中国語が飛び交い殺気立つ戦場である。角さんは要領を学びながら相手の顔を覚え自分の名前を売り込み、将来に備えねばならない。秋には角さん一人で参加したどたどしい中国語で商談した。翌々年には日本語のできる盧嬢をアルバイトとして雇用し中国ビジネスが拡大していった。

 輸出振興が国策であった頃、日本はジェトロの“さくら丸”に乗って、
 「日本製品を買って下さい」と世界を航海した。
 それが成功し、外貨を稼ぎ過ぎて日本バッシングが始まると、今度は同じ“さくら丸”を輸入促進船に仕立て替えて
 「貴国の製品を売って下さい」と世界を回る。
お国のためとはいえ、お人好しで何とも漫画チックな光景である。それに引き換え中国といえば、天安門事件で世界の嫌われ者になり経済が疲弊しても、世界からバイヤーを呼び集め、買ってやるぞと僅かのドル紙幣で売り手の頬を張る仕草である。正に“中華の国”や“朝貢貿易”を実感する。政治の世界でもしかりで外交とは他国が自国へ足を運んで話し合うもので、出かけて行くのは国会や財界や大学で講演をぶつためと心得違いをしているふしがある。

 中国のことをシナと言ってはいけない。シナそば、シナ服は厳禁と教わったが、何故か腑に落ちない。
 「茶の発音からChinaと呼ばれ、それをシナと発音してなぜ悪い」
と永年思っていた。しかし、シナが悪いのではなく“支那”の漢字が悪いのだと気が付いたのは中国語を学ぶ過程で漢字の意味を意識するようになってからである。本社に対する支店。中央に対する支部であり、幹に対する枝である。中華思想に固まった華人には支那の文字は我慢ならないということである。それにしても、二千年以上も前に始まった朝貢貿易や中華思想の幻影から抜け出せない国と付き合うのは気苦労の多いことではある。    (1月下旬号  完)

110)慕情とスージー・ウォンの世界
 新任の仕事は市場視察から始まる。Med Repと一緒に医師を訪問すれば、街の様子、病院の規模、わが社の食込みぐあい、Med Repの仕事ぶり、医師の特性などを短期間に概観できるからである。街は人と車で溢れている。地下鉄、短区間を走るミニバスのほかに英国直輸入の二階建てバス、世界でここだけという二階建て路面電車(トラム)が市民の足。距離にもよるがトラムの最低料金が1ドル余りで、ミニバスが2.5ドル位。当時は1ドルが18円前後であったから20~40円の計算となる。奇妙なことに英領香港ながら通貨単位はドルでポンドではない。この街でドルと言えば香港ドルのことである。

 香港島と九龍間のビクトリア・ハーバーには長年スター・フェリーが活躍してきたが、近年は地下鉄とトンネルバスも走っている。タクシーは香港島、九龍、新界と営業区域が決められていて、香港島から空港のある九龍へ行くと帰りは空車となるのでトンネル通行料60ドルが余分に請求される。しかし、しっかり者の運ちゃんが空車で帰ることなどはなく、どこかで客を拾って二重取りの丸儲けを享受する。バスや路面電車には側面はおろか屋根にも原色の広告が大書されている。高層ビルの街香港ならではの光景である。時には低い荷台に大きな広告版をのせて市内を終日走りまわるトラックにも出会う。新着映画や新発売化粧品などの動く広告板である。その奇抜さとガメツサに当初は度肝を抜かれたが、慣れると異常とは思えなくなるから不思議である。日本でも昨今この手の広告を目にするようになったから、やはり自由放任主義の香港が先輩格である。

 歩道は歩道でごった返し人々はせわしげに歩く。店頭の立て看板は歩道に溢れ真っ直ぐに歩くのが難しい。頭上にも目立つようにと看板が招客を競っている。ビルの中ほどから上は住居で、突き出された無数の竿には洗濯物がはためいている。時おり頭上から物が落ちて来る。タバコの吸殻、丸まったティシュ、果物の皮やゴミ箱の中身だったりする。時には雨でもないのに水が頬を濡らす。まさか小便ではなかろうが、飲み残しのお茶を窓外に投げ捨てるのは日常茶飯事、公徳心などは生存競争の過程でとっくに磨り減っている。今のいま自分が良ければそれでいい。広東省の小さな漁村が英国領になった。爾来、人々が集まり香港が生まれた。大陸が共産化しさらに文化大革命が勃発すると、上海の有産階級が持てる限りの私財を抱えて逃げ込み、ある者は故郷を捨てて裸一貫で流れ込んで来た。様々な事情を抱えてやってきた人々の吹き溜まりは香港ドリームの熱気で溢れている。

 香港は毎日が祭りのように賑やかでせわしない。97年の香港返還に先駆けてカナダや豪州などへ移民する人たちが後を絶たないが、市民権を取得すると香港に舞い戻る年輩者が多いと聞く。カナダの夜の静寂に耐えられないそうである。考えて見れば彼ら彼女たちは生まれてこの方、否、生まれる以前の胎児の時より、この喧騒の中で生きてきた。躁の状態が骨の髄までしみ込んでいる。角さんも着任当時はこの喧騒に耐えられない思いもしたが、慣れてくると生活感があって結構気分が落ち着く巷である。

 香港島を観光して道に迷う心配はない。海側と山側を意識するだけで十分である。海に面して西から東に皇后大道中(クイーンズ・ロード)が走っている。上環(ションワン)は昔ながらの中国人街が広がる古い街。海産物、漢方薬、布地問屋が軒を連ね石段の坂道がノスタルジックな雰囲気をつくる。その東が中環(セントラル)で置地広場(ランドマーク)のショッピング・センターを囲むように行政、経済、金融の高層ビルが林立する。香港の心臓部である。さらに東の湾仔(ワンチャイ)はかつて栄えた波止場街で日本時代には遊郭があった界隈である。船乗りや水兵を紅燈緑雨の巷に遊ばせる歓楽街。再開発が進んではいるがプッシーキャッツ、スージーウオンなどパブ、バー、ディスコや夜総会(ナイトクラブ)に誘うどぎつい看板が今も目立つ。表通りに面した25階建ビルの11階に武田IMC社の事務所がある。1階は“イケヤ家具店”で日本の企業かと思ったら有名なスエーデンの家具製造会社とのこと。小さな社長室からはビクトリア港と九龍が素晴らしい景観を見せる。すぐ近くにコンベンション・センターがあり、97年の香港返還式典の舞台となる予定ですでに付近の再開発が始まっている。

 香港を舞台にした映画と言えば『慕情』が有名だが、角さんは『スージー・ウオンの世界』が好きだ。『慕情』はハン・スーインの自伝小説が1954年かに映画化された。中国と英国の混血女医(ジェニファー・ジョーンズ)とアメリカの従軍記者が恋に落ち、差別を乗り越えて恋が成就しようとした矢先に、彼は朝鮮戦争で落命する。主題歌の“Love Is A Many Splendored Thing”は永遠の名曲である。一方、『スージー・ウオンの世界』は同じくウイリアム・ホールデン主演で1960作というから、二匹目のドジョウを狙った作品かも知れない。バスガールのスージー(ナンシー・クワン)と米国人画家が恋仲になる。猥雑な湾仔界隈を舞台にスター・フェリーなど香港の情景が印象的に映し出される。スージーは幸せを掴みかけるが、豪雨による土砂崩れの阿鼻叫喚の中で絶命する悲恋物語である。

 湾仔の東が銅鑼湾(コーズウェイ・ベイ)である。大丸、そごう、三越、松坂屋などが覇を競う繁華街。ここから少し山側へ坂道を登ると、観光名所の胡文虎ガーデン(アウ・ブン・ホウ:虎豹別荘)である。万能薬「萬金油」で巨万の富を築いた胡文虎氏が造った庭園。山の斜面を利用した敷地にセメントや粘土の龍や虎などが極彩色で飾られている。極楽を表現したのか、はたまた地獄の様を描いたのか。オルシーニの『神曲』にでてくる怪物庭園のボンマルシを意図したのかもしれない。低俗さやグロテスクを超越して奇怪なアートに昇華している。銅鑼湾の更に東が北角(ノースポイント)。工場ビルが少しずつ住宅ビルに立て替わる奇妙な街である。その工場ビルの9階に武田IMC社の薬品倉庫がある。時おり日曜日に全員が集まりサンプルの小分け包装作業をする。秋になると上海ガニのパーティー会場にもなった。

 観光スポットのビクトリア・ピークへはセントラルから登山電車(ピーク・トラム)を利用するのが良い。このケーブルは生活の乗り物でもあり、途中2、3の駅で住民が乗り降りする。高度が上がると徐々に視界が開けてゆく。ビクトリア・ピークは標高554メートルであるが、普通は標高400メートルのところにある展望台から眺める。眼下にはセントラルからノースポイントにかけての香港島の市街、さらにビクトリア港と対岸の九龍半島までの一大パノラマが広がる。本当の“100万ドルの夜景”は空気が澄み切る冬場。春から秋にかけては霧の発生が多く観光客を失望させることがあるが、香港を旅行してこのピークに登らなければ土産話は半減する。   (1月中旬号  完)

109)香港赴任の風景
 九龍半島の丘陵をかすめて旋回し黒ずんだ高層ビルの窓から突き出た洗濯物に手が届くようにして、啓徳(カイタック)空港に着陸したのは1990年春まだ浅い3月上旬であった。これまでに幾度か訪れた街ではあるが今回は駐在である。東洋の真珠、慕情の世界、百万ドルの夜景、世界のショールーム、中継貿易港、税金天国(タックスヘブン)、アジアの十字路、中国へのゲート、自由放任主義(レッセフェール)、借りものの場所、借りものの時間などの枕言葉がつく香港は特異な都市である。90年代になるとアジア最大の貿易センターとか金融センターといわれるようになったが、猥雑で喧騒、何でもありの街に変わりはない。

 武田薬品の現地子会社、武田IMC社の社長とはいうものの一人駐在の単身赴任である。人口500万人余りの植民都市にある小さな会社。赴任に際して武田部長から
 「内需だけでは小さいが、後背地(ヒンダーランド)の中国で大きな潜在需要(ポテンシャリティー)がある。角君にしかできない仕事があるはず」
と因果を含めて送り出された。これまで、
 「(部下の)話には乗ってみよう。(上司の)おだてにも乗ってみよう」
を信条として勤めてきたサラリーマン人生である。やってみるしかない。

 前任のT氏から業務の引継ぎを受ける。従業員は20名で、日本で製造した医薬品を輸入して香港とマカオで販売する。ダーゼンやパンスポリンといった医家向けの新薬を取り扱ってはいるが、主要製品はビオフェルミンとカタリンとハイシーの大衆薬である。医療用医薬品の会社とはとてもいえず、製品構成の点でアジアにある他の子会社と比べ遅れがめだつ。しかし、この域内事業の他に、日本本社の中国向け輸出ビジネスを側面援助する任務もおびている。従業員の高い給与を賄うためのしがない口銭稼ぎではあるが、将来の夢が膨らむ仕事ではある。

 昨年末までは経済学部卒業のT氏と外大・中国語科を卒業したK君の二人が駐在していたが、天安門事件による香港の経済不況で二人体制では給与負担が重くなって、曲がりなりにも中国語を話せる角君が一人二役を務める役回りになったようだ。日常の生活と仕事では英語を使う。前任のT氏が赴任して間もない頃、現地人の営業部長が提案する積極策を採用して、胃腸薬を大衆宣伝したのだが、売上げは上がらず多額の赤字を抱えることになったとのこと。加えて中国向けダーゼンが天安門事件の影響で出荷停止のまま大阪の倉庫に眠っている。中国向け専用包装なので他国に転売ができない。こうして累積赤字と在庫の山に押しつぶされそうにして、角君の仕事が始まった。
 「台湾、フィリピンそして今度は香港と、俺は赤字会社の再生請負人の役回りか」
と愚痴りたくもなるが、口に出したらこちらの負けと忍の一字である。

 1972年に米中が国交を回復してから17年。中国への貴重な貿易窓口として一歩一歩その地位を固めてきた香港であるが、89年6月4日に偶発した天安門事件で中国の民主化は一気に数年前に逆戻りし、香港経済は極度の停滞状況となった。天安門事件を簡単に振り返る。鄧小平の右腕として改革・開放政策を推進した胡耀邦総書記が86年の学生デモへの対応で、党の長老たちから
 「対処が手ぬるく、ブルジョア化と自由化を広めた」
と批判され、その地位を追われた。失意もいえない89年4月に心臓発作で急逝。その死を惜しむ学生らの追悼行動が先鋭化し、共産党政府はついに戦車を出動させ同胞に向けて銃を発砲。多数の死傷者を出してまで武力で民主化の要求を抑え込んだ。この痛ましい天安門事件に対し自由世界の国々は人権を無視した共産党中国と絶縁し、経済封鎖同然の状態となった。

 T氏はホテルに移り、角さんが彼のマンションに入居する。この高層マンションは香港島の観光名所の一つ胡文虎(アウブンホウ:旧名タイガーパーム)ガーデンの直ぐ裏手にあり、ここを訪れる観光ガイドが必ず
 「日本人駐在員が多く住む高級マンションです」
と指差しながら紹介する観光スポットのロンスデル・ガーデンである。香港に旅行した方は、23階のバルコニーから香港ハーバーの絶景を楽しんでいる角さんを仰ぎ見たかも知れない。

 一年半ほど住んで契約期間が終了したのを機に、角さんは12階にある山側のフラットに引っ越した。会社の職員たちは
「なぜハーバービユーの海側から、景色の悪い山側に移ったのですか。家賃が高過ぎるので搬家(パンチャー:引越し)したのですか」
と訝しがった。香港ではマンションでもホテルでもビクトリア港の景観が楽しめる海側の部屋を“ハーバービユー”と珍重し、家賃やホテル代は割高である。引越しの理由は簡単。海が見えるということは北向きなのである。香港のマンションは冷房完備であるが、暖房設備はなく冬はかなり寒い。ましてや昼間は人気がなく煮炊きもしないとなれば、一人者には冬の寒さがことのほか身にしみる。

 地図を広げると香港は香港島と九龍と新界の三地区からなり、国境をへだててその北が中国である。香港島からビクトリア港や九龍半島を望むことは北向きとなる。瀬戸内海を南に見て育った者にとっては南北と東西とが逆転し、何とも落ち着きの悪い方向感覚である。ともあれ、こうして角さんの香港駐在は天安門事件の後遺症を引きずりながら1997年7月1日の香港返還へ向けて始まった。   (1月上旬号  完)   

108)慶応ビジネス・スクール
 その年の11月に慶応義塾大学の経営幹部セミナーに出席した。伊豆下田にある東急ホテルで2週間の缶詰研修。ハーバード大学ビジネス・スクールの縮小日本版とのことである。大会社の部課長や中小企業の役員など多士済々。全国から集まった60名が一堂に会し終日寝起きを共にして、講義を受けグループごとのタスク方式で問題解決に深夜まで取組む。千葉県の海浜田舎町が幕張メッセへと変貌した大プロジェクトや、クロネコ大和が旧弊に固執する官僚と厳しい交渉をして新規ビジネスを開拓した経緯などがケース・スタディーとして紹介される。そんな中で「計量経済」と「スクラップ・アンド・ビルド」の講義が特に印象に残った。前者はコンピューターと統計学を駆使して将来を予想する経営手法。後者はバブル崩壊から最近にいたるまで流行語となった“破壊と創造”の戦略的会社経営である。パキスタンのH社訪問前に教わっていたら、もっと思い切った決断ができたであろうと講義を聞きながら思った。

 研修から帰ると仕事が待っていた。シンガポール駐在員事務所の存続是非を検討せよとの指示である。かつて角君が市場開拓に心血を注いだマレーシア拡張の基地で、フィリッピンで後事を託したH君がそこの事務所所長として赴任している。シンガポールとマレーシア両国での利益予想と必要経費を比較検討する。いくら甘く見ても存続の価値は乏しい。日本人の駐在員は引き揚げタイ武田の出先機関として存続させる予定である。15年前のマレーシア長期出張とH君の心情を思い起こしながらも、慶応ビジネス・スクールで学んだ“スクラップ&ビルド”の応用と割り切り、事務所閉鎖の書簡をH君に書いた。

 その後、香港で会社経営に携わったとき破壊がいかに困難かを実感した。契約書の中の一行がくびかせとなり前進を拒む。構造改革には人員整理を伴い多大の一時金が必要となる。これについては香港駐在編でご披露する。戦後日本が急速な復興を遂げた理由はいくつかあろうが、人命問題や新憲法の是非は別にして、米軍の焼夷弾が大都市を更地(さらち)に変え、GHQが古い憲法や規則を無効にし、破壊する決断と手間を省いてくれたこともそのひとつと言えば言い過ぎであろうか。人には夫々のタイプがあり得手不得手がある。営業と財務、攻めと守り、経済と政治、進取と保守、破壊と創造など人により得意とする領域が異なる。政治の世界や会社経営において旧弊を破壊しながら新しい何かを創造していくには多大のエネルギーがいる。破壊型の人が2、3年活躍したあと、選手交代して後任者が創造的な仕事をするのが、現実に見られるプロセスように思われる。

 香港にある子会社、武田IMC社の社長として出向するよう内示を受けたのは12月の初めであった。その前年の6月10日に北京で天安門事件が起きた。この事件により上向き始めた中国経済は頓挫し、世界における中国の信用は失墜し、その影響で香港経済もどん底状態である。
 「武田IMC社の経営は危機に瀕している。再建を図りながら香港から中国南部の商売も見て欲しい」
武田部長の説明である。公式発令は来年3月1日になるとのこと。
 
 そんなある日の夕刻、F銀行の営業マンが自宅に尋ねてきた。多少の預金でお世話になっている。どこで聞きつけたのか、
 「お嬢様が来春進学ですね。奨学金をお貸しいたしましょうか」と切り出してくる。その内に株価の話となり
 「株の購入資金も融資できますよ」に発展する。冷やかし半分も手伝って問答をしているうちに、貸与金額が次第にエスカレートし2000万でも3000万円でも可能となる。挙句のはてに一億円の融資話までとびだす。
 「そんなに多額を貸して俺が死んだらどうする」と角君が問えば
 「このマンションと角さんの生命保険と退職金で支払えますよ」との返答。お互いに多少冗談の話にはなったが、今から思えば銀行にはそれほど資金がだぶつき、マンションの価格も暴騰し、営業マンは行け行けドンドンであったのであろう。9年前に購入のマンションに3倍の値段が付いたのもその頃で、まさにバブルの絶頂期であった。

 瓢箪から駒の思いつきで奨学金の貸与話は株購入の資金1000万円に変わった。当時、売買していた500万円ほどの株と合わせて総額1500万円ほどの株投資である。
 「多少の変動はあっても帰国までおいておけば金利以上は稼げるであろう」
との甘い期待からである。1989年12月半ばであった。株価が日経平均3万8915円の最高値を記録したのは数日後の12月29日であった。その結末をご報告する勇気は最早ない。ともあれ2年半の短い大阪勤務を終えて、株価上昇の夢と家族三人を日本に残して香港に向けて伊丹空港を飛び立った。    「Ⅹ.日本・ロシア・インド編」  完     (12月下旬号  完)

107)インドとパキスタンへの旅
 インドとパキスタンへの出張を命ぜられたのは1989年の6月であった。長年提携関係にある両社のMR活動の実態把握とダーゼンの拡張支援をするためで、角君にとっては初めての国である。25日午後10時過ぎにキャッセー・パシフィック機でボンベイ(現ムンバイ)に到着した。提携会社のBS社はインドで中堅の製剤会社。ライセンス契約に基づき武田薬品が提供した技術資料に従って輸入原薬を自社工場で打錠して最終製品にしている。翌朝、迎えの車で会社に着くと歓迎の横断幕が張られている。美人の社長秘書が角君の額に赤い印を付ける。ティカと呼ぶそうである。次いで花束の贈呈。されるままに俎板(まないた)の鯉。面映い歓迎の儀式が全社員の大拍手でやっと終了する。

社長から会社の現状を聴き経営についての意見交換をする。西欧はトップダウン方式、日本はボトムアップ方式だが、
 「理想的には現場の声を吸い上げ、それを咀嚼(そしゃく)して創りだした戦略や戦術を的確に部下に伝える“ボトムアップ&トップダウン”のダブルルートが大切」
と角君が持論を披露する。そして学術部長とダーゼンの拡張方法について協議を始めるが、彼は自分の仕事ぶりと販売アイデアをアピールするのに懸命で、角君は聞き役となる。わずかの合間をぬって
 「総合病院の医局単位でフィルムショーを開くのが実践的」
と一言経験則を挟むのがやっとの有様。聞きしに勝るインド人の雄弁さと理屈っぽさを実感した。帰国後に次から次へと質問と依頼状が届く。面倒くさいと思いながらも一件ごと丁寧に対応する。そのお返しのように注文量が少しずつ増えてゆく。互いの信頼関係ができたからであろう。やはり命令や指示よりも相手に敬意をはらい意見に耳を傾けることが、やる気を起こさせるようだ。

 宿泊は市の中心部にある35階建ての最高級のオベロイ・タワーホテル。高い天井、明るいロビー、ほどよく効いた冷房が心地よい。レセプションではサリー姿の若い女性が静かに、しかしてきぱきと対応してくれる。動作の度にチラッと垣間見える白い肌のお腹からエロチシズムがもれる。ホテルから一歩外に出ると“天国と地獄”の言葉はこのためにあるような落差で、汚い路上はまるでスラム街。直ぐに乞食が近づいてくる。危険を感じて慌ててホテルに引き返した。結局、ホテルと事務所と工場を車で往復しただけで市街を散策する機会もなく、3日後の28日にパキスタンのカラチへ旅立った。空港で買ったインド綿のピンクのシャツ一枚だけが記念品で、すでに色褪せたが今も夏の前後に角君の愛用となっている。

 パキスタンの提携先H社は古くからの取引先で、入社したばかりの頃に現社長の父君を京都に観光案内した記憶がある。当初は日本から完成品を輸出していたがパキスタン向けの特別包装ではコスト高なので、その後、日本から錠剤バルクで輸出してカラチで小分け包装する業務形態に変更した。このように一口で輸出と言っても、完成品の輸出、錠剤バルクの輸出、技術提携による原薬の輸出など様々な形態がある。ホテルの一階ロビーでチェックインを終えエレベーターに乗ったら、一人の男が追いかけるように乗り込んできた。ドアーが閉まるや否や民族衣装の下からウイスキーを取り出し、買わないかと話しかけてきた。パキスタンはイスラム教でアルコールは厳禁である。
 「旅行者が部屋で飲むのは一向に構わない」
と彼は手短に売り込む。お気の毒だが相手が悪い。角君にとってアルコールは禁を犯して飲むほどの飲料ではない。

 部屋の中はエアコンが心地良い。アルコールよりも先ず一杯と魔法瓶の水をコップに注ぎ、乾いた喉を潤す。一時うとうとして目をさますとお腹が異常である。急いでトイレに駆け込む。猛烈な下痢である。夕食を抜いて一夜明けると多少は治まっている。H社で話題にしたところ
 「原因は魔法瓶の水であろう。毎日交換しているとは限らない」
と、さも当然のような口ぶり。台湾ではどんな安宿に泊まっても、熱いお湯が魔法瓶に入っている。その習慣から魔法瓶を過信したのが失敗の元と知る。角君は現地の食品が大好きで何でも食べる。のみならず、初めて目にする食べ物にはときめきさえ感じる。しかし、危険を避けるために“熱をかけた物”だけと原則を決めて今日まで珍しいエスニックを楽しんできた。それでも過去二回失敗し、今日で三度目の下痢である。

 一度はフィリッピンのセブ島で起きた。MRとの宴会で泥酔して早々に寝入ったのだが、夜中にノドが乾いて目が覚めた。気が付けば小腹がすいて寝つかれない。ホテルの窓から階下を見ると路上で豆電球の光を頼りに何かを商っている。聞けばココアがあるそうで魔法瓶からお湯を注いでもらう。翌朝は激しい腹痛で目が覚めた。Med Repの説明によれば、
 「ココアはバイ菌の巣で魔法瓶のお湯はぬるくなって殺菌能力はない」
二回目は台湾で経験した。MRと同行拡張を終えて海浜で海鮮料理の夕食をした。素晴らしく美味で酔いも手伝ってルンルン気分でベッドに横になっていると、物凄い腹痛と下痢が始まる。恐らくは焼きムール貝に充分火が通っていなかったのであろう。“熱をかけた物”を原則としていても熱が不十分なことがある。リスク管理の難しさである。そんな訳で、翌日の昼食に案内されたパキスタン料理を、ただ指を咥えて見るしかなかった。

 H社は多角経営の同族会社で医薬品はその一部。このところ停滞が目立つので提携先を専業医薬品会社に換える方が望ましい、と角君は考えている。契約破棄を突然申し入れて逆上されては困るが多少は強いことも言わねば、と考えながらの訪問である。応接室に通されると、先代の社長が日本訪問時に長兵衛社長と一緒に撮った写真など、武田に関わる写真が壁いっぱいに飾られている。そんな中で気の良さそうな現社長から長年の親密な関係を縷々聞かされると、提携解消の話など到底言い出せない。
 「社内改革を進めるように」
と提言するのがやっとである。

 仕事を終えてプロモーショナル・マネージャーに案内されて、クリフトンビーチを訪れた。市民たちが凧揚げに興じている。アラビア海からの風を受けて沢山の凧が米粒のように天空に舞っている。角君は誘われるままに坐ったラクダに乗ると、飼い主の一声で後ろ足から立ち上がる。前につんのめそうになって驚いた。幼少時に牛、タイで象、そして今回はラクダに乗った。カラチから車で30キロほど郊外のチョウカンディでは異様な光景に言葉を失う。見渡す限り石塔が並んでいる。大小さまざまだが日本の墓石よりは大きい。よく見ると何やら幾何学模様の彫刻が施されているものもある。ネクロポリス(墓石群)というそうである。聞けばこのような墓石群はこの地方に多数あるがいずれも人里離れたところで、まさに“死の町”とのこと。間の悪いことは重なるもので、空港でカメラを盗まれてしまった。ラクダに乗った写真もネクロポリスの写真もなく、舌の上にカラチの味もない。社長がくれた粗削りの淡黄緑の大理石の一輪指しが飾り棚の奥で眠っているだけである。  (12月中旬号  完)

106)モスクワからオデッサへ
 月曜日からいよいよ仕事。イスクラ産業の事務所で打ち合わせをする。説明書や記念品のほか講師招聘や通訳代など殆どの費用をメーカーが負担することが再確認される。会議を終えてクラスノフ眼科研究所と外国貿易公団を表敬訪問する。全てイスクラ産業のアレンジに従い、高田さんと角君はベルトコンベアーに乗り笑顔と対話を心がける。幸いに英語が通じる。翌日はいよいよシンポジウムで、その夜はVIPを招待したパーティー。角君も下手なダンスに興じ愛嬌をふりまく。角君の長い両手でも抱えられない立派な体格のご夫人と文字通りの社交ダンスとなる。ロシアのご夫人は前から見ると、顔が小さいためかそれほど大きくは見えないが、後ろから見るとヒップの立派さに圧倒される。

 翌日も長塚さんに案内されて研究所や病院を表敬訪問する。よくは分からないがロシア眼科学会の長老たちであろう。研究所の応接室で簡単な昼食が供される。決してご馳走とはいえないが、心がこもったもてなしである。角君は民間外交の精神を忘れず会話に加わる。始まって間もないペレストロイカが話題の中心。多少、胡散臭く斜めから眺め口先では揶揄しているが、新時代の到来に寄せる期待の大きさがうかがえる。その夜、チャイコフスキー・コンサートホールへ招待され「チャイコフスキーの交響曲第5番」を聴いた。招待者側からは三組のご夫妻が正装で同席する。演奏会が終わりホール前で別れの挨拶を交わす。夫人のオーバーコートはミンクなのか見たこともない立派な毛皮である。ちらちらと雪が舞う静かなモスクワの夕べであった。

 翌日は市内を案内された。街路樹の大通りの両側には大きなビルが並んでいる。夫々が五階建くらいでほぼ同じ高さ。初めて見る西洋風の街並みに興奮した。後年見た北京王府井に似た雰囲気で日本とかなり異なる。あえて言えば札幌の大通りか大阪の御堂筋に似ている。国内最大の有名なグム百貨店へ入った。一階と二階は細かく仕切った専門店で三階はオフィスか住居なのだろうか。中央にアーケード式の通りがあり三階まで吹き抜けで天井はガラス窓。中央の通路の上には二階、三階に渡り廊下がある珍しい構造。その優雅さに感激したが、各商店の品物はまばらで食料品にいたっては皆無に近い。話によればそれでも裕福層の家庭の冷蔵庫は満杯だそうである。外国人旅行者専門店「ベリョース」でキャビアとマトリョーシカを土産に買った。前者はチョウザメの卵で帰国後直ぐに胃の餌食となった。後者はこけし風農婦姿の入れ子人形で、今も拙宅の飾り棚で微笑んでいる。残雪の白樺の林をとばし郊外にあるチャイコフスキー記念館を訪れた。白樺林の小路の奥に偉大な音楽家が過ごした家がひっそりとたたずんでいた。

 その日の夕方、モスクワのプヌコボ空港を離陸しオデッサへ向かった。1時間45分ほぼ真南に飛行して黒海北岸の港湾都市に到着した。18世紀末にトルコから割譲されてロシア領となり、19世紀にはウクライナの小麦輸出港として栄えた。人口は120万人ほどとのこと。翌日は病院や研究所にVIPを表敬訪問し午後にシンポジウムを終えた。

 全日程を終えて海岸通にあるポチョムキン階段の見物にでかけた。プラタナスの街路樹が美しい落ち着いた街である。どんよりとした鉛色の空が黒海を覆っている。港へ通じる幅広い階段は192段で高さ30メートルの間に10箇所の踊り場があるが、上から見ると踊り場しか見えないが、下から見ると階段しか見えぬそうである。遠い水平線と足元の階段を眺めながら、角君は1905年の革命運動を描いた映画『戦艦ポチョムキン』を思い出している。水兵と市民が軍隊に襲撃されこの階段が血に染まり阿鼻叫喚の修羅場と化す。人々が倒れ逃げ惑う中を母の手を離れた乳母車が階段を駆け落ちて行く。乳母車のなかで泣き叫ぶ赤ちゃんが大写しになる劇的な場面である。

 当初、キエフの眼科学会からもシンポジウム開催の要請があったが、日本で他の予定があり訪問を諦めた。今から思えば受諾すればよかったと悔やまれる。このオデッサやキエフ地方は2004年末にウクライナ国として旧ソ連より独立した。日本の1.6倍の広大な国土に4500万人の人口が住んでいる。西部はウクライナ語を話す農業国で東南部はロシア語を話す重工業国。東西文化の対立と亀裂が今も続いているようである。

 モスクワでホッキンス博士と別れ、午後7時20分に帰国の途についた。明け方に高度1万メートルから見下ろす広漠とした雪のシベリア大地が朝日に輝いている。恐らくはバイカル湖でありアムール川であろうと思える景観がゆっくりと後方へ流れてゆく。日本海を渡り成田に到着したのは11月21日午前11時前であった。 (12月下旬号 一日遅れの掲載をお詫びします)

105)韓国とロシアへの旅
 浦島太郎のリハビリが10カ月過ぎた1988年の6月に韓国に出張した。提携先のH社にパンスポリンの拡張支援をするためであるが、国内から転籍してきた山部君の指導も兼ねている。久しぶりの来訪を歓迎してウー社長が昼食に案内して下さった。前菜の小鉢がテーブルいっぱいに並べられ昼食というのにその数、10種余りの多様さ。韓国宮廷料理の名残で豪華なものになれば20品は下らないとのこと。一見京懐石の前菜に似ているが、参鶏湯(サムゲタン)の次にメインのブルコギやカルビが出ると一気に韓国風となる。最後の冷麺(リョンミヨン)で口の中がさっぱりと落ち着く。

 12年前、リラシリン拡張の意見交換で訪れた時と比べ人々の表情が和らいでいる。戒厳令の解除と経済の発展が心に余裕をもたらした結果であろう。レストランを出ると紺碧の空。
 「素晴らしい日本晴れだなー」
と思わず角君が空を見上げて深呼吸をする。すかさずウー社長が
 「韓国晴れだよ。ここでは」
と言い返す。負けず嫌いの韓国人を代表した一言。居合わせた一同が思わず大笑いする。午後からH社のMRの案内でソウル大学を訪問し教授一人ひとりに日頃のサポートに謝意を述べ、夕刻に開催するシンポジウムへの出席をお願いする。

 ソウルの主要大学で仕事を終えて、翌日拡張旅行に出発する。ソウルに単身駐在中の親友吉村君も加わって、H社スタッフと一緒にソウルから太田(テジョン)、大邱(テーグ)を経て釜山(プサン)までのキャラバンである。各都市で午前と午後に病院を訪問、夕刻からシンポジウムを開催し、終了後にヘッドライトを頼りに次の町へと車をとばす。太田市で仕事を終えた夜は郊外にある儒城温泉(ユソンオンチョン)でH社主催の慰労会が開かれた。チマチョゴリの韓国美人にお酌をされて妓生(キーセン)パーティーが始まると旅の疲れもいつしか忘れる。全行程を終えて釜山海浜の小さな食堂で食べた海鮮料理の味と安さが印象に残っている。この旅で多くの人たちからもらった心からの歓迎に感激した。少年時代に林野で朝鮮半島からの戦争避難民の生活を見て抱いた韓国人への偏見と悪印象を払拭する旅にもなった。 
  
 韓国から帰国すると、ソ連で開催の白内障シンポジウムへの出張を命じられた。それまで田村君が点眼薬カタリンの製造元と輸出元と協議して準備を進めてきたので、横から美味しいところだけを頂戴する結果となった。1988年11月12日(土)10時前に製造元千寿製薬の高田部長と伊丹から東京に向かう。初めて見る成田新空港の大きさに驚いた。輸出元イスクラ産業の営業マン長塚さんと落合う。3名を乗せたソ連の航空機アエロフロートが離陸したのは午後1時であった。前夜テレビ観戦したソ連女子バレーボールの選手たちと機中で一緒になった。彼女たちは上手くはないが少しは英語が話せる。アルバムには両手に華の角君が小さく写っている。手持ちの旅行案内書にサインを貰ったが残念ながら誰だか読めない。きっと名のある選手であろう。

 夕刻5時半にモスクワに到着する。飛行10時間、時差が6時間の距離である。通関時に手持ちのドルやカメラ、時計など貴重品を申告する。17年前にビルマ(現ミヤンマー)に到着したときと同様の手続きである。共産主義の国と緊張したが問題なく通関できた。イスクラ産業の駐在員が出迎えてくれて車は市内へ向けて真っ直ぐな道をとばす。午後7時というのに白夜の空はまだ明るい。まさに「トロイカ」の風景そのままである。
   ♪ 雪の白樺並木、夕日が映える
       走れトロイカほがらかに 鈴の音高く ♪
心が躍り思わず口ずさむ。学生祭や新宿の歌声喫茶「ともしび」で歌ったロシアの大地にやってきた実感が湧いてくる。千寿製薬が招聘したボン大学のホッキン博士とホテルで合流する。ホッキン先生は白内障の大家で特別講演を依頼している。

 外国人専用の国営ホテルに落ち着き館内で夕食をとる。格別変わった料理はないが、ガスと酸味が強いミネラルウオーターが印象に残っている。滞在中は食事の度毎にだされ、飲むほどに味に馴染み虜になった。爾来、出会う機会はなく何とかもう一度飲みたいと今も願っている。夕方から雪が降り始め、仕方なく夕食後はロビーでくつろぐ。出入り口は二重ドアーで冷たい外気が直接館内に入らない仕組みである。緩衝地帯のドアーから外を見ると雪が舞い込む軒下に数人の美女がこちらに向って手招きしている。いずれがカチューシャかアンナ・カレーニナか決めかねる若き美人たち。西洋人の男性が館外に出て何やらひそひそ話の様子。その後、互いに肩を寄せるようにして粉雪の彼方に消えていった。角君も興味半分で外側のドアーを押す。
 「私たちはホテル内へは入れないので、他の場所で一緒にコーヒーを飲みませんか」
との甘い誘いである。黒い瞳が必死で訴えている。美女たちの意図が判ったところで館内に入り部屋に戻るが、何故か眠れぬ夜であった。

 翌日は午後4時まで自由行動。昨夜の雪はすでに止み、快晴で雪の反射がまぶしい。高田さんは早朝から雪道をジョギングに出かけた。角君は早々に朝食を終えて一人で赤の広場へ向かう。石畳の広大な広場は靴が沈む程度の雪に覆われ人影はまばらである。クレムリンの城壁とその先に見えるネギ坊主の塔が朝日に照らされ、威厳を誇示している。幾多の歴史をきざむ広場であり城壁であるが、共産主義の政治には興味はなく感動は小さい。近くの国立歴史博物館に入る。石器時代から19世紀末までのロシアの歴史に関する文物が展示されている。その中に教科書や画集で見慣れた西洋絵画を発見して興奮する。アラブ世界から発掘してきたのかミイラを見た。初めての経験である。ホテルに帰り遅い昼食を終えて一休みする。約束の4時にロビーに集合し、長塚さんの案内でレーニンの丘へ登る。どんよりとした鉛色の空の下で、モスクワ川が大きく弧を描き、その先にクレムリン宮殿や赤の広場、そしてモスクワの街並みが黒ずんで見える。映画『戦争と平和』でナポレオンが白い馬上から眺めた風景である。     (11月下旬号  完) (今回は都合により2日早く掲載しました)

104)浦島太郎のリハビリ
 12年ぶりに大阪に帰任したのは1987年48歳の夏であった。職場の顔ぶれもすっかり変わり角君は年長組みとなり、名実ともに浦島太郎である。パルモア学院に一緒に通った外国事業部の同僚7人も3人だけになってしまった。その2人も機構改革でまもなく他部門へ転出した。頂戴した肩書きは外国事業部・マーケティング部アジア全域担当主席。東京目白駅近くの喫茶店で婚約者への想いを熱く語った同期入社の武田部長が直接の上司。正に奇縁である。その後、定年間際まで彼が陰に日なたにサポートしてくれた。かつて東京時代に精魂を傾けたビタミンやリボタイドなど医薬食品原料の輸出部門はファインケミカル事業部として分離独立し、先輩のA氏や同僚のM君、H君はそちらの所属となった。部員たちは偶々所属している部署により外国事業部とファインケミカル事業部に分かれた。

 年が明けて1988年になり武田國男氏が米国から帰国し外国事業部長に就任された。現在の武田会長が階段を登り始めた時である。ほどなく化学品事業部、農薬事業部、ファインケミカル事業部の各事業部は夫々独自で輸出入業務を行うこととなり、製品ごとの製販一体の組織体系が確立する。同じ理屈から外国事業部は医薬品事業部の一部門に編入され“医薬国際本部”と改称される。医薬品事業部は数年前から国内のMR経験者を米国に留学させていた。角君が帰国した時には米国で経営学を学びMBAの資格を取得して帰国した留学組の数人が、国際本部に転籍し活躍を始めていた。台湾で業務引継ぎをした豊田君もその一人である。
 「旧外国事業部員は英語や貿易実務には長けていても、医療用医薬品のマーケティングの力は劣る。医薬国際本部を発展させるためにはMR経験者が持つ知識とスキルが必要」
との大義名分であるが、実態は外国事業部が医薬品事業部に吸収合併される社内のM&Aである、と角君は思った。

 この後、研究所から創出される新製品が大輪の花を咲かすと会社幹部は将来に自信を深めていたのであろう。世界の医療用医薬品の市場で新たな国際的マーケティングを展開するための人材育成であり組織改革である。その先見性は是とするものの、これまで外国事業部で汗を流し経験を積み発展を支えてきた一人ひとりの部員にとっては、多少割り切れぬ思いが残る組織改革であった。角君は
 「自分もその一人に過ぎない」
と自身を慰め納得させた。帰国した角君の部下にこの米国留学の薬剤師が二人いる。過去に他部門から外国事業部に転籍した者たちは一日も早く英語や国際貿易を習得しようと努力した。しかし、この二人は国内で修羅場をくぐった営業のつわもので、現状を否定する改革派の尖兵である。新しい職場に馴染むよりもマイペースを貫き、内勤でコレポンに精出すよりも外国へ出かけて行って直接拡張活動に携わる仕事振り。多少スマートさに欠ける暴れん坊の感は拭えないが、体力と根性と向こう意気は充分である。
 「まあ思うままにやってもらいましょう」
と角君は静観を決め込む。第一、角君自身が浦島太郎である。ガツガツするよりリハビリをして長年の垢を落とすことが先決である。

 窓際で惰眠を貪っていたある日、「教育訓練のあり方」のプロジェクトを立ち上げ、医薬国際本部長に答申する宿題を頂戴した。外国駐在の経験者と日本でMR経験をした両者の智恵を融合させるタスク方式である。フィリッピンから帰国して間もないかつての上司桜井さんがトップで、角君が実行部隊長である。国際本部の各部門から指名された中堅たちが参集する。しかし、夫々が日々の業務をこなしながらのプロジェクト・チーム。次回開催日の日程調整から早くももめる。しからば毎週水曜日の午後4時と決めても全員集合とはいかない。何よりも角君の部下二人が多忙や外国出張で欠席しがちである。別部門の親しい後輩が
 「角さんはHとTに甘すぎる」
とクレームをつけるが、ことを荒立てると事態が悪化するくらいのことは、長年の経験で承知している。何よりも角君自身が国内の仕事から12年間も遠ざかっている。タスク方式やプロジェクトなど英語の言葉は知ってはいても日本的仕事の進め方や新人類の扱いには疎い。

 「このやんちゃくれが」と内心毒づきながらも少しずつ調整して、三ヶ月後に武田本部長の臨席をえて発表会を開催し無事大役を終えた。詳しい内容は控えるが、この時、角君が重視したポイントは四点あった。一つは、教育は新知識を教える事で訓練は反復練習で身につけさせ事。これは車の両輪で学校教育と公文式練習のような関係。二つ目は、教育訓練は伝達業務である事。本社の主任からその部下に、さらに支店の主任が部下の担当者に、そして最後はMRを通して全国の医師や薬剤師へと過不足と遅滞なく伝わらねばならない。そのための教材・印刷物・視覚機器などの整備が重要。フィリッピンで手にした米国S社の立派なMRマニュアルが頭の隅にあった。三つ目はコンセプトを大切にすること。四つ目の各国ごとに顧問医(常勤非常勤を問わず)を採用する案は諸事情を勘案し採択されなかった。細部の事項は若い人たちの発案に任せた。

 ある先輩が浦島太郎を心配して忠告してくれた。
 「将来の買い物は現金でなくカードが主流になるが、ゴルフ会員権の一つも持ってなければ銀行がカードを発行してくれない。メンバーシップが高騰しているから早く買った方が良いよ」
下手な横好きながらゴルフ以外に遊びを知らない角君があわてたことか。何でもいいから取敢えず何処かのメンバーに潜り込もうと決心する。知人の紹介で山口県にあるゴルフ場のメンバーになった。本州の最果てではあるが、
 「これも何かの縁、いざとなれば近くにある光工場の知人に売却をたのもう」
などと安直なことを考える。今から思えばバブルの最終便に飛び乗った日である。その後10年間で3回家内とプレーをした。そして2006年の春に一通の書簡を受取った。
 「会社更生法を申請する。同意か否か? 同意ならば250万円の預託金の権利を放棄する代わりに、18万円を受取るか或いは新会社のメンバーになれる」
と書かれている。角君のバブルが“一つ”弾けた瞬間であった。     (11月中旬号  完)

103)好況日本とバブルの徴候
 台湾でも電脳(コンピュータ)時代が始まった。台湾武田も導入のために専門家2名を日本のA&A社から招聘した。二人の仕事の進め方を見て角君は我が目を疑った。8年前に角君が販売実績の把握システムを構築する時に行った職員から聞き取り調査と、全く同じ手法で彼らが仕事を始めたのである。種々検討を重ねた結果、現行の手作業をそのままコンピューター化するだけで充分ということになった。素人の角君が一人で作り上げたシステムが8年経っても未だ色あせず使用に耐えられたことに内心喝采した。

 春先の株主総会に大株主の大阪本社から役員が来られた。1986年だったであろうか、ご出席の内林政夫国際本部長が
 「角君、あと10年経ったら、社員一人ひとりがコンピュータで仕事をするようになる。操作できなければサラリーマンとしてお払い箱だよ」
とおっしゃった。
 「いま47歳で10年後は57歳、3年くらい早期退職でも仕方ないです」
と冗談半分、本気半分で返答したものである。その後、本社との連絡にワープロを使いはしたが計数業務などは秘書に任せきりでパソコンを使わぬままに57歳の役職定年を香港で迎えた。帰国した翌日に机の上にパソコンをドンと置かれ、
 「明日からこれで仕事をして下さい。社内連絡などは全てこれで検索できます」
と若い女性担当者に言われて目を白黒させた。上司の忠告は聞いておくものである。

 同じとき一緒に来られた財務担当役員から、
 「手持ち資金が多すぎる。運用してこそ価値がある。日本では今、新規事業、用地確保、設備新設などへの投資が盛んだよ。台湾武田でも何か考えて見てはどうかねー」
と資金運用を勧められた。
 「台湾武田は日本との合弁会社ですし・・・、台湾のおかれている政治状況も微妙ですし・・・」
と言葉を濁した。石橋を三度叩いてから渡る堅実経営の武田薬品の財布を預かる重役からでさえ、このような積極的な投資の提案が出始めていた。
  
 コンピューター導入の仕事で出張して来た本社の難波君やA&A社の社員と、夕食をしながら雑談の花が咲く。日本経済の凄まじい躍進ぶりが、彼らの口から次々と飛び出る。
 「コンピューターで管理するインテリジェントビルが建設ラッシュ!」
 「都心の地価が高騰してもオフィスは満杯の好景気!」
 「土地の確保が会社の将来の命運を握っている」
 「土と¥で“幸”になる」
 「将来は、日本の自動車が世界を席捲するだろう」
などなどである。挙句の果てに、
 「近頃の若者は汚い、キツイ、危険な3Kの仕事を敬遠する」
 「もう米国から学ぶことは無くなった、と財界の有力者が言っていた」
との話まで飛び出す。これらを聞いて角君は
 「日本もえらく自信をもったものだなー。しかし、調子に乗っていると将来、手痛いしっぺ返しを食らうよ」
と思わず口に出したものである。その後に起きたバブルの崩壊は、他国からのしっぺ返しでこそなかったが、再起ができないほどの大天罰であった。

 日本の好景気は新聞報道で多少は知っていたが、このような異常な事態を身近な人たちから聞くと平静ではいられない。これまで幾度となく見聞きしてきた“ライフサイクル”のカーブがピークに達しているのではないかと、日本経済の先行きに不安を感じた。今から思えば、既にバブルは破裂に向けて走っていたのである。そして自分一人が外地で取り残されていくような思いにも駆られる。12年前に日本から赴任した時には、斬新な知識と若い情熱に溢れ、当地の若いMRに歓迎されたものである。しかし、その後は日々の仕事に追われ、日本を離れて耳学問の機会さえ無い。インプットが無いままアウトプットだけで過ごしてきた。彼我間の感覚にズレを感じ、マンネリに陥っているとの危惧も膨らむ。

 そんなある日、帰国命令を受けた。後任は10年近く後輩の豊田君。初めての対面である。国内でMRとして長年活躍したのち米国に留学し、帰国後に国際本部に転籍してきた実力派である。2週間の引継ぎを終えて1986年8月の半ばに帰国の途についた。

 戦後、台湾で流行った言葉“犬が去って豚が来た”「犬(日本人)は小うるさいが、家の番くらいはした。しかし、豚(国民党軍)はただ食って太るだけである」(第68話)を思い返すと、角君自身が会社のMRに対して、豚の如く強欲に販売高の増加を求め、小うるさく業務改善を連呼する犬であったかも知れない。部下であり親友でもある信さんから、
 「角さんの要求は欧米並みに一流だが、給与は日本並みの二流です」
と揶揄されたことがある。

 仕事が上手く運べば上司から“良くやった”とお褒めの言葉を頂戴する。そして部下の提言は“出来る限り採用する”ように心がけて来た。こうして
 「(上司の)おだてには乗ってみよう、(部下の提案)話にも乗ってみよう」
という、角君のビジネススタイルが生まれた。少々お人好しであり甘かったかも知れないが、台湾とフィリッピンでの仕事の結果は概ね正解であったと思う。だが、帰国希望を出さないせいで今浦島になった。

 前回の駐在時に比べ今回は苦戦の連続であった。日本語世代の先生方が減少し代わってアメリカ留学の医師が増えた。また欧米の会社が進出する一方で、現地の会社が力をつけてきた。それでも努力の甲斐があって、少しずつパンスポリンが市場に受け入れられ、会社の経営が安定した。過去の高シェアーがむしろ異常で、多様化社会ではシェアーの分配がむしろ正常であろうと思った。これまでの駐在生活ではMRの教育訓練を通して、彼ら一人ひとりの生産性をあげることに注力した。しかし、その一方で経済環境の変化、制度や薬事法の改定、新製品の誕生、経営者の力量の方がはるかに業績への影響が大きいと実感した。フィリピンで行った構造改革の顕著な効果がそう思わせた。総括すればMR管理から会社経営に関心が移った角君の「再びの台湾駐在」である。

 雲ひとつない快晴の旅。鹿児島上空をかすめ四国を眼下にみながら機体は徐々に高度をさげ大阪湾に近づく。その時、大きな前方後円墳が突然目に入った。きっと、日本で最大の仁徳天皇陵に違いない。緑の巨大な古代遺跡が水面に浮かんでいる。海外で過ごした12年の歳月を思うと胸が熱くなった。
 < 倭は 国のまほろば たたなづく 青垣
       山ごもれる 倭しうるはし >
                          「再びの台湾」 完   (11月上旬号  終)

102)消費税とGMPと医療保険
 世界の中で台湾の政治的地位は低下するが、経済は却って大発展を遂げる。これまで国民党の要人や政府高官は自身が台湾在住に及び腰であったが、ここに来てようやく台湾の存続に自信をえて制度の整備に取り掛かる。1986年だったか付加価値税が導入された。日本の消費税にほぼ似た制度である。大部分の市民にとっては未知の世界である。露天商は営業登録していないので課税されないとか、明朗会計の百貨店や大企業が不利だなどと話題で持ちきりである。在留日本商工会主催の説明会も開かれる。韓国では塩見さんが駐在中に導入されたとのこと。日本は3年遅れて1989年4月に3%で導入。台湾では5%から始まった。導入後のある日、雑貨店で買い物をしたところ飴玉を渡された。お礼のサービスかと思いきや、お釣りの小銭の代わりである。日本で消費税が導入されたとき一円や五円の小銭が無くて、商店が四苦八苦したと聞いて、
 「台湾みたいに飴玉で対処すれば簡単でいいのに」
と思った。

 日本人は筋論でことを進める。お金の代わりに飴玉を渡すなど、顧客に対し失礼千万なこと。筋が違えば立腹し針小棒大にことを荒立てる。ところが台湾人は物事を大小で判断する傾向があって、小さなことなら少々筋が通らなくても論理的でなくても問題にしない。中国人と日本人の問題意識の違いの一つと考える。座右の銘というほどではないが、角君は“大中小”という言葉を大切にして判断する習慣がついた。小事と思えばどうでも良いし、大事であれば真剣に対処する。台湾の生活で身につけた智恵の一つと思っている。

 台湾でもGMPがいよいよ施行されることになった。GMPとはGood Manufacturing Practiceの略で“医薬品の製造と品質に関する管理規定”である。台湾武田の工場は国が実施する以前から厳しい社内GMP規定を設けているので問題は少ないが、販売面で予期せぬハンデキャップを背負うことになる。少々細かな話になるが、GMP規定に従えば製造数量は正確に記録し過不足は一錠一本たりとも許されない。一方、医師に贈呈するサンプルはこれまでは営業経費として認められていたが、新税法では贈与として課税される。台湾武田は工場も経理も法令尊守なので工場から供給されるサンプルが激減した。ところが他のメーカー達はどう処理しているのか、これまでとおり大量のサンプルを添付した販売を続けている。実質的値引き商売である。これでは我社のパンスポリンは価格で太刀打ちできない。MRの質の向上による販売促進などバーゲンセールの前では全く無力。営業を預かる角君は泣いて悔しがった。

 同じ頃、国民医療保険が導入された。日本に遅れること約25年。日本や欧米各国の健康保険制度の長短を研究しつくしての導入である。詳しい説明は省略するが、特許に守られた高価な新薬よりも、特許切れの原料を使って製剤した“後発(ジェネリック)品”が有利になる。加えて“薬価差益”というハンデキャップも生じる。医療用医薬品は夫々の“薬価”が政府により定められる、公定価格制度である。病院や調剤薬局は“薬価”で購入し、同じ価格で患者に施薬し技術料だけが営業利益となる。売買価格の差が利益という一般の商取引とは異なる。この仕組みは日本も台湾も基本的には同じである。ところが売買同一価格はあくまで“建前”で、実際にはメーカーは値引きやサンプル添付で“薬価差益”を病院にもたらす方法を考え出す。公明正大と法令順守を旨とする台湾武田の基本姿勢が恨めしくさえ思えてくる。
 「我が製品は優秀だ」
と信じて疑わぬ角君は、“悪貨が良貨を駆逐する”というグレシャムの法則を思い出し、歯軋りをした。

 米国で臨床薬理学を学んで帰国した医師が、大学の付属病院に着任した。臨床薬理学は始まったばかりの新しい学問である。
 「台湾に新風を吹き込むぞと、張り切っている」
との噂が聞こえてくる。教学病院なのでここで採用リストから削除されると一般病院への影響が大きい。早速、病院のオフィスに先生を訪ねる。
 「ダーゼンは米国では使用されていない。第一、分子量の大きな酵素が腸壁から吸収されて、薬効を発揮するとは到底思えない」
と、挨拶も終わらぬうちからきついお言葉が返ってくる。しかし、角君は長年の営業活動で打たれ強くなっている。ここで引いては敗北とばかり
 「確かにダーゼンの成分は高分子です。しかし、だから吸収されず無効であると言うのは短絡過ぎます。フグ毒のテトロドトキシンは分子量が大きい物質ですが、食べれば猛毒です。先生はこの事実をどう説明されますか?」
と、学生時代に学んだ薬物学の切れ端を使って反論する。学校で習った知識も実戦に役立つ時がある。台湾にはフグを食べる習慣などないから、博士にとっては予期せぬ逆襲であろう。大先生がひるんだところで、嵩にかかって追撃する。
 「仮にダーゼンの成分が消化されて低分子にカットされても、酵素活性の部分が腸管から吸収されるでしょう。また、ピロ・サイトーシスでの吸収も考えられます」
とこれまた、どこかで聞き齧(かじ)りの学問を知ったかぶりでちらつかせる。腸壁からの吸収は膜の小さな穴を通してだけでなく、高分子物質を包み込むようにして吸収する作用もある。確かにダーゼンの吸収問題は解明されてはいないが、当時の学問のレベルでは限界があった。
 「“Using is believing”です。一度飲んで見て下さい。痰の切れが良くなったら何らかの形で有効部位が吸収された証拠です」
とダメを押す。こうして危うく難を逃れたのみならず、この学問的な論議を通してアメリカ帰りの新鋭準教授の知己を得た。   (10月下旬号  完)

101)八田與一技官と呉建堂医師
 台湾には個人が加入する「在留日本人会」と会社単位で登録する「在台湾日本商工会議所」がある。その下部組織に商社部会、機械メーカー部会、繊維部会、化学品部会などの専門部会がある。医薬品部会はその一つで、日本の医薬品会社と化粧品会社で構成されている。月に一度定例会議とゴルフ競技会を開き、情報交換と親睦を図る。全会員を対象にした講演会で深田祐介氏や邱永漢氏の講演を聴く機会にも恵まれた。フィリッピンでも香港でも同様な組織があったので、おそらく世界の主要都市で同じような組織に属し日本の駐在員が生活し活動しているのであろう。

 八田與一(はったよいち)のことを読んだのは在留日本人会の機関誌『交流』であったかと思う。この二度目の駐在で初めて知った秘話である。北回帰線が通る嘉義市から古都の台南市までを嘉南平野と呼ぶ。現在は台湾一の大穀倉地帯だが、かつては不毛の大地であった。『交流』を読んだ角君は早速、烏山頭ダムを訪れ八田與一の銅像に出会う。作業服姿で岩に腰を下ろしてダム湖の彼方を見据えている。

 八田與一は明治十九年(1886)に金沢で生まれ、東京帝大の土木科を卒業し24歳で台湾総督府に赴任する。当時の台湾は下水道、灌漑工事、水力発電など植民地の基盤つくりを鋭意進めていた。八田が嘉南平野の調査を始めるのは台湾に赴任して八年後の大正七年(1918)である。二年や三年で任期を終えて帰国する今日の外務省人事ローテーションと比べ腰の入れ方が違う。官田渓の上流に烏山頭ダムをつくり貯水する。しかし、官田渓だけでは貯水量が少ないので烏山嶺に隧道(トンネル)をくりぬき本流の曾文渓の水を烏山頭ダムに導く。隧道の長さは3キロ余りダムの規模は当時東洋一。セメントを少しは使うが粘土、砂、石を組み合わせるセミ・ハイドロリック工法で、当時の日本には先例がない。烏山頭ダムを心臓とすれば一帯に張り巡らす灌漑水路は血管にあたる。その長さは1万6000キロで万里の長城の5倍にあたる。後に嘉南大圳(だいしゅう)と名付けられ、不毛の大地を大穀倉地帯へと一変させた。

 工事に関わった現地人たちの発意と拠出金により昭和六年に銅像が作成されるが、太平洋戦争の末期、日本中を席捲する金属供出運動によりこの八田與一の銅像が行方知れずとなる。八田は31歳で外代樹(とよき)と結婚し二男六女をもうける。太平洋戦争のさなかの昭和十七年(1942)、陸軍に徴用されてフイリッピンに向う船が米潜水艦に撃沈され、56歳の生涯を終える。妻、外代樹は終戦の翌月に烏山頭ダムに身を投げ夫のあとを追う。戦後になって付近の駅の倉庫に放置されている八田の銅像が発見される。しかし、日本色の払拭に躍起の蒋介石政権下では、それを設置することは憚られた。時代は下って1981年、将経国時代になりやっと嘉南農田水利会の手で銅像が再建される。角君が会った銅像はわずかその二年後である。珊瑚湖のほとりで静かに眠る八田夫妻の墓に両手を合わせ先人の功績に感謝した。

 余談ながら、角君がこの秘話を会社で話題にしたことがひと騒動となった。当時は蒋経国総統の民主化政策により、植民地時代の日本人の業績を客観的に語られることが許されるようになったばかりで、社員たちは八田與一や嘉南平野の謂れを知らなかった。角君が植民地時代の日本人の美談を会社で自慢したと反発して、出張の留守を狙って、スタッフの一人が角君誹謗工作を行った。そして、偶々同じ時期に、角君がスタッフの一人と会話中に外省人の誹謗した。本省人の家庭と思って口にしたベンチャラではあるが、外省人の父と本省人の母の子供であったので、恨みをかった。異国で会社幹部として働く場合、「現地の民族問題への批判」と「現地人の悪口と日本人の自慢話」は厳禁である。長い駐在生活で一度だけの大失言と云わねばならない。

 旧暦12月16日は商家の“仕事始め”の日と「新入社員の風景」でお伝えしたが、似たような風習を台湾で聞いた。この日を台湾では“尾牙(ペエゲ)”という。毎月旧暦の2日と16日を「牙」といい、商家は土地の神様を祀り、拝々(パイパイ、お祈り)をする。尾牙は年の最後の「拝々の日」である。この日は店主夫妻が店員たちにご馳走をふるまう。夫婦というところに家庭的雰囲気が漂う。この日は料理された鶏一羽が円卓の中央に置かれる。全員注視の中で円卓が廻され止った時に、尾っぽが向いた人は解雇通知を受けたことになる。この人にとっては悲しい日であるが、他の人たちにとっては更に一年間雇用が保証される歓喜の瞬間となる。日華おなじような文化に興味を感じた。

 MRに同行して呉建堂医院を訪問した。呉建堂先生への薬の説明がいつしか四方山話に変わる。枯れた古武士を思わす風貌で名前にちなんで剣道を始めたとのこと。書棚からご自身の俳句集を取り出し
 「記念に贈呈しましょう。台湾にも日本語で和歌や俳句を作る人がいるのですよ」
と日本贔屓を語りながらも
 「私が借りるのは日本の思想ではなく、日本語の形式なのです」
と、少し日本に距離をおく表現をされた。だが、日本時代を懐かしんでおられる気持ちも伝わってくる。後年のことだが、朝日新聞の人物紹介だったか
 「孤蓬万里は俳号。剣道八段の医学博士。台湾万葉集の主宰者で菊池寛賞を受賞」
との記事を読んで、そんなに偉い先生だったのかと懐かしく当時を偲んだ。

 さらに呉建堂先生は「孤蓬万里半世紀 台湾万葉集完結編」(集英社)を残されて数年前に他界された。そのご遺志を継いで若い人たちも加わる和歌・俳句・川柳の会が、今も台湾で脈々と息づいている。
    “「戦争のおかげで貴様ら湾生も兵になれる」とぬかす配属将校” (呉建堂)
    “万葉の流れこの地に留めむと生命のかぎり短歌よみゆかむ”   (呉建堂)
    “台湾語、北京語、英語、日本語をまぜて使いし我が半世紀” (詠み人知らず)
    “尾牙や半生人に使われて”  (陳錫恭)
    “一家三代二国語光復節”   (頼天河)
    “平成の皇后陛下お夏痩せ”  (董昭輝)
 尾牙は先に紹介したように商家が使用人にご馳走を振舞う忘年会である。光復節は日本占領の終結記念日で国語が日本語から北京語に替わった日でもある。司馬遼太郎著の『街道をゆく』シリーズ40“台湾紀行”から一部引用させて頂いた。感謝をこめて報告する。

        参考文献:「街道をゆく」シリーズ40、“台湾紀行” 司馬遼太郎著

  (10月中旬号  完)

100)林森北路の風景
 「永祥公寓」には日本からの単身赴任者が20名ほど住んでいる。台湾武田の塩見社長、白木工場長、角君の他に、同期入社の権藤君が化学品事業部から現地会社に出向している。この4人が同じ屋根の下で寝起きし食事をする。工場長は朝が1時間早い。権藤君は朝食を一緒にとるが夕食は別の時間帯。角君は朝の起床から夜の就寝まで塩見さんと行動をともにする。朝食を一緒にとり社用車に同乗して出社し、仕事の打ち合わせをし、昼は外食や発泡スチロール入りの弁当を一緒に食べる。帰宅も大抵は同乗となる。情報の共有化どころか殆ど同じ情報源なので話題も単調になってしまう。大抵は角君が聞き役となる。部屋は壁一枚を隔てて隣同士。こちらの寝言とあちらの鼾が共鳴しあう間柄。夕食は白木さんも加わって3人一緒。一息ついて8時頃から、3人で「林森北路(リンシン・ベールー)」のカラオケクラブへ繰り出す。

 林森北路は日本人駐在員が足繁く通う飲食店街で、さしずめ東京の銀座、大阪の北新地といったところ。日本時代の名が残る三条から八条までの一画にクラブと料理屋が軒を連ねる。今日、日本からの旅行者が案内される台湾料理の“梅子”や“青葉”がある界隈で、大小赤青のネオンが我が店へと覇を競う。ドアを開け薄暗い中に入ると、小妹(シャオメイ)、小姐(シャオチェ)、チーママが
 「ィラッシャイマセー」「ラッシャイマセー」
と元気一杯に出迎えてくれる。ママの出勤にはまだ早い。下働きの小妹が灰皿とお絞りを持ってくる。小姐がお客の横に跪(ひざまず)き挨拶をして飲み物を準備する。小姐は本来Miss.の敬称であるが、クラブでは接待係りの女性を意味する。昼間の仕事を忘れストレスを解消し単身赴任の寂しさを紛らわすオアシスであるのは日本と変わらぬ光景。駐在手当てのお陰で懐は比較的暖かく酒に溺れる者や、小姐の色香に迷う者の噂もけっして稀ではない。“林森大学に行く”といえば林森北路のクラブに行って小姐と片言の中国語会話を楽しむこと。ところが実際には彼女たちの方が学習に熱心で上手に日本語を操る。前回の駐在ではカセットテープに合わせテキストの歌詞を見ながら歌ったものであるが、今回はレーザーディスクかピアノの伴奏があるカラオケクラブに進化している。

 途中から権藤君も加わって一軒では足りずカラオケのハシゴとなる。これで終われば良いのだが、時には深夜近くになり小腹がすくと宵夜に行く。シャオイエと発音する夜食である。小鉢やお造りをアテにビールでノドを潤す。腕時計の針が12時を過ぎたころ、やっとタクシー拾ってご帰還となる。「おやすみなさい」と言って風呂に入っていると、ドンドンとドアをノックする音がする。急ぎバスタオルを巻いてドアを開けると塩見さんが 
 「もうチョットどうか」
とのお誘いである。
 「奥様でさえこうまでは尽くしませんよ」
と白木さんに愚痴ったものであるが、塩見さん的には角君たちの面倒をみて、一緒に遊んでやっていると思っておいでに違いない。
  
 塩見さんは兄と同郷同学の縁もあって角君を可愛がってくれた。彼は戦時中に上海で育ったそうで、北京会話の語彙は少年的であるが発音は完全なネイティブ。台湾語は20年前の駐在時代にモノにしたとのこと。沖縄時代には沖縄方言を身につけ、韓国に駐在すれば韓国語をマスターしてしまう。とにかく語学の達人である。
 「幼少時に鼓膜を破っているから」
幼少時に日本語以外にも上海語や北京語を聞いて育ったので、多言語を耳から学ぶ習慣がついている、と先輩は比喩的にいう。島国の日本人が語学習得で劣るゆえんを短い言葉で象徴的に表現している。

 塩見さんにはもう一つ特技がある。国内で営業に携わっていた頃に、かくし芸として身につけた手品。代理店や社内の忘年会、時には医師との宴席で演じる。それだけではなく、夜毎のカラオケラウンジでは同席者や小姐を相手に小技を披露する。ハンカチを折って本物そっくりのネズミを作り、それを曲げた腕の上で微妙に動かす。ネズミがチョロチョロと辺りを伺っている様子そっくりである。最後に呆気にとられている小姐の胸に、そのネズミが飛び移ると、小姐の
 「キャー!」
という嬌声が店内に響く。次の出し物は両の掌を交互に開示した後に、五指で作った穴にテッシュペーパーを押し込んで先端にライターで火をつける。ほどよいところでその火を両掌でもみ消す。そして、ゆっくりと掌を開けば20元紙幣が現れる。小姐たちが心待ちにする瞬間である。

 小姐たちの金銭欲は旺盛で夢はママになること。タバコに火を点けるだけで事足りる日本のホステスと比べ根性が違う。コツコツとお金を貯めると少し出資してチーママになる。次に友達と一緒に小さな店を開き、さらに自分だけの店を目指す。このようにして高給クラブのオーナーママへと階段を一歩一歩上がってゆく。角君が日本と台湾を出張で往復していた頃に武藤社長と出入りしたクラブ“ユーカリ”の小姐が、9年後に出会った時にはママになっていた。それから更に8年後に香港から業務出張し会議を終えて繰り出した高級クラブで、17年前に“園”で下働きをしていた小妹が、そこのママになって数人の小姐を使っていた。

 小姐はお客から貰った名刺を大切に保存し沢山集めている。時折、会社に電話しては来店を誘う。帰国する駐在員からは帰国後の連絡先を聞き、縁が切れないように暑中見舞いや年賀状を欠かさない。ベテラン小姐ともなると衣服や電気製品の買い出しをかねて日本へ旅行し、大阪から東京へと旅を楽しみながら手元の番号に電話をして旧交を温める。こうしておけば仕事や遊びで台湾を再訪した旧友が我がクラブへと足を運んでくれる。林森北路は狭い世界ではあるが、日本人駐在員の喜怒哀楽を飲み込んだ故里である。
 その頃、小姐に教わった五木ひろしのレコード大賞曲「長良川演歌」は角君のレパートリーの上位にランクされている。
     ♪ 水にきらめく かがり火は   誰に想いを 燃やすやら・・・・・ ♪     作詞:石本美由起

   (10月上旬号  完)

99)アパート生活
 単身駐在の日本人を対象にした賄いつきのマンション「永祥公寓」に落ち着く。蒋介石を祀る中正記念堂の近くである。かつて植民地時代に日本人が多く住んでいた地区で、当時もまだ、高い塀の向こうに黒い瓦屋根の邸宅が数軒残っていた。週末にはサンダルを引っ掛けて近くの麺店や小吃店(シャオツーティン)で気ままな昼食をとる。美味しい水餃子(スイジャオツ)の店を見つけた。狭い土間に3、4卓のテーブルと腰掛けが数脚あるだけの小さな麺店。水餃子と酸辣湯を注文する。酸辣湯(サンラータン)は酢と豆辨醤(トーバンチャン)をベースとした “とろ味”のスープで、野菜のまにまに豚肉の切片や鴨血羹(固めた鴨の血)の千切りが浮遊している。辛くて熱いスープと水餃子をレンゲにのせて交互に口に運ぶ。しっかりこね上げた小麦粉生地を使った水餃子の皮は弾力に富み、中には刻んだ黄韮と豚のひき肉がタップリと詰め込まれ芳香を放つ。あの安くて旨い絶品は忘れられない。横丁の名もなき麺店で美味しい味に出会ったときほど、ときめきを感じることはない。最近は日本でも水餃子が出回っているが、片栗粉を混ぜているのか皮がヒラヒラしているだけで麺生地のうま味はない。これでは水餃子でなく中途半端なワンタンである。

 ある日曜の昼食時、客で溢れた麺店を近くの信義路二段で見つけた。間口の狭い一階と二階の小さな店である。偶然見つけて入ったのだが、これがなんと後に小籠包で名をはせる「鼎泰豊(ディン・タイ・フォン)」。日本夫人のクチコミにのり始めた頃である。当時はまだ行列ができるほどではなかったが、今では東京にまでも支店を開設している。しばし待つほどに蒸篭(せいろ)が運ばれてくる。ふたを取ると立ち登る湯気の間から小籠包が姿をあらわす。10個ほど並んでいる。その一つをそっと箸でつまみ、細切りのショウガをひたした酢醤油にそっとつけてからレンゲにのせて口に運ぶ。あつあつの甘い肉汁が口の中で広がる。その後、度々足を運んで蒸し餃子や蝦のシュウマイを注文した。これらも逸品であるが、やはり小籠包に軍配があがる。

 帰りには果物屋に寄り道して果物ジュースをつくってもらう。なかでもパパイヤ片と牛乳をミキサーにかけた木瓜牛奶が角君の好物。パパイヤ中の消化酵素が働いて満腹感を和らげてくれる。時には鳳梨(パイナプッル)や楊桃(スターフルーツ)などの切片をビニール袋でぶら下げて持ち帰る。日曜日の午後が静かに流れる至福のひとときである。

 中国語の勉強を4年ぶりに再開した。新聞に三行広告を載せると3、4人の応募があった。容姿ではなく発音を重視して女性一人を選び週2回の学習を始める。4年間で3人の老師のお世話になった。ある老師(ラオシー、先生)は日本留学から帰国したばかりで就職先を探していた。彼女には久しぶりの故国であるが、無意識の内に日本と比較してしまい、何かにつけて台湾の欠点と後進性が目につくようである。二つの祖国の狭間での“こうもり症候群”の逆異文化ショックにはまっていた。

 二人目の老師の父親は中国大陸の桂林から逃れてきた外省人。山水画のごとき景観が日本で知られ始めたころである。
 「桂林には10万本に及ぶ木犀の大木が街路樹として繁り、10月になると町中に桂花の香りが漂い街路は桂花の絨毯が敷き詰められる。しかし、このロマンチックな町も1941年に日本軍の空爆で市街の三分の一が焼き尽くされた」
と父親から聞いた話を遠慮がちに語ってくれた。このとき初めて桂とは木犀のことと知った。

 三番目の老師は日本の経済と文化に関心が強く、聞かれるままに
 「セイコウ時計が正確なのは単に技術の問題だけではない。江戸時代には2時間に一度お寺の鐘が時を告げ、人々は時の鐘に合わせて生活をした。それで時間観念が発達して日本人は正確な時間を要求するから、時計会社はそれに答えるように技術を磨いた」
 「日本には古代より砂鉄が採れ製鉄の技術が発達し鋭利で丈夫な日本刀を生んだ。そのハガネ技術が下地となって鉄砲伝来のわずか32年後の内戦(長篠の戦い)で、織田信長は三千挺の鉄砲を使用して勝利を得た。これは当時、世界中の鉄砲の半数であった。その技術の延長に現在の日本の優れた製鉄産業がある」
 「経済とは面白いものである。ドイツは内陸に鉄鉱石が産出されるので、そこに製鉄所を建設した。しかし日本には鉱脈がなく鉄鉱石を輸入に頼り、海岸に製鉄所を建設した。お陰で輸出の輸送費が安く国際競争に勝てた。短所を長所に変えたのである」
などと文化論を披露した。生きた中国語会話の勉強である。こんな時に漢字文化同士は便利で、中国語で発音できない単語は紙に書けば通じる。彼女はその後、米国に留学し暫らく文通が続いた。 

 このような努力の甲斐あって中文会話は大分進歩した。恐らく大学などで中国語を専門に学んだ人達を除くと、門外漢としては中国語会話が上手な方であろう。中国語が話せる薬剤師となれば希少価値である。この様子を見た在台湾日本人医薬品部会の友人が
 「角さん、そんなに中国語が上手くなったら、大陸に飛ばされるよ!」
と忠告してくれた。その時には大陸での仕事は意中になかったが、数年後に中国市場に関わることとなる。そして中国文化と中国市場に魅せられて大阪本社への帰国が遅れた。会社での昇進にはマイナスであったかも知れないが、中国大陸での仕事を楽しみ、結局はサラリーマンとしての寿命が長くなったと思っている。  (9月下旬号 完)

98)里帰りの台湾
 1983年8月21日の夕刻に「中正国際空港」に降り立った。高速道路から見る観音山が夕日に映えて、里帰りを歓迎してくれる。4年ぶりの台北市街はバスや乗用車が団子状にごった返している。その間を縫うようにオートバイとスクーターがくぐり抜け、横断歩道では歩行者と信号無視を競っている。交通道徳は低下し信号は大体の目安にすぎない。朝夕のラッシュアワーに雨でも降れば混雑は倍加し、雨カッパに身を包んだ老若男女の二輪車族が我先にと雨中レースを繰り広げる。台北市は太古の昔、湿地帯が平野になったせいで地盤が緩く地下鉄を敷けないそうである(*)。この先経済が発展し、この二輪車族が四輪車族になったらどうなることだろうと、将来の台北市の交通渋滞を本気で心配した。    (*:その後、技術の進歩で地下鉄が敷かれた)

 翌日、見慣れたオフィスを訪れる。戦前に日本の薬大を卒業した薬剤師3人が引退しただけで大きな変化はない。職員一人ひとりと握手を交わす。ある人は里帰りを歓迎し、ある方は再度の勤めを労ってくれる。外国駐在から日本へ帰任しないまま再度他国に駐在することを“アウト・アウト”という。角君の場合は台湾からフィリッピン、そして再び台湾だから“アウト・アウト・アウト”で、日本を離れてすでに8年が経過し齢44歳になる。

 挨拶を終えて塩見総経理(社長)から現況をお聴きする。台湾の経済発展に伴い民族資本の医薬品メーカーが台頭し、台湾武田はかつての業界第2位から下落したこと、抗生物質注射剤リラシリンの不振が続いていること、MRの士気が落ちモラルの低下が見られることなどの説明を受ける。塩見さんは20年ほど前、台湾武田創生期に駐在し基礎固めに貢献された台湾通。しかし、着任して一年を経ても建て直しに苦慮しているご様子である。現地メーカーの給与が上がり日本メーカーの雇用優位性が小さくなった関係もあるが、これだけの大所帯を外国人の社長一人で管理するのに無理があったようである。角君がフィリッピンに転出を命じられたとき、
 「現地化は言葉では美しいし、その方向で会社経営をすべきです。しかし、現地人を幹部候補生として充分育成していない。今は時期尚早です。」
と具申したのが不幸にも的中したようである。

 とりあえずMRに同行して不在中に起った市場の変化を視察する。林立するビルの合間を縫って高速道路網が整備されつつある。台湾大学付属病院には新たに研究棟や入院棟が建てられ、ベッド数は1000床近くなっている。中山北路にあったマカイ病院は高層ビルに建て替えられて、ロビーは患者で溢れている。栄民病院にも高層病棟が建設され2000床を有する大病院になり、林口に分院が開設され高雄分院も建設中とのこと。ほとんどの病院が増改築にも拘わらず患者でごった返している。71年に国連を脱退して10年余り、政経分離を国策とした台湾経済の復興は本物と確信する。

 台湾武田の地盤沈下は高シェアーを誇ったリラシリンが衰退期に入り、その市場が新しい抗生物質の草刈場にされたのが主因と分る。特に病院でのシェアー低下が顕著。輸入販売の許可を取得したばかりのセファロスポリン系第二世代のパンスポリンの立ち上げを急がねばならない。そのためにシンポジウムの開催を提案する。マニラで見聞した “シンポジウムでブランド力を高め、MRが地道にそれをフォローする” 欧米式拡張を提案したのだが、総経理は
 「シンポジウムの講師を日本から招聘して、飛行機事故でも起ったら大変だ」
 「MR一人ひとりの能力アップにより立て直しを図るように」 
と予想外の指示が返ってくる。日本の医薬品マーケティングはマンツーマン方式に依存している。MR 一人ひとりが医師一人ひとりに面接し製品の特徴を直接口で説明して、人間関係を基盤に使用を依頼する方法である。シンポジウムの開催や医学専門雑誌への広告のような不特定多数への大網方式は馴染まない。ところが欧米式では大網方式と一本釣り方式を組み合わせた二面作戦が主流である。

 MRによるマンツーマン方式を強化するために、
 「女性MRを採用して市場のカバー率を上げましょう」
と代案をだすと、女性MRには端から反対でにべもない。
 「在籍MRを教育訓練して質の向上を図るように」
とMR対策の一点張りである。20年前の台湾市場の残影や、その後の沖縄や韓国での成功体験が大ベテランの脳内を支配し“マンツーマン方式”に固執している。今日の日本ではシンポジウム、外国人講演者、女性MRなどが一般化しているが、当時はまだ目新しいマーケティング方法であった。これは大先輩への後ろ指ではなく、異文化経験は啓蒙的で先進的であったとの思い出を込めたメッセージである。発展途上国といわれるフィリッピンにも学ぶべき点が沢山あった。地域や世代間の見解の相違はよくある話。若い後輩から見た角さんの晩年もこうであったかも知れない、と自戒しながらこの項を綴っている。

 もう一つ驚く噂を耳にした。同世代の薬剤師K君は、内示された中国駐在を拒否し職場換えとなったとのことである。角君とも親しい間柄だけに知った時には気が沈んだ。

 (彼を台湾駐在とし自分を中国に派遣してくれたら、互いに喜んで赴任したであろう。まさか本社は自分が中国語好きと知らない訳ではなかろうに。部分的には戦前の日本式が残ってはいるが、台湾の医療制度の大綱は大陸から輸入している。中国市場は格好の活躍の場であるのに。結局はボタンの掛け違いか)
人事は右から左に駒を移すだけだから、これほど簡単なことはない。しかし、関係者が納得し好結果を生む的確な人事ほど難しいものはあるまい。

 そういえば、本社と意見を異にする出来事がもう一つあった。本社が開業医市場への活動強化を迫ってきた。確かに台湾武田は開業医に弱いのであるが、それは8年前に苦闘して総合大病院指向の会社へ大転換した結果である。
 「市場全体では機関病院の需要が大勢を占めており、本社主張は実態を無視した机上の空論である。弱点の強化をはかるより、長所を伸ばすことが大切だ。」
と角君が反論する。それに対して本社は
 「抗生物質注射薬の開発競争は世界的にピークを過ぎた。現在、武田の研究所で開発中の新薬はほとんど成人病関係の内服薬である。これらの経口剤は開業医で多量に使用される。だから今から開業医を強化する必要がある」
と説得を試みてくる。確かに一理ある話だが、台湾の医薬品市場は機関病院が主体。現に病院のロビーは外来患者でごった返している。
 「第一いま、開業医に行って何を売るのだ。これまで期待の新薬が開発途中で幾度オシャカになったことか。今開発中の新物質だって危ういものだ。“明日の百より今日の五十”が大切だ。開業医向けの新薬が誕生したら、その時に手を打てば充分間に合う!」
と販売を預かる角さんは現実主義者である。“先よみ”“深読み“その場主義”いずれも大切であるが、機敏に使い分けられるのが営業の経験とセンスである。フィリッピン編で『炎熱商人』の主人公が現地と本社の意識のずれから命を落とした話を紹介したが、担当者と上司、若者と年配者、現場と本部のギャップは何処の世界でも何時の世にでも起るようである。ともあれ、このような見解の相違を調整しながら台湾武田の再建が始まった。  

97)パーラム(さようなら)
 1983年の春休みに家族と義母が陣中見舞いに来てくれた。同じ頃に財務部長の高玉君が駐在生活を終えて帰国した。そして、事件は8月に入って起きた。亡命先からマニラ空港に降り立ったマルコス大統領の政敵、ベニグノ・アキノが銃殺された。
 「帰国すると殺す」
と見えぬ政敵から再三警告されていたが、敢えて危険を冒して凶弾に倒れた。暗殺は軍の陰謀と噂されたが被告は無罪になった。65年以来強権を誇ったマルコス政権も角君が駐在を始めた79年には既に陰を見せ始めており、この事件を契機にマルコスへの人心は離れてゆく。

 それから数日後のある日、桜井さんに呼ばれた。
 「台湾武田の業績が思わしくない。ご苦労だがもう一度台湾に駐在して欲しいと本社から言ってきた」
との説明を受ける。一年ほど前に台湾武田の総経理(社長)は代わっている。新総経理はかつての上司で薬剤師。ある意味では角君と同じタイプの職域である。
 (僕が行かなくても塩見さんで充分なのに。台湾在勤中は必死で智恵を絞り、あらゆる施策を打った。「角さんの課題は一流、給与は二流」と現地MRに揶揄されながらも一緒に汗を流した。精も魂も使い果たしている。即戦力ではあるが僅か4年を隔てて行ったところで何ほどのことができようか。成功体験に染まっていない別の目で見れば新なアイデアが生まれるだろうに。嫌だなー。インドネシアに行きたいなー。断ればこれまでの努力が水の泡だし)
と話を聞きながら思った。会社人事で内示を断われば暫らくは冷や飯を食うことになると、この歳になれば百も承知している。こうして再度の台湾駐在が決まった。

 9月になると後任の浜崎君が着任し出国準備に取り掛かる。借家とメイドとポピーを引き継いでもらう。ポピーは柴犬系雑種で駐在を始めて間もなく生まれたばかりを譲り受けミルクで育てた我が家の愛犬である。フィリピンを離れるさいに一番後ろ髪を引かれた事物である。駐在開始時に購入したスポーツ施設の会員権を返却しデポジット(預託金)50万円を返還してもらおうと事務所を訪れる。
 「この会員権は偽物です。本来ならば4年間の施設使用料を請求したいところですが、当方にも落度があるので、預り金の返却無しで妥協しましょう」
との事務官の冷たい説明。預託金の返却を拒むための口実で、施設と職員がグルになった出来レースに違いない。
 「今まで4年間利用できたのだから、偽物であるはずはない」
などと種々抗議をするが埒が明かない。その内に帰国の日が迫ってくる。結局、
 「4年間プールとテニスコートを利用したのだからまあいいか。これも市民税。否、お世話になったフィリピンへのドネーション(寄付金)だ」
と自分を納得させ、預け金をギブアップする。

 同輩たちから聞いた強盗殺人詐欺事件を前述したが、こうして角君も金銭の実害を受け、リスク管理の重要さを思い知らされた。開発途上国では文字通り一寸先は闇で予想外の事変が発生する。俗に「盗む」より「盗まれる」方が、「騙す」より「騙される」方が悪いと言われる。リスク管理の戒めとして頭の隅に残しておくべき至言であろう。これまで「ダブルチェック」と「自分の事は自分で守る」という基本姿勢で、ことに当ってきた。これは何事も自分でするという意味ではなく、“チェックポイント”を事前に想定して、一つ一つ押さえ確認しながら前進するということである。それでもつまずいた。やはり外国は見えない部分が多い。

 卸問屋の採用で流通システムを変更した。この構造改革は桜井社長の大きな功績である。その新流通改革の受け皿として、マニラ首都圏の柔軟性ある担当地区制、公平明快な新インセンティブ制、パンスポリンの治験と新発売、ダーゼンを梃子に市場とMR活動を活性化したのは角君が4年間で実施した主な仕事である。そして乏しい資金をやり繰りして財務改善を図ったのが高玉君である。三人三様に力を合わせて黒字会社へ転換できた。ロザレス先生とアングス氏の採用も会社改革に大いに寄与した。経済が疲弊し外貨不足から営業努力が直接業績向上に結びつかないことに苛立つことも一再ではなかったが、純朴で明るく奉仕精神に富むフィリピンの人たちと共に働き生活できた。何よりもフィリピンは家族に楽しい思い出を沢山提供してくれた。

 忘れもしない1983年8月21日は台北に向けてマニラを出発する日であった。出国手続きを終えて搭乗案内を待つが、いっこうにアナウンスが無い。2、3時間は待ったであろうか。
 「その日はベニグノ・アキノ(愛称ニイノ)の喪明け日で、空港はマルコス政権に反対する人たちで不穏な空気に包まれた」
翌日、台湾の新聞が報じていた。民衆は喪明けの8月21日まで行動を自重していたのである。その日を境にマルコス退陣要求が高まる。86年2月マルコスは繰り上げ選挙で大統領再任を果たすも、コラソン・アキノ夫人(愛称コリー)が勝利を宣言してピープルパワーが動き始める。エドサ通りを埋め尽くす群衆に押し出されるようにマルコス一家はフィリピンを脱出する。立つ鳥あとを濁して、主が去ったマラカニアン宮殿にはイメルダ・マルコス女史の3000足の外国製靴、500着のブラジャー、数え切れない香水が散乱していたそうである。良人の弔い合戦に勝利したコリーが大統領に就任した政変を角君は台北で知った。黄色の旗を民主化の象徴として就任したコラソン・アキノ大統領であるが、主婦感覚から抜けきれず朝令暮改を繰り返す。大地主の娘という出自が災いしてか、公約の農地改革も出来ぬまま1992年にラモスに政権を譲ったとのニュースは香港で聞いた。悲しいかな、増え続ける人口を支える外貨獲得は、外国への出稼ぎ労働者に頼るしか道が無いのが、現実のフィリピンの姿である。      (9月上旬号 完)    フィリピン駐在編  完

96)地方への旅
 赴任して間もない頃、営業本部長のモンテリバーノさんと二人でミンダナオ島のカガヤン・デ・オロに出張した。マニラから飛行機で1時間20分の距離である。飛行場でタクシーをチャーターして、遥か彼方の高原にあるパイナップル工場の診療所をめざす。水田地帯を過ぎると椰子園が続く地肌道となり、土煙を巻き上げてばく進する。突然、衝撃音をたて傾きながら急停車した。驚いて下車して見れば後輪のタイヤの一つが外れて後方に転がっている。タイヤを固定するナットが脱落したらしい。それからが大変であった。脱落したナットとボルトを探して炎天下の地肌道を汗と埃にまみれて這いずり廻る。松本清張の名作「砂の器」の“花吹雪の女”が血痕の付いたシャツを細かく切って車窓からまき散らした布切れを、若い捜査官が炎天下、線路脇の草むらを汗にまみれて探す場面を思い出した。半時近く三人で這いずり回った末に最後の一個を遥か後方でやっと見つけた。貧しいこの国では一個のナットさえ貴重品である。それからさらに九十九折の山道を延々と登り高原にでる。そこは見渡す限りのパイナップル畑。西欧列強の植民地となったアフリカのある国では、地域全体がプランテーションの雇用労働者となって、農民の伝統的農業技術が次の世代に伝わらず衰退してしまったと聞いた。このパイナップルの大プランテーションを眼前にして、さもありなんと歴史の悲劇を思い出した。

 桜井さんと高玉君の三人で週末に郊外へ出かけることもあった。マニラからルソン島を横断して北端のアパリへの旅は休暇を利用した車旅行。舗装こそしているが高速ではない一般道路を社長運転手のゼスが同行する。マラリアへの感染予防に出発前にキニーネを飲んだところ、めっぽうきつい薬で胃壁を荒らし2日間は食欲がなく閉口した。途中、ルソン島中部にある有名なパナウエの棚田(ライス・テラス)を見物した。急傾斜にある額ほどの狭い土地を耕し石垣で土手をつくり天に届けと積み上げた水田に、先人の血がにじむ執念と勤勉さに言葉を失った。    ―< 耕シテ天ニ至ル 貧シキカナ >―   と、中国の古典に書かれていると、後年になって知った。 アパリの先はルソン海峡を隔てて台湾島。日本を離れて既に7年経っている。思えば永い旅で遠くに来たものである。

 親会社同士が提携関係にある縁でフィリピン・レダリーの社長夫妻から招待状が届いた。桜井さんが運転して三人でマニラ郊外に出かけた。小さな入江にあるプライベート・ビーチの別荘である。マニラ近郊の海岸線はほとんど資産家の私有地となり、一般大衆が海水浴を楽しめる海岸は少ない。ご夫妻は週末になるとこの別荘の海でウインドサーフィンを楽しむそうである。角君たち三人も夫々サーフボードを借りて試みるが、直ぐに帆が倒れ風をえて走るまではいかない。それにしても同じ子会社の社長ながら日米間の待遇にかくも大きな相違があるのに驚いた。格差社会の所以であろう。

 三人でルソン島南部の小島をフェリーで訪れたこともある。島名は忘れたが三、四百年前のガレオン船時代に海賊の秘密基地であったところ。波止場町から徒歩で山を越え反対側の浜辺にでる。水泳などで遊んだ後にバンカ・ボートを借り切りルソン島に向かう。小さなカヌーのようなボートの片側舟腹から二本の長い竹竿が出て、その先に舟に並行して長く太い竹翼が付いている。この竹翼でバランスを取り簡単には転腹しない仕組み。船頭が運転する小型エンジンで2時間ほどかけて蒼い大海原を渡り無事ルソン島に帰り着いた。波は穏やかで竹翼のお陰で安定感はあるが板子一枚下は地獄。急に天候が変わり高波でもくれば一巻の終わりである。仕事では慎重な桜井さんにしては太っ腹な所業と内心驚いた。

 三人でセブ島にも行った。セブ島は中部フィリピンに位置し近くには太平洋戦争で日本衰退の契機となったレイテ海戦のレイテ島もある。近年は美しい珊瑚礁の砂浜を楽しむスキューバダイバーがチャーター便で日本からやって来る。珊瑚礁の入り江にある砂浜は目がくらむばかりに白く、海水はあくまでも透明で泳ぐ魚が手に取るように見える。水泳を楽しんだあとは海中にしつらえたバンガローでバーベキューパーティーを開く。炭焼き鮮魚の芳香とビールのノド越しは忘れられない。

 セブ島といえば年度販売会議(アニュアル・セールス・ミーティング)を終えた夜、ロザレス先生の親友が二人をディナーショウに誘ってくれた。サンミゲルビールで乾杯を終えると、子豚丸焼き(レチョン・カワレ)、メチャド(フィリッピン風シチュウ)などフィリッピン料理が次々に並ぶ。最後はカラマンシー・ジュースのお口直し。スダチに似た柑橘類カラマンシーの果汁を水で薄め砂糖を溶かした清涼飲料水。その間、美女による民族舞踊ショーは、いつしかバンブーダンスのクライマックスをむかえる。角君も彼女たちの笑顔に誘われて舞台に上がり手ほどきを受ける。額に汗が滲むころショーが跳ねて、三人はそのまま別室へ誘われる。薄暗い部屋は赤と青の豆電球が怪しく灯りオイルマッサージを受ける。ほてった身体に柔らかい掌の感触が心地よい。酔いもまわりいつしか夢の世界へ落ちて行く。    (8月下旬号  完)

95)レップ教育とロザレス先生
 ボイエ武田はスペイン系富豪のボイエ家と武田薬品の合弁会社で、経営は武田側に一任されている。武田薬品は製造法と試験法をボイエ社の工場に開示し主要原料を供給する。その製品をボイエ武田が購入販売するライセンス契約である。フィリッピンは欧米流の医薬分業を実体験できる英語圏の市場で、ボイエ武田は医学顧問(メディカル・コンサルタント)から直接薫陶を受けられる“タニンゴ学校”といわれた。ところが名は体を現さず、フィリピン経済の衰退と欧米メーカーとの熾烈な競争でボイエ武田の業績は近年低迷している。

 フィリピン人は勤勉で向学心があり、明るく親切でフレンドリー。こんなに善良な人々が貧困にあえぐ姿を見るのは本当に悲しい。最大資源の銅は採掘、木材は伐採されて共に枯渇に近い。スペイン系財閥と華僑系資本家たちは天然資源の輸出で得た外貨で外国製消費財を買い、余った外貨は米国やスイスの銀行に隠し財産として闇送金すると聞く。“金は天下の回り物”というが、当国では循環効果は少なく工業生産は微々たるもの。
 「この国では金が還流せず、再生産(リプロダクション)は一つもない。あるのは子供のリプロダクションだけだ」
と、角君は悲しみを込めて皮肉ったものである。赴任当時3500万の人口が約20年間で倍増した。こうまで急速に人口が膨張すると幾ら稼いでも間に合わないのは当然。国教のカソリック教は堕胎はおろかコンドームさえ禁止し、許しているのはオギノ式だけ。オギノ式の摂理を末端まで教育して普及させるのは至難の業というものである。

 無信心な角君が宗教問題を意見する資格はないが、宗教は本来人々を救い幸福をもたらすはずなのだが、その宗教の縛りで世界の大部分の人たちが常用する避妊具さえ使用できず、人口増加が貧困に追い討ちをかけている矛盾を見聞して、
 「何とかならないものなのか」
と、義憤を禁じえなかった。“経済の循環”を細々とでも動かしているのは、今日では100万人とも言われる海外出稼ぎ労働者からの送金である。彼ら彼女たちは家族を残し異国で歯を食いしばって働いている。

 話が少し前後するがニコリンの治験をUSTの脳神経外科ガメス教授に依頼することになり、若いコンデ助手を交えて三人で治験方法について協議を重ねる。約二年をかけて脳外科専門雑誌に投稿できる治験結果をまとめた。つい先年、コンデ助手の消息を耳にした。彼はその後、順調に昇進し教授になり最近退職したとのことであった。足繁く通ったUSTのキャンパスと病院の風景が昨日のように思い出され、時の流れを感じる。

 当地でも“重点拡張”をマーケッティングの柱としてMed Repに強調する。リラシリンとダーゼンをFirst Priority Products(最優先品目)と指定し、ユーロジン(入眠剤)、ビタノイリン(ビタミンB1・2・6・12剤)をSecond Line Products(第二優先品)、パンスポリンとニコリンをNew Products(新製品)と三種類に分類する。これら六品目を中心に製品教育の充実を図る。当地は日本のような終身雇用制でなく、米国式で従業員の定着率は著しく低い。Med Repたちはステップアップを狙い僅かな給与差額に惑わされ、上司との確執や楽な仕事を求めて簡単に他社に移動し他の職種に転職する。このためMed Repの補充をはかり、彼らに教育訓練を施すことが重要な仕事となる。ある日、米国の有名製薬会社の“拡張ガイドブック”を入手した。バインダー式の分厚いもので、製品知識や医師への応対方法は勿論、試供品(サンプル)の配布数量、一日の訪問医師数に至るまで事細かに書かれている。昨今、日本でも“マニュアル”が流行っているが25年前にMed Rep用の部厚いマニュアルを手にしたときには驚天動地の新発見であった。

 もう一つ新たな発見した。日本の製薬会社のMRは総じて頭脳明晰で且つ高学歴なので入社時に基礎的教育を施せば、その後は自助努力で成長し応用力を働かせて仕事ができる。しかし、フィリピンの場合には頭脳・知識・経歴が均一でなくバラツキが大きいために、こと細かく手に取るようにマニュアルを通して教え込む必要があると知った。そう言えば、最近の日本の若者たちのマニュアル的応対にはあきれることがある。最初から終わりまで立て板に水の説明は良いのだが、途中で質問を差し挟むと言い淀み、再度初めに戻って同じことを繰り返すことさえある。加えてマニュアルに呪縛されてか、臨機応変の対応力が低下しているように思えるのは角君だけの思い過ごしであろうか?

 着任後一年余り経過した頃、タニンゴさんが退職され、ロザレス先生にMedical Director(医学取締役)として就任頂くことになった。USTの産婦人科教授や世界保健機構(WHO)のフィリピン代表を勤められた50歳半ばの医師である。会社の概況と製品の特徴をお伝えし、Med Repへの製品教育の一端を担ってもらう目的で、角君は毎日ロザレス先生の部屋を訪れる。しかし文化、経歴、興味の対象が違う二人が円滑なコミュニケーションを図るのは、口でいうほど簡単ではない。大先生に対して教える式の態度はとれない。歓談の中から自然に本題に入るのが理想である。試行錯誤の中から生まれたのが角君流のアプローチの仕方である。
 「Good morning, Dr. Rosales. I have three subjects, today. No. 1 is xxxx. Next, No.2 is xxxxx. Then, No.3 is xxxxx.」(おはよう、ロザレス先生。今日は三つの用件を持って来ました。一番目はxxxx。 二番目はxxxx)
といった按配で単刀直入に本題に入る。するとロザレス先生からも明快な回答や意見が返ってきて次第にフレンドリーな会話になってゆく。気候・天気・朝のニュースから始まる日本式と逆のような流れである。こうしてロザレス先生との二人三脚で製品教育が始まる。先に紹介したアングス営業本部長と今回のロザレス先生の入社はボイエ武田にとり、人事面と組織面での新しい幕開けとなった。 (8月中旬号  完)

94)強盗殺人詐欺事件
 ある日突然、妹尾の五郎ちゃんから電話を受けた。相撲を取り絵描きに一緒に出かけた林野町内の幼な友達である。大手航空会社系のホテル支配人としてマニラに赴任してきたとのこと。その奇遇に驚喜しホテルのレストランで数回馳走になった。彼とは香港で再度一緒の時期に駐在する。

 82年の8月末に妻と子供2人を帰国させることにした。長男研太郎が中学二年生になり、
 「高校入試の内申書などの日程を考えると、三年生になってからでは遅すぎます」
と先生から早めの帰国を勧められたからである。土産の民芸品を買った帰りに高速道路を飛ばす。財政難からか高速道路なのに街燈はまばらである。薄暮の中でヘッドライトはまだ点燈していない。前方の三叉路にある出口標識に気づくのが遅れた(と言うより、実はメガネの強度不足が主因だが…)。急ぎハンドルを左に切ったとたん路面の大穴が目に入る。ブレーキを踏んだのとガタンと大音がしたのが同時であった。車はバウンドしながら半回転して対向車線に飛び込んだ。一般道路ではよくあることだが、まさか高速道路に大穴が開いているなど予想もしない。もしも出口標識にぶち当たっていたら、また対向車がいたら一家死傷の大惨事であったろうと、思い出すと冷や汗がでる。幸い軽症で済んだが奈生子の顔の打撲傷は尋常でない。腫れて傷ついた顔を嫌って彼女は帰国記念の写真を撮らしてくれない。空港での出国写真がないのが家族の心残りとなっている。

 帰国した子供たちから手紙が届く。日本の小学校では欧米からの帰国子女はクラス仲間に尊敬されるが、アジアから帰国は蔑(さげす)まれ
 「きたない!」
などと、いじめを受けるそうである。偶々その先年、日本のある大手都市銀行のIM嬢が1億3千万円を恋人に貢ぐために横領し、マニラに逃げ込んだとマスコミを賑わしたこともあり、子供仲間でフィリピンの印象は良くない。奈生子はといえば日焼けで真っ黒、おまけに自動車事故の腫れと傷跡で人相が悪いのも影響したようである。昼間は仕事に熱中し時間を忘れているが、夜になると家族の居ない独り身がさびしい。子供たちの声を聞きたく大阪に国際電話を掛けるがなかなか繋がらない。やっと通じても、ちょっと話をするだけで5000円、6000円となってしまう。国際電話の料金は昨今とは雲泥の違いである。3分間の砂時計を横においての電話となる。心を繋ぐ家族の電話というより用件のみを伝えるビジネス電話そのものである。

 事故のついでに強盗や詐欺、発砲事件の話をご披露する。フィリピンには武田薬品から国際・化学品・食品の3事業部が進出しており、角君たち同世代の4名が駐在している。この友人3名の経験談である。最初は食品事業部から出向の薗田君から聞いた話。レイテ島の工場でサトウキビから糖蜜を抽出し発酵させた粉末を生産している。これを日本に輸出し調味料のリボタイドの製造原料とする。ある日、日本のVIPがオルモック激戦で散った戦友の慰霊のために訪れた。工場の迎賓館で歓迎パーティーが終ろうしたとき、3人組のピストル強盗が押し入った。全員無抵抗で所持品を取られるに任せたお陰で人身事故にはならずに済んだ。親切なことにその強盗団はパスポートとエアーチケットと僅かのお金を残して去っていった。3カ月後に強盗三人が逮捕された。田舎警察ではまれなケースである。レイテ島はイメルダ・マルコス大統領夫人の故郷であり“日比友好の橋”が建設されている土地柄でもある。イメルダ夫人からの圧力がかかったのであろうと噂した。その彼はマニラ空港からの帰途タクシー運転手にナイフを喉に突きつけられて500ペソ(1ペソ約15円)を要求されたが200ペソまで値切った豪の者でもある。よほど金持ちに見えるのか、別の時にパトロール中の警官2人に脅されて200ペソずつ巻き上げられる経験もした。こんな訳で彼に言わせると脅しの値段は200ペソが通り相場らしい。

 次は同僚の高玉君の身辺に起った話。 ある日、サンロレンソ・ビレッジの自宅で
 「ご主人が交通事故に遭った。至急治療費とカメラを持ってマカチ・メディカル・センター(MMC)に来てほしい」
との電話を奥様が受けた。急ぎ病院に駆けつけると、
 「いま治療中です」
との電話主の説明。所定のお金とカメラを渡し不安を抱えてロビーで待っているうちに彼はいつしか姿を消していた。結局、偽電話で詐欺に遭ったと気がついた。まるで最近の“振り込め詐欺”の原型を見る思いである。件の男は事前の調査で高玉家と奥様の顔は知っているが、電話番号が判らないので電話の引込み線を切断して自分の受話器に直接繋いで通話したらしい。
 「近くの高級病院が不幸中の幸いでした。他の場所に跳んで行ったら身の危険さえあったかもしれない」
と述懐していた。それにしても僅かのお金とカメラを要求した点にフィリピン的な無邪気さを感じる。 もっとも25年ほど前の事件で、今ではカメラ程度ではお引き取り願えないであろう。

 三つ目はダバオに出張した夜、化学品事業部から駐在中の吉村君宅で“ポメロ”をアテに水割りを傾けながら聞いた経験談。因みにポメロとはザボンに似た柑橘類。彼とは東京目白の独身寮で一緒に過ごし、後に外国事業部に転籍しソウル駐在中にはパンスポリンの拡張で韓国を一緒にキャラバンした縁がある。ダバオ市はマニラから飛行機で1時間40分の距離。化学品事業部はルソン島に次いで大きいミンダナオ島のこの町に工場を所有し、ここで椰子殻から微粒子活性炭を製造している。この活性炭はマイルドセブンのフィルターに混入しニコチンの吸着剤として使用されている。皆さんも一度ご覧になってみて下さい。日本統治時代には約2万人の日本人がアバカ(マニラ麻)の栽培にダバオに入植していた。昨今時折、マスコミで報道されるフィリピンの残留二世や三世はこのダバオ入植者の子孫が大半である。このアバカ園は現在、バナナのプランテーションに変貌し日本へ輸出されている。事件は吉村君が友人宅にマージャンで招かれている時に起った。ピストルを手に強盗が押し入った。マージャンの音から現金があると察知したのであろう。隣の部屋で変事を知った奥様が秘蔵のピストルを持って突入したが旧式のためか発砲しなかったとか。逆上した件の押し入り強盗は、主人に向けて発射し銃弾が肩に命中し多量の出血となった。吉村さんはマージャンのメンバーに加わらず側で見ていたので急ぎソファーの陰に隠れて難を逃れたそうである。

 同僚ではないが似た話も聞いた。事件はその日本人駐在員の自宅で睡眠中に起った。真夜中に身近でピストルの発射音がして目を覚ました。彼は急いでベッドの脇に身を隠した。 翌朝、お抱えドライバーが屋内で死体となって転がっていた。 警察の調べではいわゆる痴話喧嘩の結末で、娘を捨てた元恋人ドライバーを父親が怨んで報復したとのこと。 南方の人たちは総じてホットテンパーで、かっとなれば損得の見境なく行動しがちである。駐在員も部下の叱責には心しなければいけない。最後は角君が蒙った被害であるが、それは別の機会に譲ることにする。  (8月上旬号  完)

93)家族との憩い
 近くにあるスポーツコンプレックスの会員権を購入した。預け金は退会時に返却される契約である。日曜日には半パン・Tシャツ・ゴム草履の軽装で家族とプールに通う。熱帯の生活を満喫するひと時で、お陰で子供達は水泳が上手になった。家内と一緒にテニスの個人レッスンを受けたが炎天下の練習でヘバッテしまい角君はギブアップした。今となっては続ければ良かったと悔やまれる。家内はゴルフよりもテニスが性に合ったのか継続し年老いた今もプレーを楽しんでいる。

 週末にはカミサンと食材の買出しに行く。マニラ湾沿いのロハス大通りにある鮮魚市場の広い空間には、魚貝が並び水槽で泳いでもいる。マグロ、イカ、ラプラプ、赤貝などを買い込む。ラプラプはハタ科の高級白身魚。世界一周途中のマゼランを倒した英雄の名前を頂戴している。赤貝のサシミは新鮮で美味、安さも手伝って週末の食卓を飾る。台湾から持ち込んだ「チューブ入り練ワサビ」が活躍する。ところが、ある日から赤貝をプッツリと見かけなくなった。日本商社が買い占めて日本に輸出しているとの噂が流れてくる。そして同様の現象がスーパーマーケットでも起った。“ハロハロ”はフィリッピン版“みつまめ”で、煮豆や寒天などに混じりナタデココが入っている。メイドたちがお裾分けを狙って、ハロハロをおやつに作ってくれる。ある日を境にナタデココの瓶詰めがスーパーの棚から消えた。暫らく経って一日遅れに配達される朝日新聞に「日本でナタデココのブームが起っている」と報じられていた。日本の商社に買占めされたのであろう。

 日本人家族は日本米に似た味のカリフォルニア米を常食とする。ところがこのカリフォルニア米が品薄となり日毎に高騰してゆき、二ヶ月足らずで倍近くにもなる。ついには市場から消える。已む無く現地米を買って凌ぐしかない。さらに二カ月ほどするとポツリポツリと市場に現れはじめる。しかし、価格は以前の二、三割高で、その後は高値安定となる。財閥が買い占めて市場価格を操作していると聞いた。

 食べ物話のついでに果物談義。南国の果物といえばドリアンがキングでマンゴスチンがクイーンと相場が決まっているが日本人の評価はまちまち。マンゴーとパパイヤが大関で、パイナップルとレイシが関脇というのが角君の格付けである。その中でマンゴーにまつわる、とっておきの思い出話。フィリピン名物のマンゴーは家族全員の大好物。熱帯産常緑の高木で枝葉がこんもりと茂る様は一幅の絵になる。事情で現金が必要となれば実らぬ内から大木一本ごとに売買の契約をする。貧困家庭が多い当地では決して稀ではない青田買いである。このマンゴーはウルシ科なので口の周りにつくと我が家のカミサンはかぶれるが、皮を剥き小さく切って口に直接入れると口腔粘膜はかぶれないから不思議である。結婚記念日の家庭パーティーの最後に皆でマンゴーを食べた。この時に限りどういう訳か翌朝、家内の口の周りが大かぶれしていた。

 マニラ着任の翌年1980年には私事で色々な出来事があった。2月1日に幹部新任という辞令を貰った。晴れて課長待遇である。1963年入社から17年の歳月が流れた。乾季で比較的涼しい時期を利用して母が一人でマニラへやってきた。三年前の台湾旅行で海外見聞が気に入ったようである。孫の運動会を応援しスーパーマーケットに出かけ、サンチャゴ要塞、タガイタイ、バギオへ家族と観光旅行を楽しんだ。

 サンチャゴ要塞はスペイン風の白い建物、赤レンガの壁、緑の芝生が美しい要塞跡である。スペイン統治時代には捕虜収容所として使われ、アメリカ統治時代には司令部が置かれ、太平洋戦争中には日本軍の憲兵隊本部として利用された。城壁内のリサール記念館にはフィリピン独立のためスペイン政府に抵抗した民族の英雄ホセ・リサールが処刑まで抑留された部屋があり、記念の日常品に混じり恋人白井勢似子“おせいさん”の肖像画が飾られている。地下牢を見物したが、ここは運河に繋がり満ち潮になれば水牢に変わり溺死する仕掛けであると説明されていた。

 タガイタイはマニラから70キロの景勝地。ヤシとバナナ畑の道をぶっ飛ばして1時間半。標高700メートルの峠から見下ろすタール湖にはタール火山島が浮かび大パノラマを見せる。その昔タール火山の爆発で湾の口がふさがれ湖となり、その中にさらに小さなタール火山島が誕生した。この湖特産の淡水魚、ミルク・フィシュで作る“シネガンスープ”は家庭料理の絶品。魚のぶつ切りをタマネギ、大根、インゲン、ナス、トマト、小松菜などと煮て魚醤(ナンプラー)で味付けしタマリンドで酸味を加えてつくる。我が家ではミルク・フィシュの代わりに豚肉や海老を使うこともあった。

 バギオはマニラから250キロ、ルソン島のほぼ中央に位置する標高1500メートルにある常春の避暑地として知られる。3月から5月の猛暑期にはフィリピン政府の中枢業務はここに移されるので“夏の首都”との異名もある。角君家族がプロペラ機で訪れた日は霧が深く三回のトライでようやく着陸できた。麓からバギオまでの35キロの険しい山岳道路を“ベンゲット道路”と呼ぶ。約100年前、避暑地バギオの開発に携わるために1000人以上の日本人が“ベンゲット移民”として出稼ぎに来た。ボイエ武田のMed Rep、Mr. Tadaは広島移民のひ孫でバギオの出身者である。他のMed Repと比べ礼儀正しい好青年で心ならずもサポートしたくなった。

 母は二週間ほどのマニラ生活を満喫して帰国した。これが元気な母の最後であった。それから暫らくたって母が入院したとの連絡を受けた。田圃道の下で倒れているのを発見された。落ちて頭を打ったのか、脳卒中の発作で落下したのかは不明である。痛い痛いと嘆きつつもリハビリに励み、杖を持って歩けるまでに回復した。しかし、体力の衰えは徐々に進み、外出は途絶えがちになり、いつしかベッドでの生活に変わっていった。熱いマニラから寒中の日本に帰国したのが脳血管に災いを起こしたのかと申し訳なく思った。

 母が帰国してまもなく研太郎が運動中に学友とぶつかって倒れ首が痛いと言いだした。MMCで診察を受けて首の牽引をしたが、痛みが一層ひどくなり主治医から日本での治療を勧められ、春休に妻と一緒に帰国した。娘奈生子と二人だけのマニラ生活となる。角君が仕事にでかけると奈生子は家においてきぼりとなり、日増しに寂しさがつのっていく。たまたま日本へ出張する桜井さんに奈生子を連れて帰ってもらった。GW明けにようやく元の4人の生活に戻ったが、研太郎の首が少し傾斜し奈生子に孤独の心傷を残したようである。そう言えば、駐在期間中に奈生子が行方知れずになって必死に探す夢を度々みた。潜在的にその様な事態を心配していたのであろう。

 会社は年毎に身上調査を実施し、現在の仕事の適否や将来就きたい職場など訊問する。角君は海外業務に満足しているので、毎年判で押したように同じ回答をしてきた。しかし、その年は
 「長年海外で仕事をしたので、次は日本の本部で働きたい」
との希望を出そうと思っている矢先に、会社幹部が急逝したとのニュースが飛び込んだ。台湾駐在中に観光にご案内した縁もある。ショックで冷静ではいられない。
 (本社は相当混乱していることだろう。こんな緊急時に自己中心的な転勤希望など出せるものか)
と、今思えば妙な遠慮をして、前年同様に“今の仕事が合っている”に○印をつけて提出した。不運なことにその翌年に限り身上調査はなく、帰国希望を出す機会を失った。運命の悪戯というほかはない。

 義父から
 「芦屋浜の開発団地で宅地を兵庫県が分譲している」
との連絡を受け、申し込んでもらったが200倍もの競争率で落選する。仕方なく分譲マンションを申請すると、3倍ほどの倍率であったが当選した。これが現在住んでいるマンションの自宅である。中学生の時に思い描いた夢の我が家とは、ほど遠いいが住めば都というものだ。

 その一年後の1981年の8月頃だったであろうか。義父が入院したとの連絡を受けて一家で帰国した。8年前に胃ガンの手術を受けたが今度は胆嚢とのこと。かつての頑強な体躯が細く小さくなり、任地に戻る角君を病院の玄関で手を振って見送ってくれた。どのような心境かと心が痛んだ。妻と子供達はその数日後にマニラに帰ってきた。12月も押し迫って帰らぬ人となった。台湾駐在中に父を失い、フィリピン駐在中に義父と別れ、その十年後に香港で母の危篤を知らされた。これも海外駐在員の宿命というものであろう。   (7月下旬号  完)

92)パンスポリンの治験
 武田の技術陣が開発した感染症治療注射剤パンスポリンをフィリピンで新発売し育成することが角君に与えられた重要な課題である。権威ある米国FDAの許可を示す販売証明書(フリーセールス・サーテフィケート)を添付して申請すると比較的簡単にフィリピン政府から販売許可が下りた。営業本部長や拡張部長の現地幹部と協議しながら角君が中心となって新発売計画を策定する。競合他社品の販売状況を調査し日本と輸入価格を協議する。輸入税を支払った陸揚げ後単価(ランデッド・コスト)を算出し販売価格を設定し、五年間の年次販売数量と利益計画を作成する。次いで製品説明書と拡張用サンプルを準備して新発売にこぎつけた。

 Philippine General Hospital(PGH)のトパッシー先生とUniversity of Santo Tomas(UST)のアロラ先生はこの国のリーダー的感染症専門医で、お二人に特別治験を依頼することにした。PGHはフィリピンの代表的国立大学付属病院で、USTは1611年創立の当国最古の私立総合大学である。治験の促進は角君の任務である。近くにあるMakati Medical Center(MMC)にトパッシー先生を訪問した。彼女はPGHの感染症専門医師であるがMMCに診療オフィスを開いている。国家公務員でも個人開業が許される。公務員給与を低額に抑えるための賢い制度といえる。MMCは有産階級が訪れる最高級のオープンシステム私立病院である。角君はこの時、初めてオープンシステムの仕組みを知った。

 そのシステムを簡単に紹介する。病院内に診療オフィスを沢山設け内科・外科・耳鼻咽喉科・産婦人科・小児科・歯科などの専門医にレンタルして、クリニックセンターを形成する。夫々の専門医は必要あれば自分の患者として、その病院で入院治療する。病院には諸施設の他に看護師・住任医師・薬剤師などスタッフが在籍している。患者は入院費と薬代などを病院に、手術治療費を主治医に支払う。つまりテナントの医師は個人開業医であり病院の職員ではないが、院内の施設やスタッフを借用して治療ができる仕組みである。患者の側から言えば、自分が好む専門医の治療が受けられる。日本のように助教授が名医なので入院したところ、手術をしたのは若い助手といった責任が曖昧な制度ではない。最近、類似の形態が日本でも普及し始めた。例えば整形外科の開業医で受診し手術が必要となれば、提携先の病院に入院してその先生の手術を受ける。また小規模の病院が口腔外科と泌尿器科の専門医を公募し“院内開業”をしてもらう。これらは一種のオープンシステムの応用と言えよう。

 治験(臨床試験)の話に戻る。トパッシー先生やアロラ先生に治験を依頼する目的は二つ。一つは治験結果を医学雑誌に発表し新薬の特徴を国内の医師たちに伝えるためと、今一つは所属病院での採用に尽力してもらうためである。MMCでトパッシー先生と治験計画書(プロトコール)について協議する。治験患者数は50名、対象は細菌感染症の入院患者、投与回数は朝夕一日2回、投与量は一日4~6グラム、投与期間は1~2週間、治験の実施期間は6カ月間、試験方法は“プラセボを対象とした二重盲験法”といった具合。これに対して50例の患者に投薬して有効・無効と判定する方法を“オープン単独試験(シングル・スタデー)”という。しかし、投薬治療では先入観や期待感から偽薬(プラセーボ)でも、病気が治ったと患者が思い医師が誤認することがある。これをプラセボ効果という。

 このプラセボ効果を極力排除するために“二重盲験法(ダブルブラインド・メッソド)”を実施する。先ず治験薬と外形・におい・色彩が全く同じだが治験薬の成分を含まないプラセボ(偽薬・擬薬)を準備する。次に50名の患者を治験薬を投与される25名(A群)とプラセボを受ける25名(B群)に無作為に分ける。そして医師も患者も治験薬か偽薬かを知らせられないまま投薬する。医師も患者も知らないから“二重盲験法(ダブルブラインド・メッソド)”と呼ばれる。一人の治験協力者(コーディネイーター)だけがA・Bの何れが治験薬群で、いずれがプラセボ群であるかの区別を知っている。試験が終了した段階で初めて、何れが治験薬群で何れがプラセボ群かを明らかにする仕組みである。治験薬群がプラセボ群に比較して統計的に治療結果が優れていると判定されれば、この治験薬は存在意義がある新薬と認知される。患者と医師への心理作用を排除し客観的に薬の効果を判定する方法が“二重盲験比較試験”である。理想的ではあるが実に手間の掛かる仕事である。

 プラセボには全く有効成分を含まない場合と治験薬以外の既存の薬を含む場合の二種類がある。今回の患者は感染症を患っているから無効物質を使用するわけにはいかない。既存の抗生物質を含有するプラセボを製剤し、治験薬のパンスポリンと比較検討する。これらの治験計画をトパッシー先生と協議し練り上げて行く。先生にとっても時間を取られる厭な仕事である。

 そして最後に、会社が支払う治験費(研究謝礼費)をトパッシー医師に問合せたところ、目の玉が飛び出るほどの高額を要求された。
 「そんなには支払えません。日本でも一例がxxxx円で、台湾ではxxx元で、米国でさえxxドルです」
と角君が無遠慮に答える。
 「私の仕事は米国の専門医と比べ決して劣りません。だから米国と同じ程度の研究費です。ボイエ武田の社長に相談して、それでもダメならば日本本社に相談して下さい」
と八千草薫を髣髴とする童顔美人に似合わぬキツイお言葉が返ってくる。角君も負けてはいない。
 「治験については私に全権が托されています。研究費にはその国の所得水準と市場規模の要素も加味すべきです。これらは米国や日本と比べフィリピンでは低いのですから、治験費も低価とならざるをえないのです。ご再考願います」
などと互いに自己主張しながらの協議となる。

 こうして書けば簡単であるが著名な専門医なので面子を傷つけてはいけない。サラリーマンは弱い者、怒らせてヘソを曲げられたら即刻本国送還と相成る。角君なりの論理ときつい内容をオブラートに包み笑顔を絶やさず訴える厳しい交渉(ハード・ネゴシエーション)となる。全権大使と虚勢を張るが、実際には逐一桜井さんに報告し、日本本社と相談しながら話を進める。やっと妥協点に到達し治験開始となる。それにしても、
 「米国の専門医に劣らない仕事だから、米国並みの治験費を要求する」
との誇りと強心臓には参った。今から思えばこれが国際化でありグローバルスタンダードというものであろう。後日談を申せば、準備に半年、治験に一年余り、治験結果を整理して学会誌に発表するのに更に一年と合計三年近くを費やした。同じような苦労を重ねながらUSTのアロラ医師の治験データーも入手するのに四年間を費やした。これは角君の駐在期間に匹敵する。国立大学病院のM教授を日本から招聘して三人の特別講師によるパンスポリンのシンポジウムを計画中に駐在満了の内示を受けた。マニラを発った三ヶ月後にシンポジウムが盛大に開かれた。パンスポリンの治験は角君にとり思い出深い仕事となった。     (7月中旬号  完)

91)貧困の風景
 フィリピンは1950年台にはミヤンマー(旧ビルマ)と並ぶアジアで最も豊かな国であったが、角君が駐在した80年台初頭はマルコス政権の末期で経済は相当疲弊していた。それでもスペインの陽気さに米国の自由主義が重なって、ミヤンマーのような沈滞ムードはなく、人々は明るく生活している。信号待ちで停車すると裸足の子供たちが新聞、雑誌、駄菓子、ガム、花飾りなどを売りにわーっと駆け寄ってくる。白い蕾を糸で繋いだサンパギータの花飾りは車内に甘い香を満たす。タバコのバラ売りもあり一本だけでもマッチで火をつけてくれる。時には乳飲み子を抱いた物乞いが窓ガラスをコツコツと叩く。可哀そうと同情はするが相手にするとまつわりつき車事故を招きかねない。

 ある日Med Rep(メド・レップ)に同行してトンド地区の医療センターを訪問した。最下層の人たちが住むスラム街で、外国人が足を踏み入れるには危険な地区である。途中、鉄道を横断するが踏み切りはなく雑草が生えた線路沿いにバラック小屋が密集している。ベニヤの壁板は落書であふれ、その上にプラスチックの波板がのって屋根となっている。裸の子供が鶏を追っかけ、破れた洗濯物が干されている。地方から出てきて居付いた人たちが肩を寄せるように生活している。さびた線路が故郷への郷愁をつないでいる。廃線かと勘違いしたが立派な現役である。列車の運行は数時間に一本でその間は住民たちの天下。レールの上に手作りトロッコを載せて手で押せば立派な運送業となる。郊外へ出ればこのレールも時には盗難に会い密かに鉄屑として売買される。そういえば角君は滞在中に、山中の送電線が何者かに切断され持ち去られたとのニュースを新聞で読み、子供時代に廃品集めで小遣いを稼いだことを思い出した。

 「日本のメーカーが来たのは初めてですよ」
とトンド地区診療所の医師が歓迎し注文をくれた。折角の機会と帰路、スモーキーマウンテンに寄り道した。露天焼の市営ゴミ捨て場でゴミの山から年中煙が立ち登っていることからこの名がついた。マニラ市中から毎日ありとあらゆる種類のゴミが運び込まれ、燃え残りが遥か彼方まで小山となって堆積している。数人の大人や子供が棒切れであさってはいるが、貧困社会の食べ残しや使い古しは所詮骨までしゃぶった残り糟で、目ぼしい物など有ろうはずもない。一日働いても辛うじて破損を免れた空きびん、空き缶、ナイロン袋などが見つかるに過ぎない、と思うほど殺風景な灰の山である。ナイロン袋は洗って乾かし雑貨屋(サリサリ・ストア)にキロ当たり数ペソで売り渡す。このスモーキーマウンテンは手狭になり、郊外に第二のスモーキーマウンテンが出来たと、数年後に台北(香港だったか?)の新聞で知った。

 市立腎臓医療(マニラ・キドニー)センターを拡張訪問した。抗生物質注射剤リラシリンの使用量が多い病院である。待合室で医師の応接を待つ合間に同行のMed Repが小声で
 「マルコス大統領は腎臓が悪いので、この腎臓センターを特別にサポートしている。お陰で腎臓移植の技術はアジア屈指で、アジア各国の裕福な華僑がここで腎臓移植を受ける。その腎臓はヤミ市場で売買されているらしい」
と驚くべき噂を暴露してくれた。生活に困った貧しい人たちが左右一対の腎臓の片方を資産家に売り渡す話である。真偽のほどは不確かだが、高校時代に神戸・三宮駅近くの採血所が売血の順番を待つ労働者でごった返している光景を思い出した。経済と医学の発展段階の合間で現れる陰の部分である。

 病院の玄関を出たところでシャワーのような俄か雨に遭い、急いでMed Repが運転する車に駆け込む。少しでも早くと後部座席に飛び乗ったところ、前の座席に移れとレップがいう。土砂降りの中をしぶしぶと前部座席に移ると、
 「角さんが後部座席に座っていると、他人は自分を運転手と誤解する」
との説明である。
  「台湾時代にはそんなことを言われたことは一度もないなー。些細なことだけどなー、わざわざ雨の中を・・・」
と思った。しかし実質重視の台湾と外見を気にするフィリピン気質の違いであろうと気がついた。華人の面子重視も誇りの一種であるから、所詮こだわる点が国民性により異なるに過ぎないと思いなおした。

 向かいの家から朝夕賑やかな少女たちの嬌声が聞こえる。塀や門の周りを掃除し水撒きをするのも見かける。当番制なのかその都度違った顔の子で数人はいるらしい。いずれも可愛いい容姿である。我が家のメイドに尋ねると、
 「知人や縁者からの貰い子だろう」
とのこと。幼少時に養子縁組をして貰われて来る。メイドとしてではなく娘として養育するが家事の手伝いなどはさせる。資産家にとり日々の生活費は大した負担とはならない。美人の娘は良家に嫁ぎ閨閥を広げる。学業優秀な子であれば大学に行かせて世に出す。育英資金は先行投資であり将来への保険である。実家にとっては口減しになる。現実的な生活の智恵なのかも知れない。

 フィリピンは熱帯性気候で年間の平均気温は26度ほどで、一年を通じての温度差は少ない。6~11月が雨季で12~5月が乾季。3月に入れば気温は鰻登りで会社や家庭のエアコンは全開となり、電力不足からしばしば停電を起こす。途端にオフィスの温度計は急上昇しサウナのような熱さの中での仕事となる。たまたま、大阪本社から“えらいさん”が来て会議をしている最中に停電となった。
 「熱くてかなわん! こんなところで会議などできるものか!」
と捨て台詞がでる。後で温厚な桜井さんも流石にあきれたのか、
 「無神経な人やなー。こちらは毎日この暑さの中で仕事をしているのが、判らんのかなー」
と思わず呟く。
 「本部から来た人にとっては駐在地を実体験し駐在員の苦労を労うチャンスなのに」
と角君も内心うなずく。

 エドサ通りを車で走っていると街路樹の木陰で白バイ二台が休憩している。
 「また油を売っている」
と角君がポリスを非難すると、運転手のエラジオが
 「一日に割り当てられるガソリンの量が少ないから、あまり走ってはいけない。小さな交通違反など逃げるが勝ちさ」
と皮肉を込めて教えてくれる。ものは教えられて初めて解ることがある。

 「患者が貧しくて薬代を支払えない。サンプルを分けてもらえないか?」
と医師からしばしば角君名指しで直訴の電話を受ける。重症感染症治療薬であるから命にかかわる。商品をその度に無償提供したのでは商売の機会を失う。それでも武田をサポートしてくれる医師の依頼をむげに断るわけにもいかず、返答に窮しながらも承諾する。貧困とは悲しい現実である。純朴でフィレンドリーな人々の中で仕事をしていると、次第にフィリピンの人たちの側に立った考えをするようになる。時には損得を忘れ、あるいはまた大阪本社と意見を異にする局面も生じる。昭和57年(1982)に単行本として出版された深田祐介氏の長編小説「炎熱商人」は実話にヒントを得たと聞く。残留日本人二世と日本商社マンが活躍する話であるが、主人公は本社と現地の商習慣の間に挟まれ苦悩し、ついには誤解から取引相手の銃弾に倒れる。現地の生活や風俗習慣を克明に描ききった娯楽作品である。身近な問題として、また実体験と重ね合わせながら一気に読み終えた。皆様にもお勧めしたい一冊である。  

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